湯神社(ゆじんじゃ)は 延喜式内社 伊豫國 温泉郡 湯神社(ゆの かみのやしろ)で 古くは道後温泉の起源の地〈鷺谷(道後鷺谷町)〉に鎮座したが 大永年間(1521~28)地震で温泉が埋没 社殿も大破し 冠山〈現在地〉に鎮座する式内社 出雲崗神社に合祀され 明治4年(1871)湯神社に出雲崗神社を合祀する形式となりました
Please do not reproduce without prior permission.
Please do not reproduce without prior permission.
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
湯神社(Yu shrine)
【通称名(Common name)】
・湯月大明神(ゆづきだいみょうじん)
【鎮座地 (Location) 】
愛媛県松山市道後湯之町4番10号
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主祭神》〈湯神社〉
大己貴命(おほなむちのみこと)
少彦名命(すくなひこなのみこと)
《相殿神》〈出雲崗神社〉
素盞嗚命(すさのをのみこと)
稲田姫命(いなたひめのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
道後温泉の守護神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
湯神社
祭神は、道後温泉を開いた大己貴命と少彦名命の二神である。
当社は、延喜式内社で、社伝によれば、景行天皇が皇后 八坂入姫と共に行幸の際に鷺谷の大禅寺の前に創建したと伝えられている。その後 舒明天皇行幸に際し勅命により社殿を新築した。
その後、国司、領主の尊崇を受け、神田や幣帛の奉献があったと伝えられている。大永七(一五二七)年の地震で温泉が埋没した際に、須佐之男命と稲田姫命を祀る延喜式内社 出雲崗神社 境内(現在の冠山)に移され、いつしか合祀して四社大明神と呼ばれるようになったという。
湯神社では、地震などで温泉が止まるたびに、神楽を奉納して祈願してきた。宝永四(一七〇七)の地震では藩主の名で「湯祈祷」が行われ、以後中断しつつも今日まで続けられており、正月の初子の神事とともに世に知られている。
松山市虚栄区委員会
現地案内板より
Please do not reproduce without prior permission.
Please do not reproduce without prior permission.
湯神社
神社由緒
延喜神名式内の神社で上古は鷺谷に鎮座あったが、地震のため温泉埋没の際、現在の冠山の出雲崗神社の境内に奉遷し合祀して四社大明神と称し、舒明天皇行幸のとき勅により神殿を新築したと旧記に記されている。
相殿 出雲崗神社も式内社であったが、湯神社と相殿となり、宝永5年に藩主の命で境内に別社となったが、明治4年再び相殿となった。その後、時代の変革により冠山が整備され、湯神社も新築された。
児守社は往古、松山城東麓にあったが、築城の際、湯神社の末社河野霊神に合祀した。 鎮疫神は、安政6年悪病流行につき鎮疫のため勧請した。愛媛県神社庁HPより
http://ehime-jinjacho.jp/jinja/?p=887
【由 緒 (History)】
〈由緒〉
【主 祭 神】
大己貴命(大国主命)、少彦名命【配 神】
相殿(出雲崗神社)素盞鳴命、稲田姫命【沿 革】
湯神社は人皇十二代景行天皇の御勅建で、大己貴命・少彦名命の二神を奉斎する名社です。創建当時は鷺谷の大禅寺の前にあったといわれていますが、地震のため温泉埋没の際、現在の冠山の出雲崗神社の境内に奉遷し、合祀して四社大明神と称し、舒明天皇行幸のとき、勅により神殿を新築したと旧記に記されています。国司領主の尊崇篤く、神田、幣帛の奉献がありました。又御相殿の出雲崗神社は、素盞鳴命・稲田姫命を奉斎し、人皇七代孝霊天皇の御創建で、湯神社と共に延喜式内の名社ですが、一時期右二社を御相殿に奉戴し、宝永五年に藩主の命で、境内に別社となりましたが、明治四年再び相殿となりました。
その後、時代の変革により冠山が整備され、湯神社も新築されました。湯神社公式HPより
https://yu-jinja.official.jp/top.htm
湯神社 Hot Spring Shrine
道後温泉の守護神として、大国主命と少彦名命を祀っている。又、昔温泉が地震でとまった時、温泉の再湧出を祈願したのが湯祈禱の始まりといわれ、今は毎年春に、年中行事として行われている。
現地立札より
Please do not reproduce without prior permission.
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・湯神社 本殿
(本殿の両脇に〈境内社〉三穂社・八幡若宮神社)
・三穂社《主》事代主命(ことしろぬしのみこと)姪児命(ひるこのみこと)
・八幡若宮神社《主》大鷦鷯尊〈仁徳天皇〉(おほさざきのみこと)
Please do not reproduce without prior permission.
Please do not reproduce without prior permission.
・湯神社 社殿
Please do not reproduce without prior permission.
・湯神社 拝殿
Please do not reproduce without prior permission.
Please do not reproduce without prior permission.
Please do not reproduce without prior permission.
Please do not reproduce without prior permission.
・手水鉢
Please do not reproduce without prior permission.
・中嶋神社《主》田道間守命(たじまもりのみこと)
昭和32年(1957)四国四県の製菓業者によって 製菓・柑橘の祖神 中嶋神社(兵庫県豊岡市)の御分霊を迎えて 四国分社として創建
Please do not reproduce without prior permission.
Please do not reproduce without prior permission.
中嶋神社
御祭神
田道間守命創立
当神社は四国四県の製菓業者に依って建設奉賛会を組織し、昭和三十二年三月但馬国出石郡神美村三宅なる延喜式内社 中嶋神社の御分神を迎え 菓祖中嶋神社四国分社として創祀せり神徳
田道間守命は往古 但馬国出石郡安美郷三宅に在り付近の開拓 或は農蚕の業を奨励し給いしが人皇十一代垂仁天皇の時 勅命にて非時香菓(今の橘)を求むべく当世国に到り十年の歳月を費し香菓を携えて還り給いしに 垂仁天皇既に崩し給い 悲嘆の極 陵前に号哭して復命す 曰臣命を奉して万里の波涛を越えて絶域に徃き俗人の到らざる処を探り 十年の星霜を経殁し生還を期せざりしも幸に陛下の威霊によって帰り来れば天皇既に崩す何の楽かあらんと悶絶し陵前にて薨す 景行天皇は命の忠を哀れみ垂仁天皇の陵側へ葬らしめ給いき
崇敬
製菓の祖神として菓業者の崇敬厚し
我国菓業未開の頃 果実をそのまま用い 或は 果汁を採りて 製菓上の必要品とせり柑橘の祖神とし我国柑橘業者の崇敬あり
橘は我国の蜜柑の原種である現地石碑文より
Please do not reproduce without prior permission.
・〈中嶋神社の脇に鎮座 境内社〉児守社《主》神大市姫命(かむおほいちひめ)鎮疫神、下陣河野七郎通広霊
松山城東麓にあったが 築城に伴い当社末社 河野霊神に合祀〈河野通広は時宗の開祖一遍上人の父〉
Please do not reproduce without prior permission.
・神札授与所
Please do not reproduce without prior permission.
・表参道・石段
Please do not reproduce without prior permission.
Please do not reproduce without prior permission.
・裏参道・鳥居・手水舎
Please do not reproduce without prior permission.
Please do not reproduce without prior permission.
Please do not reproduce without prior permission.
Please do not reproduce without prior permission.
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・道後温泉 本館
Please do not reproduce without prior permission.
Please do not reproduce without prior permission.
Please do not reproduce without prior permission.
Please do not reproduce without prior permission.
Please do not reproduce without prior permission.
・玉の石(たまのいし)
Please do not reproduce without prior permission.
Please do not reproduce without prior permission.
Please do not reproduce without prior permission.
玉の石伝説(たまのいし でんせつ)
昔(むかし)、出雲(いづも)の神様である、大国主命(おおくにぬしのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)が伊予(いよ)の国(くに)を訪(おとず)れたとき、病気(びょうき)になった少彦名命(すくなひこなのみこと)を道後(どうご)の湯(ゆ)に浸(ひた)しました。
すると、少彦名命(すくなひこなのみこと)はたちまち元気(げんき)になり「ましましいねたるかも(しばらく寝ていたようだ)」と叫(さけ)んで、玉の石(たまのいし)の上(うえ)で舞(ま)ったといわれています。
玉の石(たまのいし)
玉の石(たまのいし)は、道後温泉(どうごおんせん)本館(ほんかん)の北側(きたがわ)(看板がある正面に向かって左側)にあります。
少彦名命(すくなひこなのみこと)の足跡(あしあと)が残(のこ)っていると言いわれており、ひしゃくでお湯ゆをかけてお祈いのりすると、願(ねがい)が叶(かなう)と言われています。
松山市役所HP道後温泉事務所より
https://www.city.matsuyama.ehime.jp/kanko/kankoguide/kankomeisho/dogoonsen/rekishi/tamanoishi.html
伊像の湯の汀(みぎわ)にたてる霊の石
これそ神代のしるし成ける
古歌玉の石の由来は『伊予風土記』逸文に見られるが、玉の石を歌ったこの古歌は、本県と中央の俳壇をむすぶ最古の書『白水郎子記行(あまのこのすさび)』(岡西 惟中(いちゅう)一六三九~一七一一)に見える。
汀は温泉の水際のことである。岡西惟中は鳥取の人、西山宗因に師事した談林派俳諧の論客。
松山市教育委員会 『俳句の里 松山』現地立札より
Please do not reproduce without prior permission.
Please do not reproduce without prior permission.
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『古風土記逸文』下 『伊豫國風土記』逸文に記される内容
道後温泉について 大穴持命〈大己貴神〉は 少彦名命が仮死状態になった時 蘇生のために大分の速見の湯〈別府温泉〉から地下の水道を通して湯を引いてきた 少彦名命をその湯の中に入れるとほどなくして生き返り 何事もなかった様子でゆるやかに「しばらく昼寝をしたようだ」といって元気よく地面を踏んだので 今でも湯の中の石には足跡が残っている〈玉の石(たまのいし)〉 湯の霊妙な効能は 神代の時代だけではなく 今でも人々の病を取り除き 長寿の薬となっている という説話が記されている
又 これに続けて 天皇らが伊予の湯に来られたのは五回あると記され
①景行天皇とその皇后で一度
②仲哀天皇と神功皇后で一度
③聖徳皇子〈聖徳太子 又は 九州王朝の天子・阿毎多利思北孤〉を一度 太子は湯のそばに碑文を建立され〈その碑文を建立した場所を伊佐邇波の岡(いさにはのおか)と云うのは この国の人々が碑文を見ようとして誘い(いさない)あったからである〉
④舒明天皇と皇后で一度
⑤斉明天皇・中大兄皇子・大海人皇子で一度
これで行幸を五回とする と記されています
【抜粋意訳】
『伊豫國風土記』逸文より
温泉
伊予国風土記に曰く 湯郡(ゆのこほり)
大穴持命(おほなむちのみこと)は 宿奈比古那命(すくなひこなのみこと)の命を治(い)かさましく〈活かそう〉と欲して 大分(おほきた)と速見(はやみ)との湯を下樋(したひ)〈地中を通せる樋〉より持ち度り来て 宿奈比古那命の命に漬浴(ゆあみ)せしかば しばらくあって 活きて起ち給われた〈よみがえり〉
そこで「真暫寝哉(ましまにもいねつるかも)〈しばらく寝ていたようだ〉」と言われて そこで踏みつけて付いた足の跡は 今も湯の中の石の上に在り
およそ湯の貴奇(たふとくめずらしき)は 神世(かみよ)の時のみにはあらず 今の世にも 疹痾(やまひ)に染める萬生(ひとびと) 病を除(いや)し身を存(いか)す要薬(くすり)と為す天皇等、この湯に行幸(みゆき)して降り坐すこと五度なり
大帯日子(おほたらしひこ)天皇〈景行天皇〉と大后・八坂人姫(やさかいりひめ)の命の二躯(ふたはしら)を一度と為し
帯中日子(たらしなかつひこ)天皇〈仲哀天皇〉と大后・息長帯姫(おきながたらしひめ)の命〈神功皇后〉の二躯(ふたはしら)を一度と為し
上宮の聖徳皇子(聖徳太子)を一度と為す
及(また)高麗の恵慈僧(ゑそうほうし)と葛城臣(かつらぎのおみ)等の侍(はべ)りき 時に 湯岡(ゆのをか)の側(かたわら)に碑文(いしぶみ)を立てて記されました
その碑文には このようにある
「法興六年(596)十月丙辰の歳 我が法王大王〈聖徳太子〉と恵慈法師 及(また)葛城臣と 夷與村(いよのむら)に逍遙(あそ)び給い 正しく神井(くすしきゐ)を観て 世の妙験(しるし)を歎き 意(おもい)を述べたく思われて 聊かに碑文一首を作り給われた惟(おも)ふに これ日月は上に照りて私せず 神井は下に出でて給(あた)えずといふことなし 萬機(まつりごと)所以(このゆえ)に妙應(うるはしくかなひ)百姓(おもみたから)は 所以(このゆえ)に潜扇(ふかくあふけり)〈密かに開ける〉す
若乃(すなわち)照らし給えて私に偏ることが無し 壽國(じゅこく)〈浄土〉に異ならむ 華台(はなのうてな)に隨いて開き合わせ 神井で沐(ゆあみ)して瘳疹(やまひをいやす) 詎(なに)ぞ落花の池に升(の)りて 化羽(あめへゆかむ)せざらむ山岳(やま)の巖崿(いはきし)を窺い望みて 反りては 子平の能く往こうと願う 椿樹(つばき)は相覆い陰りて穹窿(おほぞら)を為し 実(まこと)に五百之張蓋(いほのはれるきぬがさ)を想う
臨朝(あした)に鳥が啼(な)きて戯れ さえずる 何ぞ亂音の耳に聒(かしま)しきを暁(さと)らむ〈さえずる声をやかましく聞いた〉 丹花華(あかきはな)を巻(かさ)ねて照り映え 玉菓(たまのこのみ)は花びらを重ねて井に垂れている
その下を経過して優(ゆたか)に遊べば どうして洪灌(こうくわん)霄庭(せうてい)の意を悟らずにいれようか 意と才と拙くして 実(まこと)に七歩に恥じる 後定の君子 幸に嘲笑なかれ」といへり岡本天皇〈舒明天皇〉と皇后の二躯(ふたはしら)を一度と為し 後の岡本天皇 近江の大津の宮に天下知らしめし天皇〈天智天皇〉 浄御原の宮にに天下知らしめし天皇〈天武天皇〉の三躯(さんはしら)を一度と為し これを幸行(いでま)せること五度といふなり
伊社邇波岡(いさにはのおか)椹木(むくのき)臣木(おみのき)
伊予国風土記に曰く
湯岡(ゆのをか)の側(ほとり)に碑文を立てた その碑文を立てた所は 伊社邇波之岡(いさにはのをか)という
その所を伊社邇波(いさには)と名付けた由(ゆゑ)は その土(くに)の諸人等(もろびとたち) その碑文を見ようと欲して 伊社那比(いざない)〈誘い〉来けり 伊社邇波(いさには)といわれる元なり云々
岡本天皇〈舒明天皇〉と皇后の二躯(ふたはしら)を一度と為す 時に大殿戸(おほとのど)に椹(むく)と臣木(おみのき)とあり その木には鵤(いかるか)と此米鳥(ひめどり)が集止(とま)りき 天皇 この鳥の為に 枝に穂などを繋げて養(か)いたまいき
【原文参照】
栗田寛 纂訂『古風土記逸文』下,大日本図書,1898. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/993825
栗田寛 纂訂『古風土記逸文』下,大日本図書,1898. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/993825
※この『伊豫國風土記』逸文について 「別府温泉地球博物館からの解答」が秀逸なので 興味のある方は
https://www.beppumuseum.jp/miu/010.html
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
湯神社(松山市道後湯之町)は 二つの式内社の論社です
社地は 元々は出雲崗神社の境内であったが 大永年間 地震で温泉が埋没し 湯神社の社殿も大破し 湯神社は出雲崗神社に合祀された
明治4年(1871)湯神社に出雲崗神社を合祀する現在の形式となった
①伊豫國 温泉郡 湯神社
②伊豫國 温泉郡 出雲崗神社(合祀)
②伊豫國 温泉郡 出雲崗神社(合祀)
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座…大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豫國 24座(大7座・小17座)[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)温泉郡 4座(大1座・小3座)[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 出雲崗神社
[ふ り が な ](いつもをかの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Itsumo woka no kaminoyashiro)
①伊豫國 温泉郡 湯神社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座…大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豫國 24座(大7座・小17座)[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)温泉郡 4座(大1座・小3座)[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 湯神社
[ふ り が な ](ゆの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Yu no kaminoyashiro)
【原文参照】
国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社の内 「温泉」を祀る神社の論社について
「温泉」を祀る神社は 温泉地や温泉文化と深い関わりがあり 古くから信仰の対象となってきました
延喜式内社 攝津國 有馬郡 湯泉神社(大月次新嘗)(ゆのいつみの かみのやしろ)
・有馬山温泉寺(神戸市北区有馬町)〈有馬温泉〉
〈湯泉神社 旧鎮座地〉
・湯泉神社(神戸市北区有馬町)
延喜式内社 伊豆國 田方郡 久豆弥神社(くつみの かみのやしろ)
・葛見神社(伊東市馬場町)〈伊東温泉〉
葛見神社(くずみじんじゃ)は 葛見の庄の初代地頭 工藤祐高公〈伊東家次・・・伊東家の祖〉が社殿を造営し 守護神として京都伏見稲荷を勧進合祀して 伊東家の厚い保護と崇敬を受けて神威を高めてきました 境内の大クスは 樹齢約千年 目通り20mに及び全国でも有数な老樟として有名です
葛見神社(伊東市馬場町)
・湯前神社(熱海市上宿町)〈熱海温泉〉
湯前神社(ゆぜんじんじゃ)は 熱海温泉の守り神として 少彦名命が祀られる 式内社「久豆弥神社(くつみの かみのやしろ)」の論社です 創建は 今から1200年程前 天平勝寶元年(749)と伝わり 伝説では その頃 熱海の海中に沸いていた熱湯を 高僧の萬巻上人が山腹に移し その近くに祠を祀ったのが始まりと伝わります
湯前神社(熱海市上宿町)〈『延喜式』久豆弥神社〉
延喜式内社 上野國 群馬郡 伊加保神社(名神大)(いかほの かみのやしろ)
・伊香保神社(渋川市伊香保町)〈伊香保温泉〉
伊香保神社(いかほじんじゃ)は 元来は゛いかつほの神゛〈榛名山と地域の活火山の山々〉を信仰する山岳信仰であったとされます 社伝によれば 天長2年(825)創建され 平安期以降に伊香保温泉街へ遷座し 温泉の守護神となったと伝わります 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の名神大社 伊加保神社(いかほの かみのやしろ)です
伊香保神社(渋川市伊香保町)伊香保温泉の湯元近く石段街を登りつめた場所に鎮座
・三宮神社(吉岡町大久保)
〈伊賀保大明神 里宮(旧本社)〉
三宮神社(さんのみやじんじゃ)は 怒ツ穂(イカホ)と呼ばれた゛榛名山゛〈古墳時代後期の6世紀代に2回の大きな噴火〉を恐ろしい怒りの山 ゛いかつほの神゛として恐れあがめ信仰し 天平勝宝2年(750)伊賀保大明神 里宮として勧請したと社伝にあります ゛伊香保神社゛は 現在の伊香保温泉の地に遷座する以前は 里宮の三宮神社が祭祀中心地であったとされます
三宮神社(吉岡町大久保)〈伊賀保大明神 里宮〉
・若伊香保神社(渋川市有馬)
〈伊賀保大明神 当初の鎮座地〉〈豪族・有馬氏が里宮・三宮神社を勧請した際に旧地に存続した社〉
若伊香保神社(わかいかほじんじゃ)は 渋川市有馬に鎮座する 豪族 有馬氏(阿利真公)によって奉斎された゛いかつほの神゛式内社 伊香保神社(いかほの かみのやしろ)が 三宮神社に遷座する以前に鎮座していた所とされ その社地跡に祀られたのが 国史見在社〈式外社〉゛若伊賀保神社゛だとされています
若伊香保神社(渋川市有馬)
延喜式内社 下野國 那須郡 温泉神社(ゆのいつみ かみのやしろ)
・那須温泉神社(那須町湯本)〈那須温泉〉
温泉神社(ゆぜんじんじゃ)は 第三十四代舒明天皇の御代(630年)飛鳥時代 狩野三郎行広が白鹿を追い この山中に温泉を発見したことにより創建されたとあり 奈良時代の貴族の湯治のことは正倉院文書に記載されています 延喜式内社 下野國 那須郡 温泉神社(ゆのいつみ かみのやしろ)の論社です
那須温泉神社(那須町大字湯本)〈『三代實録』温泉ノ神『延喜式』温泉神社〉
・大宮温泉神社(大田原市中野内)〈黒羽温泉〉
大宮温泉神社(おおみやおんせんじんじゃ)は 社記に貞観十一年(869)清和天皇の御下賜品と伝わる宝物゛古鏡一面゛とある古社で かつて祭神は高龗神で 文治二年(1186)那須氏が 本郡 温泉神社を城中の守護神として勧請の時 祭神が変更されたと云う 延喜式内社 下野國 那須郡 温泉神社(ゆのいつみ かみのやしろ)の論社です
大宮温泉神社(大田原市中野内大宮)〈『三代實録』温泉ノ神『延喜式』温泉神社〉
延喜式内社 陸奥國 玉造郡 温泉神社(ゆのいつみの かみのやしろ)
・温泉神社(大崎市鳴子温泉字湯元)〈鳴子温泉〉
温泉神社(おんせんじんじゃ)は 承和4年(837)の大噴火により噴出した温泉 この湯を鳴声(なごえ)の湯と称し これを鎮めるために建立されたと伝わる 『續日本後記』承和10年玉造温泉神に従五位下が授けられ 『延喜式』には陸奥國 玉造郡 温泉神社(ゆのいつみの かみのやしろ)と所載されています
温泉神社(大崎市鳴子温泉字湯元)〈『續日本後記』玉造温泉神『延喜式』温泉神社〉
延喜式内社 陸奥國 玉造郡 温泉石神社(貞)(ゆのいしの かみのやしろ)
・温泉石神社(大崎市鳴子温泉字川渡)〈鳴子温泉〉
温泉石神社(ゆのいし/おんせんいし/じんじゃ)は 承和四年(837)この地に大噴火が起り 雷が響きふるえ昼夜止まず 周囲二十余尺の大石の根本から温泉〈その色水漿の如し〉が流れ出した この石を温泉石神社として祀ったのが始まりと云う 延喜式内社 陸奥國 玉造郡 温泉石神社(貞)(ゆのいつみのいしの かみのやしろ)です
温泉石神社(大崎市鳴子温泉字川渡)〈『延喜式』温泉石神社(貞)〉
延喜式内社 陸奥國 磐城郡 温泉神社(貞)(ゆのいつみの かみのやしろ)
・温泉神社(いわき市常磐湯本町三函)〈湯本温泉〉
延喜式内社 出羽國 田川郡 由豆佐賣神社(ゆつさひめの かみのやしろ)
・由豆佐賣神社(鶴岡市湯田川字岩清水)〈湯田川温泉〉
由豆佐賣神社(ゆずさめじんじゃ)は 『三代實録』仁和元年(885)11月21日条に由豆佐乃賣神を篤く奉るように勅命が下され 『延喜式927 AD.』には式内社 出羽國 田川郡 由豆佐賣神社(ゆつさひめの かみのやしろ)と記載のある由緒ある古社です 和銅5年(712年)開湯 湯田川温泉の鎮護の神社として崇拝されてきました
由豆佐賣神社(鶴岡市湯田川)〈『三代實録』由豆佐乃賣神『延喜式』由豆佐賣神社〉
延喜式内社 出羽國 平鹿郡 鹽湯彦神社(しほゆひこの かみのやしろ)
・塩湯彦神社(横手市山内大松川字御嶽山)〈御嶽山の温泉〉
・塩湯彦鶴ヶ池神社(横手市山内土渕鶴ケ池)
延喜式内社 出雲國 意宇郡 玉作湯神社(たまつくりゆの かみのやしろ)
・玉作湯神社(玉湯町玉造)〈玉造温泉〉
玉作湯神社(たまつくりゆじんじゃ)は その名のとおり 古代から勾玉や各種玉類の一大生産地で 且つ・1300年を遡る「神の湯・美肌の湯」といわれる玉造温泉の地に鎮座しています 御祭神は・玉作の神「櫛明玉神( kushi akarutama no kami)」・温泉の神「大名持神(onamochi no kami) 少毘古那神(sukunahikona no kami)の2柱の神」を祀ります
玉作湯神社(松江市玉湯町玉造)【前編】
延喜式内社 伊豫國 温泉郡 湯神社(ゆの かみのやしろ)
・湯神社(松山市道後湯之町)〈道後温泉〉
湯神社(ゆじんじゃ)は 延喜式内社 伊豫國 温泉郡 湯神社(ゆの かみのやしろ)で 古くは道後温泉の起源の地〈鷺谷(道後鷺谷町)〉に鎮座したが 大永年間(1521~28)地震で温泉が埋没 社殿も大破し 冠山〈現在地〉に鎮座する式内社 出雲崗神社に合祀され 明治4年(1871)湯神社に出雲崗神社を合祀する形式となりました
湯神社(松山市道後湯之町)〈『延喜式』湯神社・出雲崗神社〉
延喜式内社 豊後國 速見郡 宇奈岐日女神社(うなきのひめの かみのやしろ)
・宇奈岐日女神社(由布市湯布院町)〈湯布院温泉〉
宇奈岐日女神社(うなぎひめじんじゃ)は 社伝には第12代 景行天皇〈日本武尊の父〉が 征西の際に速津媛に迎えられ 勅をして創祀と伝り 又 由布院の盆地の開拓神話として゛蹴破伝承゛〈太古には湖であったとする伝説〉もあります 『六国史』に神位の奉授・『延喜式神名帳』に豊後國 速見郡 宇奈岐日女神社と所載されます
宇奈岐日女神社(湯布院町川上)〈延喜式内社 豊後國 速見郡 宇奈岐日女神社〉
延喜式神名帳に記載されていないが 温泉に関わる神社として 特に挙げれば
湯殿山神社 本宮(鶴岡市田麦俣字六十里山7番地)
湯殿山の泉源を神体山として祀り 「語るなかれ」「聞くなかれ」修験道の霊地・湯殿山は 標高1500m 月山南西山腹に連なる なだらかな稜線の山
出羽三山の奥宮とされる湯殿山神社本宮は 写真撮影禁止 参拝は土足厳禁という厳しい戒めで知られる神社
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
道後温泉駅から東方向へ300m程 道後温泉本館の南側です 徒歩約7分程度
伊予鉄道道後温泉駅から 東へ進む道〈伊佐爾波神社の参道〉があります
Please do not reproduce without prior permission.
その参道の脇に 注連柱があり 石段を北へと〈冠山へ〉登る所が 湯神社の社頭になります
湯神社(松山市道後湯之町)に参着
Please do not reproduce without prior permission.
石段を上がると 冠山の境内地には まず〈境内社〉中嶋神社が祀られています その脇に〈境内社〉児守社
Please do not reproduce without prior permission.
Please do not reproduce without prior permission.
Please do not reproduce without prior permission.
Please do not reproduce without prior permission.
Please do not reproduce without prior permission.
中嶋神社の北側に 湯神社の社殿があります
Please do not reproduce without prior permission.
Please do not reproduce without prior permission.
Please do not reproduce without prior permission.
湯神社の由緒書き
Please do not reproduce without prior permission.
拝殿にすすみます
Please do not reproduce without prior permission.
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
Please do not reproduce without prior permission.
Please do not reproduce without prior permission.
社殿の西側には道後温泉の駐車場があります
Please do not reproduce without prior permission.
駐車場の下〈北側〉には 道後温泉本館があります
Please do not reproduce without prior permission.
Please do not reproduce without prior permission.
冠山へ上る駐車場へのスロープを下ります
Please do not reproduce without prior permission.
こちら側には 鳥居も建っていて 湯神社の裏参道になるのでしょうか
Please do not reproduce without prior permission.
道後温泉本館の東南の角にあたります
Please do not reproduce without prior permission.
道後温泉本館の北側には『伊豫風土記』に記載される゛玉の石伝説゛の玉の石が あります
そちらへ向かいます
Please do not reproduce without prior permission.
Please do not reproduce without prior permission.
Please do not reproduce without prior permission.
Please do not reproduce without prior permission.
゛玉の石゛です
Please do not reproduce without prior permission.
Please do not reproduce without prior permission.
玉の石 御湯かけ祈願
玉の石は大国主命(おおくにぬしのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の逸話にありますように、道後温泉の霊妙不可思議な効力の象徴であります。
道後温泉の御湯をかけながら、「病気平癒」「縁結び」「商売繁盛」等の願い事を唱え、
二礼二拍手一礼の拝礼をされることにより、必ずや神様にその意が通じるものと存じます。
道後温泉本館現地立札より
Please do not reproduce without prior permission.
温泉の御湯を玉の石に懸け坐す
Please do not reproduce without prior permission.
Please do not reproduce without prior permission.
お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
Please do not reproduce without prior permission.
Please do not reproduce without prior permission.
Please do not reproduce without prior permission.
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 出雲崗神社について 所在は゛道後村 湯神社の側に在す゛〈現 湯神社(松山市道後湯之町)〉と記しています
【抜粋意訳】
出雲崗神社
出雲崗は 以都毛乎加と訓べし
〇祭神詳ならず〔或云、天夷鳥命〕
〇道後村湯神社の側に在す、〔愛媛面影〕
例祭
式内社 湯神社について 所在は゛道後村に在す゛〈現 湯神社(松山市道後湯之町)〉と記しています
『伊豫風土記』の゛玉の石゛の逸話が記されています
【抜粋意訳】
湯神社
湯は郡名に同じ
〇祭神詳ならず〔考証云、大己貴命〕
〇道後村に在す、〔愛媛面影〕
例祭
〇日本紀、舒明天皇十一年十二月壬午、幸ニ干伊獲溫湯宮、」齊明天皇七年正月庚戌、御期泊ニ于伊謀熱田津石湯行宮、〔万葉集一、額田王歌、・・・・・〕
天武天皇十三年十月壬辰、大地震、〔中畧〕時伊豫溫泉没面不出、』
伊豫國風土記曰、〔釋日本紀所ニ引用〕湯郡、大穴持命見ニ・・・・・〈略〉・・・幸行五度也」萬葉集、神サフル伊與ノ湯桁ノ ソノカミヲ思ヘバ遠キ行幸ナリケリ、」
源氏物語、〔空蝉巻〕いよゆけたもたとたとしかるまじうみゆ、〔細流抄に、・・・〈略〉・・・〕
〇比保古云、今有に玉石、古歌「伊與の湯の汀(みぎわ)にたてる玉の石 是ぞ神代のしるしなりける、 不知に神體勧請請之傳人者、不悟に玉石之理也、
類社
攝津國有馬郡湯泉神社の修見合すべし、
【原文参照】
鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015
鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 出雲崗神社について 所在は゛今 湯神社の域中に在り゛〈現 湯神社(松山市道後湯之町)〉と記しています
【抜粋意訳】
出雲崗(イチモノヲカノ)神社
今 湯神社の域中に在り、〔神名帳打聞、愛媛面影、〕
式内社 湯神社について 所在は゛今 道後村冠山に在り゛〈現 湯神社(松山市道後湯之町)〉と記しています
『伊豫風土記』の゛玉の石゛の逸話が記されています
【抜粋意訳】
湯(ユノ)神社
今 道後村冠山に在り、〔一宮巡詣記、和爾雅、神名帳考、〕
盖 大己貴命、少彦名命を祀る〔伊豫風土記、土人傳説、〕
初大穴持命 湯郡に坐て、宿奈比古那命を活さまく欲して、大分、速見の湯を下樋より持度り來て、宿奈比古那命に浴漬(アムセ)奉りしかば、暫間ありて、活て起居坐て、眞暫(マシバシ)寝つる哉(カモ)と詠(ウタヒ)て、踏(フミ)健(タケ)ひし跡處、今猶 湯中の石上に在り、即是也、故是より、温湯の奇驗 、大に著る、〔伊豫風土記〕
凡 八月十二日祭を行ふ、〔愛媛縣神社取調帳〕
【原文参照】
栗田寛 著『神祇志料』第18−21巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815498
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 出雲崗神社について 所在は゛道後村冠山〔湯神社之側〕(温泉郡道後村大字道後 湯神社合殿)゛〈現 湯神社(松山市道後湯之町)〉と記しています
【抜粋意訳】
出雲崗神社
祭神
令按 註進狀に稻田姫命 俗に出雲御前と號す 一説に三穂津姫命とありと云り 此説によるに大巳貴命の御緣によりて 其御母神を祭れるか 又は妃神三穂津姫命を祭れるならん
今姑く舊傳に從ふ祭日 八月十二日
社格所在 道後村冠山〔湯神社之側〕(温泉郡道後村大字道後 湯神社合殿)
【原文参照】
教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
式内社 湯神社について 所在は゛道後村〔冠山〕(溫泉郡道後村大字道後)゛〈現 湯神社(松山市道後湯之町)〉と記しています
【抜粋意訳】
湯神社
祭神 大己貴命 少彦名命
祭日 八月十二日
社格 村社(明細帳になし取調の事)(縣社)所在 道後村〔冠山〕(溫泉郡道後村大字道後)
今按 註進狀 往古は驚谷と云所に鎭座 俗に二神と名く 何頃にか冠山に遷したりと云ふ
【原文参照】
教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
湯神社(松山市道後湯之町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
Please do not reproduce without prior permission.
伊豫國 式内社 24座(大7座・小17座)について に戻る
伊豫国(いよのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 伊豫國 24座(大7座・小17座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
伊豫國 式内社 24座(大7座・小17座)について