吉姫神社(よしひめじんじゃ)は 創祀年代は不詳です 御旅所のある上田の地に斎き祀られていたが 明應年度(1492~1501)兵火によりこれを焼失し 社記には「寛保3年(1743)12月14日の夜 今の地に遷り給へる」とあります 延喜式内社 近江國 甲賀郡 石部鹿鹽上神社(いそへのかしほのかみの かみのやしろ)の論社です
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1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
吉姫神社(Yoshihime shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
滋賀県湖南市石部東8-4-1
〈旧住所 甲賀郡石部町石部4075〉
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》上鹿葦津姫神(かみかあしつひめのかみ)
吉比女大神(よしひめのおほかみ)
《配》木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
吉姫神社
祭 神
上鹿葦津姫神 吉比女大神配祀神
木花開耶姫例 祭
五月一日勅使記念祭
九月二十一日由 緒
創祀年代不詳。御旅所のある上田の地に斎き祀られていたが、明応年度兵火によりこれを焼失し、天文三年に現在の地に祭祀された。
江戸時代においては社号を上田大明神社としており、明治元年許可を得て旧社の上田大明神社を改称して現在の社号の吉姫神社となった。
明治元年九月明治天皇御東幸の際、神祇判官植松少尉を使いとして参向せしめ幣帛料を下賜された。本 殿
室町時代 天文三年(一五三四年)の再建
一間社流造 間口一間三尺 奥行一間一尺拝 殿
入母屋造 間口三間 奥行三間境内地
摂社 世継神社(天忍穂耳命)
末社 出世天満宮(菅原道眞公)
和田津見神社(水波之売命)
稲荷社(宇迦之御魂神)宝 物
神輿(市文化財)現地石碑文より
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【由 緒 (History)】
吉姫神社
現在大字石部字宮の森にあり、祭神は茅葦津姫命(かやあしつひめのみこと)・吉比女(よしひめ)命と伝える。甲賀郡の式内社である石部鹿塩上神社の後身とされ、旧社地は谷の「黒の御前」で、弘仁二年(八一一)の災害により、石部の町の西側に祭られた吉御子神社とともに、東側に祭られたものと伝えられる。その際、初めは上田(うえだ)に位置し、寛保(かんぽう)三年(一七四三)に現社地に遷座したと伝えられる。よって、当社は、吉比女大明神・上田大明神と称された。現在水田の広がる上田の古宮伝承地は、吉御子神社と同じく野洲川を向いた御旅所となっている。付近より高い土地ではあるが、本来は野洲川の氾濫原となっているところであり、丘陵末端の現社地と比しても、立地する条件は悪い所と考えられる。
ちなみに、石部の町中で開基が平安時代の弘仁年間(九世紀はじめ)にさかのぼる寺院は、上田蓮浄開基と伝える蓮乗寺で、石部の町の東側にあり、吉姫神社の現社地に近いことは、神仏習合の形態と式内石部鹿塩上神社の旧社地を考える上で注目される。
社名は明治元年(一八六八)に上田大明神から吉姫神社となり、現在の氏子域は大亀町以東である。
【原文参照】
湖南市/湖南市デジタルアーカイブ「吉姫神社(テキスト)」より抜粋
https://adeac.jp/konan-lib/text-list/d100010/ht020390
『東海道名所図会(tokaido meishozue)』寛政9年(1797)に記される伝承
下の社を吉彥明神〈現 吉御子神社(湖南市石部西)〉と 上の社を吉姫明神〈現 吉姫神社(湖南市石部東)〉として2社一対の関係で 両社で式内社 石部鹿鹽上神社であると記しています
【抜粋意訳】
石部鹿鹽上(いしべかしほかみの)神社
驛中田間に鎭座す延喜式內也
今兩社として下の社を吉彥明神 上の社を吉姫明神 土人 虚空藏と稱す
祭神 倭姫世紀に見えたり
驛中兩側に分て兩社を生土神とす
例祭 四月上巳日
【原文参照】
国立公文書館デジタルアーカイブ『東海道名所図会』著者:秋里籬島/刊本 ,寛政9年(1797)[書誌事項]活版 ,大正07年https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003048&ID=M2019050910293952044&TYPE=&NO=画像利用
吉姫(ヨシヒメ)神社
御由緒
創祀年代不詳、元は現在の御旅所の地に斎き祀られてた。現在の地に斎祀再建されたのは天文三年である。式内社石部鹿鹽上神社は当社であるとの説がある。
明治元年九月明治天皇御東幸の際、神祗判官植松少将を使として参向せしめ幣帛料を下賜された。
【参考として】『吉姫神社誌』大正12年
吉姫神社について 詳細を調べたい方は『吉姫神社誌』を参照してください
吉姫神社社務所 編『吉姫神社誌』,吉姫神社社務所,大正12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1181941
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・吉姫神社 本殿
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・吉姫神社 幣殿・〈本殿の両脇 境内社〉世継神社・天満宮
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・〈境内社〉水神社
・吉姫神社 中門〈神門〉・狛犬
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・吉姫神社 拝殿
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・〈拝殿の向かって左奥 境内社〉稲荷社
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・〈拝殿向かって左〉神饌殿
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・敬神生活の網領の石碑
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・参集所
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・境内の鳥居
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・手水舎
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・社務所
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・参道入口の鳥居
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・〈吉姫神社の旧鎮座地〉吉姫神社 御旅所
旧住所は 石部字上田であり 江戸時代には「上田大明神社」と称していた
社記には「寛保3年(1743)12月14日の夜 今の地に遷り給へる」とあります
詳しくは・鹿鹽上社 吉比女宮跡〈御旅所〉(湖南市石部東)の記事を参照
〈寛保3年(1743)遷座 吉姫神社旧鎮座地〉
・吉姫神社と吉御子神社 石部例大祭(いしべれいたいさい)両社の御旅所
石部氏神祭礼(いしべうじがみさいれい)
いつから始まったという起源は定かではありません
明治8年からは 5月1日に御神輿渡御日と執行されたと言われます
吉御子神社と吉姫神社では 4/30宵宮祭に氏子の宮篭りがあり 神楽舞奏が行なわれ 徹夜で御輿の番をします
5/1当日は大人神輿・子ども神輿が それぞれのお旅所に向け町内を巡行します
吉姫神社と吉御子神社 2社の御旅所の位置関係図
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『倭姫命世紀(Yamatohime no mikoto seiki)』〈平安初期806~906年頃の成立〉に記される伝承
下の社を吉彥明神 上の社を吉姫明神とされているのは 『倭姫命世紀』に見える「多気連の祖 宇加乃日子の子 吉志比女 次に吉比古二人参り相いき」の文面から 吉志比女 吉比古の二人は 吉姫神社と吉御子神社の祭神となっていると伝わります
しかし『倭姫命世紀』では 吉志比女 吉比古二人が 倭姫命に参上したのは 皇大神(天照大神)を伊勢へ遷座する途中 阿佐加藤方片樋宮に斎き奉る時 阿佐加々多(阿佐加潟)にとあり 伊勢国壱志郡の阿佐加(今の松坂市大阿坂・小阿坂付近)となっています
又 多氣連は 伊勢国多気郡の豪族であり この文面からによって 式内社 石部鹿鹽上神社と多氣連を結びつけることは難しいとされています
多くの学者の意見では 倭姫命伝承を関係づけるならば 多氣連の租 宇加乃日子の御子 吉比女・吉比古を奉祀する多氣氏の関係氏族が石部に居住していたのであろうと推定しています
【抜粋意訳】
十八年 己酉
阿佐加藤方片樋宮(あさかの ふぢかた かたひのみや)に遷り坐(ましまし)て 年を積みて歴て四箇年〈4年間〉を奉斎
この時 阿佐加の嶺に坐(ましまし)するに 伊豆速布留神(いつはやふるのかみ)は 百往人(ももゆくひと)をば 五十人取り殺し 四十人往く人をば 二十人取り殺した かく 伊豆速布留(いつはやふる)時に 倭比賣命は 朝廷(みかど)に大若子を進(たてまつり)上げて その神の事(わざ)を奏上すると (天皇は)「種々(くさぐさ)の大御手津物(おほたなつもの)を彼の神に進(たてまつり)柔げて しづめ平け奉れ」と詔(みことのり)遣(つかはし)下され給いひた
そこで その神を阿佐加の山嶺に社を作り定めて 柔げて しづめ平け奉り 労祀(ねぎまつり)上げた その時 神は「宇禮志(うれし)」と詔われたので そこを名づけて「宇禮志(うれし)」と号すその地を渡り坐(まします)時に 阿佐加加多(あさかのかた)なる 多氣連(たけのむらじ)等の祖 宇加乃日子(うかのひこ)之子(のこ)吉志比女(よしひめ)次に吉彦(よしひこ)の二人が参(まい)り 相(あいたてまつりき)
そして問い給い曰く「汝らが阿佐留物者(あさるもの)は何ぞ」と問われた
答えて曰く「皇太神の御贄(みえ)のはやし奉り上げむと きさ(赤貝)を阿佐留(あさる)」と申上げた 「白すこと恐(おそろし)」と詔して そのきさ(赤貝)を太神の御贄(みえ)に進らせて 佐々牟の木枝を割き取りて 生比伎(いけひき)に宇氣比(うけひ)きらせ給い時 その火を燧り出して 采女(うねめ)の忍比賣(おひめ)が作る天の平瓮八十枚を持って 伊波比戸(いはひと)に仕へ奉り 吉志比女(よしこめ)は 地口 御田 並びに麻園を進る・・・
・・・
【原文参照】
国立公文書館デジタルアーカイブ 『倭姫命世紀』写本(1275~1288) 校訂者 渡会行忠[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000038473&ID=&TYPE=画像利用
国立公文書館デジタルアーカイブ 『倭姫命世紀』写本(1275~1288) 校訂者 渡会行忠[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000038473&ID=&TYPE=画像利用
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)近江國 155座(大13座・小142座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)甲賀郡 8座(大2座・小6座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 石部鹿鹽上神社
[ふ り が な ](いそへのかしほのかみの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Isohe no kashiho no kami no kaminoyashiro)
【原文参照】
国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 近江國 甲賀郡 石部鹿鹽上神社(いそへのかしほのかみの かみのやしろ)の論社について
・吉姫神社(湖南市石部東)
吉姫神社(よしひめじんじゃ)は 創祀年代は不詳です 御旅所のある上田の地に斎き祀られていたが 明應年度(1492~1501)兵火によりこれを焼失し 社記には「寛保3年(1743)12月14日の夜 今の地に遷り給へる」とあります 延喜式内社 近江國 甲賀郡 石部鹿鹽上神社(いそへのかしほのかみの かみのやしろ)の論社です
吉姫神社(湖南市石部東)〈『延喜式』石部鹿鹽上神社〉
・鹿鹽上社 吉比女宮跡〈御旅所〉(湖南市石部東)
〈寛保3年(1743)遷座 吉姫神社旧鎮座地〉
・吉御子神社(湖南市石部西)
・〈参考論社〉上葦穂神社 (湖南市柑子袋)
・〈参考論社〉柏木神社(甲賀市水口町北脇)
『延喜式神名帳』所載「いそへのかみのやしろ」の社号を持つ式内社とその論社について
『延喜式神名帳』に所載される各々の「いそへのかみのやしろ」は 古代の氏族・「石邊公」「石部氏」に関係する神社 又は 海人族の「磯部氏」に関係する神社とも云われ 数多く分布しています
音は「いそへ」と同じでも その要因は 様々な要素から成り立っていて 特定は非常に難しく その為 各々の神社を検証してみます
『延喜式神名帳』に所載される各々の「いそへのかみのやしろ」は 古代の氏族・「石邊公」「石部氏」に関係する神社 又は 海人族の「磯部氏」に関係する神社とも云われ 数多く分布しています 又『延喜式神名帳』所載の「いそへのかみのやしろ」の社号(いそへ)の読みに充てる字は 「石部」「石邊」「部」「磯部」などがあり 様々です
『延喜式神名帳』所載「いそへのかみのやしろ」の社号を持つ式内社とその論社について
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR草津線 石部駅と甲西駅゜の中間辺り それぞれの駅から約2~3km 車での所要時間は5~6分程度
旧東海道に面して 参道の入口があります
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吉姫神社(湖南市石部東)に参着
参道を進むと境内の入口に 二の鳥居が建てられています
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小砂利の敷詰められた境内は 落葉の一つもないほどに清掃が行き届いていて 向かって右手には 社務所・参集殿があり もう一段高い壇に拝殿が建てられています
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正面の石段を上がって 拝殿にすすみます
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拝殿の向って左手奥に〈境内社〉稲荷社が祀られています
拝殿の正面奥には 更にもう一段高い壇に中門〈神門〉があって 拝所となっています
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透塀と中門〈神門〉で囲まれた神域の内に 本殿と境内社が祀られています
拝所となっている中門〈神門〉より
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
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社殿に一礼をして 拝殿まで戻ります
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拝殿越しに境内方向を眺めると風情がありました
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社務所にて拝授を受けてから参道を戻ります
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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 石部鹿鹽上神社について 所在は゛檜物荘 石部驛に在す、今は吉比女明神と稱す゛〈現 吉姫神社(湖南市石部東)〉と記しています
又゛今 兩社となる下の社を吉彦明神 上の社を吉姫明神と云゛とあるが「下の社〈現 吉御子神社(湖南市石部西)〉」は゛其下の社は祈年祭に預らざるべし゛〈式内社ではない〉との説を記しています
【抜粋意訳】
石部鹿鹽上神社
石部鹿鹽は 伊志倍加志保と古點にあり、上は加美と訓べし、
〇祭神 吉比女
〇檜物荘 石部驛に在す、今は吉比女明神と稱す、
倭姫世記に、倭姫命度坐時爾、阿佐加潟爾 多氣連等祖、宇加乃彦之子、吉比女、次 吉彦二人参 相支、爾時 吉姫、地口御田、并麻園進、云々、按に、石部は地名なること論なし、鹿鹽もまた地名か考得ず、大和國 鹿鹽神社もあり、扨上とは上下兩社ありて、其下の社は祈年祭に預らざるべし
【原文参照】
鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 石部鹿鹽上神社について 所在は゛石部驛に在り、上下兩社とす、上を吉姫明神、下を吉彦明神といふ、゛〈現 吉姫神社(湖南市石部東)と吉御子神社(湖南市石部西)〉と記しています
【抜粋意訳】
石部鹿鹽上(イソベノカシホノカミノ)神社
今 石部驛に在り、上下兩社とす、上を吉姫明神、下を吉彦明神といふ、即 驛中の生土神也、〔和爾雅、三才圖會、東海道名所圖會、〕
〔〇按 滋賀縣注進状に、當村 上田の地に鎮座す、上田神社と云ふ、上田山鹿鹽房蓮浄寺 本社の別當を勤むと云り、本社所在の證とすべし〕凡 四月五日祭を行ふ、〔滋賀縣注進状〕
【原文参照】
栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 石部鹿鹽上神社について 所在は゛石部村宮山に鎭座の社を鹿鹽上神社と云゛〈現 吉姫神社(湖南市石部東)〉と記しています
又゛今 兩社となる下の社を吉彦明神 上の社を吉姫明神と云゛とあるが 式内社は石部鹿鹽上ノ神社とあって「上の社」の事を指していて 「下の社〈現 吉御子神社(湖南市石部西)〉」は゛祈年幣に預り玉はぬ故に帳には記されざりし゛〈式内社ではない〉との説を記しています
【抜粋意訳】
石部鹿鹽上(イソベノカシホノカミノ)神社 稱 吉比女明神
祭神 吉比女神
今按 社傳によるに倭姫世紀に倭姫命度坐時爾 阿佐加潟爾 多氣連等祖 宇加乃彦之子 吉比女 次ニ吉彦 二人参リ支爾時 吉姫 地口御田 并麻園進 云々とある字加乃彦の子 吉比女を祭れるものとみえたり
祭日 四月五日
社格 村社所在 石部村 宮山(甲賀郡石部町大字石部)
今按 石部村宮山に鎭座の社を鹿鹽上神社と云 祭神 吉比賣神 吉比古神相殿 吉御子明神と云ふ
其ノ由緒書に 往古は鹿鹽谷上下二社ありしが弘仁 中山崩れによりて兩社相殿となし 吉御子大明神と稱すもと橿尾上(カシノヘノカミノ)神社と云る由を記し
又 同村 上田の由締書に本地佛の寺院山號は上田山鹿鹽房蓮浄寺と云て別當を勤む 今 兩社となる下の社を吉彦明神 上の社を吉姫明神と云とみえて 何れをそれと定め難きに似たれ共 輿弛志略に上田大明神 石部村にあり土俗に祭禮四月五日 石部上の社と號すと云 延喜式神名帳に載る處 鹿鹽上ノ神社と云是なるべしと云るもの證とすべし
上神社とは もと上下兩社ありて 其下社は祈年幣に預り玉はぬ故に帳には記されざりしにて 實は吉御子明神は鹿鹽下ノ神社なるべし さるは志略に正一位吉御子大明神ノ社 石部にあり云々 石部下の町五町の産土神とすと云とある吉御子は吉比古と同音にて 古よりしか云傳へけんを由緒書に吉御子明神を相殿ノ神としたるは 同神なることを知らざるにて僞妄の端綻びたり故今とらず
【原文参照】
教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
吉姫神社(湖南市石部東)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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近江国 式内社 155座(大13座・小142座)について に戻る
近江国(おうみのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 近江国には 式内社 155座(大13座・小142座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
近江國 式内社 155座(大13座・小142座)について