山宮神社(やまみやじんじゃ)は 浅間神社の゛創祀の地 本宮゛とされます 垂仁天皇の御代〈二千年以上前〉この地〈神山の麓〉に三柱の神を勧請〈現在は二柱・大山祇神・天孫瓊々杵命を祀る〉残る一柱 木花開耶姫命は〈貞観七年(865)遷座〉現在は 里宮〈現 浅間神社〉に祀られ 毎年3月に厳かに山宮神社へ神幸が行なわれています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
山宮神社(Yamamiya shrine)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
山梨県笛吹市一宮町一ノ宮1705(飛び地)
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大山祇命(おほやまつみのみこと)
瓊瓊杵命(ににぎのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社の〈本宮〉旧鎮座地
【創 建 (Beginning of history)】
「山宮神杜」
山宮神社は浅間神社の根社であり本宮であります。境内から東南約二、五キロ離れた神山の麓に鎮座しています。二千年以上前から木花開耶姫命、大山祇神、天孫瓊瓊杵命の三柱の神様を祀っておりましたが、今から一一五十年以上前、木花開耶姫命が里宮の浅間神社に遷座して以来、二柱の男神様が祀られています。本殿は春日造、檜皮葺、室町時代の建築で、国の重要丈化財に指定されています。
神社配布紙より
【由 緒 (History)】
摂社 山宮神社(永禄元年(1558)再建)
本社を距ること東南二十丁余(2キロ余)清流山宮川の水源神山の麓にあり千古の老杉二本、神木として連立している。本殿は、春日造、檜皮葺にしてその結構すこぶる壮麗である。
毎月15日を恒例神祭日となす。3月15日山宮神幸祭を行ってきたが現在は、3月15日前の日曜日。
当社は、垂仁天皇の御代鎮祭された本宮であるが、貞観七年(865年)12月、三柱の内、木花開耶姫命を里宮に遷座されたもので大山祇神と天孫瓊々杵命の二本柱を御祭神としている。神社配布紙より
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本殿
重要文化財建造物
浅間神社摂社山宮神社本殿
一宮町一の宮 浅間神社
明治四十年八月二十八日指定
浅間神社は、木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祀る甲斐一の宮で、 垂仁(すいにん)天皇の時にこの地に勧請(かんじょう)し、その後貞観(じょうがん)七年(八六五)に現在地に移されたと伝えられるもので、勧請地であるこの地には摂社として山宮神社が鎮座(ちんざ)する。
この本殿は、一間社隅木入(いっけんしゃすみきいり)春日造(かすがづくり)檜皮葺(ひはだぶき)の室町時代の建築である。全体の形は木割が大きく堂々として立派なもので比較的古調を伝えるものがある。正面蟇股彫刻は複雑な花模様で図案的性質を保持し、また側面の蟇股は全部同一な兜(かぶと)と紅葉(もみじ)を配した彫刻を入れたもので、この建築の面目を躍如たらしめている。
祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)と瓊々杵尊(ににぎのみこと)の二柱である。
毎年三月十五日は、浅間神社から山宮神社への神幸が厳(おごそ)かに行なわれる。
昭和六十一年三月 山梨県教育委員会 笛吹市教育委員会現地案内板より
・夫婦杉〈本殿の奥〉
笛吹市指定天然記念物
浅間(ふさま)神社摂社(せっしゃ) 山宮神社の夫婦(めおと)杉
昭和五十八年九月二十一日 指定当神社のご神木である。樹種はスギで、二本の幹が根元で合着しているため夫婦杉と呼ばれている。根元の周り(幹の基部と根の境)が11.05メートル、それより1メートル上で東西二つの幹に別れていて、東幹の目通り幹囲5.2メートル、西幹の自通り幹囲5.6メートルで、樹高は37メートル。枝張りは東西26メートル、南北23メートルある。
二本並んでそびえ立ち、樹勢は旺盛で、四万に枝を広げた姿は畏敬(いけい)の念を感じさせ、神域にいっそうの尊厳(そんげん)さを与えている。
笛吹市教育委員会現地案内板より
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・山宮神社(笛吹市一宮町)は 現在 浅間神社(笛吹市一宮町)の摂社
・浅間神社(笛吹市一宮町)〈甲斐国一之宮〉
浅間神社(あさまじんじゃ)は 社伝には 第11代 垂仁天皇8年(約2000年前)山宮神社の地に3柱の神を祀り創始されます その後〈富士山〉貞観大噴火時〈貞観7年(865)〉鎮火神として木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)1柱を現在地に遷座し創建されたと云う 国府も近く 甲斐國一之宮とされる延喜式内社 名神大社です
浅間神社(笛吹市一宮町一ノ宮)〈甲斐國一之宮・延喜式内社〉
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)甲斐国 20座(大1座・小19座)[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)八代郡 6座(大1座・小5座)[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社名 ] 淺間神社
[ふ り が な ](あさまの かみのやしろ)
[How to read ](Asama no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の淺間神社について
全国に三ヶ所記載があります
駿河國 富士郡 淺間神社(名神大)(あさまの かみのやしろ)
・富士山本宮浅間大社(富士宮市宮町)駿河国一之宮
富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)は 第7代 孝霊天皇の時 富士山の噴火で国内が荒れ果てた この山霊を鎮祭する為 第11代 垂仁天皇が 浅間大神を山足の地に祀ったのが創祀 第12代 景行天皇の時には 日本武尊が 山宮の地に大神を祀り 大同元年(806)には 坂上田村麿が勅命に依り 社殿を現在の大宮の地に造営し 神霊を遷座した東海最古の名社です
富士山本宮浅間大社(富士宮市宮町)
・〈奥宮〉富士山本宮浅間大社 奥宮(富士山頂上)
富士山頂上 浅間大社 奥宮(ふじさんちょうじょう せんげんたいしゃ おくみや)は 元は富士山興法寺〈現 村山浅間神社〉の大日堂「表大日」・富士山頂上 久須志神社は(ふじさんちょうじょう くすしじんじゃ)は 元は須走浅間神社の薬師堂「裏薬師」でした どちらも明治の神仏分離令により仏像が取り除かれ 富士山浅間大社の奥宮として管理されることになりました
富士山頂上 浅間大社 奥宮 & 富士山頂上 久須志神社
・〈元宮〉山宮浅間神社(富士宮市山宮)
山宮浅間神社(やまみやせんげんじんじゃ)は 第11代 垂仁天皇の時 山足の地〈山麓全体〉に祀られた浅間大神を 第12代 景行天皇の時 日本武尊が 当地 山宮の地に 磐境を設けて大神を祀り 大同元年(806)坂上田村麿が勅命により 現在の富士山本宮浅間大社の地に社殿を造営し 遷座した富士山の山宮斎場の元宮です 今でも本殿はなく 溶岩を用いた石列が原始的な祭祀形態を留めています
山宮浅間神社(富士宮市山宮)
甲斐国 八代郡 淺間神社(名神大)(あさまの かみのやしろ)
・山宮神社〈浅間神社 旧鎮座地〉(笛吹市一宮町)
山宮神社(やまみやじんじゃ)は 浅間神社の゛創祀の地 本宮゛とされます 垂仁天皇の御代〈二千年以上前〉この地〈神山の麓〉に三柱の神を勧請〈現在は二柱・大山祇神・天孫瓊々杵命を祀る〉残る一柱 木花開耶姫命は〈貞観七年(865)遷座〉現在は 里宮〈現 浅間神社〉に祀られ 毎年3月に厳かに山宮神社へ神幸が行なわれています
山宮神社(笛吹市一宮町一ノ宮)〈浅間神社の〈本宮〉旧鎮座地〉
・浅間神社(笛吹市一宮町)
浅間神社(あさまじんじゃ)は 社伝には 第11代 垂仁天皇8年(約2000年前)山宮神社の地に3柱の神を祀り創始されます その後〈富士山〉貞観大噴火時〈貞観7年(865)〉鎮火神として木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)1柱を現在地に遷座し創建されたと云う 国府も近く 甲斐國一之宮とされる延喜式内社 名神大社です
浅間神社(笛吹市一宮町一ノ宮)〈甲斐國一之宮・延喜式内社〉
・河口浅間神社(富士河口湖町)
河口浅間神社(かわぐちあさまじんじゃ)は 貞観6年(864)に始まった富士山の大噴火〈貞観の大噴火〉を鎮めるために 勅命により 甲斐国に浅間名神を祀ることになったのが創始とされています この大噴火では 富士山の北麓にあった広大な湖「剗の海(セノウミ)」の大半(現在の青木ヶ原樹海)が 溶岩で埋め尽くされて 西湖と精進湖が僅かに 現在に残ったとされています
河口浅間神社(富士河口湖町)
・一宮浅間神社(市川三郷町)
一宮浅間神社(いちみやあさまじんじゃ)は 地元の言い伝えによれば 貞観6年(864)に始まった富士山の大噴火の時に 浅間の神である 木花咲耶姫命を 現鎮座地の南方にある正体山に噴火の難を逃れるために遷ったのが始まりと伝わります 明治27年(1894)鳥居原狐塚古墳(市川三郷町大塚)から中国の呉の年号である赤烏元年(238年)の銘がある銅鏡「神獣鏡」1面が出土し奉納され 国の重要文化財に指定(現在東京国立博物館展示)されています
一宮浅間神社(市川三郷町)
・青沼浅間神社(甲府市)
青沼浅間神社(あおぬませんげんじんじゃ)は 社伝によれば「貞観7年 平安初期 西暦865年に山梨郡 稲門東青沼村 現在地に建立す」とあります 延喜元年(901年)成立の『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』に記されている「山梨郡に祀られた浅間明神」とされています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)の論社でもあります
青沼浅間神社(甲府市)
但馬國 養父郡 淺間神社(あさまの かみのやしろ)
・ 浅間神社(養父市八鹿町浅間)
淺間神社(せんげんじんじゃ)は 鎮座地の浅間(あさま)に 須留岐山の浅間寺〈天平年間(729~749)行基により開山〉もあり 6~8世紀の創立と伝えます 延喜式内社 但馬國 養父郡 淺間神社(あさまのかみのやしろ)とされ 又 同じ式内社の養父郡 葛神社(くつの かみのやしろ・かつらの かみのやしろ)が合祀されています
浅間神社(養父市八鹿町浅間)〈延喜式内社・淺間神社・葛神社の論社〉
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
浅間神社(笛吹市一宮町)〈甲斐国一之宮〉から南東へ約2.1km 車ならば鳥居から鳥居まで 約5分程度
神山の麓に鳥居が建ちます
山宮神社(笛吹市一宮町)に参着
車を降りて 一礼をして鳥居をくぐります
扁額には 山宮大明神 とあります
参道入口には 獣避けの金柵があり 開けたら 必ず閉める事と注意書きがあります
クマの出没注意 と立札もあり 少し緊張しながら 金柵を閉めます
参道と山林は さすが 一之宮 浅間神社が管理しているだけあり 道は整備されていて 山も下枝・下草は綺麗に刈り取られていて 見通しが良く 開放的で 獣がいれば 遠くからでも確認ができます
途中から 階段状の参道となります 参道の両脇の赤皮の樹木は 赤松なのでしょうか 趣のある参道になっています
暫らく進むと ひだりて上に 社殿らしきものが見えてきます
檜皮(ひわだ)の森 案内板があり 赤皮の樹木は 檜(ひのき)の檜皮だと判りました
ふるさと文化財の森
檜皮(ひわだ)の森
ここは、我が国の歴史と文化を伝える文化財建造物の保護についての国民の理解を増進し、修理のための資材の安定的確保を図るため、所有者等の理解と協力のもと、文化庁がふるさと文化財の森として設定したものです。
設定名称 浅間神社摂社山宮神社境内林
設定年月日 平成28年3月18日
設定 番号 第66号
所 有 者 宗教法人浅間神社
管 理 者 宗教法人浅間神社
所 在 地 山梨県笛吹市
面 積 44,2ha檜皮は、古代から社寺を中心とする建築に用いられてきた。我が国の代表的な屋根葺材料の一つです、檜の立木から採取した皮を長方形に整形し、何枚も積み重ねて葺くことによって、優美な曲線の屋根を形作ります。
文化庁現地案内板より
舟の形の手水鉢が置かれています
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 室町時代に再建された本殿が鎮座し その奥には神木の夫婦杉が聳えています
社殿に一礼をして 参道を戻ります
鳥居が見えてきました
鳥居越しに 一宮町の市街地が見えています
かつては ここから御供田があったようです
御供田
山宮神社の石鳥居前(東新居字桧山田)にはかつて三十六枚の御供田があった。
山宮の清流を引いて耕作された棚田であり「クナツタ」「ミズタ」ともよばれるような田が鳥居のかみにあり、早くから開かれていたものである。
明治四十年、水害の際に鳥居の附近にあった古い社家の屋敷跡はすべて押し流され、現在は 落葉林、松林などに変化している。
山宮において明治以前は厳しい物忌みが年三回行なわれ、神主、社家、社人などが参籠し、この期間は氏子も忌みごもり謹慎していたと伝えられている。
御供田から収穫した米二俵をもって祭の供物を 作っていたと言われている。笛吹市教育委員会
現地案内板より
現在は ぶどう棚が広がっています
山を下り 浅間神社(笛吹市一宮町)〈甲斐国一之宮〉へと向かいます
R20号線に立つ朱色の鳥居がある 一宮浅間神社入口 交差点を曲がります
一宮 浅間神社に参拝し 御朱印を頂きます
ちょうど 山宮神幸 の奉献酒一覧が飾られていました
ワインの産地の土地柄もあり 一升瓶ワインが多数あります 美味しそうです
浅間神社(笛吹市一宮町)〈甲斐国一之宮〉詳しくは記事をご覧ください
・浅間神社(笛吹市一宮町)
浅間神社(あさまじんじゃ)は 社伝には 第11代 垂仁天皇8年(約2000年前)山宮神社の地に3柱の神を祀り創始されます その後〈富士山〉貞観大噴火時〈貞観7年(865)〉鎮火神として木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)1柱を現在地に遷座し創建されたと云う 国府も近く 甲斐國一之宮とされる延喜式内社 名神大社です
浅間神社(笛吹市一宮町一ノ宮)〈甲斐國一之宮・延喜式内社〉
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本三代実録(nihon sandai jitsuroku)』(延喜元年(901年)成立)に記される伝承
文献記録に残る富士山噴火のうちで最大規模とも言われる「富士山の貞観大噴火」貞観6年(864年)~貞観8年(866)の噴火活動の中 朝廷は 甲斐国司に対して 浅間神社の神を奉じて 鎮祭するよう命じています
貞観7年12月9日の条では 八代郡に「浅間明神 祠一官社に列す」とあり
貞観7年12月20日の条では 山梨郡に「浅間明神を八代郡と同じに祀る」
とあります
この「官社に列す」の解釈は 場所など様々な説があり 式内社の論社が多数あります
【抜粋意訳】
貞観7年(865)12月9日丙辰の条
詔して
甲斐国八代郡に浅間明神の祠を立てて官社に列す即ち 祝・禰宜を置き 時に随ひて 祭を致さしめ給ひき
是より先 彼の国司言へらく(国司の報告によれば)
『先の年(前年)
八代郡に暴風大雨雷電地震があり 大振動(大地震)して 雷電と暴雨 雲や霧が毎度あり 山と野も判然とせず駿河国 富士山の西の峰 たちまちに熾火(噴火)有りて巌谷を焼き砕きました
今年 八代郡の擬大領(郡司の候補者)で 無位「伴直眞貞(Tomono masada)」が託宣して云はく
「我は浅間明神なり この国に斎き祭られることを得んと欲し
この年頃 国吏の為に 凶咎(トガ)(祟り)を成して 百姓(民)の病死を引き起こしています
然るに 曾て(まったく)悟っていません
よって この恠(シルマシ・噴火)を成せり
すばやく神社を定めて 祝禰宜(ハフリ・ネギ)を兼ねて任じ
よろしく潔め奉祭するべし」と
その時 眞貞の身(体格)は 或いは 伸びて八尺と可り 或いは 屈みて二尺と可り 躰を替へて(変化させ) 長短をなし 件の詞を吐きき(上記の詞を述べた)
国司は これを卜筮(ボクゼイ・占い)に求めると 告げる所では 託宣と同じであった
是に於て 明神の願いによって
眞貞を以て 祝と為して 同郡の人・伴秋吉(Tomono akiyoshi)を禰宜と為して 郡家の南に 神宮を造り建て 且つ 鎮謝するものである
然りと雖も(いえども)異火の変 今だに止まず使者を遣りて 検察するところには 剗海を埋むること千町許り
仰いでこれを見ると 正中の頂きに 社宮を飾り造り 垣が四隅に有り 丹青の石を以て その四面に立つ 石の高さ一丈許り 石の門を相去ること一尺にして 中に一重の高い楼閣有り 石を以て構営(構造) 彩色の美麗は 言ふに勝ることはない
願わくは 斎き祭り 兼ねて 官社に預かん』との報告があり 之を許した貞観7年(865)12月20日丁卯の条
令に 甲斐国に於て 山梨郡に致し祭る 浅間明神を八代郡と同じに一つ
【原文参照】
山宮神社(笛吹市一宮町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
「全国 一之宮(Ichi no miya)」について に戻る
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」について
甲斐国 式内社 20座(大1座・小19座)について に戻る
甲斐国(かひのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 甲斐国には 20座(大1座・小19座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
甲斐國 式内社 20座(大1座・小19座)について