内々神社(うつつじんじゃ)は 創建について 日本武尊が東征を終えて尾張國境の内津峠まで戻ると 副将軍 建稲種命(たけいなだねのみこと)の従者 久米八腹(くめのやはら)が早馬で駆けつけ 副将軍が駿河の海で水死されたと報告を受けた 尊は悲泣して「ああ現哉(うつつかな)々々」と嘆き その霊を祀られたので「うつつ」と云う
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
内々神社(Utsutsu shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
愛知県春日井市内津町上町24
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》建稲種命(たけいなだねのみこと) 日本武尊(やまとたけるのみこと) 宮簀姫命(みやずひめのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
内々神社と日本武尊(やまとたけるのみこと)
景行(けいこう)天皇の卸代、大和勢力が日本全国にのびる時に、日本武尊が登場してきます。尊は熱田の宮で、尾張の祖といわれる建稲種(たけいなだね)命に会われ、副将軍とされ、その妹 宮簀姫(みやずひめ)命と婚約され、東国の平定に出られました。
平定が終っての帰り道、尊は甲府から信州長野、美濃大井、釜戸、池田を通って尾張との国境 内津峠にさしかかりました。その時大へんなことが起こりました。
東海道を帰られた建稲種命が、駿河の海で水死されたことを、従者の久米八腹(くめのやはら)が早馬で知らせて来ました、それを聞かれた尊は「あの元気な稲稻が・・・・」と絶句し、しばらくして「ああ現哉(うつつかな)々々」となげかれ、その霊を祭られたのが内々神社の始めで、内々神社の前の宿場まちを内津といいます。 これは内の字の下に、舟や人の集まる意味の津をつけたものです。しかし、その時祭られた場所は、ここより1Km余り入った奥の院だったと思われます。 西側の街道に沿った谷川の右側に細い踏み分け道があり、それをたどったところに大きな岩くらがあります。見るからにおそろしいような鉄梯子(てつはしご)を登ると、洞窟(どうくつ)の中にある奥の院にお参りすることが出来ます。
春日井市教育委員会
現地案内板より
【由 緒 (History)】
由緒
「延喜式神明帳」(927)にその名の見える古い神社で(式内社という)、創建については 日本武尊の東征と深い関係をもち、「妙見宮由緒書」(吉見幸和著・1702)によると、景行天皇四十一年尾張連祖、建稲種命をまつったのにはじまる。 建稲種命は 熱田神宮にもまつられているが内々神社より8、9年おそい創建となっている。 いずれも国造りの始祖の神霊をまつったもので、そのご、各地にたの神社が勧請され しだいに氏子が減少していったという。 内々神社は中世までは、この地域一帯の篠木荘33か村の総鎮守で 祭には村ごとに毎年湯立神楽が奉納されたらしく、現在も内津村、堀内村、上大富村、下大富村(大留村)・神将村(神領村・)・討手村(・)の銘がある釜がのこっている。 また、尾張、美濃両国の農民たちは、雨ごいの際には当社に祈願をかけており、この地域住民の精神生活の中心であった。ちなみにつぎのような雨ごい歌がのこっている。 ここが内津か 妙見さまか 竜が水吐く おもしろや西右に立つ雲 乾にや夕立 やがて降り来る 村雨が。 前述の「妙見宮由緒木書」をつづけると、建稲種命は天香語山命の後裔、小豊命の子、宮簀姫の兄で、母は尾張大印岐女真敷き刀婢である。
尾張連清稲の選述した「熱田縁起」によれば、日本武尊が東征の帰路、尾張にはいり篠城に到着して内津の坂をくだられる頃、副将軍 建稲種命の従者 久米八腹が、建稲種命が駿河の海に落ち水死された、と早馬をもって報告した。 日本武尊はこれを聞き悲泣して、「うつつかな、うつつかな」といわれその霊をまつられたのが内津神社で、神社の有る町を内津というようになったという。 なお、建稲種命の死因については、命が一日船をうかべておられると、羽うつくしく声おもしろい異鳥が海上に飛翔するをみて、これをとらえ日本武尊に献上しようと、おいまわすうちに突風がおこり乗船が転覆し溺死したと書かれている。 むかしから武将の崇敬があつく、慶長2年(1597)には、豊臣秀吉が朝鮮出兵のおり、戦勝を祈願して社頭の大杉七本を伐採して帆柱とし、凱戦ご御礼に社殿を造営したという。 また、慶長18年(1613)には 美濃土岐郡妻木城主妻木伝入ならびに可児兼山城主森右近が、天正年中兵火にかけたところをわびて、妻木の城主は鐘楼をたて、妻木村のなかに妙見宮を勧請し、日々崇敬して神罰をまぬがれたとある。 また、社宝として武士、信者から寄進された幾多の刀剣、鏡などがある。 中世からは妙見宮といい、妙見尊王を本地とし、建稲種命を垂迹とした、いわゆる妙見信仰を中心として隆盛をきわめた。これと密接な関係にある神宮寺妙見寺は、密蔵院開山慈妙上人によって嘉暦年間(1326~29)に建立されている。 ちなみに、「延喜式」に春日部郡内々神社、「尾張国神明帳」には正三位内々天神としるされている。 祭神は建稲種命・日本武尊・宮簀姫命である。
境内社には福神社(大国主神・事代主神)・三峯社(日本武尊)・天王社(素盞嗚命)・稲荷社(稲荷五柱神)・双殿社(迦具土之神・菅原道真・天照大御神・市寸岐島命・大山祇命・伊弉諾尊)がある。
※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本殿・幣殿
・拝殿
内々(うつつ)神社社殿(県指定)
内々神社の創建は古く、平安時代の延喜式神名帳(えんぎしきしんめいちょう)に記載されており、祭神には建稲種命(たけいなだねのみこと)・日本武尊(やまとたけるのみこと)・宮簀姫命(みやずひめのみこと)を祀る。
現在の社殿は、信州上諏訪の大工立川(たてかわ)富棟、富之、富万の立川一門によって、文化年間(一八〇四 ~ 一八一七)に建立された。
建築様式は本殿と拝殿を中間の幣殿で連結した、いわゆる権現(ごんげん)造である。本殿は三間社流造。拝殿は正画に一間の向拝(こうはい)を構え、軒中央の唐破風(からはふ)と大屋根の千鳥破風(ちどりはふ)の重なりが正面感を強調している。
向拝の海老虹梁(えびこうりょう)に代表されるように、拝殿・本殿共に細部に多くの白木の彫刻が施されており、江戸時代後期の傾向を示す代表的な神社社殿である。
春日井市教育委員会
現地案内板より
・拝殿 木製の狛犬
〈拝殿向かって左前の境内社(2社)〉
・福神社《主》大国主神・事代主神
・天王社《主》素盞嗚命
〈拝殿向かって右横の境内社(6社合殿)〉
・双殿社《主》迦具土之神・菅原道眞公・天照大御神・市寸岐島命・大山祇命・伊弉諾尊
・御神木
御神木の大杉
大きさ目通りの廻り五メートル 此大杉は昭和三十四年九月二十六日夜の伊勢湾台風によってたおれました 現在の木は昭和三十七年三月に植えたものです。
現地立札より
・手水鉢
・すべらずの松・すへらず天神社
・一の鳥居
・社頭の社号看板
〈神社裏手の庭園〉
・内々神社庭園(昭和42年に愛知県・名勝に指定)
〈社伝によると 南北朝時代の名僧 夢窓国師(1275~1351)によって作られたと伝えられる〉
庭園に住む「龜」には
内々神社の祭神 建稲種命の霊が駿河の海から亀に乗ってこられたとの伝えがあり 古くから近在の河川で亀をとらえると 神の使いといって お酒を飲ませてこの池に納める風習うがあったと云う
〈本殿の向かって右 庭園の山裾の境内社〉
・三峯社《主》日本武尊
・内津草の小道
〈社殿の東側から高台(すみれ塚)へ登る歩道は昭和63年(1988)に「内津草の小道」と名付けられた〉
鶉衣(うずらごろも)「内津草(うつつぐさ)」の小道
安永二年(一七七三年)八月、横井也有(やゆう)は七十二歳の高齢であった。内津の俳人 長谷川三止(さんし)(本名善正、艸人(そうじん)とも号す)が、鹿の鳴き声を聞きにと、しきりに来遊を勧めたので、ふと山里の景色が見たくなって、約十日間の旅をした。
前津(名古屋)の半掃庵を八月十八日午前二時過ぎに出て、大曽根を経て勝川(庄内川)を駕(かご)にのって渡り、下街道(したかいどう)(善光寺街道)を内津へ向かって旅をした。
その道中記が「内津草」で、也有の俳文集「鶉衣」の中に記されている。也有が道中で詠んだ句を、この小道を登りながらしのぶことにしよう。
(勝川、夜明け)
麓(ふもと)から しらむ夜あけや 蕎麦畑(そばばたけ)(鳥居松、駕から出て食事)
夜と晝(ひる)の 目は色かへて 鳥居松(大泉寺、徒歩から又駕へ)
山がらの 出て又籠に もどりけり(尻冷やし地蔵、狂歌)
尻ひやし 地蔵はこゝに いつまでも しりやけ猿の こゝろではなし(坂下、明知、西尾)
駕たてる ところどころや 蓼(たで)の花(内津)
名もにたり 蔦の細道 うつゝ山春日井市教育委員会
現地案内板より
・天狗岩・影向石
〈影向石は神が降臨する石 磐座(いわくら)(岩倉)とも云う〉
〈天狗岩は 100mほど北の「奥の院」の巨岩ともに 古くからの信仰の核となった所と考えられています〉
・奥の宮への道標
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
〈創建の地〉
・奥の院(巌屋神社)
奥の院(巌屋神社)については 詳しくは 別記事を参照してください
・旧妙見宮奥之院〈巌屋神社〉(春日井市内津町) 〈内々神社 当初の鎮座地〉
〈内々神社の西に隣接〉
・内津妙見寺(うつつみょうけんじ)
六九〇年続く開運祈願の霊場
尾州内津妙見寺略縁起
当寺は、嘉暦年間(1326~29)に開運の祈願道場として、慈妙上人が妙見大菩薩をこの地に祀ったことがはじまりと言われています。 御本尊・妙見大菩薩は、開運・息災延命・家内安全・商売繁昌をかなえ、人々の運勢を守護する霊尊として、関東秩父、九州八代とも並び、「日本三妙見の一つ」として、古くから多くの人々の信仰を集めてきました。
その御神体は北斗七星であることから、勝利をもたらす星として、多くの戦国大名や剣豪にも信仰されてきました。慶長二年(1597)には、、朝鮮出兵の際に、豊臣秀吉が当寺の神木を軍船の帆柱に用い、秀吉は神木料として黄金二〇〇枚を奉納しています。江戸時代には、尾張藩との関係も深く、藩主より名古屋城の鬼門除を任されていました。 享和三年(1803)、名工立川和四郎により寺社を改造されました。これが現在の寺社となっています。本堂には全国的に珍しい「飛龍(翼のある竜)」が彫られています。
明治元年(1868)、神仏混淆の禁令により、寺社は分かれて建稲種命を祭神として別に内津神社となり、御本尊妙見大菩薩は寺社内の護摩堂に移られました。この護摩堂が現在の当寺の本堂となっています。
現地案内より
〈内々神社の西150mにある境内社〉
・妙見稲荷社(みょうけんいなりしゃ)《主》稲荷五柱神
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式・風土記など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』 奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』 平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて) 2.産物 3.土地の肥沃の状態 4.地名の起源 5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本 『出雲国風土記』がほぼ完本 『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉 その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」 ・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)尾張國 121座(大8座・小113座)[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)春日部郡 12座(並小)[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 内々神社
[ふ り が な ](うちうちの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Uchiuchi no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
「尾張氏の祖神」とされる 御祭神 建稲種命(take inatane no mikoto)について
御祭神について 少し詳しく
別名を 建稲種公(たけいなたねのきみ)とも称します
建稲種命は (1900年程昔)2代の天皇(朝廷)〈第12代景行天皇(keiko tenno)と 第13代成務天皇(seimu tenno)〉に仕えたとされ
日本武尊(yamatotakeru no mikoto)の東征の際は 副将軍として軍を従え 軍功を挙げた神とされます
尾張国内では 熱田神宮・内々神社・幡頭神社・羽豆神社・成海神社・尾張戸神社などの古社に祀られています
古代豪族の尾張氏について
古代豪族の尾張氏(owari uji)は 『記紀神話』では(天火明命(ameno hoakari no mikoto)の後裔とされ 名門氏族の「天孫族(tenson zoku)」とも呼ばれています
『姓氏録』や系図史料では 綿津見神(watatsumi no kami)の後裔とされて 皇統譜の古い時期には・第5代孝昭天皇の皇后・第6代孝安天皇の母・第10代崇神天皇の妃など 尾張氏からしばしば后妃を輩出しています
建稲種命(take inatane no mikoto)は 初代の尾張国造(owari kuni no miyatsuko)となった乎止与命(otoyo no mikoto)の御子です 建稲種命より以降は 尾張氏一族が さらに朝廷への影響力を強めて発展していきます 御祭神「建稲種命(take inatane no mikoto)」が この礎を築いたとされ 「尾張氏の祖神」と呼ばれていくことになります
御祭神「建稲種命(take inatane no mikoto)」を「尾張氏」の家系を順に説明
父は 「初代 尾張国造 乎止与命(otoyo no mikoto)」 (天火明命(ameno hoakari no mikoto)の子孫)
母は「眞敷刀婢命(mashikitobe no mikoto)」 (尾張大印岐(owari no oimiki)の娘)
妹は「宮簀媛(miyazu hime)」 (日本武尊(yamatotakeru no mikoto)の妃(hi)草薙剣を熱田神宮に奉斎しました)
妃は「玉姫(tama hime) (丹羽氏の祖 大荒田命(oarata no mikoto)の娘)
※ 玉姫妃(tama hime hi)と 建稲種命の間には 二男四女があったとされ
息子は 尻綱根命(shiritsunane no mikoto) (第15代 応神天皇の大臣)
下娘は「志理都紀斗売(shiritsuki tome)」 (五百城入彦皇子(iokiiribiko no miko=第12代景行天皇 皇子)の妃 (品陀真若王(honda no mawaka no miko)=第12代景行天皇 孫)の母
下娘は「金田屋野姫命(kanetayane no hime no mikoto)」 (品陀真若王(honda no mawaka no miko)〈景行天皇の孫 五百城入彦皇子の子〉の妃 第15代応神天皇(ojin tenno)の皇后(kogo)と妃(hi)となる 3人の娘を産む)
建稲種命の 孫娘は
応神天皇 皇后(kogo)「仲姫命(nakatsuhime no mikoto)」 (第16代仁徳天皇(nintoku tenno)の母)
応神天皇 妃(hi) 「高城入姫命(takaki no irihime no mikoto)」
応神天皇 妃(hi) 「弟姫命(otohime no mikoto)」
尾張氏の影響力は 大和朝廷の中枢に位置するようになっていきます
「名古屋市博物館 企画展 尾張氏☆志段味古墳群をときあかす」より http://www.museum.city.nagoya.jp/exhibition/special/past/tenji120428.htmlより画像
御祭神 建稲種命(take inatane no mikoto)は 「尾張水軍」の大将軍です
日本武尊の東征では 副将軍であった〈建稲種命〉
第12代景行天皇(keiko tenno)が 皇子の日本武尊(yamatotakeru no mikoto)に東国平定を命じました時 尾張国造(owari kuni no miyatsuko)の子である建稲種命(take inatane no mikoto)は 副将軍として東征に向かって 武功を挙げた神です
尾張氏(owari uji)の御曹司 (onzoshi)が なぜ副将軍なのかと言えば 尾張氏(owari uji)は 強大な尾張水軍を有して 伊勢湾一帯の中部日本地域を支配していたからです
羽豆神社が鎮座する 知多半島の先端 羽豆岬(hazu misaki)は 古代より 水軍の見張所が築かれるなど 伊勢湾の海上交通路の要衝であり 東征の折には 水軍の出発地点にもなったのであろうと推測されています
中世になっても ここは城が築かれていました 14世紀初 元亨年間の南北朝時代 熱田神宮の大宮司「千秋昌能(senshu masayoshi)」は 後醍醐(godaigo)天皇の建武(kemmu)の新政で側近であり 武者所(mushadokoro)結番(kechiban)となって 知多半島の波豆(hazu)城をおさえて再築したとあります ここを確保することは 吉野(yoshino)・伊勢(ise)と 東国をむすぶ海上交通路の要衝を抑えることとなり 重要な戦略拠点と伝わる「羽豆(hazu)城跡の石碑」もあります この海上の要衝を基地として 強大な尾張水軍を 統率し 日本武尊(yamatotakeru no mikoto)の率いる 皇軍を勝利に導いたのが「建稲種命(take inatane no mikoto)」です
妹の「宮簀媛」は 草薙剣を熱田神宮に奉斎した 日本武尊の妃
妹の「宮簀媛(miyazu hime)」は 日本武尊(yamatotakeru no mikoto)の妃(hi)となり 草薙剣を熱田神宮に奉斎しました
建稲種命の訃報
しかし 建稲種命の尾張水軍が東海道沿いに 東征の帰途についた折 駿河の海にさしかかり めずらしい海鳥を見つけたので 日本武尊(yamato takeru no mikoto)に献上しようと思われて 捕まえようとされて 駿河の海で命を落とされた 或いは 駿河の海で 船が難破されて 命を落とされた と伝わります
この時 日本武尊は 中山道経由で 東征の帰路 尾張にはいり篠城に到着し て内津の坂をくだられる頃 副将軍 建稲種命の従者 久米八腹が 建稲種命が駿河の海に落ち水死された と早馬をもって報告した
この知らせを聞かれた「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が「うつつかな ああ うつつかな」と嘆かれたと云われ その霊をまつられたのが内津神社で 神社の有る町を内津というようになったという 現在の「内々神社(うつつじんじゃ)」になります
・内々神社(春日井市内津町字上町) 内々神社(うつつじんじゃ)は 創建について 日本武尊が東征を終えて尾張國境の内津峠まで戻ると 副将軍 建稲種命(たけいなだねのみこと)の従者 久米八腹(くめのやはら)が早馬で駆けつけ 副将軍が駿河の海で水死されたと報告を受けた 尊は悲泣して「ああ現哉(うつつかな)々々」と嘆き その霊を祀られたので「うつつ」と云う
内々神社(春日井市内津町上町)〈日本武尊 東征の副将軍 建稻種命を祀る〉
伝承により 2つの「はずじんじゃ」があります 「羽豆神社(hazu shrine)」「幡頭神社(hazu shrine)」
駿河の海で命を落とされた 「建稲種命(take inatane no mikoto)」ですが
その遺骸が 宮崎海岸に漂着し 葬られたのが 「幡頭神社(hazu shrine)」(吉良町) 延喜式内社(参河國 播豆郡 羽豆神社)
・幡頭神社(西尾市吉良町)
その衣服が 羽豆岬に漂着し 御神体とされたのが 「羽豆神社(hazu shrine)」(師崎)当社 延喜式内社(尾張國 知多郡 羽豆神社)
・羽豆神社(知多郡南知多町)
羽豆神社(はずじんじゃ)は 尾張氏の祖神「建稲種命(take inatane no mikoto)」が祀られています 1900年前 強大な尾張水軍を統率し 日本武尊(yamatotakeru no mikoto)の東征を勝利に導いた将軍「幡頭(hata gashira)の神」です
羽豆神社(南知多町師崎明神山)〈日本武尊の東征の副将軍 尾張水軍の大将軍を祀る〉
にそれぞれ祀られています
御祭神が 成海から強大な尾張水軍を統率し 勝利に導いた将軍ですので 「幡頭 はたがしら(hata gashira)の神」とされて「羽豆(幡頭hazu)」と呼ばれると言われています
御祭神 建稻種命とかかわる式内社について
御祭神 建稲種命は「尾張氏の祖神」とされ 古代豪族の尾張氏と関係ある古社に祀られています
延喜式内社 尾張國 愛智郡 火上姉子神社(ほのかみあねこの かみのやしろ)
尾張国造城館の所在地とされる「火高(現在の大高)」の地
日本武尊の后 宮簀媛命・建稻種命の居住地
・氷上姉子神社(名古屋市緑区大高町火上山) 〈熱田神宮の境外別宮〉
氷上姉子神社(ひかみあねごじんしゃ)は 『寛平熱田縁起』によれば 日本武尊を 建稲種(たけいなだね)命が火上(ほかみ)(現大高町)にお迎えした時 妹の宮簀媛を妃とされ 東征の帰途にも立寄られ 草薙劔を留められたと云う 仲哀天皇四年 館跡に社殿を設けて媛を祀ったのが起源で 持統天皇四年(690)に現在地に移ったと云う
氷上姉子神社(名古屋市緑区大高町火上山)〈熱田神宮の元宮〉
・氷上姉子神社 元宮(名古屋市緑区大高町火上山) 〈氷上姉子神社の元宮〉
氷上姉子神社 元宮(ひかみあねごじんしゃ もとみや)は 御祭神 宮簀媛命の父で尾張国造 乎止與命(おとよのみこと)の館跡に 元宮(もとみや)として仲哀天皇四年(195)に創建されたと云う その後 持統天皇四年(690)に現在地に遷座されたと伝わる 延喜式内社 尾張國 愛智郡 火上姉子(ほのかみあねこ)神社の元宮です
氷上姉子神社 元宮(名古屋市緑区大高町火上山)〈尾張国造 乎止與命の館跡〉
延喜式内社 尾張國 愛智郡 成海神社(なるみの かみのやしろ)
東征から帰還の日本武尊は 鳴海潟(現在の鳴海駅北)から対岸の火高丘陵まで船で渡ったと伝わります
「火高(現在の大高)」とは 尾張国造城館の所在地 日本武尊の后 宮簀媛命・建稻種命の居住地
・成海神社(名古屋市緑区鳴海町乙子山)
・天神社(名古屋市緑区鳴海町) 〈成海神社の創祠の地・現 御旅所〉
延喜式内社 尾張國 知多郡 羽豆神社(はつの かみのやしろ)
駿河の海で命を落とされた 「建稲種命(take inatane no mikoto)」の衣服が 羽豆岬に漂着し 御神体とされた
・羽豆神社(知多郡南知多町)
羽豆神社(はずじんじゃ)は 尾張氏の祖神「建稲種命(take inatane no mikoto)」が祀られています 1900年前 強大な尾張水軍を統率し 日本武尊(yamatotakeru no mikoto)の東征を勝利に導いた将軍「幡頭(hata gashira)の神」です
羽豆神社(南知多町師崎明神山)〈日本武尊の東征の副将軍 尾張水軍の大将軍を祀る〉
延喜式内社 参河國 播豆郡 羽豆神社(はつの かみのやしろ)
駿河の海で命を落とされた 「建稲種命(take inatane no mikoto)」の遺骸が 宮崎海岸に漂着し 葬られた所
・幡頭神社(西尾市吉良町)
延喜式内社 尾張國 春日部郡 内内神社(うちうちの かみのやしろ)
建稲種命が 駿河の海に落ち水死された との知らせを聞かれた「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が「うつつかな ああ うつつかな」と嘆かれたと云われる地
その霊をまつられたのが 内津神社で 神社の有る町を内津というようになったという
・内々神社(春日井市内津町字上町)
内々神社(うつつじんじゃ)は 創建について 日本武尊が東征を終えて尾張國境の内津峠まで戻ると 副将軍 建稲種命(たけいなだねのみこと)の従者 久米八腹(くめのやはら)が早馬で駆けつけ 副将軍が駿河の海で水死されたと報告を受けた 尊は悲泣して「ああ現哉(うつつかな)々々」と嘆き その霊を祀られたので「うつつ」と云う
内々神社(春日井市内津町上町)〈日本武尊 東征の副将軍 建稻種命を祀る〉
・旧妙見宮奥之院〈巌屋神社〉(春日井市内津町) 〈内々神社 当初の鎮座地〉
延喜式内社 尾張國 愛智郡 熱田神社(名神大)(あつたの かみのやしろ)
日本武尊に従い 副将軍として 東国の平定に赴きその帰途亡くなられた 尾張地方繁栄の礎を築いた神とされて 祀られています
・熱田神宮(名古屋市熱田区神宮)〈延喜式内社 名神大社〉
延喜式内社 尾張國 山田郡 尾張戸神社(をはりへの かみのやしろ)
宮簀媛命の勧請と伝える古社
・尾張戸神社(瀬戸市十軒町)
・八幡社(小牧市大字上末字新田)
延喜式内社 尾張國 丹羽郡 針綱神社(はりつなの かみのやしろ)
尾治針名根連命(おわりはりなねむらじのみこと)を主祭神として 建稲種命・玉姫命・大荒田命・尻調根命(尾綱根命)健多乎利(たけだおり)命〈建稲種命の祖父 他を祀っています
・犬山城天守台付近(犬山市大字犬山字北古券) 〈針綱神社の旧鎮座地〉
・針綱神社(犬山市大字犬山字北古券) 〈天文6年(1537)犬山城の築城により遷座〉
・立野神社(犬山市大字上野字郷)
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR中央本線 多多治見駅から R19号線バイパスを西へ約6.5km 内津峠を越えたら旧道R19号線沿いです
社頭のすぐ脇には 内津妙見 があります
内々神社(春日井市内津町字上町)に参着
社頭には 祭典の御案内がありました
一礼をして鳥居をくぐり 境内に進むと 正面には 御神木 その先に社殿が建ちます
清めます
石燈籠には゛日月清明゛とあり
拝殿にすすみます
すく脇には 境内社が祀られています
賽銭をおさめ お祈りをします ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿に一礼をして 参道を戻ります
ここから 700m程北方向に 当初の鎮座地とされる 奥の院(巌屋神社)がありますので 向かいます
奥の院(巌屋神社)については 詳しくは 別記事を参照してください
・旧妙見宮奥之院〈巌屋神社〉(春日井市内津町) 〈内々神社 当初の鎮座地〉
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 内内神社について 所在は゛篠木庄内津村に在す、今稱に妙見゛〈現 内々神社(春日井市内津町字上町)〉と記しています
【抜粋意訳】
内内神社
内々は 宇都々と訓べし
〇祭神 建稻種命、〔集説、府志、〕
〇篠木庄内津村に在す、今稱に妙見、〔同上〕
熱田社記云 ,日木武尊 還に向尾張、到に篠城進食之間、稲種公 傔從 久米八腹策に駿足馳來 啓曰、稻種公 入海亡没、日本武尊 乍聞悲泣曰、現哉云々、註曰、依に現哉之詞 其地號に 内津社、今録 天神在に春日井郡云々、」
集説に、是小豊命子 建稻種命廟祀也、』
張州府志に、今號に妙見寺、天台宗僧掌之、忘に神故以に佛名専稱に内津妙見菩薩云々、天正三年 有灾(ワザワイ)時、社記爲に烏有、故不可に得而考耳、』 又云、古妙見有に西尾村乾山、傳言、日本武尊稱に現哉 地乃此處也、今山王社是 其地也、
神位 國内神名帳云、從三位内々天神 ,
造営 張州府志云、天正中罹に兵焚之后、豊臣秀吉公寄金修造焉、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 内内神社について 所在は゛篠城庄 内津村に在り内津妙見と云ふ゛〈現 内々神社(春日井市内津町字上町)〉と記しています
【抜粋意訳】
内内(ウツツノ)神社
今 篠城庄 内津村に在り内津妙見と云ふ、〔神名帳考証、張州府志、式社考、〕
尾張連の祖 建稲種命を祀る、〔参酌寛平録地、熱田神社次第本記、〕
初景行天皇御世 皇子日本武尊 蝦夷を征け給ふ時に、建稲種命 御供仕へ奉りて、勳功を顯しき、皇子 此處に休坐して、其死ぬる事を聞 悲み給ひ、現哉(ウツツナルカモ)と詔ひき、故社を建て之を祀る、即是也、〔寛平縁起〕
凡 每年十月六日を以て祭を行ふ、〔愛智縣神社調〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 内内神社について 所在は゛篠城庄 内津村゛〈現 内々神社(春日井市内津町字上町)〉と記しています
【抜粋意訳】
内内(ウツツノ)神社
祭神 建稻種(タケイナタネノ)命
今按 熱田緣記に 日本武尊 到篠城進食之間 稻種公 傔從 久米八腹策駿馬馳來啓曰 稻腫公入海亡没 日本武尊乍聞 悲泣曰 現哉とある本注に依現哉之詞其地 號 内津社とある故事により 建稻種命を此に祭れるなるべし
祭日 十月六日 社格 郷社(明細帳に縣社)
所在 篠城庄 内津村(東春日井郡、坂下村大字内津縣社内々神社)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
〇愛知縣 尾張國 束春日井郡坂下村大字内津(ウツツ)
縣社 内々(ウツツノ)神社
祭神 建稻種(タケイナダネノ)命
景行天皇御宇の創祀にかかる〔張州府志〕、當祭神 建稻種命は日本武尊の東征に從ひまつりて功勲少からず、尾張國造の祖先なり、 日本武尊 既に東國を定めて還りて尾張に入り、當篠城村に至りまして 御食まゐる、折しも建稻種命の傔從 久米八腹、駿足に策ちて馳せ至り、啓して曰く、建稻種命 海に入りて歿しぬと、尊之を聞きたまひて 悲みて宣はく、現なる哉と、之より此地を内津といふと(府志・社記、)、其後 間もなく鎮祀せられしものなるべし、
尾張名勝志云「在に篠城庄内津村、今俗云に妙見、實建稻種命之廟也、 請稻記云 ,稻種公 入海亡没、日本武尊乍聞悲泣曰、現哉云々、
註云、依に現哉之詞、其地號に内津、
本國帳集説曰、是小豊命子 建稻種命廟祠也」
醍醐天皇延喜の制小社に列す (延喜式)、
中頃妙見といひぬ (名所圓會、府志 )、妙見は舊大留村に在りしを 此に遷せりともいふ、天正三年 社傳悉皆焼失してより、あらぬ名を稱するに至る、一の鳥居は社頭より十餘町南 西尾村に在りしが、慶長年中焼けて今は其跡を存するのみ (名所圖會)、 本國神名帳に正三位内々神社とあれば、何時の代にか奉りしものなるべし、明治十年三月十四日縣社に列す。
社殿は本殿、拜殿、神樂殿、繪馬殿、社務所等を具備し、境内地千八百十七坪(官有地第一種)あり、社殿の背後より嵯峨たる峻坂を撃ち山上に至れば、大なる岩窟あり、清泉湧き旱天と難も涸れず、唯傳ふ、此水海水の満干によりて増減ありと、又山腹に天狗岩、屏風岩と稱する奇勝あり、天狗岩は屹然として天に沖し、屏風岩は屏立して屏風を囘らせるが如し。
境内神社
津島社 事代主社 大國社 三峯社(日本武尊) 双殿社(天照大御神、伊邪那岐命、外四神)
【原文参照】
内々神社(春日井市内津町字上町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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尾張国(おわりのくに・をはりのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 尾張国には 121座(大8座・小113座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
尾張國 式内社 121座(大8座・小113座)について