津島神社(つしまじんじゃ)は 社伝には 欽明天皇元年(540)素戔嗚尊の和魂が 對馬から此地に光臨されたので 對馬(津島)と称すると伝わり 牛頭天王の日本総社として津島信仰の中心地です 一般的には『六国史』『延喜式』に記載のない式外社とされますが 延喜式内社 國玉神社(くにたまの かみのやしろ)とする説もあります
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1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
津島神社(Tsushima shrine)
【通称名(Common name)】
・「津島さん」
・「天王さん」
・「津島のお天王さま」
【鎮座地 (Location) 】
愛知県津島市神明町1
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主祭神》建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)
《相殿神》大穴牟遅命(おほなむぢのみこと)(大国主命)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・災厄と疫病(はやりやまい)除けの守護神
・授福の大神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 全国天王総本社
・ 國幣小社
・ 別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
『愛知県史要 : 郷土研究』に記される内容
【抜粋意訳】
四 津島神社と津島祭
⑴津島神社(海部郡津島町)
海部郡津島町にある國幣小社で、祭神は素戔嗚尊である。元は牛頭天王社と云つて、牛頭天王の日本總社と云はれて居る。江戸時代より臨民の崇敬甚だ盛んで、東北地方から九州方面にまで及び、維新前は寺領千二百餘石を領して居たと云ふ。
緣起に依れば、欽明天皇の御代に素戔嗚尊の和魂が、對馬から此地に光臨せられたので、對馬(津島)と稱するに至ったと云ふ事である。降て南北朝時代に至り、後亀山天皇の勅命によつて、大橋三河守定省が社殿を造營したと傳へられ、織田信長も非常に尊崇して、社殿を營み神領を寄進した。當社の神紋が織田氏と同様木瓜であるのも之が爲めであると云ふ。現存丹塗の本殿は矢張 信長の寄進で、特別保護建造物となつて居る。徳川時代に至つても、歴代藩主の尊崇が甚だ篤かった。
境内は老樹繁茂し、社殿壮大で、實に森嚴の趣がある。堀田正泰が寄進したと傳へられる銘眞守の太刀一口及び銘長光の劔一口は本社の神寶で、國寶に指定せられて居る。六月十四日に行はれる船祭は古來著名である。
⑵津島祭
津島の天王祭は車楽祭(ダンジリ)と云はれ、古来特色ある祭典の一つとして頗る著名なもので、由来最も古く、遠近より參拜者が集まり來つて非常に雑踏するのである。陰曆六月十四日は宵祭であり、十五日は朝祭であつて、本楽である。名高い提燈祭は即ち十四日の宵祭で、祭船五艘が高燈の如く提燈を点じて、車河戸の方より漕ぎ来る光景は、云ふべからざる壯観を呈するのである。
【原文参照】
愛知県教育会 編『愛知県史要 : 郷土研究』,川瀬書店,昭和6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1174058
愛知県教育会 編『愛知県史要 : 郷土研究』,川瀬書店,昭和6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1174058
【由 緒 (History)】
津島神社のいわれ
御祭神
建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)津島神社由緒
当神社は古くより津島牛頭天王社と申し上げ、現在でも「津島さん」「天王さん」として尾張地方をはじめ中部・関東・東北地方の人々にも崇敬されております。
全国の天王社の総本社であり、約三、〇〇〇社のご分霊社があります。一 ご鎮座は、欽明天皇元年(西暦五四〇年)であります。
一 ご祭神は、建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)相殿に大穴牟遅命(おおなむちのみこと)大国主命様をお祀りしています。
一 ご神徳は、疫病・災厄除・授福の神様
一 ご例祭は、六月十五日
一 尾張津島天王祭 七月第四土曜・日曜日津島神社々務所
現地案内板より
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津島神社
御祭神
建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)相殿神
大穴牟遅命(おおなむちのみこと)別称 大国主命御由緒
社伝によりますと、欽明天皇元年(五四○) 西国対馬より大神が御鎮座されたのが始まりとされ、古くより「津島牛頭天王社」(つしまごずてんのうしゃ)と云われ、全国天王総本社として凡そ三千社の御分社があり、現在でも「津島の天王さま」と尊称崇敬されています。御神徳
厄除、疫病災難除、授福、商売繁盛、縁結、夫婦円満天王祭
国重要無形民俗文化財『尾張津島天王祭』は五百有余年の伝統を有し、五百余の提灯を灯す五艘の巻藁舟(まきわらぶね)の宵祭、能人形を飾る六艘の車楽舟(だんじりぶね)の朝祭は、毎年七月の第四土日曜日に行われております。文化財
天正一九年(一五九一)豊臣秀吉寄進の楼門と、慶長一〇年(一六〇五)徳川家康の四男松平忠吉の妻女寄進の本殿は、国の重要文化財に指定され、諸社殿の多くは県の文化財に指定されている他、国指定の太刀『銘真守』と剣『銘長光』等の文化財を所有する。御朱印案内紙より
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御神徳
当神社の御祭神、建速須佐之男大神は、天照大神の御弟神、又御相殿の大穴牟遅大神は建速須佐之男大神の御愛婿で、日本の黎明期(れいめいき)にあたり出雲の地にお住い遊ばされ、親子二代にわたって国土の経営、産業の開発にお力を致され民生の安定に限りないご仁慈を垂れさせられた御神徳は広大でありますが、わけても津島のお社は人の身に起る災厄と疫病(はやりやまい)とを除き給う御徳と授福の大神としてあまねく世に知られて居ります。
この尊いご神徳については、極めて意義深い蘇民将来(そみんしょうらい)伝説があります。即ちその昔須佐之男大神か諸国ご巡行の道すがら、非常にご難渋の折柄を蘇民将来(そみんしょうらい)と云う貧しい民が、温くおねぎらい申上げた事をお喜びになり、礼心として悪疫防禦のまじないを授けられました。即ち「後々疫気あれば汝蘇民将来の子孫なりと云って茅輪(ちのわ)‐葭で作った輪‐を腰につけよ必ず疫神のたゝりを免れしめん」との有難い教えを受けたのであります。
茲に津島のお社を、疫病除の守護神と仰ぐについて面白い一例を挙げますと、徳川時代関東地方に悪疫が流行の際はお上に乞うて「普天(ふてん)の下卒土(もとそつと)の浜(ひん)王土にあらざるなし汝疫神速かに立去るべし若し去らざるに於いては津島牛頭天王に奏して刑罰せしむべきもの也何村疫神共え」との差紙を得て、之を村の入口等へ貼ることが行はれたのであります。
こゝに当神社では、こうしたご神徳を仰いで年中に疫病厄除けのお祭りを数々執り行いますが、その中でもっとも重要且つ大規模なお祭りは夏の津島川祭であります。由緒
津島神社は古くは津島牛頭天王社と申し、今日なお一般に「津島のお天王さま」と尊称されております。
社伝によれば当社は欽明天皇元年(西紀540)のご鎮座で、弘仁元年正一位の神階と日本総社の号を奉られ、一条天皇の正暦年中、天王社の号を賜はったと伝え、いはゆる諸国の天王社の本社で、全国に約3000のご分霊社があります。
御鎮座以来歴代の武門、貴賤から篤く尊信されましたが、殊に戦国時代津島に隣接の勝幡城の出身である織田信長は、当社を氏神と仰いで造営その他に協力し、秀吉を初め豊臣一門は信長に引つゞき、社領を寄進し造営を援ける等尊信しました。
現在の楼門(重要文化財)は天正19年(西紀1591)の創建で秀吉の寄進と伝えられ、南門(県文化財)は慶長3年(西紀1598)秀吉の病気平癒を祈願して秀頼の寄進になったものであります。又現在のご本殿は慶長10年(西紀1605)清州城主松平忠吉(家康四男)の病弱を憂えた妻女政子の方より寄進になった建物で、桃山式建築の優秀なものとして、重要文化財に指定されて居ります。
正保4年(西紀1647)尾張藩主徳川義直は、社領として津島の地1293石余を寄進し、後に将軍家綱の朱印状を以って幕府寄進の神領地となり明治維新まで続きました。
幕末光格天皇以降朝延内々のお沙汰を以って、しばしば歴代主上、親王様方のご祈祷を仰付けられ、又有栖川宮家の御祈願所をも仰付けられました。
明治6年県社に、大正15年国幣小社に列せられましたが、終戦後この制度は廃止され現在に及んでおります。津島天王祭
川祭は津島祭、天王祭、提灯祭、船祭等と色々に呼ばれ、当神社年中の祭儀の中で、もっとも厳重なお祭であり我国夏祭の代表的な盛儀で、当夜の盛観を拝覧のため遠近各地から参詣の人等は凡そ10数万を数え、祭場の天王川周辺は立錐の余地もない有様であります。
この祭は大神のご神徳を仰いで、疫病、厄難の消除を祈るお祭で、いはゆる枉事をする疫神を祭って疫神の心を和らげ、疫神を送ると伝う祭儀で大神のお諭しのまゝに葭を「祓つ物」として執り行う、神秘な「大御饌調進の儀」と「神葭放流」を中心として10数回に亘って行う、一連の神葭神事の厳儀と併行して、有名な船祭の一連の祭事が執り行はれるもので、有名な京都八坂神社の祇園祭と同様の趣旨で、数百年前既にこのお祭を執り行った記録があります。
祭日は古くから旧暦6月朔日に始まり、8月晦日に終る定めでしたが、今は新暦の7月第4土曜日の夜の提灯祭と、翌朝行う朝祭を中心に、その15日前に始まり75日後に終る事に改められました。宵祭(提灯祭)
昔の津島五ヶ村から一艘ずつ奉仕した歴史のまゝに、五艘の卷藁船は数百つづの提灯を点け、昼をあざむく燈火を川面に映して津島楽を奏しながらゆうゆうと天王川をお旅所まで漕渡し、お旅所の神輿の大前に参拝する行事で、古来豪華な燈火の祭典として名を知られております。
朝祭(車楽祭)
宵祭が終わるとその夜のうちに飾り替えをした津島五艘の祭船の他に、市江船(旧市江村より奉仕)一艘を加えた六艘の祭船は、宵祭とは全然趣を変え、船に積んだ屋形の上段え更に小屋台橋掛りを組み、唐破風等の屋根を載せて、能人形を飾り、中段には豪華な小袖幕を張り巡らし、下段は緋ラシャに金糸で社紋を縫取した屋台幕、錦繍目ばゆい柱巻、紅白梅花の作り花等で飾立て、悠揚迫らず古楽を奏でながら漕渡す有様は、将に王朝頃の絵巻物を見るようであります。
※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・津島神社 本殿
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・津島神社 祭文殿
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・津島神社 回廊
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・津島神社 社殿
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・津島神社 拝殿
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・津島神社 蕃塀(県指定重要文化財)
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・津島神社 南門(県指定重要文化財)
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・津島神社 南門大鳥居〈社号標〉
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・授与所
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・津島神社 楼門(国指定重要文化財)
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・津島神社 太鼓橋
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・津島神社 社務所
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・津島神社 東門大鳥居
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・境内図
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・〈境内 摂社2〉彌五郎殿社(國玉神社)《主》大穴牟遅命、武内宿禰命
延喜式内社 尾張國 海部郡 國玉神社(くにたまの かみのやしろ)の論社
・彌五郎社(津島市神明)〈津島神社の境内〉の記事を参照
彌五郎社(やごろうでんしゃ)は 津島神社(津島市神明)の地主の神であり 延喜式内社 尾張國 海部郡 國玉神社(くにたまの かみのやしろ)と云われます 現在は 津島神社の南門をくぐって すぐ左手 拝殿の西側手前にありますが 旧鎮座地は 〈津島神社の境内〉居森社出逢ったと伝わります
彌五郎殿社(津島市神明〈津島神社 境内〉)〈『延喜式』國玉神社〉
・〈境内 末社3〉戸隠社《主》手力雄命
・攝末社参拝御案内
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・〈境内 末社4〉忍穂耳社(星宮)《主》正哉吾勝々速日天忍穂耳命
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・〈境内 末社5〉龍田社《主》支那津比古命
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・〈境内 末社6〉庭津日社《主》庭津日神
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・〈境内 末社7〉塵社《主》聖神
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・〈境内 末社8〉久斯社《主》少名毘古那神
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・〈境内 末社9〉多賀社《主》伊邪那岐命
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・〈境内 末社10〉熊野社《主》伊邪那美命
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・〈境内 末社11〉稲荷社《主》宇迦之御魂神
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・〈境内 摂社12〉八柱社(八王子社)《主》五男三女御子神
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摂社(せっしゃ)八柱社(やはしらしゃ)
(愛知県指定文化財)
御社殿 本殿 木造流造 銅板葺 (津島神社特有の銅板葺 )
寛文十二年 (一六七二 )造営御祭神 須佐之男命の五男三女の御子神
(須佐之男命が天安河で天照大御神との御誓約の時生まれた神)・天之忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)
・天之菩卑命(あめのほひのみこと)
・天津日子根命(あまつひこねのみこと)
・活津彦根命(いくつひこねのみこと)
・熊野樟毘命(くまのくすびのみこと)
・多紀理毘売命(たぎりひめのみこと)
・市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)
・多岐津比売命(たぎつひめのみこと)御神徳 子宝
由 緒 元八王子社と称し、寛文年間までは本殿相殿に祀られていた。
現地立札より
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・〈境内 末社13〉稲田社《主》櫛名田比売命
末社(まっしゃ)稲田社(いなだのやしろ)
御社殿 木造流造 銅板葺
宝暦十年(一七六〇)建造御祭神 櫛稲田比売命(須佐之男命の御妃)
御神徳 夫婦円満・良縁の神
由 緒 須佐之男命が高天原を追放され、諸国を旅し続け出雲国に至って、そこで八岐大蛇を退治した縁で櫛稲田比売命と結ばれ出雲に住まれた。
このご結婚の折、命が清清しい気持ちを詠われた
「八雲立つ出雲八重垣妾龍めに八重垣造るその八重垣を」
は、我国最初の歌であり、命は和歌の祖ともいわれている。元一王子社と称し、俗にうつくしの御前とも呼称され、寛文年間まで本殿相殿に祀られていた。
現地立札より
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・〈境内 末社14〉大国玉社《主》宇都志国玉命
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・〈境内 末社15〉若宮社《主》尹良親王
・〈境内 末社16〉大屋津姫社《主》大屋津比売命
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・〈境内 摂社17〉荒御魂社(蛇毒神社)《主》建速須佐之男命荒御魂
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摂社(せっしゃ)荒御魂社(あらみたまのやしろ)
御社殿 木造流造 銅板葺 (津島神社特有の銅板葺 )
永享九年 (一四三七 )十二月五日造営
宝暦九年(一七五九)建造御祭神 建速須佐之男命荒御魂(たけはやすさのおのみことあらみたま)
御神徳 無病息災
由 緒 元は蛇毒神社と称し八岐大蛇(やまたのおろち)の御霊を祀っていたと伝えられる。
現地立札より
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・〈境内 末社18〉橋守社(橋姫社)《主》猿田彦命
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・〈境内 末社19〉愛宕社《主》迦具土神
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・〈境内 摂社20〉柏樹社《主》須佐之男命奇御魂
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・〈境内 末社21〉滝之社《主》弥豆麻岐神
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・〈境内 摂社22〉和御魂社《主》須佐之男命和御魂
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・〈境内 末社23〉大歳社《主》大年神
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・〈境内 末社24〉熱田社《主》日本建命
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・〈境内 末社25〉米之社《主》宇迦之御魂神
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・〈境内 末社26〉児之社《主》若年神
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・〈境内 末社27〉大社《主》大山咋命
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・〈境内 末社28〉外宮《主》豊宇気比売命
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・〈境内 末社29〉船付社《主》庭高津日神
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・〈境内 末社30〉多度社《主》羽山戸神
・〈境内 末社31〉秋津比咩社《主》速秋津比売命
・〈境内 末社32〉内宮《主》天照大神
・〈境内 末社33〉照魂社《主》護国の英霊
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・〈境内 末社34〉菅原社《主》菅原道真公
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・〈境内 末社35〉疹社《主》建速須佐之男命和御魂
・〈境内 摂社36〉居森社《主》須佐之男命幸御魂
・〈境内 末社37〉大日孁社《主》大日孁貴命
・居森社(津島市神明)〈津島神社の境内 弥五郎殿の旧鎮座地〉の記事を参照
延喜式内社 尾張國 海部郡 國玉神社(くにたまの かみのやしろ)の論社の旧鎮座地
居森社(いもりしゃ)は 津島神社の南門大鳥居をくぐると鎮座します 素戔嗚大神が この地に初めて来臨され 神船を高津の湊の森に寄せて奉られた地とされ 蘇民将来の裔孫と云う老女が 霊鳩の詫によって森の中に居え奉った事により「居森社」と云われます 彌五郎殿社〈式内社 國玉神社〉の舊跡とされています
居森社(津島市神明〈津島神社 境内摂社〉)〈『延喜式』國玉神社の旧跡〉
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・〈境外末社〉竈社(三寶荒神社)《主》天知流迦流美豆比売命、奥津比売神、奥津比古神
・〈境外末社〉山祇社《主》大山津見命
・〈境外末社〉八剱社《主》須佐之男命荒御魂
・〈境外末社〉大土社《主》大土御祖神
・〈境外末社〉堤下社《主》須佐之男命奇御魂
・〈境外末社〉市神社《主》大市比賣命,大歳神,宇迦之御魂神
・市神社(津島市米町)〈津島神社の境外社地〉の記事を参照
延喜式内社 尾張國 海部郡 漆部神社(うるしへの かみのやしろ)の論社
市神社(いちがみしゃ)は 昔は米問屋が多く 商売の神様 大市比賣命(おほいちひめのみこと)を祀り 米之座と呼ばれた地に鎮座する津島神社の境外末社です 津田正生は『本國神名帳集説訂考』に 延喜式内社 尾張國 海部郡 漆部神社(うるしへの かみのやしろ)であるとの説を挙げています
市神社(津島市米町)〈津島神社の境外末社〉〈『延喜式』漆部神社〉
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)尾張國 121座(大8座・小113座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)海部郡 8座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 國玉神社
[ふ り が な ](くにたまの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kunitama no kaminoyashiro)
【原文参照】
国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
゛國魂〈国玉〉神(くにたまのかみ)゛を祀ると想われる゛延喜式内社゛について
・國魂神・国靈神・国玉神とも書く
古代の日本人は 国土には それぞれ神威〈靈威〉が内在していて その神威〈靈威〉の盛衰が国の興亡をも左右する 國を治める神靈゛国魂(くにたま)゛であると考えており 国魂の霊威は 国土そのものの神霊を云う爲 国の支配権にも結び付いた信仰の形態となっていったと云う
延喜式内社 山城國 久世郡 水主神社十座(並 大 月次 新嘗・就中同 水主坐天照御魂神 水主坐山背大国魂命神 二座預相嘗祭)(みぬしの かみのやしろ)
・水主神社(城陽市水主宮馬場)
延喜式内社 大和國 山邊郡 大和坐大國魂神社 三座(並 名神大 月次 相嘗 新嘗)(おほやまとにます おほくにたまの かみのやしろ みくら)
・大和神社(天理市新泉町)
大和神社(おほやまとじんじゃ)は 延喜式内社 大和國 山邊郡 大和坐大國魂神社三座(並名神大 月次 相嘗 新嘗)です 創建は 第十代崇神天皇の御代 宮中内に天皇と同殿共床で奉斎の二大神(天照大神・大地主大神)の神威を畏れた爲 大地主大神を皇女 淳名城入姫命に勅し 市磯邑に移されたのが始りと伝わります
大和神社(天理市新泉町)〈大和坐大國魂神社三座(並名神大 月次 相嘗 新嘗)〉
延喜式内社 和泉國 日根郡 國玉神社(くにたまの かみのやしろ)
・國玉神社(泉南郡岬町深日)
國玉神社(くにたまじんじゃ)は 創建年代は不祥ですが 延喜式内社 和泉國 日根郡 國玉神社(くにたまの かみのやしろ)とされます 『續日本紀』に第48代 称徳天皇が 紀伊國に行幸された天平神護元年(765年)使を遣はして行宮を 和泉國に設けられた地は 深日(ふけ)であり 國玉神社の辺りと伝えられています
国玉神社(泉南郡岬町深日)〈『延喜式』國玉神社〉
延喜式内社 攝津國 東生郡 難破坐生國咲國魂神社二座(並 名神大 月次 相嘗 新嘗)(なにはにいます いくくにさき くにたまの かみのやしろ ふたくら)
・生國魂神社(大阪市天王寺区生玉町)
生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)は 祭神 生島神・足島神は 日本国土の神霊とされ『延喜式』には宮中神として 生嶋巫祭神 2座(並大月次新嘗)として祀られた神です 新天皇の即位儀礼の゛八十島神祭゛の主神とされました かつては現在の大坂城の地に鎮座していましたが 豊臣秀吉公が大坂城の築城の頃 現在地に遷座と伝わります
生國魂神社(大阪市天王寺区生玉町)〈『延喜式』難破坐生國咲國魂神社〉
延喜式内社 攝津國 莵原郡 河内國魂神社(寛大延・鍬靫)(かわちくたまの かみのやしろ)
・河内國魂神社(神戸市灘区国玉通)
河内國魂神社(かわちくにたまじんじゃ)は 延喜式内社 攝津國 莵原郡 河内國魂神社(寛大延・鍬靫)(かわちくにたまの かみのやしろ)の論社です 一説には摂津国造である九河内忌寸の祖 天御影命を祀っていたのであろうと云われますが 詳しくはわかりません 通称 五毛天神と呼ばれています
河内國魂神社〈五毛天神〉(神戸市灘区国玉通)〈『延喜式』河内國魂神社〉
・綱敷天満神社(神戸市東灘区御影)
綱敷天満神社(つなしきてんまんじんじゃ)は 菅原家の祖神・天穂日命をお祀りするお社です 又 背後の丘陵地帯を御影山〈凡河内氏(凡河内国造)の祖神 天津彦根命 その御子 天御影命を祀る〉と云い この理由から 延喜式内社 攝津國 莵原郡 河内國魂神社(寛大延・鍬靫)(かわちくにたまの かみのやしろ)の論社とする説があります
綱敷天満神社(神戸市東灘区御影)〈『延喜式』河内國魂神社(寛大延・鍬靫)〉
延喜式内社 伊勢國 度會郡 大國玉比賣神社(おほくにたまひめの かみのやしろ)
・堅田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
堅田神社(かただじんじゃ)〈内宮 摂社〉は 垂仁天皇25年(BC5)二見の地に巡幸された倭姫命に 佐見都日女命(さみつひめのみこと〈地主神〉)は 黙して堅塩(かたしお)を奉った これを祝して倭姫命は当地に堅田神社を定めたと創建伝説に云う 二つの式内社〈①大國玉比賣神社(おほくにたまひめの かみのやしろ)②榎村神社(えむらの かみのやしろ)〉の論社となっています
堅田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
・宇治山田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
宇治山田神社(うじようだじんじゃ)〈内宮 摂社〉は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 大國玉比賣神社(おほくにたまひめの かみのやしろ)の論社となっています 御同座に 那自賣神社(なじめじんじゃ)〈内宮 末社〉が祀られ 2社ともに 倭姫命が定めた神社であるとされています
宇治山田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉(御同座 那自賣神社〈内宮 末社〉)
延喜式内社 伊勢國 度會郡 度會國御神社(わたらひの くにみかみの やしろ)
・度會國御神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
度会国御神社(わたらい くにみ じんじゃ)は 豊受大神宮(外宮)宮域内に鎮座する摂社です しかし かつての鎭座地は宮域外とされ『度會元長の内外宮諸社記』に 室町時代の文明(1469~1487)の頃までは 豊受大神宮の神域より堀を隔てた所〈現在の山田工作場の辺り〉と記載があり その後頽廃して社地を失い 正保二年(1645)に禰宜 常晨が その位置に再興したが 古今その旧社地には諸説があり定まっていません
度會國御神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
延喜式内社 伊勢國 度會郡 度會乃大國玉比賣神社(わたらひの をほくにたまひめの かみのやしろ)
・度會乃大國玉比賣神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
度會大國玉比賣神社(わたらいおほくにたまひめじんじゃ)は 神武天皇の御代 伊勢国造の祖・天日別命(あめのひわけのみこと)が伊勢の國覓(くにまぎ)〈平定〉の時 地主神に梓弓を以て橋と為して出迎えられ 歓んで゛刀自に度り會ひぬ゛と云い度會の名を為したという故事を持つ古社で 中世時代にも頽廃せずに祭祀が継続されていた神社であったと伝わる 豊受大神宮(外宮)摂社です
度會乃大國玉比賣神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
延喜式内社 伊勢國 多氣郡 大國玉神社(おほくにたまの かみのやしろ)
・大国玉神社(松阪市六根町)
大国玉神社(おおくにたまじんじゃ)は 近世には御薗神社と称し近郷の氏神として人々の崇敬を集めていました 明治以降 延喜式内社 伊勢國 度會郡 大國玉神社(おほくにたまの かみのやしろ)とする説が有力視され 明治16年(1883)社名を御薗神社より大國玉神社に変更しています
大國玉神社(松阪市六根町)〈『延喜式』大國玉神社〉
延喜式内社 尾張國 海部郡 國玉神社(くにたまの かみのやしろ)
・国玉神社・八剱社合殿(名古屋市中川区富田町大字万場字郷中)
國玉神社・八剱社合殿(くにたまじんじゃ はちけんしゃあいどの)は 延喜式内社 尾張國 海部郡 國玉神社(くにたまの かみのやしろ)の論社です 佐屋街道(東海道の脇往還)沿い鎮座し 明治元年(1868)明治天皇が東幸の際 勅使より奉弊を享け 明治五年には郷社に列しています 現在は 國玉神社と八剱社が合殿となっています
国玉神社・八剱社合殿(名古屋市中川区富田町万場)〈『延喜式』國玉神社〉
・津島神社(津島市神明)〈全国天王総本社〉
津島神社(つしまじんじゃ)は 社伝には 欽明天皇元年(540)素戔嗚尊の和魂が 對馬から此地に光臨されたので 對馬(津島)と称すると伝わり 牛頭天王の日本総社として津島信仰の中心地です 一般的には『六国史』『延喜式』に記載のない式外社とされますが 延喜式内社 國玉神社(くにたまの かみのやしろ)とする説もあります
津島神社(津島市神明町)〈全国天王総本社「津島牛頭天王社」〉
・居森社(津島市神明)
〈津島神社の境内 弥五郎殿の旧鎮座地〉
居森社(いもりしゃ)は 津島神社の南門大鳥居をくぐると鎮座します 素戔嗚大神が この地に初めて来臨され 神船を高津の湊の森に寄せて奉られた地とされ 蘇民将来の裔孫と云う老女が 霊鳩の詫によって森の中に居え奉った事により「居森社」と云われます 彌五郎殿社〈式内社 國玉神社〉の舊跡とされています
居森社(津島市神明〈津島神社 境内摂社〉)〈『延喜式』國玉神社の旧跡〉
・彌五郎社(津島市神明)
〈津島神社の境内〉
彌五郎社(やごろうでんしゃ)は 津島神社(津島市神明)の地主の神であり 延喜式内社 尾張國 海部郡 國玉神社(くにたまの かみのやしろ)と云われます 現在は 津島神社の南門をくぐって すぐ左手 拝殿の西側手前にありますが 旧鎮座地は 〈津島神社の境内〉居森社出逢ったと伝わります
彌五郎殿社(津島市神明〈津島神社 境内〉)〈『延喜式』國玉神社〉
延喜式内社 尾張國 中嶋郡 尾張大國霊神社(貞)(をはりおほくにたまの かみのやしろ)
・尾張大國霊神社(国府宮)
尾張大國霊神社(おわりおおくにたまじんじゃ)は 尾張地方の総鎮守神 農商業守護神 厄除神として広く信仰される神社です 奈良時代に国衛(こくが)に隣接して御鎮座していたので尾張国の総社と定められ 国司 自らが祭祀を執り行っていたので 一般には「国府宮神社」「国府宮」と呼ばれるようになり 通称「国府宮」として広く知られます
尾張大國霊神社(稲沢市国府宮)〈尾張国総社〉
延喜式内社 遠江國 磐田郡 淡海国玉神社(あはうみの くにたまの かみのやしろ)
・淡海國玉神社(磐田市見付)〈遠江總社〉
淡海國玉神社(おうみくにたまじんじゃ)は 延喜式内社 遠江國 磐田郡 淡海國玉神社(あはうみの くにたまの かみのやしろ)とされます 見附は國府であり 遠江国総社でした 一説には『三代實録』貞観七年五月八日の条にある゛淡海石井ノ神゛であると云い 見付の南に今浦と云う湖があった地から遷座したと伝わります
〈遠江国総社〉淡海國玉神社(磐田市見付)〈『延喜式』淡海國玉神社〉
延喜式内社 常陸國 眞壁郡 大國玉神社(おほくにたまの かみのやしろ)
・大國玉神社(桜川市大国玉)
大國玉神社(おおくにたまじんじゃ)は 社伝によれば養老年間(717~724年)の創立とされます 『続日本後紀』承和4年(837)3月の条に゛霊感甚だ大であるため 官社に預かる・同12年の条に゛従五位下を授く゛と記され 『延喜式』常陸國 眞壁郡 大國玉神社(おほくにたまの かみのやしろ)と載る由緒ある古社です
大國玉神社(桜川市大国玉)〈『續日本後紀』大國玉ノ神『延喜式』大國玉神社〉
延喜式内社 上野國 佐位郡 大國神社(おほくに かみのやしろ)
・大國神社(伊勢崎市境下渕名)
大國神社(おおくにじんじゃ)は 第十一代 垂仁天皇の御宇 朝廷から派遣された百済車臨が 御手洗池で手を洗う大国主命の化身である白頭翁と出会い大干魃(かんばつ)から救われた伝説により創建された その後 丹波国穴太郷より五媛の宮を奉遷合祀して五護宮・五后宮・第五姫大明神とも称した 延喜式内社 上野國 佐位郡 大國神社(おほくにかみのやしろ)とされます
大國神社(伊勢崎市境下渕名)
延喜式内社 陸奥國 磐城郡 大國魂神社(をほくにたま かみのやしろ)
・大國魂神社(いわき市平菅波宮前)
大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)は 建許呂命(こたけころおのみこと)〈養老2年(718)石城国造に任命〉 の一族によって奉斎されたと云う 延曆年間(782~806)坂上田村磨の蝦夷征伐で 賊の平定にご神威があり 大社を築造して報賽したと伝わる 延喜式内社 陸奥國 磐城郡 大國魂神社(をほくにたまの かみのやしろ)です
大國魂神社(いわき市平菅波宮前)〈『延喜式』大國魂神社〉
延喜式内社 能登國 能登郡 能登生國玉比古神社(のといくくにたまひこの かみのやしろ)
・能登生国玉比古神社〈気多本宮〉(七尾市)
能登生国玉比古神社(のといくくにたまひこじんじゃ)は 上古 第8代 孝元天皇の治世〈BC 214~BC 15年頃〉創祀され 第10代 崇神天皇の御代〈BC 97~BC 30年頃〉羽咋の竹津浦に祭神を分霊し これが現在の能登国一之宮 気多大社(羽咋市)の創祀 当神社は 元宮としてその頃から 氣多本宮とも称したと伝わり この古事から 羽咋の氣多大社から当神社まで 平国祭「おいで祭」の神幸祭〈毎年3月18日~3月23日 5泊6日 50余名で巡行する神事〉が 現在も執り行われています
能登生国玉比古神社〈気多本宮〉(七尾市)羽咋の氣多大社の本宮
・能登生國玉比古神社(中能登町)
能登生國玉比古神社(のといくくにたまひこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社 祭神 多気倉長命(タケクラナガノミコト)は 神代の昔 能登国に巡行された・大己貴命・ 少彦名命の2柱の神と協力して 国土を平定されたので「能登の国魂の神」と仰がれています 又 その姫神〈娘〉の伊豆目比売命(イズメヒメノミコト)は 少彦名命の妃(ヒ)となって 金丸村 村主の遠祖である菅根彦命を生み給わった伝えられていて 現在の神主家 梶井氏は その裔(エイ)とされます
能登生國玉比古神社(中能登町金丸)能登の国魂の神「多気倉長命」を祀ります
・能登部神社(中能登町)
能登部神社(のとべじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社 祭神は 第10代 崇神天皇の皇子 大入杵命(オホイリキノミコト) 同じく能登部に鎮座する能登比咩神社には 妹の皇女 沼名木入比咩命(ヌナキイリヒメノミコト)が祀られていて 往古この地は 能登部兄村妹村と称され 両村の神社も 兄宮 妹宮とも 上宮 下宮とも称します ここ上宮は 加賀藩 初代藩主 前田利家公が深く崇拝し「兄宮の神域を侵すべからず」と掟書を記した高札を与えたと伝わります
能登部神社(中能登町能登部上)
延喜式内社 出雲國 出雲郡 杵築大社〈名神大〉(きつきの おおやしろ)
・出雲大社〈大国主神を祀る〉
出雲大社(いずも おおやしろ)は ”遠き神代に 国を譲られた”「大国主大神(おほくにぬしのおほかみ)」の偉業と その誠に感謝なさって 「天神(あまつかみ)」が 天日隅宮(あめのひすみのみや)を献上されたことに始まるとされています
出雲大社(出雲市)【前編】
延喜式内社 淡路国 三原郡 大和大國魂神社(貞・名神大)(やまとのおほくにたまの かみのやしろ)
・大和大國魂神社(南あわじ市榎列上幡多)
大和大國魂神社(やまとおおくにたまじんじゃ)は 文武天皇が慶雲元年(704)諸国印及諸社に下し賜われた゛銅印゛が今も存し『日本文徳天皇實録』仁寿元年(851)に官社に列したとあり 延喜式には淡路國 三原郡 大和大國魂神社(貞・名神大)(やまとの おほくにたまの かみのやしろ)゛と記される由緒ある古社です
大和大國魂神社(南あわじ市榎列上幡多)〈淡路國二之宮〉
延喜式内社 阿波國 美馬郡 倭大國玉神 大國敷神社二座(やまとおほくにたまのかみ おほくにしきかみの やしろ ふたくら)
・医家神社(三好市池田町)
医家神社(いけじんじゃ)は 兵火により 社伝・記録等を全て焼失の為 創建等不詳です 『延喜式神名帳(927 AD.)』所載 阿波國 美馬郡 倭大國玉神大國敷神社 二座(やまとおほくにたまのかみおほくにしきのかみのやしろ ふたくら)の論社となっています
醫家神社(三好市池田町マチ)〈式内社 倭大國玉神大國敷神社 二座の論社〉
・磐坂神社(三好市池田町シンヤマ)
〈医家神社 旧鎮座地〉
磐坂神社(いわさかじんじゃ)は 医家神社(三好市池田町)の旧鎮座地であると伝わります 従って『延喜式神名帳(927 AD.)』所載 阿波國 美馬郡 倭大國玉神大國敷神社 二座(やまとおほくにたまのかみおほくにしきのかみのやしろ ふたくら)の旧鎮座地の論社となっています
磐坂神社〈医家神社 旧鎮座地〉(三好市池田町シンヤマ)
・倭大國魂神社(美馬市美馬町字東宮ノ上)
・倭大國敷神社(美馬市脇町拝原)
延喜式内社 壹岐嶋 石田郡 大國玉神社(おほくにたまの かみのやしろ)
・大國玉神社(壱岐市郷ノ浦町大原触)
大國玉神社(おおくにたまじんじゃ)は 社伝に 嵯峨天皇 弘仁二年(811)草創と伝わり 延宝四年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉で 式内社 大國玉神社(おほくにたまの かみのやしろ)と比定されました それ以前は 田原天神(たいばるてんじん)と称されていました
大國玉神社(壱岐市郷ノ浦町大原触)
・兵主神社(壱岐市芦辺町深江本村触)
兵主神社(ひょうすじんじゃ)は 元々は日吉山王と称し奉っていましたが 延宝四年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉によって 聖母神社〈現 聖母宮〉を日吉山王権現と査定し 現 兵主神社を聖母神社と査定して 式内社 壱岐郡 兵主神社 名神大と比定されました 其の後この処置が誤りであると藩も認め 聖母宮は元に戻りましたが 兵主神社はそのままと据え置かれています
兵主神社(壱岐市芦辺町深江本村触)
延喜式内社 對馬嶋 上縣郡 島大國魂神社(しまおおくにたまの かみのやしろ)
・嶋大國魂御子神社(対馬 佐須奈)
嶋大國魂御子神社(しまおおくにたまみこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「對馬嶋 上縣郡 嶋大國魂神御子神社」の有力な論社とされています 参道には 天然記念物であるムクロジと大杉の立派な御神木があります
嶋大國魂御子神社(対馬 佐須奈)
・島大國魂神社(対馬 豊)
島大國魂神社は かつて 上対馬 豊(豊漁港)の北東にある 椎根島の白水山(シロミズヤマ)に鎮座していました〈旧 鎮座地〉 この白水山に続く海岸沿いは 不通浜(トオラズガハマ)と呼ばれて 神聖ゆえに近づくことすら許されず 禁足地としての掟が厳しく 立ち入ると大風が吹く 腹痛に見舞われる 災害が起きる さらに 白水山には老人が住んでおり そこで見聞きしたことを他言すると死んでしまう という伝承もあります 決して近づいてはならない神域です 下の写真は望遠にて撮影
島大國魂神社(対馬 豊 白水山)〈旧 鎮座地〉
・那祖師神社・島大國魂神社・若宮神社(三社合祀)
那祖師神社・島大國魂神社・若宮神社〈三社合祀〉は もともとは 豊(トヨ)の村人たちが 豊漁港の北東にある 椎根島の白水山(シロミズヤマ)に鎮座していた「島大国魂(シマオオクニタマ)神社の遥拝所」としていた処であったとされます ここに 旧 藩政時代 国主により「那祖師(ナソシ)神社」が建立されます やがて 島大国魂神社と 北東にあるナンガ浦〈豊と泉の中間辺り〉に鎮座する若宮(ワカミヤ)神社も合わせ 豊(トヨ)に鎮座する3社が合祀されて 現在に至ります
那祖師神社・島大國魂神社・若宮神社〈三社合祀〉
・島大國魂神社(対馬 御岳)
島大國魂神社(しまおおくにたま じんじゃ)は 御岳(ミタケ)の山頂に磐座(イワクラ)があり かつては禁足地でした 山岳信仰〈修験道〉の霊場とされ た対馬北部の上県町「御岳(ミタケ)」は ・雄岳・雌岳・平岳が連なり 御岳と呼ばれます 対馬南部の「白嶽(シラタケ)」と並んで古くから知られた修験道の聖地です
島大國魂神社(対馬 御岳)
延喜式内社 對馬嶋 上縣郡 島大国魂神御子神社(貞)(しまおほくにたまのかみの みこの かみの やしろ)
・嶋大國魂御子神社(対馬 佐須奈)
嶋大國魂御子神社(しまおおくにたまみこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「對馬嶋 上縣郡 嶋大國魂神御子神社」の有力な論社とされています 参道には 天然記念物であるムクロジと大杉の立派な御神木があります
嶋大國魂御子神社(対馬 佐須奈)
・島御子神社(対馬 曽)
島御子神社(しまみこじんじゃ)は 『延喜式神名帳〈927年〉』所載の「對馬嶋 上縣郡 嶋大國魂神御子神社」の論社ともなっています 六国史の記録としては『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』 貞観12年(870)3月5日 丁巳の条に「嶋御子神(シマミコノカミ)従5位上」と 對馬嶋(上縣・下縣)の式内社の神々とともに記されていて 対馬でも有数の由緒を持つ古社です
島御子神社(対馬 曽)
・国本神社(対馬 瀬田)
国本神社(くにもとじんじゃ)は まさしく神社名に相応しい 対馬の国本の神を祀る古社です 六国史『日本三代実録』貞観12年(870)3月5日 丁巳の条には「国本神(クニモトノカミ)」として記されています 御祭神は『古事記』によれば 日本創成を語る「国生みの段」に 6番目に津島〈対馬〉が生まれていて その別名を「天之狭手依比売(アメノサデヨリヒメ)」であると記されています この神が対馬国の大本であるとわかります
國本神社(対馬 瀬田)
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
名鉄線 津島駅から西へ約1.1km 車で4分程度
津島神社 南門大鳥居をくぐります
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参道を進みます
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駐車場があります
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津島神社 南門(県指定重要文化財)が建ちます
津島神社(津島市神明)〈全国天王総本社〉に参着
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一礼をして 南門をくぐると 蕃塀(県指定重要文化財)があります
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境内には多くの摂社・末社が祀られています
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拝殿にすすみます
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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
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社殿は 拝殿の奥に廻廊があり 祭文殿 本殿となっていて 重層感があります
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東門には 鳥居と社号標が建っています
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楼門(国指定重要文化財)をくぐって 改めて境内に入りました
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境内は 参拝者が多くて賑やかでした
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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 國玉神社について 所在は゛在所詳ならず゛とあり 所在不明と記されています
【抜粋意訳】
國玉神社
國玉は久爾陀麻と訓べし
○祭神 大國玉命、〔考證〕
○在所詳ならず
集説に、與に中島郡 國霊社不同歟、以に伊勢國 度會郡 大國玉社之例謂之、則此社 盖海部直祖神乎、と云るはいかやあらん、
類社
和泉國 日根郡 國玉神社の條見合すべし神位
國内神名帳云、從二位 國玉名神、
【原文参照】
鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 國玉神社について 所在は゛今 海東郡戸田庄万場村 八劔社の相殿に坐り、゛〈現 国玉神社・八剱社合殿(名古屋市中川区富田町万場)〉と記されています
【抜粋意訳】
尾張國 海部郡
國玉(クニタマノ)神社
〔〇按 尾張國内神名帳、國玉を太國玉に作る、〕
今 海東郡戸田庄万場村 八劔社の相殿に坐り、〔尾張式社確實記、愛知縣神社調、〕
大物主命を祀る、〔社傳説、尾張國内神名帳、〕
凡正月十五日、五月五日 十一月卯日 祭を用ふ、〔愛知縣神社調、〕
【原文参照】
栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 國玉神社について 所在は゛戸田庄萬場村 今属 海東郡(海東郡富田村大字萬場)゛〈現 国玉神社・八剱社合殿(名古屋市中川区富田町万場)〉と記されています
他の説として゛彌五郞殿宮是なりとあり 此宮は津島社内にあり゛〈現 〈津島神社の境内〉彌五郎社(津島市神明)〉を挙げています
【抜粋意訳】
國玉(クニタマノ)神社
祭神 大物主命
祭日 正月十五日 五月五日 十一月初卯日
社格 郷社
所在 戸田庄萬場村 今属 海東郡(海東郡富田村大字萬場)
今按 尾張式内神社錄に 尾張地名考に 國玉の本因は今 彌五郞殿宮是なりとあり 此宮は津島社内にありて元祿文化の呈記に國玉神社と云ことみえず 確に確證なし
但 萬場村 八劔社の相殿にます國玉神社は享祿三年棟札に國玉名神と記し既に明治元年に官帶使もありと云り 今之に因て決め記せり
【原文参照】
教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
津島神社(津島市神明)〈全国天王総本社〉に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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尾張国 式内社 121座(大8座・小113座)について に戻る
尾張国(おわりのくに・をはりのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 尾張国には 121座(大8座・小113座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
尾張國 式内社 121座(大8座・小113座)について