手長比賣神社(たながひめじんじゃ)は 鎮座地 棚河(たなごう)は呼称の通り 海に向かって棚田が続く絶景の地で 更にその砂浜の先に見える島は「手長島(たながしま)」と呼ばれ かつては棚河大明神(たなごうだいみょうじん)と呼ばれていましたが 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で 式内社 壹岐郡 手長比賣神社とされたものです
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
手長比賣神社(Tanagahime shrine)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
長崎県壱岐市勝本町本宮西触三室1212
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)
天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
・創建年代不詳
【由 緒 (History)】
・延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で改称以前は
棚河大明神(たなごうだいみょうじん)と称していた
延寶の調以前の祭神・神功皇后『式社沿革考』・手長男神 『神名記』
【境内社 (Other deities within the precincts)】
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)壱岐島 24座(大7座・小17座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)壱伎郡 12座(大4座・小8座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 手長比賣神社
[ふ り が な ](てなかひめの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Tenakahime no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
式内社 壹岐郡 手長比賣神社の論社について
式内社の論社は 確定しておらず 4つの候補があります
壹岐郡(いきの こおり)手長比賣神社(てなかひめの かみのやしろ)
・手長比賣神社(壱岐市勝本町本宮)
手長比賣神社(たながひめじんじゃ)は 鎮座地 棚河(たなごう)は呼称の通り 海に向かって棚田が続く絶景の地で 更にその砂浜の先に見える島は「手長島(たながしま)」と呼ばれ かつては棚河大明神(たなごうだいみょうじん)と呼ばれていましたが 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で 式内社 壹岐郡 手長比賣神社とされたものです
手長比賣神社(壱岐市勝本町本宮)
・聖母宮(壱岐市勝本町)
聖母宮(しょうもぐう)は 神功皇后〈仲哀天皇9年(200)10月〉が壱岐に着き 順風を待たれたこの地を「風本・かざもと」と名付けられ三韓へ出兵された 三韓からの帰路再び立ち寄られ〈同12月〉出兵の勝利を祝い「勝本・かつもと」と改められたと社伝にあります 壹岐郡の二つの式内社〈・中津神社(名神大)・手長比賣神社〉の論社となっています
聖母宮(壱岐市勝本町勝本浦)
・天手長比売神社跡(壱岐市郷ノ浦町)
天手長比賣神社跡(あまのたながひめじんじゃあと)は 延宝4年(1676)平戸藩命で式内社調査を国学者の橘三喜が行い 鎌倉時代の元寇により荒廃し その後廃絶 所在不明だった天手長比賣神社を 物部邑の五所姫大明神幡宮・姫大明神と呼ばれていた当社に推定し比定したもので〈昭和40年(1965)天手長男神社に合祀〉され 現在は跡地です
天手長比売神社跡(壱岐市郷ノ浦町)
・國片主神社(壱岐市芦辺町)
國片主神社(くにかたぬしじんじゃ)は 古来 唐土から石舟に乗り来た唐田天神を祀り 国分天神と呼ばれ 式内社 天手長比賣神社に比定されます 又 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉では 証拠は何処にもありませんでしたが 式内社 國主片神社に比定されました 国分天神の呼び名は 天満宮との混同により国分天満宮となりました
國片主神社(壱岐市芦辺町)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
壱岐島の北部にある勝本港から県道231号を南下して約3.7km 車8分程度
バス停「鳥越」で左折〈西へ〉本宮八幡神社の案内標識があります
海に向かって 棚田が続く絶景があり その谷あいの奥に鎮座していました
とても美しい景色でしたので 写真撮影をしましたが 激しい手振れ写真
現在の住居表示は 勝本町本宮西触ですが 地元では古くから棚河(たなごう)〈谷あいの棚田の川〉と呼ばれ 景色は正にそれを示しています 当社の社号もかつては 棚河大明神(たなごうだいみょうじん)と伝わっています
参考に Google ストリートビューを掲載しておきます
棚田の下に砂浜があり その先に見える島は「手長島(たながしま)」です
この「手長島(たながしま)」の名の由来は 正式には知りません
しかし 宗像大社(福岡県)に伝わる中世の文書『宗像大菩薩御縁起』〈鎌倉時代末期の成立〉には 関連する記載があります
「神功皇后の三韓征伐の際 宗像の神が 異国征伐の旗竿という゛御手長゛を振って敵を翻弄した」またその際「宗像鐘崎の織幡大明神〈武内大臣〉が 赤自二流の旗を織り 宗像大明神の゛御手長゛に付けて戦った 帰還後 その゛御手長゛を゛息御嶋゛最後に立て置いた」と記されます
宗像鐘崎の織幡神社(宗像市鐘崎)の社家は壱岐氏であり 御祭神には 壱岐真根子〈壱岐直の祖〉が祀られ 壱岐と宗像の繋がりは指摘されています
この゛御手長゛は 壱岐島の式内社 天手長男神社・天手長比売神社にも関連付けられていますので「手長島(たながしま)」の名の由来も何らかの関係があるような気がしています
延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉は 曖昧なまま強引に式内社の比定をしていた事に批判が多いですが ここ手長比賣神社(壱岐市勝本町本宮)は もしかすると本来の式内社かもしれないとも想えてきます
手長比賣神社(壱岐市勝本町本宮)に参着
朱の鳥居の扁額には 長比賣神社 と記されます
一礼をして鳥居をくぐり 拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 壹岐郡 手長比賣神社の所在について 本宮村〈現 手長比賣神社(壱岐市勝本町本宮)〉と記しています
【抜粋意訳】
壱岐郡 手長比賣神社
手長は多奈賀と訓べし、比賣は假字也
〇祭神明らかなり 考証 大食都姫 式内考 栲幡千千姫命といふ 共に今従わず〇本宮村に在す
〇当国 石田郡 天手長比賣神社あり怪異
扶桑略記、延喜十八年十月十五日.太宰府解、壹岐鳥言上、手長比賣明神社、住吉明神社如ニ太鼓 鳴動、御體美石出 宝殿 在ニ地上、高御祖神社内乱肇、炎光照耀、指レ東飛去、卜部等申云、彼島内疾兵革、寮云兵賊驚者、
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 壹岐郡 手長比賣神社の論社の所在について 三説を挙げています
1.手長比賣神社(壱岐市勝本町本宮)は 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で 手長と思い式内社とした「農人が 種子籾を流す河だったので 種子河(たながう)と云われていた 手長(たなか)社には由なし」
2.聖母宮(壱岐市勝本町)が論社として相応しいが 聖母宮は式内社の中津神社であり手長比賣神社ではないとの説もある
3.郡は違うが 物部邑〈天手長比売神社跡(壱岐市郷ノ浦町)〉との説もある
【抜粋意訳】
壱岐郡 手長比賣神社
祭神 栲幡千千姫命
天押穂耳命祭日 九月二十九日
社格 (無社格)
所在 本宮村(壱岐郡鯨伏村本宮)
今按〈今考えるに〉
神社考に 本宮巴崩の山神の地名タナカウと云によりて延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉に手長と思ひて式内社としつれと 農人 種子籾なかす河なるより 種子河と云るなれば 手長社に由なし
手長比賣神社は 勝本浦 聖母大明神ならんと云り
然るに 式社沿革考に 勝本浦なるは中津神社にて手長社にあらず 手長比賣神社は 承應社記に中通とある如く 郡は異なれども物部邑中通の神社なるへしと云り 姑附て考に備ふ
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 壹岐郡 手長比賣神社の論社の所在について 石田郡物部村〈現 天手長比売神社跡(壱岐市郷ノ浦町)〉と記しています
【抜粋意訳】
壱岐郡 手長比賣(タナガヒメノ)神社
今、石田郡 物部村中通に在り、
〇按 神名帳頭注、此神を以て 思兼神の子とす、何拠ある事を知らず、姑附て考に備ふ
【原文参照】
『壱岐国神社誌』(Ikinokuni jinjashi)〈昭和16年(1941)〉』に記される伝承
式内社 壹岐郡 手長比賣神社について
手長比賣神社(壱岐市勝本町本宮)は 棚川大明神社と云っていた
又「本宮邑 久榮山ノ神ノ所在ヲ「タナガウ」ト称シ」としていたものから 式内社とされているが まったく由縁はない論拠だと記しています
本来は 聖母宮(壱岐市勝本町)が論社として相応しい
【抜粋意訳】
鯨伏村ノ部
無格社 手長姫神社
鎮座地 壱岐郡鯨伏村本宮
祭 神 拷幡千々姫命、天忍穂耳尊
例祭日 十月十九日
境内地 245坪〔由緒沿革〕
一、神名記ニ曰、本宮手長比売神社小、改以前ハ手長男大明神ト云。
一、神社帳ニ曰、「クエ」手長比売神社小、二十四座ノ内、宝殿拝殿定祭九月二十九日。
一、慶安二年再建棟札ニ曰、
奉造立本宮郷久栄村 棚川大明神社 壇一宇之事云々、当國所司代 西郷右京亮下略
一、延宝四年六月 国主鎮信公 木鏡一面及石額ヲ献ゼラレ 延喜式内社ト定メラル。
一、神社考ニ曰、本宮邑久榮山ノ神ノ所在ヲ「タナガウ」ト称シ 定 祭九月二十九日トセル小社ヲ以テ式ノ手長比売神社ト見做シ 祭神ヲ、拷幡千々姫尊ナリトス 「タナガウ」ハ籾種ヲ浸ス河ナリ、何ゾ手長姫ニ縁由アラムヤ 中略 式内ノ手長姫神社ハ勝本聖殿大明神ナラムカ(抄録)創立年月其ノ他不詳。
【原文参照】
手長比賣神社(壱岐市勝本町本宮)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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壱岐島(いきのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 壹岐嶋 24座(大7座・小17座)の神社です
壹岐嶋 式内社 24座(大7座・小17座)について