多久頭魂神社(たくづだまじんじゃ)は 天神地祇を祀る神体山「龍良山」の遥拝所〈豆酘の里人が遠くからお祈りをする処〉で 古くは『延喜式神名帳』所載の由緒ある古社です 平安期より 神仏習合時して 対馬特有の天道信仰の中心地でした 中世以降は 豆殴御寺と称しましたが 明治に現社号に復しています しかし 境内には未だに神仏混合の名残りがあり 社殿も旧観音堂を使用しています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
多久頭魂神社(Takuzudama Shrine)
(たくづだまじんじゃ)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
長崎県対馬市厳原町豆酘1250
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天照大御神(Amaterasu omi kami)
天忍穂耳命(Amano oshihomimi no mikoto)
日子火能迩迩芸命(Hiko hono ninigi no mikoto)
日子穂穂出見命(Hiko hohodemi no mikoto)
鵜茅草葺不合命(Ugayafukiahezu no mikoto)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(Engishiki jimmeicho)』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
多久頭魂神社(たくづたまじんじゃ)〈旧郷社〉
御祭神
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
天忍穂耳命(あめのおしほみのみこと)
日子火能迩迩芸命(ひこほのににぎのみこと)
日子穂穂出見命(ひこほほでみのみこと)
鵜茅草葺不合命(うがやふきあいずのみこと)御由緒
神武の御代、天神地祇を祀らせ賜うところの杜にして、即ち勧請は神武天皇元年なり 神籬磐境(ひもろぎいわさか)の社にして神功皇后・三韓に渡らせ賜うとき諸神を祀らせたまうところの杜也。
この遥拝所は 天道信仰、神仏習合時代の掌宇をそのまま拝殿となしている。
神仏分離により、観音堂は境内に遷座され、お堂は多久頭魂神社の遥拝所とされる。延喜式神名帳所載の名神である。
貞観(じょうがん)12年3月5日従5位下を、その後叙位ありて正4位下を授けらる。神武(弥生期)のころ、龍良山を神体山として天神地祇(あまつかみくにつかみ)をまつられる所であって、龍良山の霊峰を、大陵航路の古代船が航海の安全を祈願して遥拝したこともつたえるが、皇后は三韓へ渡海のとき、この神域に一卜月半の滞在をなされ、航海の安全と成功を祈顧され諸神をまつられる所であります。
七世妃のころ、天道法師がこの神域に観音開をしたとあり、氏神さま、天道様、観音様が習合して、両部神道の信仰か盛んになります、対馬の天道信仰は奥深いものかありますが、この豆酘を本地として栄えています、龍良山麓の三方に三ヵ所の遥拝所があり その一か所がこの神社地であり、他の二ヶ所は表八丁角、裏八丁角として大きなピラミット型の石積みもあり、天道信仰の遺蹟として 今も生き生きとして残されています。
また、僧行基か刻んだ対馬六観音の御一体である十一面観世音菩薩が本尊とまつられ豆酘御寺として信心がますますさかんとなっています。
この観音堂も対馬藩主 宋氏が代々改修して来ていますが、部分的に室町期の工法か残されています、現在の拝殿は、元の観音堂であり、回廊があって、正面か三門に別れていて中央に御本尊、左右に脇立てとして毘沙門天、多聞天、薬師如来がまつられていて神社の様式ではありません。明治の神仏分離によって、観音様は境内の一角に遷されて今は多久頭魂神社の拝殿となっています。
例 祭 10月18日
諸 祭
祈年祭 2月17日
新嘗祭 11月23日
除夜祭 12月31日
歳旦祭 1月1日
大祓祭 12月31日多久頭魂神社 宮司 本石正久
境内案内書より
由緒
神武天皇詔して、天神地祇を祀らしめ給うところのお社であり、神離磐境のお社であります。
古木巨樹鬱蒼としていて、昼もなお暗く、此の辺りの神域は古来天道信仰の聖地として磐境の限りを八丁角と称し、今に至ってもこの神地に立ち入るを忌みて、敢えて犯す者なく、又神功皇后三韓渡航の途次行宮を定め給いて、諸神を祀り給うところのお社であります。
この遥拝所は天道信仰、観音信仰と神仏習合時代の堂宇をそのまま拝殿とされています。
承和4年4月2日従5位を奉授せられ、その後叙位あり、正4位下を授けられています。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【由 緒 (History)】
高御魂(たかみむすび)神社 (延喜式 名神大社)
多久頭魂(たくづたま)神社 (式内社 名神大社)
「日本書紀」に対馬(つしま)下県直(しもあがたのあたい)が祭る高皇産霊神(たかみむすびのかみ)に、神田を献上した記事がある。
この神は 日本神話の名神で、当社の起源は悠久の古代に発する。
多久頭神社は 承和4年(834)高御魂神社などと伴に従五位下を授けられ官社となった。
中世、神仏習合(しんぶつしゅうごう)により「豆殴御寺(つつおてら)」と称し、明治に現社号に復したが社殿は旧観音堂を使用している。平成21年4月 対馬市教育委員会
境内案内板より
『対馬神社ガイドブック』~神話の源流への旅~より抜粋
たくずだまじんじゃ
多久頭魂神社アクセス 厳原町豆酘集落の北東部の外れの森の中に鎮座しています
周辺の雰囲気・環境など
対馬の南西部に位置する豆酘は、亀卜など独特の民俗が伝わる集落です。南は対馬海峡に面し、北東には龍良山(たてらやま)原始林が広がっています。 神社の近くには古代米・赤米の神田があり、敷地内には多くの神社が鎮座し、豆酘だけで1つの神話世界を形成しています。社殿の奥には、対馬最大といわれるクスノキの巨木がそびえています。神社のプロフィール
神功皇后が三韓征伐に際して神々を祭ったと伝えられ、出兵の様子を紅白の小船で再現する「カンカン祭り」が伝承されています。
豆酘の人々が神聖視する龍良山のふもと(北と南)に、聖地・八丁角(通称オソロシドコロ)があります。禁足地として里人も立ち寄らず、社殿もありませんでしたが、神仏分離に際して豆酘寺の観音堂を遥拝所(信仰対象を遠くから拝むための建物)としたものが、現在の社殿です。『対馬神社ガイドブック』~神話の源流への旅~より抜粋1〈一般社団法人 対馬観光物産協会 2017/3出版〉
https://www.tsushima-net.org/wp-content/uploads/2020/08/tsushima_shrine_guidebook.pdf
【境内社 (Other deities within the precincts)】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
「對馬嶋下縣郡 高御魂神社 名神大」
・高御魂神社(対馬 豆酘)
高御魂神社(たかみむすびじんじゃ)は『日本書記』顕宗天皇3年条に「対馬の日神の託宣(タクセン)により 高皇産霊神に磐余(イワレ)の田14町を献上し その祠官として対馬下縣直がつかえた」という記載があり 『延喜式』の名神大社として大変立派な由緒を持つ古社です 元々は 豆殿浦の東側の海岸に鎮座しましたが 昭和32年(1957)豆酘中学校の建設により 現在の多久頭魂神杜の境内に遷座しました
高御魂神社(対馬 豆酘)
神功皇后(ジングウコウゴウ)の行宮(アングウ)趾
・神住居神社(対馬 豆酘)
内々神社(うつつじんじゃ)は 創建について 日本武尊が東征を終えて尾張國境の内津峠まで戻ると 副将軍 建稲種命(たけいなだねのみこと)の従者 久米八腹(くめのやはら)が早馬で駆けつけ 副将軍が駿河の海で水死されたと報告を受けた 尊は悲泣して「ああ現哉(うつつかな)々々」と嘆き その霊を祀られたので「うつつ」と云う
内々神社(春日井市内津町上町)〈日本武尊 東征の副将軍 建稻種命を祀る〉
・国本神社《主》伽藍神(ガランノカミ)
国本神社
伽藍神 七堂伽藍の守護神として、伽藍神と称する祭祀があったものだが、豆殴の伽藍神は『対州神社誌』に、
伽藍。神鉢鏡、差し渡し一尺、由緒知らず。社五尺角。午(うま)の方(南)を向く。観音の地の内と見え、その地が観音堂の境内にあったということは、観音堂も旧(もと)はガランの地にあったことを教えてくれる。次の『対馬神社大帳』には、
伽藍社。国の政所(まんどころ)の神なり。古の政所、之を豆酘寺という。因って仏というは、これ伽藍の神と号す。
とあり、政所(豆酘寺)の守護神を仏というけれども、これは伽藍の神と号したものと説明している。ところがこの伽藍(豆酘寺)を国の政所とした根拠は知らないが、これにより明治初期の神仏整理で国本神社と号し、観音堂と一緒に現在地に遷座した。この伽藍神を仏と呼んだのは、ぞれが天童だったからであろう。
多久頭魂神社 宮司 本石正久
境内案内書より
・下宮神社《主》豊姫命(トヨヒメノミコト)
・五王神社《主》素盞男命(スサノヲノミコト)
・松崎神社《主》安曇磯武良(アズミイソラ)
【奥の聖域 (There is a sanctuary in the mountains in the back)】
〈通称 オソロシドコロ〉龍良山のふもと聖地〈禁足地〉里人も立ち寄らず
・表 八丁角(ハッチョウカク)龍良山 南面・浅藻(アザモ)
天道信仰の中心「天童法師」の墓所が 表八丁角
・裏 八丁角(ハッチョウカク)龍良山 北面の山中
「天童法師」の母の墓所が 裏八丁角
この二つ〈表と裏〉の八丁角(ハッチョウカク)は 特に強いタブーの地として「オソロシドコロ」と呼ばれています
同じく 龍良山の麓にあって 豆酘の集落内で 遥拝所として 神事を行っていたのが 多久頭魂神社です
※多久頭魂神社にて遥拝を済ませ 「オソロシドコロ」には 迂闊に近づかないことをお勧めします
Let's finish the worship at Takuzutama Shrine. It is recommended to stay away from "Osoro Sidokoro".There is a curse.
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)対馬島 29座(大6座・小23座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)下県郡 13座(大4座・小9座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 多久頭神社
[ふ り が な ](たくつの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Takutsu no kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
「對馬嶋上縣郡 天神多久頭多麻命神社」の3つの論社
・天神多久頭魂神社(対馬 佐護西里)
天神多久頭魂神社(あめのかみたくずたまじんじゃ)は 対馬固有の天道信仰の主要な神社です 天道信仰の中心地は 対馬島の南北対称の地〈・南部は厳原町 豆酘・北部は ここ佐護〉にあり 祭神「多久頭魂神」も 豆酘(ツツ)には「多久頭魂神社」が 佐護(サゴ)には「天神多久頭魂神社」が対をなし鎮座します 更に この両神社には 天道法師の母神を祀る神社として 豆酘は「 高御魂神社」 ここ佐護には「神御魂神社」が鎮座します 対馬固有の「天道信仰」は 天童法師という超人の伝承を中心として・霊山崇拝・穀霊崇拝・太陽信仰・母子神信仰・修験道・古神道などさまざまな要素が絡み合い形成されているようです
天神多久頭魂神社(対馬 佐護西里)対馬固有の天道信仰の主要な神社
・天神神社(対馬 佐護北里)
天神神社(てんじんじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載「對馬嶋上縣郡 天神多久頭多麻命神社(あめのかみたくつまのみことの かみのやしろ)」の論社です もともと天神(あめのかみ)と称する祭祀所であったとされます
天神神社(対馬 佐護北里)
・天神社〈小牧宿禰神社 境外末社〉
小牧宿禰神社(おひらすくねじんじゃ)は 現在の御祭神を天菩比命(アメノホヒノミコト)の御子神「建比良鳥命(タケヒラトリノミコト)」であるとしています 一方 社号とされている神号「小牧宿禰命(ヲヒラスクネノミコト)」は 六国史『日本三代実録 901年成立』貞観12年(870)3月5日 丁巳の条に「小枚宿祢神(ヲヒラノスクネノカミ)」とあり『延喜式神名帳』(927年12月編纂)には「小枚宿祢命神社(をひらすくねのみことの かみのやしろ)」と所載されています こちらが本来の神であろうとされています
小牧宿禰神社(対馬 三根)
対馬の天道(テンドウ・テントウ)信仰について
日本では 太陽を天道様(オテントウサマ)として 天地を司り すべてを見通す超自然の神として 捉えられています
対馬の天道信仰は 伝承では7世紀が起源とされ 平安時代から中世にかけて神仏習合によって形成された対馬固有の修験道の一種とされています
その祭祀形式や行事には古神道の要素が多く伝承されていると伝わります
天道の祭りは 太陽を拝むと共に 天道山を崇拝し 米や麦の収穫感謝を願ったとされ 対馬の中部「・木坂・青海」では 旧6月のヤクマの祭りで 石塔を立てて山を拝む習俗が天道信仰の名残りとしてあり それは麦の収穫祭でもあったとされます
ヤクマの塔
木坂・青海のヤクマ
解説文: 本件は、海岸にヤクマの塔と呼ばれる円錐形の石積みを築き、御幣を立てて供物を供え、子どもの無事成長や家内安全などを祈願する行事である。木坂では、天道社に参拝し、ヤクマの塔を1基作り、御幣や供物を供えて拝む。青海でも、ヤクマの塔を2基作り、天道地に参拝し、御幣や供物を供えて拝む
文化庁 国指定文化財等データベース より
https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/312/00000887
対馬の天道伝説について
天道の伝説によれば
673年〈天武天皇の御代〉対馬の南部・豆酘郡(ツツノコオリ)内院村(ナイインムラ)に 高貴な身分の女性が 虚船(ウツボブネ)に乗って漂着しました
その女性は 太陽〈お天道様〉に感精して〈太陽の光が女性の陰部に差し込んで孕み〉子供を産みます その子〈太陽の子=天童〉は 天童法師(テンドウホウシ)と名づけられました
神童の天童法師は聡明な子に育ち 人々の病をたちどころに治すという不思議な力を宿した太陽信仰の聖人となり 修行を積んで 嵐をまとって空を飛ぶ術を取得し 詔により上京し 病で苦しむ天子〈天皇〉のもとへ飛んでゆき 治癒した奇跡を起こし「宝野上人」の菩薩号を賜ったと伝えています
対馬固有の天道信仰は 天童法師という超人の伝承を中心に・霊山崇拝・穀霊崇拝・太陽信仰・母子神信仰・修験道・古神道などさまざまな要素が絡み合い形成されているようです
『対馬神社ガイドブック』~神話の源流への旅~より抜粋
天道信仰と天道法師 タクズダマ
【日本神話】 なし(対馬固有の信仰)
【対馬の伝承・異伝】
7世紀後半、内院(ないいん。厳原町)に高貴な女性が虚船(うつろぶね)に乗って漂着し、太陽に感精して子を産みました。「太陽の子」は天道法師と呼ばれ、嵐をまとって空を飛び、天皇の病気を治すなどの奇跡をおこします。豆酘(つつ)の北東に広がる龍良山(たてらさん)中の八丁角(はっちょうかく。北と南の2ヶ所にある石積み)は、天道法師とその母の墓所とされ、多久頭魂神社境内の不入坪(イラヌツボ)とあわせて「オソロシドコロ」と呼ばれ、龍良山という聖域の結界を構成しています。
対馬固有とされる天道信仰は、天道法師という超人と霊山・龍良山を中心に、太陽信仰・母子神信仰・修験道・古神道などの要素が複雑に絡み合い、平安時代ころに成立したと考えられています。
多久頭魂(たくずだま)神社(番号21)の現在の祭神は天神・天孫系ですが、古くは龍良山を御神体として社殿はなく、対馬固有のタクズダマ(多久頭魂)を祭り、神仏習合時代にはタクズダマ=天道法師とされていました。天道信仰の南の中心部・豆酘には高御魂(たかみむすび)神社(番号22)が、北の中心部・上県町佐護には神御魂(かみむすび)神社(番号9 5)があり、多久頭魂神は、両社にまつられたタカミムスビとカミムスビの子神とされています。(P7)
豆酘は対馬の南端に位置し、陸路による他地域との交流が少ない反面、航路の拠点として国内外の文化が流入する地域であり、亀卜や天道信仰、赤米神事など独自の文化・歴史が形成されてきましたが、近年は過疎・高齢化のため、伝承の存続が危ぶまれています。
なお、龍良山はその強烈なタブーにより、標高120mの低域から山頂558mまで良好な照葉樹原始林(スダジイ・イスノキ・アカガシなど)が残り、国の天然記念物に指定されています。龍良山に入ると、「森の神」が生きていた縄文時代の森の雰囲気を感じることができます。
『対馬神社ガイドブック』~神話の源流への旅~より抜粋2〈一般社団法人 対馬観光物産協会 2017/3出版〉
https://www.tsushima-net.org/wp-content/uploads/2020/08/tsushima_shrine_guidebook.pdf
対馬の天道信仰の中心地に鎮座する 主要な神社について
対馬の南部・厳原町豆酘(ツツ)と北部・上県町佐護(サゴ)は 天道信仰の中心地とされます
豆酘(ツツ)には「多久頭魂神社」
佐護(サゴ)には「天神多久頭魂神社」が鎮座し
この両神社には ペアの様に天道法師の母神を祀る神社として 豆酘は「 高御魂神社」があり ここ佐護には「神御魂神社」が鎮座しています
多久頭魂(たくづたま)神社
『延喜式』神名帳には、上県郡に天神多久頭多麻(あめのたくづたま)命神社、下県郡に多久頭神社と、同名の神社が二座あるが、現在では上県町佐護湊(みなと)の神社を天神多久頭魂神社と号し、当地豆酘の神社も多久頭魂神社と号している。そして豆酘に高御魂神社があるように、佐護には神御魂(かんむすび)神社があり、共に神話的環境をよく伝えている。
この南北の多久頭魂神社が天童信仰の中心となったのは、在来神道の日神が仏教の大日如来(だいにちにょらい)と習合して、天道菩薩(ぼさつ)を形成したもので、その発生は平安朝中期以降、対馬に八幡大菩薩の信仰が普及したのと同時であろう。
タクツタマという語意は、日神を表わしたものと言われるが、それが天道菩薩となり、擬人格の天道法師とも称されたことから、その祭祀は豆殿御寺と呼ばれ、官司も住持と言われていた。それは「八幡宮文書」(鎌倉遺文)の文永四年(1267)「寺社僧徒等免行事」とした注申に、
一 八幡新宮 正宮司 講師 長賀
一 豆殴御寺 住持 講師 口賢
一 高御魂宮 宮司 僧 快範
と見え、八幡新宮(巌原八幡)も当地の高御魂も宮とあるのに、多久頭魂は豆酸御寺となっていて、宮司ではなく住持とある。当時は神仏習合とは言え仏が上位で、宮司もすべて僧であった。
これに講師(こうじ)とあるのは、仏典の講義をした僧官をいう。八幡宮以下宮司はすべて供僧(くぞう)〈社僧〉が就いた時代でも、宮を寺と呼んだのはこの外にないわけではないが、例は少ない。なお この豆殿御寺の初見は寛弘五年(1005)に初鋳したと銘記している現多久頭魂神社の鐘名に、
日本国管対馬島下県郡豆酘御寺前檀越正六位上権縁阿比留宿弥良家以去 寛弘五年八月二十八日鋳之畢 (後略)と刻銘があることで、これは対馬の阿比留氏に関する史料の初見として、よく知られた金石文だが、これは旧来の多久頭神社から酸豆(豆酸)卸寺となった記念物でもあるわけで、おそらくこの頃から、天道菩薩の信仰が始まったのではないかと考えられる。
元禄五年(一六九二)神道復古を進めた対馬藩では、神社に仕える社僧の還俗(げんぞく)を命じたが、これに「豆毅の供僧はこの限りにあらず」とあり、豆醗の旧慣は例外として温存された。
また『対州神社誌』が、天道神を神社の数に入れてないのは、仏と認識されていたからだ。この神と仏の二つの面を持った天童が、神に戻って、久頭魂の古名に復したのは明治維新後で、同七年に郷社となった。
多久頭魂神社 宮司 本石正久
境内案内書より
対馬の天道信仰の中心地に鎮座する 主要な神社について
対馬の南部・厳原町豆酘(ツツ)と北部・上県町佐護(サゴ)は 天道信仰の中心地とされます
豆酘(ツツ)には「多久頭魂神社」
佐護(サゴ)には「天神多久頭魂神社」が鎮座し
この両神社には ペアの様に天道法師の母神を祀る神社として 豆酘は「 高御魂神社」があり ここ佐護には「神御魂神社」が鎮座しています
「神御魂神社」以外の他の3社はすべて式内社です
・神御魂神社(対馬 佐護北里)
神御魂神社(かみむすびじんじゃ)は 対馬の北部・上県町 佐護に鎮座します 対馬の天道信仰の中心地とされる南部・厳原町 豆酘と ここ佐護は 対馬の南北での対称の地とされ 祀られている神社も対をなすように 豆酘には「多久頭魂神社」佐護には「天神多久頭魂神社」が鎮座し この両神社にもペアの様に天道法師の母神を祀る神社として 豆酘には「 高御魂神社」があり ここ佐護には当神社「神御魂神社」が鎮座しています かつては 赤米神事に深く関与し 司祭者がいたと伝わります 例祭は 旧3月3日です
神御魂神社(対馬 佐護北里)
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の3論社
①対馬の北部・上県町佐護「對馬嶋 上縣郡 天神多久頭多麻命神社」
・天神多久頭魂神社(対馬 佐護西里)
天神多久頭魂神社(あめのかみたくずたまじんじゃ)は 対馬固有の天道信仰の主要な神社です 天道信仰の中心地は 対馬島の南北対称の地〈・南部は厳原町 豆酘・北部は ここ佐護〉にあり 祭神「多久頭魂神」も 豆酘(ツツ)には「多久頭魂神社」が 佐護(サゴ)には「天神多久頭魂神社」が対をなし鎮座します 更に この両神社には 天道法師の母神を祀る神社として 豆酘は「 高御魂神社」 ここ佐護には「神御魂神社」が鎮座します 対馬固有の「天道信仰」は 天童法師という超人の伝承を中心として・霊山崇拝・穀霊崇拝・太陽信仰・母子神信仰・修験道・古神道などさまざまな要素が絡み合い形成されているようです
天神多久頭魂神社(対馬 佐護西里)対馬固有の天道信仰の主要な神社
②対馬の南部・厳原町豆酘「對馬嶋下縣郡 多久頭神社」
・多久頭魂神社(対馬 豆酘)
多久頭魂神社(たくづだまじんじゃ)は 天神地祇を祀る神体山「龍良山」の遥拝所〈豆酘の里人が遠くからお祈りをする処〉で 古くは『延喜式神名帳』所載の由緒ある古社です 平安期より 神仏習合時して 対馬特有の天道信仰の中心地でした 中世以降は 豆殴御寺と称しましたが 明治に現社号に復しています しかし 境内には未だに神仏混合の名残りがあり 社殿も旧観音堂を使用しています
多久頭魂神社(対馬 豆酘)対馬特有の天道信仰の中心地
③対馬の南部・厳原町豆酘「對馬嶋下縣郡 高御魂神社 名神大」
・高御魂神社(対馬 豆酘)
高御魂神社(たかみむすびじんじゃ)は『日本書記』顕宗天皇3年条に「対馬の日神の託宣(タクセン)により 高皇産霊神に磐余(イワレ)の田14町を献上し その祠官として対馬下縣直がつかえた」という記載があり 『延喜式』の名神大社として大変立派な由緒を持つ古社です 元々は 豆殿浦の東側の海岸に鎮座しましたが 昭和32年(1957)豆酘中学校の建設により 現在の多久頭魂神杜の境内に遷座しました
高御魂神社(対馬 豆酘)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
厳原フェリー港から 県道24号から192号 経由 約22km 車35分程度
赤米の頭受け神事(アカゴメノトウウケジンジ)
〈豆酘の祭祀習俗の中でも 赤米を神として祀る行事として有名です この世話役(頭)の新旧交替の儀式を「頭受け」といい 毎年旧暦1月10日の深夜に多久頭魂(タクズタマ)神社にて行われて 御神体〈赤米〉が前年の頭主の家から次の頭主の家へと「神渡り」する 豊作を祈願する「受取り渡し」の儀式が行われます〉
https://www.city.tsushima.nagasaki.jp/material/files/group/3/2.pdf
この赤米の神田の前を通ります
多久頭魂神社(Takuzudama Shrine)に参着
一礼をして 石鳥居をくぐります
境内は 奥深くまで続いています 境内案内図が設置されていますのでご覧ください
一の鳥居の台座の横に石が置かれていて 塩 蝋燭の跡 小石が円状に置かれていて賽銭入れが置かれています 奥深い境内ですので 鳥居からお詣りをされる方々のために設置しているのでしょうか
一の鳥居をくぐると木製の鳥居が連なっていて 左手には 薄い石を積み上げて石垣にしてある 梵鐘(国指定重要文化財)があります 神仏習合の名残りが根強く残っています
多久頭魂神社梵鐘
国指定重要文化財・彫刻 昭和50年6月12日指定神仏習合時代の遺産で、総高98.5cm、火焔宝珠の竜頭に、鐘身は上帯無衣、下帯は唐草文 乳を四段四列に配し、池の間に刻銘がある。
この銘文により、寛弘5年(1008)初鋳。仁平3年(1153)改鋳。更に康永3年(1344)改鋳が知られる。
また対馬の古族阿比留氏の名が見えるなど、史料として貴重な金石文である。尚、竜頭の造形に肥前鐘の特徴が指摘される。
厳原町教育委員会
右手には 手水舎があり 清めます
手水舎から右手に参道が延びていて こちらには 式内社の名神大社「對馬嶋下縣郡 高御魂神社 名神大」が鎮座しています
・高御魂神社(対馬 豆酘)
高御魂神社(たかみむすびじんじゃ)は『日本書記』顕宗天皇3年条に「対馬の日神の託宣(タクセン)により 高皇産霊神に磐余(イワレ)の田14町を献上し その祠官として対馬下縣直がつかえた」という記載があり 『延喜式』の名神大社として大変立派な由緒を持つ古社です 元々は 豆殿浦の東側の海岸に鎮座しましたが 昭和32年(1957)豆酘中学校の建設により 現在の多久頭魂神杜の境内に遷座しました
高御魂神社(対馬 豆酘)
多久頭魂神社の参道を進み 右手には 神功皇后(ジングウコウゴウ)の行宮(アングウ)趾と伝わる
・神住居神社(対馬 豆酘)
内々神社(うつつじんじゃ)は 創建について 日本武尊が東征を終えて尾張國境の内津峠まで戻ると 副将軍 建稲種命(たけいなだねのみこと)の従者 久米八腹(くめのやはら)が早馬で駆けつけ 副将軍が駿河の海で水死されたと報告を受けた 尊は悲泣して「ああ現哉(うつつかな)々々」と嘆き その霊を祀られたので「うつつ」と云う
内々神社(春日井市内津町上町)〈日本武尊 東征の副将軍 建稻種命を祀る〉
さらに 三の鳥居扁額には「多久頭魂神社」と刻まれ その後ろには神門が建っています
神門をくぐると 左手に
・国本神社《主》伽藍神(ガランノカミ)・神庫・・下宮神社《主》豊姫命(トヨヒメノミコト)と並んで鎮座します
社殿の手前の右側には「橘(タチバナ)」が植えられています
橘(たちばな)
古代人は 非時(ときじく)の香菓(かぐのみ)といって珍重して味わった果物である
田道間守(たじまのもり)という人が 垂仁天皇の命をうけて中国に渡り 非時(ときじく)の香菓(かぐのみ)を求めて翌年帰つみれば 天皇はなくなっていられた。天皇のお墓に 非時(ときじく)の香菓(かぐのみ)を供え 泣き伏して死んだという物語がある 厳原町自然と文化を守る会説明書きより
田道間守(たじまのもり)は 中国からの帰路 この地に立ち寄ったのでしょうか
拝殿は 神仏習合時の観音堂のお堂ですので 神社らしくはありませんが 独特の雰囲気を醸し出しています
拝殿にすすみます 拝殿の内部正面には 「年中祭祀」が張り出されています
かつての観音堂ですので 本尊の周りを廻り廊下が囲んでいます
塩と酒「白嶽」が捧げられています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿の脇から裏手は「不入坪(イラヌツボ)」と呼ばれて 立ち入りが出来ません 天然記念物の御神木「大楠」を見るだけで圧倒されます
大楠のすぐ脇には・五王神社《主》素盞男命(スサノヲノミコト)
大楠の裏手から 社殿を眺め 一礼をします
参道を戻ります 鳥居を抜けて 振り返り一礼をします
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『続日本後紀(shoku nihon koki)』貞観11年(869)に記される伝承
遣唐使の祈りを捧げた2月に 対馬の神々(上縣・下縣)とともに 神階無位から昇叙が記されています
【意訳】
承和4年(837)2月甲午朔 戊戌の条
伯耆国(ホウキノクニ)川村郡 无〈無〉位 伯耆神 大山神 国坂神
及び
對馬嶋(ツシマノシマ)の
上縣郡(カミツアガタ)の 无〈無〉位
和多都美神(ワタツミノカミ)
胡簶御子神(ヤナクイノミコノカミ)下縣郡(シモツアガタ)の无〈無〉位
高御魂住吉神(タカミムスミスミヨシノカミ)
和多都美神(ワタツミノカミ)
多久都神(タクツノカミ)
大調神(ヲオツキノカミ)
並びに 奉(たてまつ)り 従5位下 を授(サズ)く
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『続日本後紀』(869)貞観11年完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047680&ID=&TYPE=&NO=
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)』延喜元年(901年)成立 に記される伝承
對馬嶋(上縣・下縣)の式内社の神々とともに 神階の昇叙が記されています
多久都神(タクツノカミ)と記され 対馬では最上位です
【意訳】
貞観12年(870)3月5日 丁巳の条
詔(ミコトノリ)を授(サズ)くに
對馬嶋(ツシマノシマ)の
正5位上 多久都神(タクツノカミ)に 従4位下
従5位上
和多都美神(ワタツミノカミ)
胡簶神(コロクノカミ)
御子神(ミコノカミ)
嶋大國魂上(シマオオクニタマノカミ)
高御魂神(タカミタマノカミ)
住吉神(スミヨシノカミ)
和多都美神(ワタツミノカミ)
太祝詞上(フトノリトノカミ)
平神(タイラノカミ)
並びに 正5位下大吉刀神(オオヨシカタナノカミ)
天諸羽神(アマノモロハノカミ)
天多久都麻神(アマノタクツマノカミ)
宇努神(ウノノカミ)
吉刀神(キトノカミ)
小枚宿祢神(ヲヒラノスクネノカミ)
行相神(ユキアイノカミ)
奈蘇上金子神(ナソカミカネコノカミ)
嶋御子神(シマミコノカミ)
国本神(クニモトノカミ)
銀山神(カナヤマノカミ)
和多都美神(ワタツミノカミ)
敷嶋神(シキシマノカミ)
並びに 従5位上
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス
『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』(文化10年(1813年)成稿)に記される伝承
日本書紀の天智天皇紀が 抜粋されていますが 秦造田来律(ハタノミヤツコタクツ)の田来津(タクツ)との関連を知らせているのでしょうか
【意訳】
多久頭(タクツノ)神社
神位
承和4年(837)2月甲午朔 戊戌の条・・従5位下
貞観12年(870)3月5日 丁巳の条・・従4位下天智紀 注 云大山下の狭井連檳榔(サイノムラジアジマサ)小山下の秦造田来律(ハタノミヤツコタクツ)を遣わし 百済を守護した
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用
『神社覈録(Jinja Kakuroku)』明治3年(1870年)に記される伝承
【意訳】
多久頭魂神社
多久頭は暇字也 魂は多麻と訓べし
〇祭神明か也
〇豆酸郷豆酸村に在す 古蹟集 玉勝間 今悠紀宮と称す 玉勝間
〇当国 上縣郡 天神多久頭多麻命神社 連胤云 当社を悠紀宮と称し 上縣郡なるを主基宮と称する事 故あるべし、委しく聞まほし
〇古蹟集には ・悠紀宮・主基宮といはず 中古より州俗天道社 または天神社と称す 是 州旧古の社にて 神代の社制を存し 神籬盤坂の社境あり
一ノ塔二ノ塔と號すと云へり神位
続日本後紀・・承和4年(837)2月甲午朔 戊戌の条・・從五位下
三代實録・・貞観12年(870)3月5日 丁巳の条・・従4位下
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』明治9年(1876)完成 に記される内容
御祭神を 多久都玉命に間違いないと記しています
【意訳】
多久頭魂神社
祭神 多久都玉命
今 按〈考えるに〉
本社の由緒に 神武天皇の御代に天神地祇を祀りたまう処なり 又 神功皇后が 三韓に向かいたまうとき諸神を拝したまいし神社なりと見え
式内社記に 祭神 天津神国津神とあれど信じがたし 式に神名を挙げて 多久頭魂神とあるを神名という事を知らずかる説を云い出たものなるべし
この神は 新撰姓氏録瓜工連の條に 神魂命子 多久都玉命とある 同神なること著しい神位 仁明天皇 承和4年(837)2月甲午朔 戊戌の条・・從五位下
清和天皇 貞観12年(870)3月5日 丁巳の条・・従4位下祭日 10月18日
社格 郷社
所在 豆酘上村 字 龍良山
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)』明治45年(1912)に記される伝承
【意訳】
郷社 多久頭魂神社
祭神
天照大御神(アマテラスオホミカミ)
邇々杵命(ニニギノミコト)
火々出見命(ホホデミノミコト)
葺不合命(フキアヘズノミコト)
天之忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)神武天皇の御字、津島縣直 建彌巳命に勅して 天神地祇を祀せられたまひし処にして、やがて其処に社を建てられしものにて、
神功皇后 三韓に向ひたまはんとせし時にも、此処にて諸神を祭らせたまひきと口碑にも伝ふ、
神名帳考証に、「多久頭神社、拷幡千々姫命、頭與千音通、非神魂命子多久豆玉命」とあり、
神社覈録には、「多久頭は暇字也、魂は多麻と訓べし、祭神明か也、豆酸郷豆酸村に在す、今悠紀宮と称す、当國上縣郡天神多久頭多麻命神社、連胤云、当社を悠紀宮と称し、上縣郡なるを主基宮と称する事、故あるべし、委しく聞まほし、
古蹟集には、悠紀宮、主基宮といはず、中古より州俗天道社、または天神社と称す、是州旧古の社にて神代の社制を存し、神籬盤坂の社境あり、一ノ塔二ノ塔と號すと云へり、
神位
続日本後紀、承和4年2月戊戌、対馬島下縣郡無位多久都神奉授從五位下
三代實録、貞観12年3月5日丁巳、授対馬島正五位上多久都神從四位下」と見え、
神祇志料には、「今豆酸上村龍良山に在り、悠紀宮と云ふ」とあり
地名辞書、龍良山の條に、「山中に延喜式、多久頭神社あり、土俗悠紀宮と称す、続後紀、承和4年授位の小祀とす、蓋姓氏録神魂命の子、天多久豆玉命を祭るとそ」と載せたり、
又 太宰管内志に「多久頭神社、延喜式に、下縣郡多久頭神社あり、多久頭は他倶豆とよむべし、御名の義いまだ考へず(上縣郡に多久頭麻神あり、似たる名なるかし、しひていはば、出雲國拷(タク)島などの如く、拷津にはあらぬか、なほよく考ふべし)、
さて 続後紀六巻に、承和4年2月戊戌、対馬島下縣郡無位多久都神奉授從五位下、三代實録十七巻に、貞観12年3月5日(丁巳)、詔授対馬島正五位上多久都神從四位下などあり(正五位上を授け玉へる事は史にももれたるなるべし)、
玉勝間に、下縣郡多久頭魂神社は豆酸郷豆酸村にあり、神階從四位上 悠紀宮とも申す、又対馬國に、下縣郡多久頭神社は、高皇産霊尊の御子神を祭る、今豆酸郷豆酸村にあり」と見ゆ、合せ考ふべし、仁明天皇承和4年2月、無位多久頭神に從五位下を授け、
清和天皇貞観12年3月、從四位下を授けたまひ、
醍醐天皇延喜の制小社に列せらる、
明治7年6月郷社に列す。
別に神殿を設けず、御山龍良山と號すを以て神体となして之を祭る、
境内350坪(官有地第一種)あり、豆酸といふ所に遥拝所あり、寛文9年宗対馬守義真の改築にかかれり。例祭日 10月18日
【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用『明治神社誌料』
多久頭魂神社(Takuzudama Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています
對馬嶋 式内社 29座(大6座・小23座)について