竹田神社(たけだじんじゃ)は 製鉄の神 天目一箇命を祭神とし 鎮座地は゛鋳物師(いもじ)゛と呼ばれ 古代からの鋳造を行う工人たちの住地だと云う 社伝に 第10代 崇神天皇の御代 明神森の地に創祀 延暦6年(787)坂上田村麿が社殿を再造し 『延喜式』の 近江國 蒲生郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)であると云う
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
竹田神社(Takeda shrine)
【通称名(Common name)】
竹田大明神〈江戸時代の呼称〉
【鎮座地 (Location) 】
滋賀県東近江市鋳物師町1020
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天津彦根命(あまつひこねのみこと)
天目一箇命(あめのまひとつのみこと)
《配》大己貴命(おほなむちのみこと)
石凝姥命(いしこりどめのみこと)
大屋彦命(おほやひこのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・鍛冶 鋳物師等金属製品を扱う人達の祖神
・農耕をなす人の祖神
・開運繁栄、諸災難除け、方除け、火防、縁結び、安産の守護神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
竹田神社にお祀りしている神様
天津彦根命(あまつひこねのみこと)
天照皇大神の御子にあらせられ、国土を開拓し、農具を造り、農耕を教え給ひし神にましまして、蒲生稲置の祖神と崇め奉る。天目一箇命(あめのまひとつのみこと)
天津彦根命の御子にあらせられ、草薙の御剣を製造し給ひし神にましまして、日本鍛冶の祖神と崇め奉る。石凝姥命(いしこりどめのみこと)
神鏡、八咫鏡を鋳造し給ひし神にましまして、鋳物師の祖神と崇め奉る。大己貴命(おおなむちのみこと)
世に大黒、恵比寿と並び称えて、福の神と仰ぐ神にましまして、国土開発、産業振興、諸病を治め給ひ、又縁結びの神として崇め奉る。大屋彦命(おおやひこのみこと)
樹種を分播し、植樹し給ひし神にましまして、木材を扱い、家宅を建つる工匠等の崇め奉る神にまします。御由緒
当社は、第十代崇神天皇の七年、水穂真若王が勅を奉じて御創建遊ばされた二千年の古社にして、延喜式内の菅田神社は当社である。
成務天皇五年十月 蒲生稲置管掌の地は、東北の境は愛知川及伊勢地方、西は三上山から湖辺に及び、南は伊賀に至る地域であったという。三磨は蒲生稲置中興の祖であり、智勇兼備、其の徳近江に洽く、欽明天皇六年 綿向神社の社を造営し、推古天皇十五年二月 百七才にて帰幽す。生前の徳を仰ぎて祖神の座に配祀す。
天智天皇七年五月、天皇当社に太刀打神事を行はしめ給ひ、幣帛を奉り給ふ。当社からは祖神の造り給ひし剣一口、並に伝来の矛一本を献上せり。又藤原鎌足公の命により朝日山より日蔭蔓(ひかげかずら)を採り朝廷に献ず、これより御即位の大甞会ある毎に献納するを例となす。
桓武天皇の延暦十六年、坂上田村麿、当社に武運長久を祈り本殿を再建す。
寛仁元年三月、後一条天皇、当社社殿を今の地に造営し、ご遷宮の典を挙げさせられ、勅使藤原季忠を遣わし幣帛を奉り給ふ。
御冷泉天皇の天喜四年 大神主頼俊、野部勘六に鋳物師統領職の綸旨(りんじ)を給ひ、大日本鍛治鋳物師の統領になる。
元暦元年 源頼朝 当社に使者を遣はし武運を祈る。
後鳥羽上皇、当社に御参寵あそばされ、野部、増倉と共に刀を打たせ給ひ、
「今もなほみわざならひて剣太刀 打つべき人の祈る神垣」 と御製を献じ給う。
康水三甲申年 足利尊氏石灯灯籠を寄進す。
文亀三年 兵燹(へいせん)に罹り、拝殿、回廊、宝庫炎上したるにより、蒲生貞秀(智閑)再建す。又 不思議の神助ありとて神田を寄進す。
以来 蒲生家代々の崇敬厚く、天文十一年 蒲生下野守賢秀本殿を再建し、天正二年 蒲生氏郷、神領百五十石並、狛犬一対を寄進す。天正年間、豊臣秀吉当社に参拝し、神能を奉献す、現在当社に伝ふる「菅田」の能これなり。慶長六年二月 豊前小倉の藩士 伴治左衛門 当社に参拝し、祭り資料を寄進し古式の祭事を復興す。
後水尾天皇宝永二年二月二十八日正一位の宣旨あり。
領主市橋家より氏神として崇敬殊のほか厚く、毎年一月、四月に領主の参拝あり、月々には家臣をして代参せしめ祭資料を奉れり。
当社の古文書の多くは文亀三年の兵燹により焼滅したるも、古来皇室、並びに武将の信仰篤きのみならず、広く世人の信仰をあつめ、鍛冶、鋳物師等金属製品を扱う人達の祖神として、又農耕をなす人の祖神として崇敬するの他、古くより開運繁栄、諸災難除け、方除け、火防、縁結び、安産の守護神として信仰する者多く、御神徳いやちこにして、霊験を顕はし給ふこと、あたかも響の音に応ふるがごとく、いとも尊き神にてましますなり。
末社
杼原神社・小姫神社・伊沙雄志神社・石原神社・田村神社拝殿の案内紙より
由緒
人皇代十代崇神天皇の七年(皇、570 西前、91)水穂真若王が勅を奉じて御創建遊ばされた2千年の古社にして、延喜式内の菅田神社は当社である。
成務天皇五年十月(皇、795 西、135)蒲生稲置管掌の地は、東北の境は愛知川及伊勢地方、西は三上山から湖辺に及び、南は伊賀に至る地域であったと云ふ。三磨は蒲生稲置中興の祖であり、智勇兼備、其の徳近江に洽く、欽明天皇(皇、1205 西、545)綿向神社の祠宇を造営し、推古天皇15年2月107才にて帰幽す。生前の徳を仰ぎて祖神の座に配祀す。
天智天皇7年5月(皇、1326 西、666)天皇当社に太刀打神事を行はしめ給ひ、幣帛を奉り給ふ。当社からは祖神の造り給ひし剣一口、並に伝来の矛一本を献上せり。又藤原鎌足公の命により朝日山より日陰蔓を採り朝廷に献ず、これより御即位の大甞会ある毎に献納するを例となす。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【由 緒 (History)】
竹田神社 (タケダ)
御祭神 天津彦根命
天目一箇命〔配祀神〕大己貴命 石凝姥命 大屋彦命
御神紋 左三ツ巴
御由緒
社伝によれば、崇神天皇の御代 明神森の地に創祀し、延暦6年 坂上田村麿社殿を再造す、延喜式内の菅田神社は当社であるという。
寛仁元年今の地に移し 地名 竹田により竹田神社と改める。
天目一箇命を奉斎するのは 古へ毎年9月19日の祭目に稲60穂を伊勢の多度神社に送るならわしがあり、同神の分祀であることを語る古例である。
境内に古い石燈籠一基あり康永3年甲申云々と刻するもので、足利尊氏の寄進と伝へている。文亀3年の乱、兵燹に罹り社頭炎上し蒲生賢秀が再建をする。爾来 蒲生家代々の崇敬厚く、天正2年 蒲生賢秀は神田及び狛犬一対を奉納する。
祭礼は4月15日、又祭事として1月15日卜田神事、4月5日田植神事、9月1日稲寸神事、11月8日太刀打神事等あり、豊臣秀吉の時、神能を奉献し「竹田の神能」と称し爾来相伝する。
明治32年「菅田」と改称する。
慶長6年豊前小倉の藩士伴治左衛門が当社の祭礼の衰退するのをおしみ金一両を寄進する。祭供料と爾後例年奉納する。
宝永2年2月吉田の卜部家より正一位の宗源宣旨を受く、明治9年村社に列す、同42年神饌幣帛料供進指定。本殿・境内建物
〔本 殿〕日吉造 間口二間三尺 奥行二間三尺
〔拝 殿〕入母屋造 間口二間三尺 奥行二間三尺
〔その他〕境内社(摂社・末社)
小姫神社 杼原神社 伊沙雄志神社
(境外)石原神社 田村神社
竹田神社(たけだじんじゃ)
竹田神社と円林寺の一帯地域は鎌倉時代から室町時代にかけての日野谷の領主蒲生(かもう)氏の居城 小谷(こだに)山城の城域といわれている。その頃にほど近い鋳物師(いもじ)村の竹田大明神を勧請したのが創建と考えられる。室町時代中期蒲生氏の本城が音羽城へ移された以降は、蒲生氏の分家であった小谷氏を中心とした村人達が、村の鎮守社として崇敬護持をしてきた。明治の末年にこの付近一帯が蚊屋野(かのや)公園として整備されて遊客でにぎわった。
日野観光協会・必佐公民館現地案内板より
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・竹田神社 社殿〈拝殿・神門・本殿 向かって左 能舞台〉
・竹田神社 本殿・神門
・竹田神社 拝殿
・竹田神社 能舞台
東近江市指定文化財 竹田神社能舞台(たけだじんじゃ のうぶたい)
この能舞台は、明治二十六年(1893)に鋳物師の竹村猪八郎が、豊臣秀吉の時代に奉納された「竹田の神能」にちなんで寄進したもので、明治から大正にかけて盛んに演能された。
建物は、主に舞台棟・橋掛かり・鏡の間棟からなる。
舞台棟は、方一間(五.二メートル四方)、切妻造、桟瓦葺で、西背面に下屋を付け、後座と溜の間およびその背面に武者走りを設け、北側面の軒下を脇座としている。後座と溜の間を仕切る板壁には若松が、脇座と溜の間を仕切る板壁には太い竹が描かれている。橋掛かり・鏡の間は舞台と直角に取り付いており、桁行の柱間が三間(八.一メートル)、梁間(二.七メートル)、切妻造、桟瓦葺である。
この能舞台は橋掛かりが略式で、鏡の間も狭く、やや簡素な造りであるが、基本的な形式に基づいて造られており、また、県内に現存する能舞台も少なく希少的価値も高い。
東近江市教育委員会
現地立札より
・〈本殿向かって右横 境内社〉杼原神社《主》猿田彦命,天宇受売命
・〈境内向かって右手 境内社〉小姫神社《主》呉姫
小姫神社
中国の呉の国から来て機織(はたおり)を広めた呉姫(くれひめ)を祀る
・〈境内の南 境内社〉伊沙雄志神社《主》護国の英霊
・三の鳥居
・二の鳥居
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・竹田神社 一の鳥居
〈境外社〉・石原神社《主》速須佐之男命・田村神社《主》坂上田村麿
・多度大社への遥拝所(竹田神社の南にあったと伝わる)
多度大社は この地から西方向にあるので 西向きであったと思える 境内にあったのか?
(社傅に當村の北に字菅田あり 往古 稻寸の舊地と云)
※鋳物師村 字菅田は 現在の朝日野駅のすぐ北辺りです
竹田神社 社伝には 天目一箇命を奉斎するのは「古へ毎年9月19日の祭目に稲60穂を伊勢の多度神社に送るならわしあり」と伝え 同神の分祀であることを語ると伝う
・多度大社(桑名市多度町多度)
延喜式内社 伊勢國 桑名郡 多度神社(名神大)(たとの かみのやしろ)
・多度大社(桑名市多度町多度)
〈本宮 多度神社・別宮 一目連神社〉
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)近江國 155座(大13座・小142座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)蒲生郡 11座(大1座・小10座)[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 菅田神社
[ふ り が な ](すかたの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Sukata no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
鍛冶の神゛天目一箇神(あめのまひとつのかみ)゛について
天目一箇神は 鍛冶の神とされ
『古事記』の岩戸隠れの段で鍛冶であった゛天津麻羅(あまつまら)゛と同神ともされ 別名も多く 天目一命(あまのひとつめのみこと)とも呼ばれます
神名の゛目一箇(まひとつ)゛とは 鍛冶師は 製鉄の時 片目をつぶり 鉄の色を見て温度を見た事によるとも 鍛冶の職業病として 鉄を打つ火の粉によって片目を失明する゛一つ目(片目)゛の意味であろうとされます
式内社 天目一箇神社(あめのまひとつのかみやしろ)の論社が 多くある「多可町」には ゛鍛冶屋(かじや)と云う 地名があるのも頷けます゛
゛天目一箇神(あめのまひとつのかみ)゛を祀る 播磨國の式内社について
播磨国は 古くから製鉄や鍛冶が行われていたと伝わり 鍛冶の神゛天目一箇神(あめのまひとつのかみ)゛を信仰する製鉄・鍛冶の拠点に祀られたと考えられます
①播磨國 佐用郡 天一神玉神社(貞)(あめのひとつかんたま かみのやしろ)
・天一神社(佐用町東徳久)
天一神社(てんいちじんじゃ)は 社伝には゛今より約二千年前(彌生時代)に創立 日本でも最古の神社で寶剣(銅剣)が御神體なるは天智記に「安置御宅」゛と記され 『六国史』天安元年(857)天一神に從五位下が奉授 その7日後に官社に列すと記され 『延喜式』播磨國 佐用郡 天一神玉神社(あめひとつかんだまの かみのやしろ)です
天一神社(佐用郡佐用町東徳久)〈播磨國風土記・六国史・延喜式に所載の社〉
②播磨國 多可郡 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)の論社
式内社 天目一神社は 江戸時代には所在不明となっていました
所在地が不明であった天目一神社について 明治以降に多可郡内の数カ村の神社が名のりを上げました
・天目一神社(西脇市大木町)
天目一神社(あめのまひとつじんじゃ/てんもくいちじんじゃ)は 天正八年(1580)兵火にあい記録類を失い 江戸時代には社地も不明でした 明治維新の後 当時 惣堂天王社のあったこの地を式内社 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)の跡地と定め 鎮守である平野神社も合祀され 大正12年(1923)復興されたものです
天目一神社・平野神社(西脇市大木町)〈天目一箇命を祀る古社〉
・青玉神社(多可町加美区鳥羽)
青玉神社(あおたまじんじゃ)は 伝承では 祭神の天戸間見命は 鍛冶の神 天目一箇命で 初め三国岳の山頂に祀られていた ある時 鳥羽(とりま)の村人が三国山に狩りに行くと 急に背中が重くなり不思議に思いながら下山した 村はずれで急に背中が軽くなり「背中に乗った神様が降りられた」として社を建てたのが現在の社地と云う
青玉神社(多可郡多可町加美区鳥羽)〈祭神の天戸間見命は 鍛冶の神 天目一箇命〉
・稲荷神社(多可町中区糀屋)
糀屋稲荷神社(こうじやいなりじんじゃ)は 創建は推古2年(594)に字「土井の後」に鎮座 天平時代 称徳天皇の崇敬厚く 慶雲3年(706)社殿の建立となり勅使を使わせられ 神託により天安元年(857)現在地に移ったと伝えられます 延喜式内社 播磨國 多可郡 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)の論社です
播州糀屋稲荷神社(多可郡多可町中区糀屋)〈創建は推古2年(594)〉
・天目一神社(多可町中区間子)
〈加都良神社 境内社〉
式内 天目一神社(多可郡多可町中区間子)は 式内社 加都良神社の境内摂社として祀られています 天目一命は 多可町内では他に 青玉神社(山寄上やまよりかみ) ・青玉神社(鳥羽とりま)・西宮神社(清水きよみず)で主祭神として 大歳金比羅神社(鍛冶屋かじや)・加都良神社(間子まこ)では 摂社として祀られています
式内 天目一神社(多可郡多可町中区間子)〈加都良神社の境内摂社〉
・荒田神社(多可町加美区的場)・天目一神社(的場 御田上)
荒田神社(あらたじんじゃ)は 社伝に゛孝謙天皇 天平勝寶元年(749)゛少彦名命゛が降臨し創建と云う 一方『播磨国風土記』〈霊亀元年(715)頃〉には゛天目一命゛と゛道主比賣命゛の伝承が語られ 延喜式内社 播磨國 多可郡 荒田神社(あらたの かみのやしろ)とも 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)とも云います
荒田神社(多可町加美区的場)〈播磨國二之宮〉
〈参考論社〉
・大歳金刀比羅神社(多可郡多可町中区鍛冶屋)〈境内摂社 天目一箇神社〉
大歳金刀比羅神社(おおとしこんぴらじんじゃ)は 往古は 鍛冶の神 天目一命(あまのまひとつのかみ)を奉祀したと推測され 現在も本殿相殿・境内摂社に天目一箇神(あめのまひとつのかみ)が祀られています 明治44年(1911)在来の大歳神社に〈摂社〉金刀比羅神社〈寛政6年(1794)讃岐琴平宮より勧請〉を合祀し 現社号に改称
大歳金刀比羅神社(多可郡多可町中区鍛冶屋)〈境内摂社 天目一箇神社〉
③播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)
『新撰姓氏録』に〈天目一箇神の別名〉天久斯麻比止都命(あめのくしまひとつのみこと)の後裔として「菅田首」があり 「菅田氏」が祖神を祀った神社とされています
・菅田神社(小野市菅田町)
菅田神社(すがたじんじゃ)は 鍛冶の神〈天目一箇神の別名〉天久斯麻比止都命(あめのくしまひとつのみこと)の後裔とされる「菅田(すがたの)首(おびと)」が祀った神社と云われ 延喜式内社 播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)とされます その後 加古川流域には住吉信仰が広まり当社にも住吉神が祀られていきました
菅田神社(小野市菅田町)〈鍛冶の神〈天目一箇神の別名〉天久斯麻比止都命を祀る〉
・住吉神社(小野市中番町)
住吉神社(すみよしじんじゃ)は 「菅田首(すがたのおびと)」が祀ったとされる 延喜式内社 播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)が分祀し 保安年間(1120~1123)今の地へ遷座したものとされます その後 加古川流域には住吉信仰が広まり 住吉大社の神領として 住吉三神を配祀し 住吉神社と改称されています
住吉神社(小野市中番町)〈延喜式内社 菅田神社(すかたの かみのやしろ)〉
・山王神社(加東市厚利)
山王神社(さんのうじんじゃ)は 延喜式内社 播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)の論社である・菅田神社(小野市菅田町)・住吉神社(小野市中番町)は 東條川を挟んで その南北の岸に祀られています 同じく論社とされる当社は そこから東條川を上流に向かって4km程遡った辺りの北岸に鎮座しています
山王神社(加東市厚利)〈延喜式内社 菅田神社の論社〉
・八坂神社(小野市中番町)
八坂神社(小野市中番町)は 当地方に゛天目一箇神゛を祖神とする菅田族〈砂鉄を採集して武器 農具を作成〉が祀った延喜式内社 播磨國 賀茂郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)とされ やがて農業に転換した里人は 農地に適した現在地〈その後 住吉大社神領となる〉に移住 神社も保安年間(1120~1123年)住吉三神を合祀し移転したと云う
八坂神社(小野市中番町)〈゛天目一箇神゛を祖神とする菅田族の祭祀した神社〉
「菅田氏」が居住し 祖神を祀った式内社 菅田神社について
菅田神社(小野市菅田町)と同様に 祖神 天目一箇神を祀る式内社
菅田(すがたの)首(おびと)の一族は 大和国添上郡筒井郷(現在大和郡山市)と近江国蒲生郡桐原郷でも鍛冶を営んでいたとされ この両郡には 式内社の菅田神社が建立されています
菅田神社と号されるのは どちらも 菅田首が 播磨国加茂郡(のちの加東郡)東条の菅田を発祥地としたからであるとの説もあります
『新撰姓氏録』(しんせんしょうじろく)815年(弘仁6年)には 「菅田首 天久斯麻比止都命之後也」とあり この゛天久斯麻比止都命゛は 天目一箇命と同神とされています
延喜式内社 大和國 添下郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)の論社
・菅田神社(大和郡山市八条町)〈全国 鍛冶の神の総社〉
菅田神社(すがたじんじゃ)は 古代 製鉄・鍛冶を営んだ菅田首(すがたのおびと)が 『新撰姓氏録〈弘仁6年(815)〉』に載る祖神「菅田首 天久斯麻比止都命之後也」を祀ったとされます この祖神゛天久斯麻比止都命(あめのくしまひとつのみこと)゛は 鍛冶の神゛天目一箇神(あめのまひとつのかみ)゛と同神とされます
菅田神社(大和郡山市八條町)〈製鉄の神 天目一命を祀る 延喜式内社〉
延喜式内社 近江國 蒲生郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)の論社
・菅田神社(近江八幡市中小森町)
菅田神社(すげたじんじゃ)は 御祭神は 天津日子根命の御子で 鍛冶屋の祖とも伝えられている天目一命(あめのまひとつのみこと)です 古代には この子孫である蒲生稲置や菅田首が 祖神〈天目一命〉を祀り 蒲生平野一帯を治めていたとされます 延喜式内社 近江國 蒲生郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)の論社です
菅田神社(近江八幡市中小森町)〈菅田首が 祖神〈天目一命〉を祀る 延喜式内社〉
・竹田神社(東近江市鋳物師町竹田)
竹田神社(たけだじんじゃ)は 製鉄の神 天目一箇命を祭神とし 鎮座地は゛鋳物師(いもじ)゛と呼ばれ 古代からの鋳造を行う工人たちの住地だと云う 社伝に 第10代 崇神天皇の御代 明神森の地に創祀 延暦6年(787)坂上田村麿が社殿を再造し 『延喜式』の 近江國 蒲生郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)であると云う
竹田神社(東近江市鋳物師町竹田)〈製鉄の神 天目一箇命を祭神とする延喜式内社〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
近江鉄道 水口・蒲生線 朝日野駅の東 約300m 徒歩4分程度
参道入口には 北を向いて鳥居が建っています
竹田神社(東近江市鋳物師町竹田)に参着
社頭の鳥居は 南西を向いて建ち 参道はU字を描くように進んで行くと 境内 社殿は南向きとなっています
境内の中ほどに 禊橋のような小さな石橋があり この橋を渡るというか 一礼をして跨いで 正面の拝殿にすすみます
小さな石橋を渡ると 境内が開けていて
正面に拝殿 向かって右手が能舞台 右手が社務所です
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
神門には 神社拝詞 が置かれています
御祭神に 拝詞を唱えます
社殿に一礼をして 南を向いている境内から 北へ向かう参道入口までのU字を描く 参道を戻ります
鳥居の先〈西南西の方向〉に 富士山のように美しい山が見えています
近江富士で知られる三上山です 別名を百足山とも呼ばれ 式内社 御上神社が鎮座し 天之御影神を祀っています 天之御影神の父神は 天津彦根命です
当社 竹田神社も御祭神は 天津彦根命とその御子神 天目一箇命〈製鉄の神〉で 御上神社とは同系列の神を祀ります
〈古代 蒲生稲置管掌の地は 北の境は愛知川及伊勢地方 西は三上山から湖辺に及び 南は伊賀に至る地域であったと云ふ〉
竹田神社の鎮座地名の鋳物師(いもじ)は 古代からの鋳造を行う工人たちの住地にちなむものだとされています
一方 三上山の式内社 御上神社にも 製鉄に関わる事が知られていて 竹田神社とは 非常に近い関係にあるとされます
式内社 御上神社については 別記事を参照ください
延喜式内社 近江國 野洲郡 御上神社 名神大
・御上神社 奥宮(三上山の頂上)
・御上神社(野洲市三上)
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 菅田神社について 所在は゛在所詳ならず゛〈所在不明〉と記しています
【抜粋意訳】
菅田神社
菅田は須賀太と訓べし、和名抄、〔郷名部〕篠田、〔篠は菅の誤なるべし〕
○祭神 菅田首祖神歟
○在所詳ならず
姓氏録、〔山城國神別〕菅田首、天久斯麻比土都命之後也、
類社 (缺く)
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 菅田神社について 所在は゛今 桐原村にあり、゛〈現 竹田神社(東近江市鋳物師町竹田)〉と記しています
゛按 桐原村、今 鋳物師村と云゛とあり 当時から鋳物師の村と呼ばれていたようです
祭神については゛天津日子根命の子 天麻此止都命を祀る、即 菅田首 蒲生稲置の祖神也゛としています
【抜粋意訳】
菅田(スガタノ)神社
今 桐原村にあり、〔神名帳考証、滋賀縣注進狀、〕
〔〇按 桐原村、今 鋳物師村と云、村北に字菅田あり、古へ稲置の舊地と云、〕盖 天津日子根命の子 天麻此止都命を祀る、即 菅田首 蒲生稲置の祖神也〔参取氏新撰姓氏錄古事記〕
凡 毎年九月十九日祭を行ふ、此日 稲置の稲六十穂を伊勢多度神社に送るを例とす、〔滋賀縣注進狀〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 菅田神社について 所在は゛鋳物師村〔舊名 桐原ノ郷〕゛〈現 竹田神社(東近江市鋳物師町竹田)〉と記しています
゛稻置の稲六十穗を伊勢國多度神社へ送るを稻置の古事゛とあり゛多度神社は天津彦根命にませば 其ノ神緣を以て 稻穂を奉る古例ありしなるべければ 此 社傳を證とすべし゛ としています
又 ゛而るに小森村にも菅田ノ神社ありと云へど 祭神も大己貴命など云傳へて疑しければとらず゛〈現 菅田神社(近江八幡市中小森町)〉は 論社としないと記しています
【抜粋意訳】
菅田(スカタノ)神社
祭神 天津日子根ノ命
今按 新撰姓氏錄 菅田ノ首 天ノ久斯麻比止都命の之後也とみえ 桑各ノ首 天津彦根ノ命の男 天久之比乃命之後也とあるを思ふに 社傳に祭神 活津彦根命と云るは 御兄弟の御名の同じきによりて 誤れるものなるべく 實は菅田ノ首の祖 天久斯麻比止都命を主として 御父神を相殿に祭りけんより 御父神の御名のみ傳はりしなるべし さて本社の祭神 麻比止都ノ命なる時は 御父子の神緣によりて 次に記せる祭事もあること明かに聞ゆる也 されど姑く社傳によりて活津を天津と訂せり
祭日 四月中申日
社格 村社所在 鋳物師村〔舊名 桐原ノ郷〕
今按 社傅に當村の北に字菅田あり 往古 稻寸の舊地と云 又九月十九日の祭事に 當社稻置の稲六十穗を伊勢國多度神社へ送るを稻置の古事とす 今は其事止たれど 稻穂を多度の社の方へ奉るのみにて 社の南に多度の拜所ありとみえたる 多度神社は天津彦根命にませば 其ノ神緣を以て 稻穂を奉る古例ありしなるべければ 此 社傳を證とすべし 故今之に從ふ
而るに小森村にも菅田ノ神社ありと云へど 祭神も大己貴命など云傳へて疑しければとらず
【原文参照】
竹田神社(東近江市鋳物師町竹田)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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近江国(おうみのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 近江国には 式内社 155座(大13座・小142座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
近江國 式内社 155座(大13座・小142座)について