多度大社(たどたいしゃ)は 古代 社殿背後の多度山を神体山とし 数多の磐座・御神石があり 創祀は神代に遡ると推測されています 社伝では 雄略天皇の御代〈五世紀〉の創建と伝えます 『六国史』には 神階の奉授・官社列したことが記され 『延喜式』には 伊勢國 桑名郡 多度神社(名神大)(たとの かみのやしろ)と所載があります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
多度神社(Tado shrine)
【通称名(Common name)】
・多度大社(Tado taisha)
・多度両宮〈本宮と別宮を合わせ〉
・北伊勢大神宮〈北伊勢地方の総鎮守〉
【鎮座地 (Location) 】
三重県桑名市多度町多度1681
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
〈本宮 多度神社〉
《主》天津彦根命(あまつひこねのみこと)
《相殿》面足命(おもだるのみこと)
惶根命(かしこねのみこと)
〈別宮 一目連神社〉
《主》天目一箇命(あめのまひとつのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 旧 国幣大社
・ 神社本庁 別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
歴史年表
・五世紀後半
雄略天皇の御代に御社殿創建
・奈良時代
天平宝字7年 (763) 満願禅師阿弥陀仏を祀る.多度神の託宣がある
宝亀11年 (780) 多度神宮寺三重塔建立
延暦元年 (782) 神階従五位下が授けられる
・平安時代
延暦20年 (801) 「多度神宮寺伽藍縁起併資財帳」撰進
承和11年 (844) 神階従四位下に進む
嘉祥2年 (849) 多度太神宮と「続日本後紀」に記される
嘉祥3年 (850) 多度神社、官社に列す
貞観元年 (859) 朝廷より神位記、財宝が奉られる。神階従二位に進む
貞観5年 (863) 神階正二位に進む
仁和3年 (887) 朝廷より幣帛が奉られる。
延長5年 (927) 「延喜式」に多度神社 名神大。
また同書に多度神宮寺を伊勢国准国分寺に列すると記される・平安時代後半
この頃銅鏡三十面〈当大社蔵〉が造られる
寛仁元年 (1017) 後一条天皇の即位に際し、御一代一度の大神宝使が派遣された
・鎌倉時代
弘長元年 (1261) 神階正一位に進む
・南北朝時代
暦応年間 多度祭上げ馬神事、この頃より始まる
【由 緒 (History)】
由緒
本宮 多度神社 天津彦根命
別宮 一目連神社 天目一箇命
古来より標高403メートルの多度山が、神体山として信仰され、古代祭祀を物語る磐座が山の中腹に存する。
社伝によると5世紀後半、雄略天皇の御代に社殿が創建されたと伝えられる。『延喜式』巻九神名帳の桑名郡15座のうち「多度神社 名神大」とみえ、いわゆる延喜名神大社である。
後一条天皇の御代に、東海道6社の1社にかぞえられ、天皇即位後の御一代一度の奉幣に預る神社として大神宝使が派遣され、宣命・幣帛・神宝が奉られ朝廷の厚い崇敬を受けた。
奈良時代末期に、満願禅師が多度神の託宣を受け、天平宝字7年(763) に多度菩薩を中心とした三重塔2基・法堂・僧房からなる神宮寺(日本で三番目)を建立した。後に国分寺に準ずる扱いをうけ、寺院70房・僧侶300余を数える大寺院となった。
さらに、鎌倉時代の弘長元年(1261)には正一位が授けられ、南北朝時代の暦応年間には多度祭の上げ馬・流鏑馬神事が始まったと伝えられる。
しかし、元亀2年(1571)に織田信長の兵火にかかり、社殿宝物をはじめ神宮寺も焼失し、一時社頭は荒廃したが、徳川氏が天下を治め平和な世となるとともに、桑名藩主本多忠勝・忠政の支援により本殿以下の社殿・神事が復興された。
桑名藩主が松平家に替わった後も、桑名地方の守護神として厚く崇敬され、社殿の造営・社領の寄進が度々行なわれ、藩例として毎月正月には藩士が代参する習しであった。
また、当代の庶民の伊勢参宮の折りには、北伊勢大神宮とも称される当神社を必ず参拝した事が「お伊勢まいらば、お多度もかけよ、お多度かけねば片参り」と謡れていたことからも明らかである。
明治6年に県社、大正4年には国幣大社に列格し、天皇・皇后両陛下よりもたびたび幣饌料が供せられ御神威はいよいよ高くなり、全国より多くの参拝者がある。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
神社の境内と摂社・末社については 多度大社HPに詳しいので そちらを参照ください
多度大社HP「境内図」
https://tadotaisya.or.jp/%e6%96%b0%e3%80%80%e5%a2%83%e5%86%85%e5%9b%b3/
参考までに参拝時の写真を掲載
・本宮と別宮
・本宮
多度神社(向かって左の御殿)
御祭神 天津彦根命(あまつひこねのみこと)
天照大神の第三の御子で神代の昔から御鎮座になり雄略天皇の御代に神殿が創建せられた
北伊勢地方の文化の発達・産業の興隆に力を尽くされ御子孫も広くこの地方に御繁栄になって その総氏神として五穀の豊穣 漁獲の豊収に厚い御守護を加え給い 殊に雨乞の神として遠近に信仰する人が多い
御例祭は五月〔四日五日〕の両日で古くより「上げ馬」「やぶさめ」等特殊神事が行はれ、その年の作柄の豊凶を占うと云う意味にて特に民衆の熱心な信仰がある
現地掲示板より
・別宮
別宮 一目連(いちもくれん)神社 (向って右の御殿)
御祭神 天目一箇命(あめのまひとつのみこと)
多度神社の御子神で御父 天津彦根命を扶けて 北伊勢地方を開拓せられ、又、我が国、金属工業の祖神でもあり、天変地異ある毎に現に御霊を現して
諸難を救い給い、時に応じ龍神となりて天翔り旱天に慈雨を恵み給うと云う信仰もあって古来 神殿には御扉を設けない、
御 例 祭 五月四日・五日
ふいご祭 十一月八日現地掲示板より
・〈末社〉神明社《主》天照大御神
・於葺門(おぶきもん)
・〈摂社〉美御前社《主》市杵島比賣命
摂 社 美御前社(うつくしごぜんのやしろ)
御祭神 市杵島媛命(いちきしまひめのみこと)
耳・口・鼻・のどの諸病や婦人の帯下の病の治癒に、又、良縁、子授け、安産に御霊験あらたかで 穴のあいた石が奉献される
常に美しくありたいと願う 女性の参拝が多い
御例祭日 六月十七日現地立札より
・招魂社《主》護国の英霊
・鳥居
・〈末社〉皇子社《主》正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命,天之菩卑能命,活津彦根命,熊野久須毘命,多紀理比売命,多岐都比売命
・白馬舎(はくばしゃ)
多度大社 白馬伝説の由来
多度山は昔から神が在わします山と信じられ、人々は、農耕に恵みの雨を乞い、 出生に安産を祈るというように、日々の暮らしの平穏や家族のしあわせを祈り続けてきました。
その願いを神に届ける使者の役割を果たすのが、ここ多度大社に1500年前から棲むといわれる白馬なのです。古来より神は馬に乗って降臨するといわれるように、神と馬との関係は深く、馬の行動を神意の現れと判断することから、多度大社でもその年の豊作、凶作を占う「上げ馬神事」を毎年5月4日・5日の多度祭で行っています。
かつて、多度山の小高い丘の上には、遠くに広がる街並みを見はるかせ、人々の折節の喜怒哀楽を静かに見つめている白馬の姿がとらえられたと聞きます。
天翔る馬には翼を与えたように、その姿を変えて神の懐へと走り去ると、人々の幸せや出会い、喜びを乗せて、再びこの地へ舞降りてくると語り伝えられています。
現地案内看板より
・御手洗所(みたらしじょ)
・参道
・宝物殿
・神楽殿・社務所
・授与所
・参道入口鳥居
・手水舎
・〈末社〉雨宮八幡社《主》天之水分神,国之水分神,品陀和気命
・〈摂社〉新宮社《主》天津彦根命幸魂 天目一箇命幸魂
・神馬舎
・〈末社〉藤波社《主》建速須佐之男命,少名毘古那命,大穴牟遅命
・神輿殿
・鳥居
・御神木
・酒殿
・上げ馬神事の坂
・多度祭御殿
多度祭(三重県無形民俗文化財)
多度大社の例祭は、五月四日、五日の両日行われる。
上げ馬神事、やぶさめ神事は、多度祭の花形であり、その起源は南北朝の頃に始り、武家豪族ならびに、氏子達が古式のまま神様に奉納する行事として行っていたが、 織田信長の兵火にかかり、約三十年余の間中断をしている。
徳川家の時代となって本多忠勝公が、桑名城主となり神社の再興をなし、三基の神輿(みこし)を奉納し、第二代城主、本多忠政公により祭事が復興され、多額の費用を出して多度祭を復活し、更に御厨(みくりや)(神饌を供える地区)組織による広大な祭事となって今日に至っております。
多度祭の上げ馬神事は、人馬一体となり躍動的な祭ですが、その反面危険が伴なうことから、昔ながら精進が行われ、怪我のないようにつとめている。四月一日の神占いにより騎手と定められた者は、家族共々別火の生活に入り、心身を清め、乗馬の練習をなし、祭一週間も前となれば、なお一層清浄なる生活に入り大祭に奉仕する。
上げ馬、やぶさめの神事は、御厨の七地区により、神児(ちご)一名、騎手六名が選定され騎手を出す六地区から、祭馬(各三頭)十八頭が準備されて祭事が行われる。祭事は『はな馬』(上げ馬をする順序は毎年交替するが、その年の最初に上け馬をする地区を言う)の指示により進められる。
騎手の衣裳は四日には陣笠裃(じんがさかみしも)姿、五日には花笠武者姿(はながたむしゃすがた)にて乗馬する。
四日の行事は、乗込み、馬場乗り、坂こわし、十二頭の上げ馬、須賀での馬場乗りが行われる。 その晩騎手は神社に於いて宮籠(みやごもり)し、五日朝六時の大祭に参列する。
五日には乗込み、馬場乗り、が所定の回数行われ、神児(ちご)『七度半の迎え』(神様のお出迎え)を終了直後、はな馬から順次六頭の上げ馬を行う。楠廻り、神輿の渡御のあと須賀の馬場にてやぶさめの神事があり、神輿が再び本社に帰られて終了する。
多度祭では古くから農作の時季や豊凶を占ってきたが、近年は景気の好不況など色々なことを占う。又、勇壮な神事、祭馬にあやかり、健康長寿、商売繁昌、社運隆盛、学力向上等を願う人々も多い。
現地案内板より
・〈末社〉鉾立社《主》天久之比命
・社頭
・多度大社 社家長屋門
・御神橋・鳥居
・鳥居・多度山
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・〈摂社〉一挙社《主》一言主命
・多度大社 豊明殿
・多度観音堂
多度観音堂
千手観音菩薩立像(せんじゅかんのんぼさつりゅうぞう)
十一面観音菩薩立像(じゅういちめんかんのんぼさつりゅうぞう)観音堂
明治にいたるまでたびたびの洪水にあい、もとの御堂の位置は確かではありませんが、明治三十四年の本堂再建以来現在の場所になりました。その後、本堂が古くなったため、各地の信仰者の寄附をもって昭和三十八年に改築され現在にいたっています。
千手観音菩薩立像
像高118.8cmの一木造。腰部に十分な量感を持ち薄い布をきらびやかに表現しています。このような表現や技法から製作年代は平安時代前期と考えられます。仏師や依頼主は不明ですが、多度神宮寺にかかわりのある仏像と考えられます。また、四日市市善教寺阿弥陀如来立像胎内文書の内、藤原實重(ふじわらさねしげ)筆「作善日記(さぜんにつき)」(鎌倉時代)記載の多度千手堂千手観音菩薩像が、この像にあたる可能性は考慮すべきものでしょう。
十一面観音菩薩立像
像高111.6cmの寄木造で玉眼を嵌入しています。衣文(えもん)は複雑にひるがえり、それ自体が模様のようになっています。この処理方法から南北朝時代前後の製作と考えられます。この像の伝来も不明ですが、多度神宮寺に関係があると考えられます。
二体の仏像は傷みか激しく、修理の手が入っていますが流行にあわせた化粧直しがおこなわれていることなどから大切に守られきた仏像であることが伺われます。
これらの仏像を研究することによって多度神宮寺の歴史もしだいに明らかにされていくでしよう。
桑名市教育委員会
現地案内板より
・多度稲荷神社
正一位 多度稲荷神社(たどいなりじんじゃ)
御祭神 宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)
この神社は元治元年(1864)多度の庄屋が伏見稲荷大社に参拝し 七日七夜の行を修め、御分霊を拝戴して現在の所にお祀りいたしました
暫くの間、愛宕神社(多度山の中腹に鎮座の多度地区の氏神様)に合祀されていましたが、御勧請百年を記念して昭和四十年八月に元の鎮座地(現在のところ)に御復元申し上げました
現地案内板より
・宮川の清めの池
宮川の清めの池
清めの池は、清らかな多度川の伏流水を利用して、宝暦年間にはすでにこの宮川の地に存在し、古くは垢離(こり)・掻池(かきいけ)(みそぎ池)と称し、多度大社の参拝者は、ここで手を洗い、口をすすぎ身を清めて一の鳥居より神域に入ったと言われています。現在でも五月の多度大社の祭礼には、この池の水で御旅所行列の途中、各御厨(みくりや)(奉仕地区)の祭馬にそれぞれ水を飼い足を清める習わしがあります。
多度大社社務所現地案内板より
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『續日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉に記される伝承
多度神と表記され 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
延暦元年(七八二)十月庚戌朔
○冬十月庚戌朔
叙に 伊勢国桑名郡 多度神 従五位下
【原文参照】
『續日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承
多度大神と表記され 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
天長十年(八三三)四月庚辰〈廿三〉
○庚辰
奉授に 伊勢國從五位下 多度大神 正五位下。』
皇太子始讀に孝經、參議已上、會に集東宮有宴焉。』
山城國人 山代忌寸淨足、同姓五百川等八人、改に忌寸賜宿禰、淨足等、天津彦根命之苗裔也、
【原文参照】
多度大神と表記され 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
卷八 承和六年(八三九)十二月丁巳〈九〉
○丁巳
奉授に
越前國 正三位勳一等 氣比大神 從二位、餘如故、
伊勢國 正五位下 多度大神 正五位上、
【原文参照】
多度神と表記され 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
卷十四 承和十一年(八四四)六月丙辰〈四〉
○丙辰
奉授に 伊勢國 正五位上 多度神 從四位下。』
若狹國飢、遣使振給之、
【原文参照】
旨の勅命があり 真言の別院とされ この時から寺号を法雲寺と称した と記されています
【原文参照】
卷十九 嘉祥二年(八四九)正月辛巳〈廿六〉
辛巳
傳燈大法師位壽寵言、以に伊勢國多度大神宮法雲寺、爲に眞言別院、即爲護に國家、兼奉餝に大神者、依請許之、
【原文参照】
『日本文徳天皇實録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)〈元慶3年(879年)完成〉』に記される伝承
多度大神が 官社に列られています
【抜粋意訳】
卷二 嘉祥三年(八五〇)九月甲申〈十〉
○甲申
詔以に 伊勢國 多度大神、列に於官社、』
同國 天照太神宮 禰宜從八位下神主繼長、豐受太神宮 禰宜從八位上神主土主等、授に外從五位下、
【原文参照】
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
諸国の267社と共に 多度神と表記され 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
卷二 貞觀元年(八五九)正月廿七日甲申
○廿七日甲申
京畿七道諸神に 進階を及ひ 新に叙つ 惣て二百六十七社なり
奉授に
淡路國 无品勳八等 伊佐奈岐命一品
備中國 三品吉備都彦命 二品、』・・・
・・・伊勢國 從三位 多度神 正三位 從四位下 阿射加神 從四位上
・・・
・・・
【原文参照】
貞觀元年(859)2月27日 尾張國の熱田神・大縣神と共に伊勢國の多度神に 神階の奉授が記され
2月29日には 上記の3神社に 朝臣音人を遣いとして 財寳を奉る と記しています
【抜粋意訳】
卷二 貞觀元年(八五九)二月十七日癸卯
○十七日癸卯
授に
尾張國 從二位 熱田神に正二位 從四位下 大縣神に從四位上
伊勢國 正三位 多度神に從二位。卷二 貞觀元年(八五九)二月十九日乙巳
○十九日乙巳
遣に正五位下守右中辨兼行式部 少輔大枝 朝臣音人を 向に伊勢國多度神社 尾張國熱田 大縣 等神社に 奉に神位記 財寳(かんたから)を
【原文参照】
多度神と表記され 神階の加進が記されています
【抜粋意訳】
卷七 貞觀五年(八六三)六月廿六日丁巳
○廿六日丁巳
進に 伊勢國 從二位多度神に 階を加に 正二位を
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
【抜粋意訳】
巻3神祇 臨時祭 名神祭 二百八十五座
園神社一座 韓神社二座〈已上坐宮内省〉
・・・
・・・阿射加神社三座 多度(たとの)神社一座〈已上伊勢国〉
・・・
座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)桑名郡 15座(大1座・小14座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 多度神社(名神大)
[ふ り が な ](たとの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Tato no kaminoyashiro)
【原文参照】
『延喜式』巻21(玄蕃寮) 多度神宮寺の条
玄蕃寮(げんばりょう)〈律令制において治部省に属する機関〉は 度縁や戒牒の発行といった僧尼の名籍の管理 宮中での仏事法会の監督 外国使節の送迎・接待 在京俘囚の饗応 鴻臚館の管理を職掌とした
【抜粋意訳】
凡 伊勢国の多度神宮寺の僧十口、度縁戒牒は准に国分寺僧に、勘に納め国庫に、補替を之日、副て解文進む官に、
【原文参照】
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
多度大社と同じ 御祭神を祀る 竹田神社(式内社の論社)
延喜式内社 近江國 蒲生郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)の論社
竹田神社(東近江市鋳物師町竹田)
《主》天津彦根命(あまつひこねのみこと)
天目一箇命(あめのまひとつのみこと)
《配》大己貴命(おほなむちのみこと)
石凝姥命(いしこりどめのみこと)
大屋彦命(おほやひこのみこと)
竹田神社(東近江市鋳物師町竹田) 社伝には 天目一箇命を奉斎するのは「古へ毎年9月19日の祭目に稲60穂を伊勢の多度神社に送るならわしあり」と伝え 同神の分祀であることを語ると伝う
・竹田神社(東近江市鋳物師町竹田)
竹田神社(たけだじんじゃ)は 製鉄の神 天目一箇命を祭神とし 鎮座地は゛鋳物師(いもじ)゛と呼ばれ 古代からの鋳造を行う工人たちの住地だと云う 社伝に 第10代 崇神天皇の御代 明神森の地に創祀 延暦6年(787)坂上田村麿が社殿を再造し 『延喜式』の 近江國 蒲生郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)であると云う
竹田神社(東近江市鋳物師町竹田)〈製鉄の神 天目一箇命を祭神とする延喜式内社〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
養老鉄道 多賀駅から西へ約2.2km 車5分程度
正面に見えている山が 多度山です
多度山の麓辺りまで来ると 白い鳥居が建ちます
多度大社(桑名市多度町多度)に参着
社頭に 背を向けて 境内社 鉾立社が祀られています
参道石段の下には゛御神木゛ 左手には゛上げ馬神事の坂・多度祭御殿゛
右手には゛酒殿゛
石段の上には゛鳥居゛が建ち 一礼をして 境内へと進みます
鳥居のすぐ脇には゛神輿殿゛があります
境内の左手には ゛神馬舎゛と境内社 藤波社
境内の右手には ゛社務所゛参拝者休憩所
境内の正面には ゛手水舎゛゛鳥居゛があり その先に参道が伸びています
参道の左手には゛寶物殿゛
参道は二股に分かれますが 行きは向かって左手を進むように授与所で聞いていました
左手の参道を進みます
参道の右手には゛芭蕉句碑゛゛神馬゛が祀られています
参道の左手には゛多度招魂社゛゛美御前社゛
於葺門をくぐり抜けます
於葺門をくぐると すぐ脇には 境内社 神明社
神橋を渡ると
向かって左に 本宮 多度神社
向かって右に 別宮 一目連神社
本宮にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
別宮にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿に一礼をして 参道を戻ります
一の鳥居の先には 伊勢湾に面している四日市のコンビナート地帯が見えています
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 多度神社 名神大について 所在は゛多度村に在す、゛〈現 多度大社(桑名市多度町多度)〉と記しています
なぜか祭神は 未記入となっています
古代から朝廷の崇敬社となっていますので『六国史』の神位 官社 官幣 神宝の記載が連挙されています
【抜粋意訳】
多度神社 名神大
多度は假字也
○祭神
○多度村に在す、〔考証、俚諺〕
〇式三、〔臨時祭〕名神祭二百八十五座、〔中略〕伊勢國多度神社一座、
○永万記、伊勢國多度宮八丈十疋、
續日本紀に、当耆郡多度山美泉とあるを、伴信友が、古ハ美濃国ニ属セルニヤ、又山ハ美濃伊勢ニワタリテ、神社ハ伊勢ニ属セルニヤ、と云るは漏也、
美濃國多藝郡と、伊勢國桑名郡とは摂せば、中間に美濃の石津郡挾れり、多度は同名異処也、混ずべからず、神位、官社
續日本紀、延暦元年十月庚戌朔、叙に伊勢國桑名郡多度神從五位下、」
續日本後紀、天長十年四月庚辰、奉授に伊勢國従五位下多度大神正五位下、承和六年十二月丁巳、奉授に伊勢國正五位下多度大神正五位上、同十一年六月丙辰、奉授に伊勢國正五位上多度神從四位下、
文徳實録、嘉祥三年九月甲申、詔以に伊勢国多度大神、列於官社、」
三代實録、貞観元年正月二十七日甲申、奉授に伊勢國從三位多度神正三位、同年二月十七日癸卯、授に伊勢國正三位多度神從二位、同五年六月二十六日丁巳、進に伊勢国從二位多度神階、加に正二位、官幣 神宝
三代實録、貞観元年二月十九日乙巳、遣に正五位下守右中弁兼行式部少輔大枝朝臣音人、向に伊勢国多度神社、奉に神位記財寳、仁和三年四月六日己酉、分遣使者、奉に幣於伊勢國多度明神社、〔事は山城國八幡宮の下に見ゆ〕宮寺
續日本後紀、嘉祥二年正月辛巳、伝燈大法師位寿龍言、以に伊勢國多度大神宮法雲寺、爲に眞言別院、即為護に國家、兼奉飾に太神者、依請許之、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 多度神社 名神大について 所在は゛今 多度村多度山にあり、゛〈現 多度大社(桑名市多度町多度)〉と記しています
祭神は 天津日子根命を祭る としています
古代から朝廷の崇敬社となっていますので『六国史』の神位 官社 官幣 神宝の記載が連挙されています
【抜粋意訳】
多度(タドノ)神社
又 多度大神宮といふ、〔續日本後紀〕
今 多度村多度山にあり、〔神名帳考証、勢陽雑記、〕
傳云 天津日子根命を祭る、〔古事記傳、神名帳考証、〕
仁明天皇 天長十年四月庚辰、正五位下に進め、承和六年十二月丁巳、正五位上を授け、〔續日本後紀〕
文德天皇 嘉祥三年九月甲申、詔して官社に列しめ給ひ、〔文徳實録〕〔〇按 本書十月癸丑の條 又 此の事を載す 衍文:なり今之を訂正す〕
清和天皇 貞観元年正月甲申、從三位より正三位を授け、〔〇按 從三位に叙されし年月 今考ふる所なし〕 二月癸卯,從二位を加へ、尋て大枝朝臣音人をして神寶を奉り,
光孝天皇 仁和二年四月已酉、使を遣して幣を奉らしめ、〔三代實録〕
醒醐天皇 延喜の制、名神大社に預り、〔延喜式〕
後一條天皇 寛仁元年十月丁卯一代一度の大奉幣を奉らしむ、〔左經記〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 多度神社 名神大について 所在は゛多度村 (桑名郡多度村大字小山縣社 )゛〈現 多度大社(桑名市多度町多度)〉と記しています
祭神は 天津日子根命 としています
古代から朝廷の崇敬社となっていますので『六国史』の神位 官社 官幣 神宝の記載が連挙されています
【抜粋意訳】
多度神社 名神大
祭神 天津日子根命
神位
桓武天皇 延曆元年十月庚戌朔 叙に伊勢國桑名郡多度神從五位下
仁明天皇 天長十年四月庚辰 奉授に伊勢國從五位下多度大神に正五位下
承和六年十二月丁巳 奉授に伊勢國正五位下多度大神正五位上 十一年六月丙辰 奉授に伊勢國正五位上多度神從四位下
文德天皇 嘉祥三年九月甲申 詔以に伊勢國多度大神 列に於官社
清和天皇 貞観元年正月二十七日甲申 奉授に伊勢國從三位多度神從二位 五年六月二十六丁巳 進に伊勢國從二位多度神 階加に正二位官幣
光孝天皇 仁和三年四月六日已酉 分遣使者奉幣 於伊勢國多度神社祭日 五月五日
社格 村社 (明細帳縣社とあり )所在 多度村 (桑名郡多度村大字小山縣社 )
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
多度大社(桑名市多度町多度)について 明治六年三月縣社に列せらる 由緒が記されています
【抜粋意訳】
〇三重縣 伊勢國 桑名郡多度村大字多度字宮地
縣社 多度神社
祭神 天津日子根(アマツヒコネノ)命
延喜の制名神大社に列せられし社にして、古は多度大神宮と称す、祭神は天照大神 第三の御子なり、
日本書紀に凡川内國造、額田部湯坐連茨木國造、倭田山直山代國造、馬来田國造、道尻岐閇國造、周芳國造、倭淹知造、高市縣主、蒲生稲寸、三枝部造等祖」と見え、社傳に依れば、多度山に鎮座せるは遠く神代に在り、宮殿の創立は雄略天皇の御代にして、天平寶字七年に至り 最も広壮を極めしが、其初め満願禅師、神託に基きて小祠を建てたるを多度大神宮の濫觴とすと、
神名帳考証に「多度神社〔名神大〕在に多度山麓、神前有に奇巌流水、天津彦根命也、按桑名、佐乃富、額田神、皆此神之親族也」とあり、
又 續日本紀に、「延暦元年十月庚戌朔、叙に伊勢國桑名郡多度神從五位下」と見ゆ、同五年長官紀朝臣佐婆麿、介井上直手耳、大目大伴直赤椅省、春戸村主廣江等、三重郡六條五鍬柄里七海邊田玖段六十歩十二俣田三百歩、尾張國墾田並田代参拾五町捌反四十歩六年還公空地拾捌町を寄連し、
同十七年大納言藤原雄黒其他の人々、伊勢國桑名郡幡桙島東庄墾田並田代捌拾町四反三百四十歩及蔀町六反三百歩、外に桑名郡野代郷條外手十九室木田二反三百歩次二十室木田二反次二十一室木田四反六條九鳥垣里廿四染原田代野二條黒門屋原二町七條二多治比邊里田代並山一ヶ処を神傾として寄附す、
同二十年多度大神宮寺沙彌信教より資財帳を奉る、續日本後紀に、「天長十年、奉授に伊勢國從五位下多度大神正五位下」と見え、又云く「承和十一年六月、奉授に從四位下」、嘉祥三年九月十日宮社に列し、同年十月九日名神に選ばる、貞観元年正月二十七日正三位を授けられ、翌二月十七日從二位に陞叙、同月十九日右中辮兼式部少輔大枝朝臣音人勅使として神位記財宝を奉る、越えて同五年六月二十六日正二位に陞せらる、
即ち三代實禄に「進に伊勢國從二位多度神階加正二位」とあるもの是也、
かくて、光孝天皇 仁和三年四月六日使を遣はして幣を奉らしむ、
次いで醐醍天皇 延喜の制、名神大社に列し、
後一條天皇 寛仁元年十月丁卯二十日一代一度の大奉幣を奉らしめ、本朝四十八社の一に置かる、乃ち此時 藤原秀忠を勅使としで絹五尺綿一、糸一両を御幣とし、紫綾蓋平文野剣一腰赤漆御弓一張箭四筋鏡一面平文麻桶一口平文線柱本等を神宝として奉らる、
其後 永萬元年六月神祇官より全國神領ある諸社に令して貢物を微す、即ち永萬記に云く、「伊勢國多度宮八丈十疋」と、以て神領の夥多なるを知るべし、
降つて建仁元年二月從一位に進めらる、慶応三年社殿造営に際し伏見、賀陽、山階三宮 及 二條関白東西本願寺 若江修理大夫 吉田侍從 飛鳥井中納言 野宮中納言 尾張大納言 増山対馬守 本多能登守 成潮隼人正石河佐渡守 松平範次郎 松平隠岐守 林肥後守 等より金品木材等を寄附せらる、依つて幾もなく竣工遷宮す、現今の社殿是也、大日本名勝地誌に、「山麓に多度神社あり天津彦根命を祭り、面足命、惶根命を合祀す、雄略天皇の時の創健に係る、元龜中 織田氏の兵焚にかゝり、社殿神寶悉く焼失せしが、其後 本多忠勝の桑名を治せし時 之を造営すと云ふ」と見え、
又 東海道圖會には、「多度大神、天津彦根命、相殿新宮明神 内母(ナイモ)明神、摂社 一目連(イチモクレン)祠等あり、
社説に云く、北勢洪水暴風の時、此神其難を防がせ給ふ、往昔は多度柚井戸津本多猪飼等の地皆此神領なりき、永禄天正の頃、長島合戦連年止まず、神社寇火に罹る、慶長に至り桑名城主小山忠勝再営あり、爾後累代桑名侯の尊信する所となり、大略旧観に復し、供僧法雲寺を再置す、
神庫に古鏡三十面 古劒一口 古陶古銭数十品を蔵む、神域に老樹奇草を生じ、巖石の怪異なる者多し、八壺谷の幽渓は勝景特に著る」と見ゆ、而して其古鏡等は明和七年社側の厳石故なくして傾く、依って其地を掘りし時出でしものなりと云ふ、
明治六年三月縣社に列せらるると同時に多度神社の旧號に復す、
同年八月三重縣庁より奉幣使を遣はされ爾來恒例となれり、其後 諸國の崇敬者金品を寄附して、神樂殿及び御禊瀧を築造す、尚社記によれば、今境内社たる別宮一目連神社は、本宮 天津日子根命の御子 天目一箇命、又の御名は天久之比乃命にして、筑紫、伊勢両国齋部の祖神なりと、姓氏録に、「桑名首、天津彦命男天久之比乃命之後也、多度社傍小社一目連者、多度大神之子 天麻比止都禰命とあり、旧事紀に云、天麻比止都禰命、作天一目命、俗謂一目連者、蓋天一目命之転語也云々」とあり、往古 天津日子根命と共に多土山に祀りしに創ると云ふ。
社殿は本殿、高欄、階、瑞垣門、瑞垣、於葦門、冠木鳥居、藩塀、神楽殿、神饌所、神巫殿、神輿殿、繪馬殿、鳥居三、神橋、社務所、警視場、祭典場、神厩、石灯籠、神石等を具備し、境内坪数二萬九千八百六十六坪(官有地第一種)を有す。
寶物は勅額〔聖武天皇御宸筆〕神鏡、神鈴、弓、矢、鉾、太刀、兜、古鏡三十面、古刀、古斧、古鈴等あり、
特有祭事は流鏑馬の古式にして、初め武装騎乗して神輿に随ひ、肘江其他諸村を過ぎ、小山邑の馬場に至り、神前にて厳格なる射式を行ふものなりと云ふ、尚 一は雨乞の祈祷にして国内は勿論、遠くは東は駿遠西は四国北は若狭等二十余州より来り祈るに、霊験あらざることなく、殊に海上の風難及び水火の焚を祷り、霊験著しといふ。境内神社 別宮一目連神社
同摂社 新宮社 美御前社 一挙社
同末社 神明社 皇子社 八幡社 雨宮社 藤波社 鉾立社
【原文参照】
多度大社(桑名市多度町多度)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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伊勢国(いせのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 伊勢国の 253座(大18座・小235座)の神社のことです 伊勢国(いせのくに)の式内社 253座は 一つの国としては 日本全国で最多数です
伊勢國 式内社 253座(大18座・小235座)について