衆良神社(すらじんじゃ)は 延喜式内社 丹後國 熊野郡 衆良神社(もろよしの かみのやしろ)とされます 創建は 第11代 垂仁天皇の朝の勸請と伝わり 祭神は川上麻須(かわかみます)〈娘の川上麻須郎女は 丹波道主命の妃となり 孫の日葉酢媛は 垂仁天皇の皇后となり 第12代 景行天皇の外祖父〉とされます
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1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
衆良神社(Sura shrine)
【通称名(Common name)】
・天王さん(てんのうさん)
【鎮座地 (Location) 】
京都府京丹後市久美浜町須田小字天王谷132番
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》川上摩須神(かわかみますのかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
『京都府熊野郡誌』熊野郡,大正12年に記される内容
【抜粋意訳】
第貮編 第四章 川上村 三 川上村
衆良神社 無格社 川上村大字須田小字東側 鎭座 祭神不詳
〔按ずるに河上摩須を祀れるものの如し〕
由緒
式内小社にして、延喜式には衆良(モロヨシ)神社とあれど スラの仮名なるべく、地名 須田と音相近し。
丹後一覧記には 垂仁天皇の朝の勧請と傳ふ、所在に就ても諸書異説あれど信憑するに足らず。大字須田は河上摩須居住の地にして、小字下山は其の館跡なりといひ、古来 平民の此山に居住するを忌む。又 殿垣、オノミヤ(王の宮か)などの地名ありて、此處を館跡なりともいへど、下山の方正しきが如し。
河上摩須は 丹波道主王の外舅〈妻の父〉にして、上代地方の豪族たりしなり。
祭神を按ずるに 當國式社考に 河上摩須良とあり、良は摩須郎女の良にて正しくは河上摩須なり、恐らくは眞に近きが如し。元 八坂神社と相殿なりしが、明治十八年 八坂神社を末社とし、別に社殿を造營安置せり、大正十年上屋を改築し、新に拝殿を設け設備大に整ふ。
一 本 殿 唐破風向フ造欅材勾欄付屋根クレ板葺 建坪八合九勺
一 上 屋 切妻造松材屋根萱葺 建坪四坪六合
一 祝詞殿 梁行八尺桁行十一一尺
一 拝 殿 梁行九尺桁行十二尺二梁行七尺桁行四尺向拜付
一 籠 屋 入母屋造松材屋根萱葺 建坪七坪五勺
一 境内坪数 千七百三拾坪 官有地第一種
一 崇敬者 六十五人境内神社
八坂神社 祭神 須佐之男命
【原文参照】
『京都府熊野郡誌』,熊野郡,大正12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/925932
『丹後史料叢書』第5輯,昭和2年に記される内容
【抜粋意訳】
『丹後史料叢書』「丹後国式内神社取調書」
衆良神社
【神社覈録】舊事記ニ馬地衆良村ニ在ト云フ国人佐治摂津云馬地ナルバ村岡神社ナルコト決シ 馬地ニ衆良村ト云處今ハナシ 印本ニモロヨシ ハ スラ ト云フ 仮字ナルベク 今 須田村ニ 牛頭天王ノ社アリ 是ナラン 但馬国 城崎郡ニ 緒吉村アリ 同ジ唱ナルベキニヤ
【丹後但馬神社道志流倍】未考モロヨシ ト訓ハ 非ナリ 須良ト訓ベシ
【豊岡縣式内神社取調書】湮埋不得確徴
【原文参照】
『丹後史料叢書』第5輯,丹後史料叢書刊行会,昭和2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1175358
【由 緒 (History)】
由緒
『丹後一覧記』には「垂仁天皇の朝の勸請」とあり、『丹後國式社考』には「祭神は河上麻須良」とある。
河上麻須良は 古事記の「美知能宇志王娶丹波之河上麻須良女。生子比婆須比賣命(略)」の河上麻須良である。
河上麻須良と須良(須田)との関係については、本居宣長は『古事記傅』に「河上麻須良女、河上は和名抄に丹後國熊野郡川上の郷あり是なり、麻須の義は未だ思ひ得ず、郎女は(中略)男を郎子・女を郎女という」とのべている。
また『丹後舊事記』には「開化・崇神・垂仁の三朝熊野郡川上庄須郎の里に館を造る。丹波道主命は麻須良女を娶る」とある。
明治35年市場村七社神社 神職 日下部氏は、その著『丹後國古事記略書』に「丹後舊事記ヲ見ルニ衆良神社ハ馬次村ト有リニヨリ、此社ハ久美谷に馬地村有リニヨリ久美谷に有と思らんモアラン、雖レ然馬次ト有ハ驛馬ノ事ニテ須田村ニ有也」とのべている。
明治17年の「社寺明細帳」には、その由緒をつぎのやうに書いている。
「衆良神社ハ八坂(神社)ト相殿に祭祀ス、須良神社ハ丹後舊事記 及 丹哥府志ニ須良村ト有、當國式社考ニ、須田村也、此地麻須良王ノ領也ト申傳ウ、コノ王ハ丹波道主命ノ舅也ト有、古ハ須原村ト云トモ有、今ハ須田村也、神名帳私記ニ須田村ト有、扱此須田村川上郷ニテ字下山ト云城跡ノ孤山有テ 麻須良王之居所也ト稱シ 今ニ平民之此山ニ居住スルヲ忌ム(但シ往事此山ニ居住スルモノ数多ク有シモ神崇リニテ永續スルコト無シト云フ)、又殿垣(塔垣)ト云所有リ、麻須良王ノ居住地ト云傳有リ 今ハ此所ハ桑畑之中ニ有リ、此須良村之奥但馬之國ニ越ル山ヲ忍坂ト云ナリ、姓氏録ニ火明命後世ト有、衆良神社ハ八坂神社ト相殿ニ祭祀ス、祭神不詳トイエドモ神軆ハ木像二ツ有テ社の割ニハ大像ナリ、相殿兩神ノ神軆也ト云傳ウ、(後略)」と。衆良神社については、牛頭天王宮(八坂神社)と麻須良皇子との話がある。須田の大雲寺に保存されている奥書天正16年(1588)の『天龍山大雲寺記録』の記述には「(前略)桓武天皇に御皇子豫多在しけり。第一は平城天皇、大同元丙戌に御即位在しなり。第二は弘仁元庚に兄君の位を即せ給ふて嵯峨天皇と奉申なり。第三は、相良皇子と奉申れり。御心悪かりなん兄君の御位を奪んと御媒叛の御企有ければ小野岑守等の計ひにて淡路の國へ渡らせ給ふが遂に彼地にて薨じ給ふ(中略)然るに第四の宮は摩須良皇子と奉號兄君相良天皇(皇子)之御媒叛に組せられければ丹後國に御下り給ふ。後に御料を御許有りて都へ可歸勅使立せ給へども歸り給ふべき御心なかりしや、當所塔垣(殿垣)といふ處に玉關を御立成されて此地に居住成給ふて御年67歳にて薨じ給ふ。後に牛頭天皇宮と奉崇しとなり。御存生の間に國家安全の為に當寺を御建立有りて御代長久を祈り給ふ。(後略)」とある。
また同記に同寺の末寺と神社との関係を次のやうにのべている。「當寺末寺三ヶ寺有り、一は猪ヶ島神宮寺とて三島明神の浦にあり、二は長尾山地蔵寺とて牛頭天皇(天王)の口にあり、三は比靈山高山寺とては塔垣の向の谷に有りけれ共、かく迄没落しぬれば彼三ヶ寺をこぼち一ヶ寺と成侍りしかとや」と。牛頭天皇(衆良神社)と長尾山地蔵寺との関係がわかる。
摩須、摩須良、麻須良、麻須良王などのあいまいさは、古事記の河上摩須と天龍山大雲寺記録の麻須良皇子との混同から生まれたものである。「社寺明細帳」にいふ小字殿垣は大雲寺記録の塔垣と同じ場所であり、麻須良皇子の居所であったとするのが正しい言い傳へであらう。
衆良神社と牛頭天皇宮が相殿に祀られ、河上摩須と麻須良皇子が祭神であったが、のちに牛頭天皇宮が八坂神社と結びつくため祭神が須佐之男命になったとも考へられる。明治になって豊岡懸神社取調の節「式内衆良神社」と定められた。(豊岡懸は明治4年から明治9年)明治18年に八坂神社を境内末社として分割し、別に社殿を増營安置した。大正10年上屋を改築し、新に拝殿を設ける。
※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・衆良神社 社殿 本殿覆い屋
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・衆良神社 拝殿
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・〈社殿向かって右 境内社3宇〉・朱色の祠・石祠・小祠
※牛頭天王宮は 相殿に祀られていたが「明治18年に八坂神社を境内末社として分割」とあります
おそらく この〈境内社〉朱色の祠 であろうと想われます
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・境内
三段の境内地で 上段に社殿が建ちます
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・手水舎
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・〈境内向かって左手前の斜面〉天王古墳
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・〈鳥居の向かって右横〉籠屋
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・境内入り口の鳥居
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・参道
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・社頭・社号標・鳥居
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)丹後國 65座(大7座・小58座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)熊野郡 11座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 衆良神社
[ふ り が な ](もろよしの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Moroyoshi no kaminoyashiro)
【原文参照】
国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
・川上麻須(かわかみます)の屋敷跡について
衆良神社の御祭神 川上摩須神(かわかみますのかみ)の屋敷跡伝承地です
川上麻須(かわかみます)とは 丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)の外舅〈妻の父〉になります
丹波道主命は 第9代開化天皇の皇孫 第12代景行天皇の外祖父とされます 第10代 崇神天皇に命じられた四道将軍の1人で 丹波地方を平定したと伝わります
娘の川上麻須郎女(かわかみます の いらつめ)が 丹波道主命の妃となります その長女 日葉酢媛(ひばすひめ)は 第11代 垂仁天皇の皇后となり 第12代 景行天皇を産みます
景行天皇の皇子は 日本武尊(やまとたけるのみこと)です
つまり
第11代 垂仁天皇の義祖父
第12代 景行天皇の外祖父
日本武尊の曽祖父(そうそふ) となったのが 川上摩須です
※天皇の外祖父は 律令時代においても 天皇の母方の祖父に当たる外祖父は尊崇の対象となり 位階や官職で優遇されていました
川上摩須が生きた時代は 律令時代の以前ですので 更なる崇敬の対象であったことは 推察できます
『京都府熊野郡誌』熊野郡,大正12年に記される内容
【抜粋意訳】
京都府熊野郡誌 第十章 名所舊跡 四 各種古跡遺物 ロ 屋敷跡
川上麻須屋敷跡
川上村字須田小字シモ山は、川上麻摩の屋敷跡といひ傳ふ。現今薮地にして、数段より成れる高燥の地なり、四方の展望殊に佳、屋敷跡として比類なき適地なり、
尚小字オノ宮を一に屋敷跡ともいひ傳ふ。現今畑地にして土中石垣の痕跡をも存し、廣濶にして名族の屋敷跡たりし事は、一見して其の當時を物語れるものの如し。
何れも徴證すべきものなければ確定する事は困難なるも、地形上より推考するに、小字シモ山の方真に近からん乎。
【原文参照】
『京都府熊野郡誌』,熊野郡,大正12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/925932
古代 丹波國〈川上摩須郎女と丹波道主命〉について
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
京都丹後鉄道 久美浜駅からR312号・府道706号経由で南へ約7.2km 車での所要時間は12~15分程度
又 京都丹後鉄道 かぶと山駅からは 川上谷川を遡るように南下 約5.5km 車での所要時間は9~12分程度
新庄地区から 府道706号を南下していると 目の前に突然 鳥が飛び立ちました
アオサギか?
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社頭
衆良神社(京丹後市久美浜町須田天王谷)に参着
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社頭には自然石の社号標があり゛衆良神社゛と刻字されています
社頭の鳥居は 北東方向を向いています
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一礼をして鳥居をくぐり抜けて参道を進みます
参道は軽自動車の轍が残る感じです
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しばらく進むと境内の鳥居が見えてきました
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境内の鳥居の先に 手水舎があり 正面奥に社殿が見えています
一礼をして鳥居をくぐり抜けて 境内へと進みます
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境内は三段構成になっていて 二段目には石灯籠が建ち
三段目に狛犬・石燈籠・正面に拝殿・その右側に境内社が祀られています
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境内に 立ち枯れた木があり 何故か゛昇り龍゛に見えてしまいました 木の先端が゛龍頭゛に見えてしまいました
皆様にも 良いことがありますように
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拝殿にすすみます
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拝殿の扁額は「牛頭天王宮」
これは 相殿に祀られていた牛頭天王宮のことで
「明治18年に八坂神社を境内末社として分割」と伝わり 拝殿の向かって右側の赤い祠 が境内社 八坂神社だろうと想われます
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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
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社殿に一礼をして 境内を戻ります
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境内鳥居を抜けて 参道を戻ります
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社頭の鳥居を抜けます
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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 衆良神社について ゛祭神在所等詳ならず゛と記しています
諸説として゛今 須田村に牛頭天王の社あり゛〈現 衆良神社(京丹後市久美浜町須田天王谷)〉と記しています
【抜粋意訳】
衆良神社
衆良は毛呂與志と訓べし
○祭神在所等詳ならず
舊事記に馬地衆良村に在と云り、國人佐治云、馬地なるは村岡神杜なる事決し、馬地に衆良村と云ふ處今はなし、さてこの衆良神社、式印本にモロヨシと讀り、されど こはスラといふ假字なるべく、今 須田村に牛頭天王の社あり是ならん、須田は須良と書近ければ、さはいへ慥に定りたるにはあらず、
〔連胤〕云、隣國 但馬國城崎郡に諸吉村といふあり、されば同じ名にて、衆良もモロヨシと唱る方ならんか考ふべし、
【原文参照】
鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 衆良神社について 所在は゛須田村午頭天王か゛〈現 衆良神社(京丹後市久美浜町須田天王谷)〉と記しています
【抜粋意訳】
衆良(モロヨシ)神社、
〔〇按 神社覈録云、丹後舊事紀に、馬地衆良村に在と云り、
國人 佐治氏云、馬地に今 衆良村と云はなし、須田村午頭天王か、衆良を もろよしと云は、非なり、須良の假字なるへしと云り、姑附て考に備ふ、〕
【原文参照】
栗田寛 著『神祇志料』第15−17巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815497
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 衆良神社について 祭神在所は記入がありません
『神社覈録』説として゛今 須田村に牛頭天王の社あり゛〈現 衆良神社(京丹後市久美浜町須田天王谷)〉と記しています
【抜粋意訳】
衆良神社
祭神
祭日
社格所在
今按 神社覈錄云 舊事記に馬地衆良村にありと云り 國人佐治某云 馬地なるは村岡神杜なる事決し、馬地に衆良村と云ふ處今はなし 須田村に牛頭天王の社あり是ならんと云れど 慥ならず 隣國 但馬國城崎郡に諸吉村といふあり、されば衆良は印本にモロヨシと訓る如くモロヨシならんかと云り 猶考べし
【原文参照】
教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
衆良神社(京丹後市久美浜町須田天王谷)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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丹後国 式内社 65座(大7座・小58座)について に戻る
丹後国(たんごのくに)の式内社とは 平安時代中期 「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧『延喜式神名帳』〈927年朝廷編纂『延喜式』(律令の施行細則 全50巻)の巻9・10を云う〉に所載される 丹後国65座(大7座・小58座)の神を云います
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