実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

走湯神社(下田市大賀茂)

走湯神社は 「(そうとうじんじゃ)or(すとうじんじゃ)」と呼ばれます 南国伊豆の昔話』によれば 蓮台寺の神様と お湯の取り合いをして 走り戦いましたので「走湯」というと云われています 『延喜式神名帳(927年12月編纂)に所載の由緒(格式ある歴史)を持っています

1.ご紹介(Introduction)

この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

走湯神社Soto Shrine)orSuto Shrine)
(そうとうじんじゃ)or(すとうじんじゃ

 [通称名(Common name)]

いつな姫の明神

【鎮座地 (Location) 

静岡県下田市大賀茂495

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》伊豆奈比咩命Itsunahime no mikoto)

【御神格 (God's great power)】

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社

【創  (Beginning of history)】

不詳

【由  (history)】

不詳

【境内社 (Other deities within the precincts)】

小さな石祠(祭神など不明)

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

延喜式神名帳】(engishiki jimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

伊豆国(izu no kuni) 賀茂郡(kamo no kori) 46座の内 2つの式内社の比定社となっています

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豆国 92座(大5座・小87座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀茂郡 46座(大4座・小44座)
[名神大 大 小] 式内小社


[旧 神社 ] 伊豆奈比咩命神社
[ふ り が な  ](いつなひめのみことの かみのやしろ)
[How to read ]Itsunahime no mikoto no kamino yashiro)


[旧 神社 ] 波夜志命神社
[ふ り が な  ](はやしのみことの かみのやしろ)
[How to read ]Hayashi no mikoto no kamino yashiro) 

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)(927年12月編纂)所載社の論社について

伊豆國(izu no kuni)賀茂郡(kamo no kori)
波夜志命神社(Hayashino mikoto no kamino yashiro)の論社

各々の神社の記事をご覧ください

峯指神社Hoshi no kamino yashiro)御笏神社の本殿に合祀

一緒に読む
御笏神社(三宅島 神着)

御笏神社(おしゃくじんじゃ)は ご神託に基づき永正13年(1516)現社地(三宅島 神着(かみつき)に ご遷座になりました 元々は「神着の東郷(ひがしごう)」三宅島の北東に鎮座していました 旧社地は明治7年(1874)の火山噴火で溶岩流の下になってしまいました 格式は高く『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「佐伎多麻比咩命神社(Sakitamahime no mikoto no kamino yashiro)」に比定され その他に4つの式内社の論社を合祀している由緒ある古社です

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峯指神社Hoshi no kamino yashiro) 旧鎮座地

旧鎮座地
峯指神社〔 旧鎮座地 〕(三宅島 神着)

峯指神社(ほうしじんじゃ)〔 旧鎮座地 〕は 風速山を祀っていたと伝わります 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載された格式高い由緒を持ちますが 明治7年(1874)の噴火で 旧鎮座地は 溶岩流の台地の中にあります 現在は御笏神社(おしゃくじんじゃ)に合祀されています

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走湯神社(下田市大賀茂)〈論社〉

論社
走湯神社(下田市大賀茂)

走湯神社は 「(そうとうじんじゃ)or(すとうじんじゃ)」と呼ばれます 『南国伊豆の昔話』によれば 蓮台寺の神様と お湯の取り合いをして 走り戦いましたので「走湯」というと云われています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の由緒(格式ある歴史)を持っています

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伊豆奈比咩命Itsunahime no mikoto)を祀る その他の式内社
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)(927年12月編纂)所載社

伊豆那姫命Itsunahime no mikoto)を祀る式内社伊豆田神社Izuta Shrine)」(高知県土佐清水市)が鎮座します
伊豆奈比咩命Itsunahime no mikoto)」と同じ発音ですが 同神かどうか 関係性は不明です
双方の神社の鎮座する地理的な状況は似ていて どちらも太平洋の黒潮が流れる地域から 河川に入り 山間に鎮座しています

境内社として「三島社」もあります

伊豆那姫命Itsunahime no mikoto)を祀る
土佐国 幡多郡 伊豆田神社Izuta Shrine)の記事をご覧ください

一緒に読む
伊豆田神社(土佐清水市)

伊豆田神社(いつたじんじゃ)は 『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載される由緒(格式ある歴史)を持っています 土佐国に鎮座しますが 伊豆の名を持つ 不思議な古社です

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神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

伊豆急下田駅から 県道119号経由 西へ約4.7km 車10分程度
県道119号の北側の丘陵に鎮座します

走湯神社Soto Shrine)に参着
鬱蒼とした鎮守の杜へと続く階段を上がり 参道を進みます

朱色の両部鳥居には「走湯神社」と彫られた扁額が掲げられています
一礼をして くぐります

鳥居が建っている位置から 境内へはさらに階段を上がります

境内は 見た目以上に平らで広く 一段上に「手水舎」と「拝殿」が建っていて その上の檀に本殿が覆屋の中にあります
社殿を包み込むように 古木が生えていて 古社の風情を出しています

拝殿にすすみます 

拝殿は締まっています 上の檀にある本殿にまわってみます

拝殿と並行して「手水舎」がある訳がわかりました
どうやら本殿の覆屋から 本殿に直接お詣りが出来るようです

賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

小さな石祠があり お詣りをします
境内は 手入れが行き届います

社殿に一礼をして階段を下り 振り返り一礼をします

神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『豆州志稿(zushu shiko)』〈江戸時代 寛政12年(1800)編集〉に記される伝承

走湯権現と表記されて 式内社の「波夜志命神社(Hayashi no mikoto no kamino yashiro)」とされています

走湯権現
大加茂村 上條

近所に ハヤシと伝たわる地名がある故(ゆえ)或(ある)いは それを以て 式内社「波夜志命神社Hayashi no mikoto no kamino yashiro)」と審(つまびらか)にした末とする

 

伊豆納符 鑰取り 外岡氏

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 選者:秋山章/校訂者:秋山善政[数量]15冊[書誌事項]写本 弘化04年[旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002883&ID=M2018051109165431627&TYPE=&NO=

南国伊豆の昔話』[( 昭和60年10月19日)企画 南国伊豆観光推進協議会/発行者 社団法人 下田青年会議所 P72~74抜粋]より

走湯神社(Soto Shrine)の名前の由来が話されています
もともと「大賀茂(ogamo)の神様」の元にお湯があり これを「蓮台寺の神様」が盗んで 互いの神様が走りながら お湯の取り合いとなります
これで「走湯」と名前がついて 勝負の末に 蓮台寺に温泉はあるが 大賀茂には 湯が出ないという昔話になっています

走(はしり)り湯(ゆ)

むかし、大賀茂(おおがも)と大平山(おおひらやま)をはさんだところにある蓮台寺(れんだいじ)の神様(かみさま)がお湯(ゆ)の取りあいをして戦いました。

大賀茂(おおがも)の神様(かみさま)は、ずいぶんのん気きな神様でした。小春日和(こはるびより)のうららかな天気が続き のんびりと木(こ)かげで昼寝(ひるね)をしていました。足もとには大きな赤(あか)いつぼにいっぱいのお湯がおいてありました。

蓮台寺(れんだいじ)の神様(かみさま)は、かねがね大賀茂(おおがも)のお湯をほしいと思っていましたので、いつもすきをうかがっていました。

「しめた。しめた。のん気(き)に昼寝(ひるね)している。」

蓮台寺(れんだいじ)の神様(かみさま)は、白い雲の上から見下ろしてよろこびました。そして、赤いつぼごとお湯を盗(ぬす)んでいこうとおりてきました。

お湯のこぼれる音(おと)で目をさました大賀茂(おおがも)の神様(かみさま)は、 お湯ゆが盗(ぬす)まれたのに気づいて、

「こら、お湯を返(かえ)せ、こら、待(ま)てえ。」

と大声(おおごえ)をはりあげて蓮台寺(れんだいじ)の神様(かみさま)の後(あと)を追いかけました。

「こらあ、お湯どろぼうめ、なんてことをする。それは、だいじな大賀茂(おおがも)のお湯(ゆ)だぞ。」

顔(かお)を真っ赤(か)にしてどなり立(た)ててどんどん追(お)いついていきます。

「せっかく盗(ぬす)んだお湯だ。返(かえ)すものか。」

重(おも)いつぼをかかえて、はあはあ言(い)いながら いちもくさんににげていきます。そのうちに、二人(ふたり)の神様(かみさま)はへとへとにつかれてきました。

「よいしょ、よいしょ、ぜったいに負まけないぞ」

「だれが、おまえになんかに、わたすもんか。」

手(て)をからませ合あって、ハァハァとあらい息(いき)をはずませながら お湯のとり合あいを続つづけました。

一時間(いちじかん)くらいは、とり合(あ)いが続(つづ)きました。二人(ふたり)の神様(かみさま)のあらあらしい声(こえ)を聞(き)きつけて、大賀茂(おおがも)の方(ほう)からも、蓮台寺(れんだいじ)の方(ほう)からも、応援(おおえん)のためにおおぜいの神様(かみさま)がかけつけました。はじめのうちは、地元(じもと)の大賀茂(おおがも)の神様(かみさま)の方が勝(か)っていました。しかし、息(いき)せき切(き)ってかけつけた蓮台寺(れんだいじ)の神様(かみさま)も、あとへは引(ひ)けません。

「それ、がんばれ、がんばれ。」

「負まけるな、大賀茂(おおがも)のお湯(ゆ)がなくなるぞ。」

たがいにはげしいとり合(あ)いの戦(たたか)いが続(つづ)きました。

大平山(おおひらやま)のふもとがむらさき色いろにかわるころ とうとう大賀茂(おおがも)の神様(かみさま)は力(ちから)がつきてしまいました。

「勝(か)ったぞ。お湯(ゆ)をとったぞ。」

意気(いき)ようようと勝(かち)どきをあげて蓮台寺(れんだいじ)の神様(かみさま)は、夕(ゆう)やみせまる山(やま)あいを元気(げんき)よく帰かえっていきました。赤(あか)いつぼの中(なか)には、湯(ゆ)けむりを立たてるお湯(ゆ)が入(はい)っています。

こんなことがあってから、大賀茂(おおがも)はお湯(ゆ)が出でなくなってしまいました。そして、蓮台寺(れんだいじ)には熱(あつ)いお湯(ゆ)がたくさん出でています。

お湯(ゆ)が走(はし)ったということで、大賀茂(おおがも)には「走湯神社(はしりゆじんじゃ)」となづけられた神社(じんじゃ)があります。

『南国伊豆の昔話』( 昭和60年10月19日)企画 南国伊豆観光推進協議会/発行者 社団法人 下田青年会議所 P72~74抜粋より

走湯神社Soto Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

各々の神社の記事をご覧ください 

母神 三島大明神の第三の后神
(佐岐多麻比咩命(sakitamahime no mikoto)祀る神社 

・御笏神社(Oshaku Shrine)

一緒に読む
御笏神社(三宅島 神着)

御笏神社(おしゃくじんじゃ)は ご神託に基づき永正13年(1516)現社地(三宅島 神着(かみつき)に ご遷座になりました 元々は「神着の東郷(ひがしごう)」三宅島の北東に鎮座していました 旧社地は明治7年(1874)の火山噴火で溶岩流の下になってしまいました 格式は高く『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「佐伎多麻比咩命神社(Sakitamahime no mikoto no kamino yashiro)」に比定され その他に4つの式内社の論社を合祀している由緒ある古社です

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・祖師堂(Soshido)御笏神社の旧鎮座地 

一緒に読む
祖師堂(三宅島 神着)【御笏神社(Oshaku Shrine)旧鎮座地】

祖師堂(そしどう)は  一説には 御笏神社(Oshaku Shrine)の旧鎮座地で 現在の祖師堂(観音堂)の場所であったとされています 御笏神社(Oshaku Shrine)の東北100m程のところ 三宅一周道路に面しています

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椎取神社(三宅島神着)〈古社地〉 

一緒に読む
椎取神社(三宅島 神着)

椎取神社(しいとりじんじゃ)は ジオスポットとして有名です 笠木だけを残して埋まったかつての鳥居が残され 平成12年(2000年)の噴火当時発生した 大量の泥流の凄まじさが判ります 神社の歴史は『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の由緒(格式ある歴史)を持っています この拝殿から さらに南西に約100m程奥の森の中には 太古から変わらずに残る神秘的な聖域に 聳え立つ溶岩の陰に 御本殿が祀られています

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・両神社(下田市須崎) 

一緒に読む
両神社(下田市須崎)

両神社(りょうじんじゃ)は 伊豆半島 下田の須崎港に鎮座します 須崎には 古代祭祀遺蹟の残る恵比寿島があり 伊豆半島の三島信仰の聖地ともされいて 当社も 江戸期には「両社明神」と呼ばれ「薬師堂」が祀られ「三島明神」であるとされていました こうしたことから『延喜式神名帳』(927年12月編纂)の論社となっています

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・波夜多麻和氣神社(下田市相玉) 

一緒に読む
波夜多麻和氣命神社(下田市 相玉)

波夜多麻和気命神社(はやたまわけのみことじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社で 由緒(格式ある歴史)があります しかし 御祭神「波夜多麻和気命(Hayatamawake no mikoto)」は謎の神とされます 鎮座地の相玉は 辺りは山深い郷ですが 古くは「大井 (おほゐ) 」と呼ばれ豊かな水があって栄えていたであろうことは 稲生沢川(inozawa gawa)を挟むような相玉の郷の田園風景を一望すれば 推測はできます 稲生沢川は 下田の港に流れ込みますので これを遡れば この辺りの交通の便は良かったのであろうと想像は出来ます 下田から 海上ルートで容易に その先の伊豆諸島と繋がります「三島(御島)の神々」なのかも知れません

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1番「ナコ」(南子命)祀る神社

・南子神社(三宅島 神着) 

一緒に読む
南子神社(三宅島 神着)

南子神社(なごじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の格式の高い由緒のある神社です 御笏神社の祭神「佐岐多麻比咩命(sakitamahime no mikoto)」の一番目の王子とされる「南子命(Nago no mikoto)」を御祭神として祀ります 神着の南方にある 南子山の原生林の中に鎮座しています 

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・御笏神社(Oshaku Shrine)に合祀 三ノ朔幣神社(南子神社の遥拝所)
 御笏神社の記事をご覧ください 

一緒に読む
御笏神社(三宅島 神着)

御笏神社(おしゃくじんじゃ)は ご神託に基づき永正13年(1516)現社地(三宅島 神着(かみつき)に ご遷座になりました 元々は「神着の東郷(ひがしごう)」三宅島の北東に鎮座していました 旧社地は明治7年(1874)の火山噴火で溶岩流の下になってしまいました 格式は高く『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「佐伎多麻比咩命神社(Sakitamahime no mikoto no kamino yashiro)」に比定され その他に4つの式内社の論社を合祀している由緒ある古社です

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・三ノ朔幣神社(san no sakuheino Shrine)旧鎮座地(三宅島 神着)
 三ノ朔幣神社 旧鎮座地の記事をご覧ください 

一緒に読む
三ノ朔幣神社 旧鎮座地(三宅島 神着)

三ノ朔幣神社 旧鎮座地は 御笏神社(Oshaku Shrine)の東北100m程に鎮座します 三宅島 神着の南方にある南子山に鎮座する「南子神社(Nago Shrine)」の遥拝所であったとも 三宅島 阿古に鎮座する「富賀神社(Toga Shrine)」の遥拝所であったとも伝わります 現在は 御笏神社(Oshaku Shrine)に合祀されています

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・后神社(Kisaki Shrine)境内社の南子神社
 后神社(境内社の南子神社)の記事をご覧ください 

一緒に読む
后神社(三宅島 伊ヶ谷)

后神社(きさきじんじゃ)は 御祭神について 三島大明神の三宅島の后「伊賀牟比売命(いかむひめのみこと)」は 幼い子を抱いて 入水し石になって海中に鎮まっていると『三宅記(みやけき)』に記されます そうした訳でしょうか 三宅島の伊ヶ谷港の高台から太平洋を眺めるように鎮座します 又『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される格式ある由緒を持ちます 江戸時代に 三宅島に流された「禊教の教祖・井上正鐵の碑」もあります

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・南子神社(下田市 神子元島)

 ※式内社調査報告には記されていますが 現在 神子元島には神社や祠は見あたりません
波風が強く 何度も消失したとも伝わります
https://www.google.com/maps/place/%E7%A5%9E%E5%AD%90%E5%85%83%E5%B3%B6/@34.5745212,138.9420112,18z/data=!4m12!1m6!3m5!1s0x0:0x237eb1d45e96afc7!2z5Lih56We56S-!8m2!3d34.6576!4d138.966645!3m4!1s0x60175b74a0a70383:0x2858da0c91ac6c3e!8m2!3d34.5745212!4d138.9420112 

2番「カネ」(加彌命)祀る神社 

・カミイノ宮 御笏神社の本殿に合祀 

一緒に読む
御笏神社(三宅島 神着)

御笏神社(おしゃくじんじゃ)は ご神託に基づき永正13年(1516)現社地(三宅島 神着(かみつき)に ご遷座になりました 元々は「神着の東郷(ひがしごう)」三宅島の北東に鎮座していました 旧社地は明治7年(1874)の火山噴火で溶岩流の下になってしまいました 格式は高く『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「佐伎多麻比咩命神社(Sakitamahime no mikoto no kamino yashiro)」に比定され その他に4つの式内社の論社を合祀している由緒ある古社です

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・カミイノ宮 旧鎮座地(三宅島 神着 首山)※原生林の奥の為 未参拝です 

・二宮神社【旧地】山ノ神(三宅島 神着 東郷)〈当社〉 

一緒に読む
二宮神社【旧地】山ノ神(三宅島 神着東郷)

二宮神社【旧地】山ノ神(にのみやじんじゃ【きゅうちんざち】やまのかみ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の「加弥命神社(かみのみことの かみのやしろ)」の旧鎮座地とされています 当初は神着 首山の「カミイノ宮」に鎮座 その後神着 東郷の「山の神(二宮神社)」〈当社〉に遷座したと伝わり さらに 明治7年(1874)の噴火で この地から 御笏神社の境内西の奥にへ遷座し 現在は 御笏神社の本殿に合祀されています

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二宮神社(三宅島 坪田)(合祀先)〈論社〉 

一緒に読む
二宮神社(三宅島 坪田)

二宮神社(にのみやじんじゃ)は 現在の鎮座地には 元は「管原神社」がありました 昭和29年(1954)に「二宮神社跡(伊波乃比咩命神社 旧鎮座地)」を合祀して神社名が「二宮神社」と改称され 同じく 昭和29年(1954)には 坪田集落周辺の「4つの式内社の論社」が合祀され 現在に到っています

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3番「ヤス」(夜須命)祀る神社 

・御嶽神社跡(三宅島 坪田)〈当社〉 

論社
御嶽神社 跡(三宅島 坪田)

御嶽神社 跡(みたけじんじゃあと)は 由緒(格式ある歴史)を持っ『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載されている「夜須命神社(やすのみことの かみのやしろ)」の元の鎮座地とされています 昭和29年(1954)に「二宮神社(にのみやじんじゃ)」に合祀されていて 現在は旧鎮座地となり 鳥居が残ります

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・二宮神社(三宅島 坪田)〈合祀〉 

論社
二宮神社(三宅島 坪田)

二宮神社(にのみやじんじゃ)は 現在の鎮座地には 元は「管原神社」がありました 昭和29年(1954)に「二宮神社跡(伊波乃比咩命神社 旧鎮座地)」を合祀して神社名が「二宮神社」と改称され 同じく 昭和29年(1954)には 坪田集落周辺の「4つの式内社の論社」が合祀され 現在に到っています

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・嶽比良神社(三宅島 伊豆) ※掟により入山禁止の為 未参拝 

・子安宮(三宅島 神着) 

論社
子安宮(三宅島 神着)

子安宮(こやすのみや)は 三宅島の神着 字 門ノ原に 通称「バンバ山」という小丘があり ここに母体を像どる石神の側に陰陽を表わす二個の石が祀られています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載「夜須命神社(Yasu no Mikoto Shrine)」の旧鎮座地とも 遥拝所ともされています

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4番「テイ」(氐良命)祀る神社 

・神澤神社(三宅島 伊豆) 

一緒に読む
神澤神社(三宅島 伊豆)

神沢神社(かんざわじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「弖良命神社(Tera no mikoto Shrine)」に比定される格式の高い由緒ある神社です 三宅島の伊豆にある神座山の太古の森の中に 静かに鎮座しています

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・湯船神社(三宅島 神着)〈論社〉
 湯船神社の記事をご覧ください 

一緒に読む
湯船神社(三宅島 神着)

湯船神社(ゆぶねじんじゃ)は 三宅一周道路 神着のバス停 湯舟グラウンドの横に鎮座しています 元々の鎮座地は「東郷の湯池の湖畔」に鎮座していましたが 明治7年(1874年)7月3日正午頃より始まった噴火により 東郷集落が埋没焼失したため この地に遷座しました

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・八王子社(下田市中
 八王子社の記事をご覧ください 

 

5番「イタヒ」(志理太宜命)祀る神社 

・椎取神社(三宅島神着) 

一緒に読む
椎取神社(三宅島 神着)

椎取神社(しいとりじんじゃ)は ジオスポットとして有名です 笠木だけを残して埋まったかつての鳥居が残され 平成12年(2000年)の噴火当時発生した 大量の泥流の凄まじさが判ります 神社の歴史は『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の由緒(格式ある歴史)を持っています この拝殿から さらに南西に約100m程奥の森の中には 太古から変わらずに残る神秘的な聖域に 聳え立つ溶岩の陰に 御本殿が祀られています

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  ・志理太乎宜神社(片瀬白田) 

論社
志理太乎宜神社(片瀬白田)

志理太乎宜神社(しりたおぎじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)の論社とされ 早い時期から 三宅島の御祭神の分霊を祀っていたとも云われます 一方で八幡神を配祀して「来宮」とも「木の宮」ともされています 地元では 親しみを込めて「白田のキノミヤさん」と呼ばれています

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6番「クライ」(久良惠命)祀る神社 

・久良濱神社【出張(でばり)】 

遥拝所
久良濱神社〈高山様 出張〉(三宅島 坪田)

久良浜神社〈高山様 出張〉〈たかやまさま でばり〉は 昭和15~16年頃(1940~1941)二宮神社(坪田)に合祀された「久良濱神社(くらはまじんじゃ)の遥拝所」です 「久良濱神社」は『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の比定社で 由緒(格式ある歴史)を持っています 島民は「高山さん」は非常にこわい神様だとして恐れ 「出張〈でばり〉」からおまいりし 本殿「高山さん」には足を踏み入れたことはない ということである

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・久良濱神社(三宅島 坪田)
 ※未参拝 島民は「高山さん」は非常にこわい神様だとして恐れ足を踏み入れない 

・二宮神社(三宅島 坪田)〈合祀〉 

合祀
二宮神社(三宅島 坪田)

二宮神社(にのみやじんじゃ)は 現在の鎮座地には 元は「管原神社」がありました 昭和29年(1954)に「二宮神社跡(伊波乃比咩命神社 旧鎮座地)」を合祀して神社名が「二宮神社」と改称され 同じく 昭和29年(1954)には 坪田集落周辺の「4つの式内社の論社」が合祀され 現在に到っています

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7番「カタスケ」(片菅命)祀る神社 

・片菅神社(三宅島 神着美茂井
  片菅神社の記事をご覧ください

 

一緒に読む
片菅神社(三宅島 神着 美茂井)

片菅神社(かたすげじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)にも所載されて 由緒(格式ある歴史)を持っています 『三宅記(みやけき)』(鎌倉時代末期の作)によれば 三女〈三島大明神の后神(佐岐多麻比咩命(さきたまひめのみこと〉のお産みになられた 7番目の御子の名が「かたすけ」と呼ばれ この御子神が 当社の御祭神「片菅命(かたすげのみこと)」であるとされています

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・御笏神社 に合祀された境内神社の勝祖神社
  御笏神社の記事をご覧ください 

一緒に読む
御笏神社(三宅島 神着)

御笏神社(おしゃくじんじゃ)は ご神託に基づき永正13年(1516)現社地(三宅島 神着(かみつき)に ご遷座になりました 元々は「神着の東郷(ひがしごう)」三宅島の北東に鎮座していました 旧社地は明治7年(1874)の火山噴火で溶岩流の下になってしまいました 格式は高く『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「佐伎多麻比咩命神社(Sakitamahime no mikoto no kamino yashiro)」に比定され その他に4つの式内社の論社を合祀している由緒ある古社です

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・若宮神社(三宅島 伊ヶ谷)后神社の境内社 もしくは 后神社の本殿に合祀
  后神社(三宅島 伊ヶ谷)の記事をご覧ください 

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后神社(三宅島 伊ヶ谷)

后神社(きさきじんじゃ)は 御祭神について 三島大明神の三宅島の后「伊賀牟比売命(いかむひめのみこと)」は 幼い子を抱いて 入水し石になって海中に鎮まっていると『三宅記(みやけき)』に記されます そうした訳でしょうか 三宅島の伊ヶ谷港の高台から太平洋を眺めるように鎮座します 又『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される格式ある由緒を持ちます 江戸時代に 三宅島に流された「禊教の教祖・井上正鐵の碑」もあります

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・若宮神社(三宅島 伊豆)后神社の境外社
若宮神社(三宅島 伊豆)の記事をご覧ください 

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若宮神社(三宅島 伊豆)(后神社の境外 末社)

若宮神社は 后神社の境外社です 三宅一周道路から 伊豆岬灯台へと下る道路の左側 道路と海の間にある藪の中に に小さな祠が鎮座しています

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・片菅神社(東伊豆町片瀬) 

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片菅神社(片瀬白田)〈延喜式内社 片菅命神社の論社〉

片菅神社(かたすげじんじゃ)は 徳治2年(1307)創始と伝えますが この説は 若宮八幡神を合祀勧請した時のものとされ 別の説では 片菅神社の創祀は さらに以前であって 三宅島に鎮座する片菅神社を分霊したもので 伊豆地方では「若宮」とは「三島神の御子神」を意味し 7番目の御子名「かたすけ」とされます

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8番「ヒンスケ」(波夜志命)祀る神社 

・峯指神社(Hoshino kamino yashiro)御笏神社の本殿に合祀 

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御笏神社(三宅島 神着)

御笏神社(おしゃくじんじゃ)は ご神託に基づき永正13年(1516)現社地(三宅島 神着(かみつき)に ご遷座になりました 元々は「神着の東郷(ひがしごう)」三宅島の北東に鎮座していました 旧社地は明治7年(1874)の火山噴火で溶岩流の下になってしまいました 格式は高く『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「佐伎多麻比咩命神社(Sakitamahime no mikoto no kamino yashiro)」に比定され その他に4つの式内社の論社を合祀している由緒ある古社です

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・峯指神社(Hoshino kamino yashiro)旧鎮座地 

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峯指神社〔 旧鎮座地 〕(三宅島 神着)

峯指神社(ほうしじんじゃ)〔 旧鎮座地 〕は 風速山を祀っていたと伝わります 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載された格式高い由緒を持ちますが 明治7年(1874)の噴火で 旧鎮座地は 溶岩流の台地の中にあります 現在は御笏神社(おしゃくじんじゃ)に合祀されています

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・走湯神社(下田市大賀茂)

 

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走湯神社(下田市大賀茂)

走湯神社は 「(そうとうじんじゃ)or(すとうじんじゃ)」と呼ばれます 『南国伊豆の昔話』によれば 蓮台寺の神様と お湯の取り合いをして 走り戦いましたので「走湯」というと云われています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の由緒(格式ある歴史)を持っています

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伊豆国 式内社 92座(大5座・小87座)について に戻る       

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伊豆國 式内社 92座(大5座・小87座)について

伊豆国(いつのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 伊豆国には 92座(大5座・小87座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています