実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

静原神社&静原御旅天皇社(京都市左京区静市静原町)

静原神社しずはらじんじゃは 壬申の乱の際 大海人皇子天武天皇が逆賊に襲われ難を避けて 鞍馬から薬王坂を越えて静原に留まられた時 玉体安らかに御心も静かにあそばされたので それまで賤原もしくは志津原と呼ばれた地名を 静原と称するようになった所 延喜式内社 山城國 愛岩郡 須波神社(すはの かみのやしろ)の論社です

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

静原神社Shizuhara shrine

通称名(Common name)

 ・〈旧号〉二宮社

【鎮座地 (Location) 

京都府京都市左京区静市静原町1351

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
   瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

静原社由緒

 社伝によれば、成務天皇十二年三月午日に山城国愛宕郡志津原に鎮座す。
伊弉諾尊が高天原に坐し、瓊瓊杵尊が日向の高千穂に天降り、はじめは静原楢小川の上流「河合谷意美和良川」に鎮まられた。

 古来、御本社に伊弉諾尊、奥御前に瓊瓊杵尊をまつったが、そのため合わせて「二宮社」と呼ばれる。
また、天武天皇が逆徒に襲われ此所に臨幸され、玉体安らかに御心も静かにあそばされた為、静原と称す。そして、刀・弓・矛等を奉納されたため江州浅井郡の地 三三〇石を御寄付され、和銅四年三月三日より祭祀を始める。

 現社地を「真路山」、御旅所を「天皇社山」と称す。天正検地で三三〇石没収されるも、秀吉公より下鴨社領として三〇石が定められ明治に至る。そのため、静原沙汰人と称して、下鴨社の御蔭祭に奉仕する例が現在も続いている。

静原神社

現地立札より

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【由  (History)】

静原神社

静原一社総用記によると人皇十三代成務天皇壬午年に志津原の栖小川の川上(河合谷意美和良川、現在の東俣川と西俣川の交わるところ)に伊弉諾尊、瓊々杵尊をお迎えして祭祀されたと伝わる。その後、現在の静原神社御本社に伊弉諾尊、奥御前に瓊々杵尊を合祀される。

境内には天満宮、比売宮、稲荷神社(石座)、豊受神社、貴船神社、皇大神宮、和田八幡社、惣山神社、香取神社、琴平神社(石座)猿田彦神社が祭祀されている。

かつては本殿、拝殿、末社、神庫等を備えた静市第一の社であったが、明応年間の戦による兵火で社領の祠、社記や記録等はすべて焼失してしまった。

氏人は代々民間神主で氏神を奉祀し、静原沙汰人として葵を採集、葵祭に献上していた。今でも下鴨神社の御蔭祭り、葵祭には沙汰人として参列する習わしが綿々と続いている。

shizuhara.net゛京都洛北の集落 静原の地域情報サイト゛「静原神社」より
http://shizuhara.net/archives/21

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・本殿

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・瑞垣内の境内社

〈本殿向かって右側〉

一つの覆屋に境内社が

南向きに一宇の祠〈豊受神社〉

一つの覆屋に境内社が

西向きに祠〈向って右・天満宮 向って左・比賣宮〉

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〈本殿向かって左側〉

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一つの覆屋に境内社が

南向きに一宇の祠〈貴船神社〉

一つの覆屋に境内社が

向きに五宇ぶ祠〈向って右から・天照大神宮・八幡宮社・惣山神社・香取神社・猿田彦社〉

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・瑞垣と中門

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・瑞垣前の狛犬

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・舞殿・拝殿

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・手水舎・御神木

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・二の鳥居〈東向き〉

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・一の鳥居〈南向き〉

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・社頭から境内を見る

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・静原御旅天皇社(京都市左京区静市静原町)〈静原社旅所〉

《主》仲哀天皇・天武天皇

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静原御旅天皇社

村の人々から「下の宮」と呼ばれ、第14代仲哀天皇、第40代天武天皇を御祭神とする。

かつて下の宮とやっこう坂(薬王坂)の中間、水谷川の流れる山裾に大きな岩があり、その巨石の下に村の人々から「総さしさん」と呼ばれていた小さな祠があった。

壬申の乱の際、大海人皇子(のちの天武天皇)が逆賊に襲われ一時難を避けて鞍馬からやっこう坂を越えて静原に留まられた。皇子の事跡がこの総さしの宮に残されていたが、後に村人は天皇の徳を慕って現在の場所に御旅天皇社を建てられた。

それまで静原は賤原もしくは志津原と呼ばれていたが、大海人皇子が静原に滞留された折、身も心も静かになられたことから静原と名付けられたと言われている。

shizuhara.net゛京都洛北の集落 静原の地域情報サイト゛「静原御旅天皇社」より
http://shizuhara.net/archives/27

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)山城國 122座(大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣))

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)愛宕郡 21座(大8座・小13座)

[名神大 大 小] 式内

[旧 神社 名称 ] 須波神社
[ふ り が な ]すはの かみのやしろ
[Old Shrine name]Suha no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 山城國 愛岩郡 須波神社(すはの かみのやしろ)の論社について

・須波神社(京都市北区上賀茂本山)
〈上賀茂神社の境内に鎮座〉

一緒に読む
須波神社(京都市北区上賀茂本山)〈上賀茂神社の摂社〉

須波神社(京都市北区上賀茂本山)は 賀茂別雷神社の摂社で 本社楼門のまえを流れる御物忌川の対岸 片山御子神社のすぐ南 片岡山の麓に鎮座します 江戸時代は゛諏訪社゛と呼ばれましたが 明治以降゛須波神社゛と改称しています 延喜式内社 山城國 愛岩郡 須波神社(すはの かみのやしろ)の論社とされます

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・六社〈由木社・印社・竈神・稲荷社・衢社・諏訪社〉の諏訪社(京都市左京区下鴨泉川町)
〈下鴨神社の境内に鎮座する 河合神社の境内社 六社〉

一緒に読む
六社〈・諏訪社・衢社・稲荷社・竈神・印社・由木社〉(京都市左京区下鴨泉川町)

六社(むつのやしろ)は 元々は 河合神社の境内に別々に祀られていた 六つの社〈・諏訪社・衢社・稲荷社・竈神・印社・由木社〉が 江戸時代の式年遷宮の時 一棟に祀られて 六社の名称となり現在に至ります この内の 諏訪社(すはしゃ)は 延喜式内社 山城國 愛岩郡 須波神社(すはの かみのやしろ)の論社です

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・諏訪社(京都市左京区下鴨泉川町)
〈下鴨神社の境内に鎮座する 三井神社の境内社 諏訪社〉

一緒に読む
諏訪社(京都市左京区下鴨松ノ木町)〈下鴨神社 本殿左側 三井神社の境内社〉

諏訪社(すわしゃ)は 下鴨神社の本殿左隣に鎮座する境内摂社 三井神社の三つ並んで祀られている本殿の向かって左手〈西側〉に 三つの境内社〈・諏訪社・小杜社・白鬚社〉が 並んで鎮座しています その内 一番奥〈北側〉のしゃが諏訪社です 延喜式内社 山城國 愛岩郡 須波神社(すはの かみのやしろ)の論社となっています

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・静原神社(京都市左京区静市静原町)

一緒に読む
静原神社&静原御旅天皇社(京都市左京区静市静原町)

静原神社(しずはらじんじゃ)は 壬申の乱の際 大海人皇子〈天武天皇〉が逆賊に襲われ難を避けて 鞍馬から薬王坂を越えて静原に留まられた時 玉体安らかに御心も静かにあそばされたので それまで賤原もしくは志津原と呼ばれた地名を 静原と称するようになった所 延喜式内社 山城國 愛岩郡 須波神社(すはの かみのやしろ)の論社です

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・河合神社(京都市左京区下鴨泉川町)
〈下鴨神社の境内に鎮座〉

一緒に読む
河合神社(京都市左京区下鴨泉川町)〈下鴨神社 境内゛京都で美人祈願゛〉

河合神社(かわいじんじゃ)は  下鴨神社 境内゛糺森(ただすのもり)゛に囲まれて 女性の女性の守護神・美麗の神様として知られる玉依姫命を祀ります 下鴨神社の第一摂社であり 延喜式内社 山城國 愛岩郡 鴨川合坐小社宅神社(名神大 月次 相嘗 新嘗)(かものかはひにます おこそへの かみのやしろ)とされる由緒ある古社です

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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

叡山電鉄鞍馬線 市原駅から県道40号線を大原方面〈北東方向〉へ約4.1km 車で8分程度

途中 県道40号線沿いに〈静原社旅所〉があり 天皇社が祀られています

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静原御旅天皇社京都市左京区静市静原町に参着

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殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿に一礼をして 境内を戻ります
目の前には 棚田があり その先には静原川が流れています 静原川は ここから2.5km程の下流で 鞍馬川と合流して 更に2.5km程下ると加茂川に合流します

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更に
鞍馬川と加茂川の合流地点から 加茂川を3.5km程下ると 上賀茂神社
上賀茂神社の3.8kmほど下流が 下鴨神社です

ここから 8.5km川を下ると 上賀茂神社
ここから 12.3km川を下ると 下鴨神社と云う事になり 川を下れば凄く近い

静原が下鴨社領であったこと 賀茂神社の末社になっていた事が納得できます

静原御旅天皇社〈静原社旅所〉から静原神社までは 750m程です

静原神社京都市左京区静市静原町に参着

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南を向いて建つ 一の鳥居に 一礼をして くぐり抜けると 参道はつづら折れのの様になっていて 二の鳥居は東を向いて建ちます

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杉の巨木が立ち並ぶ参道を上がると舞殿拝殿が建っています

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舞殿拝殿の奥に 石段がありその上が中門となっています

瑞垣と中門にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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瑞垣の中には 多数の境内社が祀られています
お祈りをして 参道を戻ります

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一の鳥居の先には 静原の集落があります

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 須波神社について 所在は゛今別雷社楼門外に在す、諏訪社是歟゛〈現 須波神社〈上賀茂神社の摂社〉〉と記しています

その他の説として゛静原村平松山、稱ニ静原大明神゛〈現 静原神社(京都市左京区静市静原町)〉紹介していますが この説の根拠を知らないとしています

【抜粋意訳】

須波神社

須波は假字也

○祭神 健御名方命比保古○考証に、阿須波神と云り、今從は

○今別雷社楼門外に在す、考証」名跡志諏訪社是歟
○別雷社末社也

山城志云、在静原村平松山、稱ニ静原大明神、云々、其を志らず、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 須波神社について 社号のみが記されています

【抜粋意訳】

須波(スハノ)神社

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 須波神社について 所在には諸説がある
゛別雷神楼門外に在す諏訪社゛〈現 須波神社〈上賀茂神社の摂社〉
゛御祖社 攝社河合社゛〈現 河合神社(下鴨神社の境内に鎮座)〉
゛三井の末社に各諏訪社゛〈現 下鴨神社の境内 三井神社の境内社 諏訪社〉
゛静原明神゛〈現 静原神社(京都市左京区静市静原町)

しかし 何れも確証がないが 諏訪社と云うものがあるので 廃絶したとは言い難いので 尚考証をしてもらいたいと記しています

【抜粋意訳】

須波(スハノ)神社

祭神
祭日
社格

所在

今按 京都府式内考證に 當社考證  名跡志等に別雷神楼門外に在す諏訪社也と云ひ 今別雷神の説も又 稱すれども 頗る小祠にして 證するに足るものなし 御祖社 攝社河合社 及 三井の末社に各諏訪社あれども 亦徴すべからず 志云 静原明神なるもの是尤舊社にして 平庸の村社に非ず 今只據を知らざるを確信すべからずと云れど 諏訪社と稱するものあれば 廃社とは云難し 猶よく考べし

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

静原神社京都市左京区静市静原町 (hai)」(90度のお辞儀)

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山城国 122座(大53座(並月次新嘗 就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)

一緒に読む
山城國 122座(大53座(並月次新嘗 就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)

山城国(やましろのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 山城国 の122座(大53座(並月次新嘗 就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)の神社のことです

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