倭文神社(しとりじんじゃ)は 第十一代 垂仁天皇の御代の創建と伝えられ 貞観元年(859)には官社に列せられています 上野国九之宮とされる 式内社 倭文神社(しとりの かみのやしろ)です 利根川北岸に鎮座し 南岸に鎮座する式内社 火雷神社(上野国八之宮 下之宮)に対して「上之宮(うえのみや)」と称されます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
倭文神社(Shitori shrine)
【通称名(Common name)】
・上野国の九之宮(こうずけのくにのくのみや)
【鎮座地 (Location) 】
群馬県伊勢崎市東上之宮町甲380
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天羽槌雄命(あまのはづちおのみこと)
《配》倉稲魂命,菅原道真,豊受姫命,木花咲耶姫命,大己貴命,大山祇命,誉田別命,素盞嗚命,菊理姫命
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・機織の神
・織物・養蚕・農耕の神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 上野國九之宮
【創 建 (Beginning of history)】
倭文神社略由緒
鎮座地 伊勢崎市東上之宮町三八〇番地
延喜式内 上野十二社 九之宮
主祭神 天羽槌雄命
配祀神
倉稻魂命 木花咲耶姫命 誉田別命
菅原道眞命 大己貴命 素盞嗚命
豊受姫命 大山祇命 菊理姫命当社の御祭神は、天羽槌雄命で、その歴史は古く機織の祖神として、また農耕、養蚕の神として尊崇されてきた。その創建は、人皇第十一代 垂仁天皇の御宇三年と伝えられているが、これを明らかにする証跡は、現在不明となっている。
貞観元年(八五九)に官社に列せられ、従五位下を授けられた。(三代実録)その後、延長五年(九二七)に撰集された『延喜式』神明帳の中に倭文神社の名が載せられ、上野神明帳には、『従一位倭文大明神』とあって上野国の九之宮とも称された。
その後、戦国時代の争乱にまきこまれ、一時荒廃したが徳川氏の江戸入部以来 関東地方も次第に平和をとりもどし、元和年間(一六一五~二三)から寛永年間(一六二四~四三)に入る頃は、社殿も再建され、別当寺として、新義真言宗宮川山慈眼寺が定められ、住持実秀が別当となった。以後近世を通じ倭文神社は慈眼寺の管理下におかれた。三代将軍家光のれ慶安元年(一六四八)九月には、御朱印地十石を賜わり、漸く安定した神社経営が行われ、祭事も復興し、神威もいよいよ加わるに至った。その後約八十年を経て、享保十二年(一七二七)八月には、八代将軍吉宗から社殿再建勧進の許可を得て上野国はもとより、江戸府内からも浄財の寄進を仰ぎ、旧にまさる荘厳な社殿鳥居などが再建され、大いに隆盛 をきわめた。しかし、この社殿も慶応二年(一八六六) 十一月九日再度火災に会い、悉く灰燼に帰してしまった。
現在の社殿はその後、明治十三年十月二十四日(上棟)に再建されたものである。なおさきの御朱印地十石の斎田は、明治維新の際上納され、また明治元年の神仏分離令により、別当寺や社僧の制も廃止され、神職によって祭祀される現在の姿となった。その後区内の小社祠の整理合祀も行われ、この間郷社に列せられた。また大正十四年には、神饌幣帛料供進社に指定された。
今次大戦後は、国家神道や社格もなくなり、純粋な上之宮町の鎮守として今日に至っている。現地掲示板より
【由 緒 (History)】
由緒
当社の御祭神は 天羽槌雄命で天の岩戸開きに功績のあった神として その子孫の倭文氏が誇りを持って崇め 織物・養蚕・農耕の神として崇敬されている
往古の名社として貞観元年(860)に官社に列せられ従五位を授けられる。
その後、延長5年(927)に延喜式神名帳に倭文神社の名が載せられた
その創建は 十一代 垂仁天皇の年と伝えられている。
その後、戦国時代に兵火にかかり荒廃し 江戸時代になり寛永年間(360年前)に再建され 真言宗慈眼寺実秀が別当に定められ 慶安元年(340年前)朱印地十石を下賜され 将軍吉宗の許可を得て 江戸府内を始め上野の国内からも浄財の寄進を仰ぎ 社殿・鳥居などが再建されたが 慶応3年11月19日火災により灰燼となってしまった。現在の社殿は明治13年10月14日に再建されたもの。
◆田遊祭(神事)…中世祭祀のおもかげを残す行事にて、1月14日午後6時ごろより開始される。笹振り4人、長持ち2人、太鼓持ち2人、太鼓打ち1人の人達が、白装束を着て神官は社殿で祝詞を奏上し、その時一同も参列し終ると神官、区長、副区長、総代が提灯を回して、太鼓に合わせて御神歌を歌いながら祭り事を行う。
※田遊神事の神歌…えーとう/えーとう/えーとう/前田の鷺が御代田にぎろり/ぎろぎろめくのは/なんだんぼ/一本植えれば/千本になる/唐々芒子の種//えーとう/えーとう/えーとう/乾のすまの/掃部の長者/つじゅう十石ざらり/ざらざらめくのは/なんだんぼ/一本植えれば/千本になる/唐々芒子の種※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
伊勢崎市指定重要無形民俗文化財
倭文神社の田遊び平成十九年八月十七日指定
倭文(しどり)神社の田遊びは、上之宮町の倭文神社で毎年一月十四日に行われる田植えの予祝行事です。
笹竹を持つ祭員が笹竹を振り、ご神歌を奉唱しながら鳥居と拝殿を三往復した後、町内を巡行します。戻ると再び鳥居に整列し.鳥居と拝殿の間を三往復します。
昔は最後に参会者による笹竹の奪い合いがあり、この竹で蚕箸を作ると蚕が当たるとされていました。
この田遊びの、ご神歌は中世期まで遡り、貴重です。御神歌
エートウ、エートウ
まえだの鷺(さぎ)が御代田(おしろだ)にぎろり
ぎろぎろめくのは なんだんぼ
一本植えれば千本になる
とうとうぼうしの種
エートウ、エートウ
乾(いぬい)のすまの掃部(かもん)の長者
つじゅう十石ざらり
ざらざらめくのは なんだんぼ
一本植えれば千本になる
とうとうぼうしの種
平成二十年三月一日 伊勢崎市教育委員会現地案内板より
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本殿向かって右奥 境内社〈三社神社・天神社・天満神社・八幡神社・市杵嶋神社・熊野神社〉
・本殿向かって左奥 境内社〈・八坂神社・小石祠・霊符神・山神社・琴平神社 稲荷神社 石井神社 神明神社 薬王神社〉
・弁財天神社
・蚕霊神社
・境内東側 鳥居とその右脇に・社日社
・境内東側 鳥居の内側 4つの石碑〈向かって左から・少彦名神・道祖神・双体道祖神・道祖神〉
・神楽殿〈境内西側〉
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
官社に列し 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
巻三 貞觀元年(八五九)八月十七日〈庚子〉の条
○十七日庚子
上野國 正六位上 委文神 列於官社巻三 貞觀元年(八五九)八月廿日〈癸卯〉の条
○廿日癸卯
授 上野國 正六位上 委文神 從五位下
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)上野国 12座(大3座・小9座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)那波郡 2座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 倭文神社
[ふ り が な ](しとりの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Shitori no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
利根川の対岸に鎮座する 二つの式内社〈上野國 那波郡・火雷神社・倭文神社〉について
火雷神社は゛延暦十五年(756年)に官社『日本後紀』゛
倭文神社は゛貞観 元年(859年)に官社『三代実録』゛に列しています
当時の利根川の流域は 伊勢崎市西部の広瀬川低地を流れていたとされ 二つの神社は 同じ那波郡の所在で 現在の利根川沿いに流れていた榛名山水系の八幡川の下流を境界にして南北〈上下〉に区分されていたと云われます それぞれ ・上之宮・下之宮と呼ばれています
・上之宮〈利根川の北岸(上)〉
『延喜式神名帳』所載 上野國 那波郡 倭文神社(しとりの かみのやしろ)
・倭文神社(群馬県伊勢崎市)
倭文神社(しとりじんじゃ)は 第十一代 垂仁天皇の御代の創建と伝えられ 貞観元年(859)には官社に列せられています 上野国九之宮とされる 式内社 倭文神社(しとりの かみのやしろ)です 利根川北岸に鎮座し 南岸に鎮座する式内社 火雷神社(上野国八之宮 下之宮)に対して「上之宮(うえのみや)」と称されます
倭文神社(伊勢崎市東上之宮町)〈上野國九之宮〉
・下之宮〈利根川の南岸(下)〉
『延喜式神名帳』所載 上野國 那波郡 火雷神社(ほのいかつちの かみのやしろ)
・火雷神社(玉村町下之宮)〈上野國八之宮〉
火雷神社(からいじんじゃ)は 延喜式内社 火雷神社(ほのいかつちの かみのやしろ)です 社伝によると 崇神天皇元年の鎮座 火雷宮と号したと伝え 桓武天皇 延暦十五年(796)には官社に預り 上野国八之宮とされ 利根川南岸に鎮座し 北岸に鎮座する倭文神社(上野国九之宮 上之宮)に対して「下之宮(しものみや)」と称されます
火雷神社(佐波郡玉村町大字下之宮)〈上野國八之宮〉
大和国 葛城地方にある二つの式内社〈・火雷神社・倭文神社〉について
上野國の火雷神社と倭文神社の二社は 大和国〈奈良県〉葛城氏に深く関係のある神社とも考えられています
二社が 大和国〈奈良県〉葛城氏に深く関係のある神社と考えられている理由は 大和国葛城地方に 両社の本宮とも云われる二つの式内社〈1・葛木倭文坐天羽雷命神社 2・葛木坐火雷神社二座〉があるからです
それぞれの論社の記事を確認願います
1.『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
大和國 葛下郡 葛木倭文坐天羽雷命神社 大(かつらきの しとりにます あめのいかつちのみことの かみのやしろ)
・葛木倭文座天羽雷命神社(奈良県葛城市)
・博西神社(奈良県葛城市)
2.『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
大和國 忍海郡 葛木坐火雷神社 二座(並 名神大 月次 相嘗 新嘗)(かつらきにます ほのいかつちの かみのやしろ)
・葛木坐火雷神社〈笛吹神社〉(葛城市笛吹)
葛木坐火雷神社(かつらきにいます ほのいかづちじんじゃ)は 延喜式内社 葛木坐火雷神社二座(並名神大月次相嘗新嘗)(かつらきにます ほのいかつちの かみのやしろ ふたくら)です 創建は 神代とも神武天皇の御代とも云われ 二座の内 笛吹神社は 上古以来 朝廷が大事を卜定められる毎時 波波迦木を進献していたと伝わります
葛木坐火雷神社〈笛吹神社〉(葛城市笛吹)〈延喜式内社 名神大社〉
上ノ宮・下ノ宮の呼称を持つ 山城國〈京都府〉乙訓郡の式内社 火雷神社について
山城國 乙訓郡 乙訓坐 大(火)雷神社(名神大 月次 新嘗)(をとくににます おほいかつち(ほのいかつち)の かみのやしろ)の論社である 向日神社は 元々は 同じ向日山に鎮座する・向神社(上ノ社)・火雷神社(下ノ社)という別の神社だったとされています
向日神社の配布するパンフレットには次のように記されています
「向神社と火雷神社の両社は、同じ向日山に鎮座され、向神社は上ノ宮、火雷神社は下ノ社と呼ばれていた」とあります
これは 上野國 那波郡の二つの式内社〈・火雷神社・倭文神社〉と同様の呼ばれ方ですが 単なる偶然ではないでしょう
・〈向日神社に合祀の火雷神社〉と向日神社(向日市向日町北山)
『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の13社「倭文神社」と論社について
倭文氏の祖神「天羽雷命(アマハイカヅチノミコト)=建葉槌命」を祀る式内社とされ 各国に13社が記されています それぞれの現在の論社もご紹介します
1.畿内 大和國 葛下郡 葛木倭文坐天羽雷命神社 大
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・葛木倭文座天羽雷命神社(奈良県葛城市)
・博西神社(奈良県葛城市)
2.東海道 伊勢國 鈴鹿郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・加佐登神社(三重県鈴鹿市)〈合祀先〉
3.駿河國 富士郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社(静岡県富士宮市)
倭文神社(しどりじんじゃ)は 古代 布織技術を誇った倭文氏が 祖神 健羽雷神(たけはつちのかみ)〈織物の神〉を祀った『延喜式神名帳927 AD.』所載の 駿河国 富士郡 倭文神社(しとりの かみのやしろ)とされます 又 鎮座地の星山は 星神として君臨して居た香々背男との関連も示唆し 常世国神(とこよのかみ)を奉じて大和朝廷に反した大生部 多(おおうべ の おお)〈不尽河〈富士川〉の辺に住む人〉の伝承にも通じています
倭文神社(富士宮市星山)
4.伊豆國 田方郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社(伊豆市大野)
倭文神社(しどりじんじゃ)は 伊豆市大野にある倭文山の山頂に鎮座する『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 式内社゛倭文神社(しとりの かみのやしろ)゛の論社です 縄文遺跡もあり この地が古くから 渡来文化(機織技術など)で開けていたことを示すものとされています
倭文神社(伊豆市大野)
・鍬戸神社(三島市長伏)
鍬戸神社(くわとじんじゃ)は 江戸期には 鍬手明神と云われていました 同じ境内地の中に 同じく延喜式内社の高橋神社〈東北東向き〉と背中合わせに 鍬戸神社の本殿〈南南東向き〉が並び建てらけて お祀りされています
鍬戸神社(三島市長伏)
・小坂神社(伊豆の国市小坂)に合祀
小坂神社(おさかじんじゃ)は 明治6年(1873) に 地区内各所に祀られていた17の神社が合祀されました その中の一祠は 古来から葛城山の山頂に鎮座し 合祀当時は 山麓の寺に遷されて小祠として祀られていた「葛城神社」〈式内社「倭文神社(しとりの かみのやしろ)」の論社〉です
小坂神社(伊豆の国市)
・聖神社(伊豆市月ヶ瀬)
聖神社(ひじりじんじゃ)は 聖ヶ森に鎮座していた聖宮大明神を明治9年(1876)この社殿に合祀し主神として祀ったものです 最古の上梁文に永正9年(1512)のものがあり 村名に「槻瀬村」とあり 現在の地名『月ヶ瀬』の由来を示す者とされています
聖神社(伊豆市月ヶ瀬)
5.甲斐國 巨麻郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社本宮(山梨県韮崎市)
・倭文神社降宮明神(山梨県韮崎市)
・諏訪大神社(山梨県甲斐市)
6.常陸國 久慈郡 靜神社 名神大
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・靜神社(茨城県那珂市)
7.東山道 上野國 那波郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社(群馬県伊勢崎市)
倭文神社(しとりじんじゃ)は 第十一代 垂仁天皇の御代の創建と伝えられ 貞観元年(859)には官社に列せられています 上野国九之宮とされる 式内社 倭文神社(しとりの かみのやしろ)です 利根川北岸に鎮座し 南岸に鎮座する式内社 火雷神社(上野国八之宮 下之宮)に対して「上之宮(うえのみや)」と称されます
倭文神社(伊勢崎市東上之宮町)〈上野國九之宮〉
8.山陰道 丹後國 加佐郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社(京都府舞鶴市)
9.丹後國 與謝郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社(京都府与謝郡与謝野町)
10.但馬國 朝來郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社〈鮭の宮〉(兵庫県朝来市)
倭文神社(しどりじんじゃ)は 和銅5年(712年)創建された 延喜式内社 但馬國 朝來郡 倭文神社(しとりの かみのやしろ)と伝わります 正徳3年(1713年)遷宮の時 偶然下流から鮭が遡上し 村人達は めでたい前兆として喜び〈鮭の宮〉と呼ぶようになったと伝わります
倭文神社〈鮭の宮〉(朝来市生野町円山)〈延喜式内社論社〉
・妙見宮〈国常神社〉(兵庫県朝来市)
國常神社(くにのとこじんじや)は 北辰信仰の妙見宮(みょうけんぐう)とも呼ばれ 国常立尊(くにのとこたちのみこと)を祀ります この地は 式内社 倭文神社〈鮭の宮〉(ここから500m程の 円山川の下流)の旧鎮座地 円山字鹽谷であると伝わります
國常神社〈妙見宮〉(朝来市生野町円山)
11.因幡國 高草郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社(鳥取県鳥取市)
12.伯耆國 川村郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社(鳥取県湯梨浜町) 伯耆 一之宮
倭文神社(しとりじんじゃ)は 云い伝えによれば 大国主命の娘神「下照姫命」が 一匹の海亀の導きによって 宇野の海岸に着船し この小高い丘からの眺めに癒され 住居を定め 農業指導や 医薬普及に努めたと云い 人々は敬い 古くから格式高く 伯耆国の一之宮として 湯梨浜町(ゆりはまちょう)に鎮座します 境内には「安産岩」と呼ばれる岩があり 安産の神様としても知られます
倭文神社(湯梨浜町)安産の神として崇敬される伯耆国の一之宮
13.伯耆國 久米郡 倭文神社
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
・倭文神社(鳥取県倉吉市) 伯耆 三之宮
倭文神社(しとりじんじゃ)は 御祭神の武葉槌神(一説には 経津主神とも)が 出雲の国譲りの際 豊原中国を平定せよとの詔勅により 出雲へ出陣をされます この時 御陣営をかためられたのがこの地で 倭文神社はこの神跡であると伝えられています
倭文神社(倉吉市志津)伯耆国三之宮
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
群馬県玉村町に鎮座する 下之宮〈火雷神社〉から利根川を渡り 北上して約
2km 上之宮〈倭文神社〉があります
東隣に倭文の郷公園があり 境内社頭の両部鳥居は 南を向いて建っています
社頭の社号標は 木の葉に埋もれていますが
式内 倭文神社 と刻字されています
倭文神社(伊勢崎市東上之宮町)に参着
朱色の両部鳥居の扁額にも 倭文神社と記されます
一礼をして 鳥居をくぐります
拝殿にすすみます
拝殿には 山の絵が掲げられている
と思ったら どうやら 上野國十二社の絵図のようです 左の山が榛名山 右の山が赤城山です
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 幣殿 本殿が鎮座し その脇には磐座があり 奥には境内社 琴平神社や石祠のシルエットが見えています
境内社に参拝して 社殿に一礼 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 倭文神社の所在について 上之宮村〈現 倭文神社(伊勢崎市東上之宮町)〉と記しています
【抜粋意訳】
倭文神社
倭文は 志豆利と訓べし
〇祭神 建葉槌命
〇上之宮村に在す 地名記類社
伊勢國 鈴鹿郡 倭文神社の下見合すべし神位 官社
三代実録、貞觀元年(八五九)八月十七日〈庚子〉上野國 正六位上 委文神 列於官社
貞觀元年(八五九)八月廿日〈癸卯〉授 上野國 正六位上 委文神 從五位下
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 倭文神社の所在について 東上宮村〈現 倭文神社(伊勢崎市東上之宮町)〉と記しています
【抜粋意訳】
倭文神社
祭神 天羽槌雄命
神位
清和天皇 貞觀元年(八五九)八月十七日〈庚子〉上野國 正六位上 委文神 列於官社 貞觀元年(八五九)八月廿日〈癸卯〉授 上野國 正六位上 委文神 從五位下祭日 四月十六日
社格 郷社
所在 東上宮村(佐波郡宮郷村大字東上宮)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
倭文神社(伊勢崎市東上之宮町)について 式内社であるとし 機織の神であり 往古は甚だ盛大であったと記しています
【抜粋意訳】
群馬縣 上野國 佐波郡宮郷村大字東上ノ宮字明神東
郷社 倭文(シトリノ)神社
祭神 天羽槌雄(アメノハヅチノ)命
創立年代詳ならず、但、清和天皇 貞觀元年(八五九)八月十七日〈庚子〉官社に預られ、同癸卯 正六位上 倭文神に 從五位下を授けられしよし三代実録に見えたり、延喜の制式内の小社に列せられ、上野國神名帳に従一位倭文大明神と見え、当国九ノ宮たり、往古は甚だ盛大にして、其の社領の如き一庄を以て社領とし、倭文の庄と称せしが、後 土御門天皇 応仁年間兵火に罹り、社殿儘く炎上せし以来、社運衰頽し、後 光明天皇 慶安元年九月 社領拾石を寄せられ、次いで中御門天皇 享保十二年八月社殿再建し、漸く旧観に復せしが、近く慶應二年十一月、再び祝融の災に罹り、社殿灰燼に帰し、今は只一小宇を存するのみ、明治五年郷社に列す、境内は八百三十三坪 梅櫻楠松蒼然とし幽致愛すべし、里人機織の神と崇め、例祭には機織始の神事ありいと賑やかなりと。
境内神社
山神社 琴平神社 天神社 社日神社 蚕影神社 市杵島神社
稲荷神社 石井神社 神明神社 熊野神社 八幡神社 薬王神社例祭日 四月十六日
【原文参照】
倭文神社(伊勢崎市東上之宮町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
上野国 式内社 12座(大3座・小9座)について に戻る
上野国(かみつけのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 上野国には 12座(大3座・小9座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
上野國 式内社 12座(大3座・小9座)について