実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

島穴社原地碑(市原市島野)〈式内社 島穴神社の旧鎮座地〉

島穴社原地碑(しまあなしゃげんちひ)は 社伝には日本武尊が東征の時 風神 志那津比古命を祀り創建 景行天皇が日本武尊・倭比賣命を合祀 昔 この地〈この丘〉にある深坎(しんかん)から常に清風が起り 島穴の社名の由来となった 延喜式内社 上緫国 海上郡 嶋穴神社(しまあなの かみのやしろ)の旧鎮座地で天正3年に現在地に遷座

Please do not reproduce without prior permission.

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

島穴社原地碑(Shimaana sha genchihi)〈島穴神社の旧鎮座地〉

通称名(Common name)

・モトシマナ〈島穴様(しまあなさま)の元宮の意味

【鎮座地 (Location) 

千葉県市原市島野

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

日本武尊が東征の時 風神 志那津比古命を祀り創建

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

風の神

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社の旧鎮座地

【創  (Beginning of history)】

由緒

当宮は、「延喜式」所載の上総国五社の内の一社であり、古くからこの地方の格式ある名社として崇められてまいりました。

 今からおよそ1800年あまり前の景行天皇の40年(西暦114)、日本武尊命が東征のみぎり、相模国走水より上総国へ航行中、にわかに暴風に見遭われ、あやうく船が覆りそうになった時、同乗されていた妃君の弟橘姫命が大和国の風鎮めの神・龍田大社を遥かに拝み、安全に上総国まで航行させてくれるならば、必ずその地に風鎮めの神を祭り報恩感謝の誠を尽くしますと祈りながら海中に身を投ぜられました。
するとたちまち暴風は止み、ぶじ上総国へ着くことができたので 日本武尊命は、弟橘姫命のご遺志の通り この地に志那都比古尊を祭る当宮をご創祀されたのであります。
 のち景行天皇が当地へ行幸の折(127年)日本武尊命、倭比売尊を合祀されました。

 また陽成天皇8年(884)には朝廷より正五位上勲五等の神階を授けられ、下って明治12年(1879)、千葉県の県社に列格されたのであります。

島穴神社(市原市島野)〈現在地〉に掲げられている案内板より

Please do not reproduce without prior permission.

【由  (History)】

島穴社原地碑 石碑文の意訳】

市原郡島野村の島穴社は 延喜式所載 五社の一つです

これは風の神とされる級長津彦命をお祭りしています

相伝えるには 古くは神社の傍には 深坎(しんかん)〈古代皇帝が祭地で埋葬する祭具の坑穴〉があり その中から風が吹き上がっていました 世の中は移り変わり 現在 僅かに残る遺址は 所謂「風門」「風井戸」の類となっています

いたる後に社は移転され 現在の地に新たに建てられました

今の地にある祠は正しく祀られ高められています 神官の和田為盛は元の場所が埋もれてしまうのではないかと心配し恐れていま

そこで地元の人々 酒巻慶寛 菊間安利 文彬らと共に相談して 碑を建ててその場所を記すことにしました
請文神は祀典の中に既に厳然と列しており その跡は消えることはありません そこで その理由を表し 銘を刻むことにしました

 天地は炉であり 風は吹き口である 神の鼓動は 万類を揮発させ
 千年の間 廟を祭祀を行う 金碧は煌めき 原址〈旧鎮座地〉を表すものであり 伝えられることは無限です

寿永紀元(1182年)夏四月

【石碑の原文】

島穴社原地碑

二城留守成譲撰文 田邊脩題額并書

 島穴社 市原郡島野村延喜式所載 五社之一也
 級長津彦命者神為風伯 社傍古有深坎風蓬然従其中而起陵谷之變 存遺址所謂 風門風井之類是巳、迨後移建社於今地祠宇煥崇祀益處、神官和田為盛 恐其原址之堙晦也與土人 酒巻慶寛菊間安利  文彬等謀建碑以識之来請文神既儼然列祀典中其跡不可泯也因表其故又係以銘曰

 天地為鑪風惟橐籥有神鼓之萬類揮霍
 廟祀千載金碧焜煌爰表原址無彊

寿永紀元夏四月

現地石碑文より

Please do not reproduce without prior permission.

『千種のあゆみ』千種地区まちづくり協議会 鎗田功に記される内容

【抜粋】

5   千種地区町会の由来と歴史

 千種地区町会の地名の由来や歴史等について、市原郡誌や地名辞典等を参考に取り纏めた。

   (1)島野

『市原郡誌』東海村島穴神社の項に、「神社の北木更津線(内房線)を隔てて約3 0 0mの水田の中に森がある。ここは昔もっと広くて松の木が鬱蒼としていて、その中に深い穴があり、清風が常に吹いていてその風の音が遠くまで聞こえていた。日本武尊が東征の時、風神志那津比古尊を祭神としてお祀りした霊地である。このことから島穴の社号が起これりという。

 これは社名の由来を述べているのであるが、同時に地名の由来にもなっている。この場所は現在も残っているが、『市原郡誌』編さん当時(1916年)は、既にその深い穴は埋没していたという。この場所は古墳で、その石棺の口があいていた (あるいは主体部の陥没)ことも推定される。この場所を土地の人は「モトシマナ」と呼んでいるが、これは[元島穴]のことである。天長3年(8 2 6年)社殿は現在地に遷されたと言う。現在、島穴神社と内房線の線路を挟んだ海側に「島穴社原地碑」と刻んだ石碑が建った森がある。

 また、「島穴」の語源として次のような説もある。島には周囲を水で囲まれた陸地。半島など島状の地。川に臨んだ州。河道の中の島地。川の曲がり目や川端の低地などにできた耕地。などのほか、集落村落の意があり、村の中の小区画をなした土地などの意がある。「穴」については、当地の地形を考えるに、ハナ(端)の転訛が該当するのではないかと思われる。つまり[島穴]は、養老川下流の当地の地形 (旧河道が何回も変遷していると思われる)からきているものと推定できる。もちろん「島野」はシマアナ→シマナ→シマノの転訛である。

 また、『房総叢書 (第6巻)』によると、島穴郷と馬野郷を合わせて嶋野村と名付けられたとある。
なお、当地は律令時代の[島穴驛]の比定(推定)地とされている。昔の交通の要路で、大宝律令に基づく驛馬・傳馬の制により驛馬が置かれ、古くから開けたところであった。

 石棒杭 (いしぼんぎ)は小集落であるが、集落の北側の大六天神社(現道祖神社)と「デーデッポーの足跡」という巨人伝説を伝える池(現在は雑草の中に石碑が建っている)がある。この池は大六天神社と3 0mほどの距離であり、入ると祟りがある禁足地である。

 谷島一馬氏は、古代嶋野と嶋穴神社について次のように述べている。
 嶋穴は古養老川の流域ではもっとも肥沃な農耕地であり、生活環境の良い所であったことから、6・7世紀には海上国造により開発され、養老川沖積地帯は最も早く集落が形成されたところである。嶋穴が海上国造の支配地であったことは、同国造の尊崇する姉崎神社と嶋穴神社の祭神は夫婦神であり、両神社とも古代より特別な関係があったことから、それをうかがい知ることができる。

 そして島穴には神社の奉仕する神官や氏子等がおり、その中には駅長等の職務に堪えられる才覚に優れた人物も多数いたと思われる。

 7月2 0日は姉崎神社と嶋穴神社の祭礼日であった。当日は姉崎神社の神輿が島穴神社へ、嶋穴神社神輿は姉崎神社へと相互に担ぎ込まれたという。その両神社の神輿の渡御する道筋は、鎌倉街道と呼ばれた古道である。現在明らかな道筋は白塚から東に向かって嶋穴神社の一の鳥居の前を通り、七つ町に至る市道である。このルートは姉崎・島穴両神社の神輿の渡御街道であり、両地が古代以来関係の深い土地であることを物語るもので、上総国府に至る駅路であり、古東海道と考えられる古道である。

 〔古道:大化の改新により地方政府も整い、交通路も発達した。都を中心に地方へ行く道を「官道」といい、上総は相模から海を渡って入った。「官道」のコース上には駅があり、当時官人の往還のために馬を用意してあったところである。嶋穴神社近くには、上総国府から木更津へ向かう駅があったということである。〕

谷島一馬:上総嶋穴駅についての一考察  古代上総の国の嶋穴駅と官道 市原市文化財研究科研究紀要 No.1(平成6年11月)
樋口誠太郎:房総の歴史  千葉県書籍教材株式会社(平成7年11月1日)
房総叢書刊行会:紀元二千六百年記念房総叢書第六号(昭和16年11月7日)

『千種のあゆみ』千種地区まちづくり協議会 鎗田功より
市原ふるれんネット https://fururen.net/

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・現在の島穴神社(市原市島野)

天長3年(8 2 6年)社殿は現在地に遷座された伝わります

・島穴神社(市原市島野)

一緒に読む
島穴神社(市原市島野)〈『三代實録』嶋穴ノ神『延喜式』嶋穴神社〉

島穴神社(しまあなじんじゃ)は 第12代 景行天皇の御代 日本武尊が東征の時 走水の海で暴風に遭われ 弟橘姫命が大和国の風鎮神 龍田の神を拝み 海中に身を投じ暴風が止んだ 無事に上陸ができた尊は 妃のご祈誓に従い ここに風鎮の神 志那都比古尊を祀られたと云う『延喜式』嶋穴神社(しまあなの かみのやしろ)です

続きを見る

島穴神社と同じ創建の由緒を持つ 姉埼神社(市原市姉崎)

 日本武尊が東征の折 走水の海(浦賀水道)で暴風雨に遭い 妃の弟橘姫の犠牲によって上総に上陸することができた
日本武尊は 弟橘姫をしのび 風の神を祀ったのが創建

延喜式内社 上緫国 海上郡 姉埼神社(あねさきの かみのやしろ)

・姉埼神社(市原市姉崎)

一緒に読む
姉埼神社(市原市姉崎)〈『三代實録』姉前ノ神『延喜式』姉﨑神社〉

姉埼神社(あねさきじんじゃ)は 社伝には 日本武尊が御東征の際 走水の海で暴風雨に遭い お妃の弟橘姫の犠牲によって無事上総の地に着かれ この地 宮山台でお妃を偲び 風神 志那斗弁命を祀ったのが創建と云う その後 景行天皇が日本武尊を祀った 延喜式内社 上緫国 海上郡 姉埼神社(あねさきの かみのやしろ)です

続きを見る

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承

嶋穴と記され 神階の奉が記されています

【抜粋意訳】

卷卅一 元慶元年(八七七)五月十七日丁巳

○十七日丁巳


上総國

 從四位上勳五等 玉埼正四位上
 從五位上勳五等 姉前 嶋穴 飯 橘樹に 正五位下
 從五位下 神氏神從五位上

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)上総國 5座(大1座・小4座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)海上郡 2座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 穴神社
[ふ り が な ]しまあなの かみのやしろ
[Old Shrine name]Shimaana no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式』巻第二十八 兵部 隼人 に記される伝承

【抜粋意訳】

諸国驛傳馬

東海道 上總國

大前 藤猪 島穴 天羽 五疋

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『延喜式』 URI : https://www.digital.archives.go.jp/img/4354341より

Please do not reproduce without prior permission.

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

日本武尊と弟橘比賣命の゛走水(はしりみず)゛の伝承に ゆかりの式内社について

房総半島には 日本武尊と弟橘比賣命の伝承が 数多く残っていますが ゆかりある式内社もありますので ご紹介します

姉埼神社(市原市姉崎)島穴神社(市原市島野)は 同じ創建の由緒を持ちます

姉埼神社と島穴神社の共通の創建由緒について

 日本武尊が東征の折 走水の海(浦賀水道)で暴風雨に遭い 走水の海が荒れたのは龍神の怒りであると悟った妃の弟橘姫は 大和国 龍田大社の風鎮めの神に 船の安全航行を祈願し 成就した時には この地に神社を建立することを約束し 海原に身を投じた この犠牲によって 日本武尊は 無事に上総に上陸することができたと『記紀神話』に述べられています
この弟橘姫を慈しみ 日本武尊は 弟橘姫をしのび 風の神を祀ったのが 姉埼神社と島穴神社創建と伝わります

姉埼神社と島穴神社の御祭神について

かつては 神輿が 両社を行き来していたと云われてています この関係の深い両社の御祭神は

島穴神社の祭神は 志那津比古尊(しなつひこのみこと)
姉崎神社の祭神は 支那斗(しなとべのみこと)

両神は 夫婦神(姉弟神とも)とされています

姉埼神社には 夫婦神としての伝承があります

この事にまつわる伝承の一つとして 姉埼神社(市原市姉崎)の境内には 松(マツ)が一本も植えられていません
これは祭神 志那斗弁命が 夫神である島穴神社(市原市島野)の祭神 志那都彦命に大変待たされ「待(マツ)つ身はつらい」と言ったと伝わり この゛待(マツ)゛の音が通じている゛松(マツ)゛を避けたためと云われます
姉埼神社(市原市姉崎)の氏子は 正月に門松を立てず 竹と榊を用いた飾りを立てる風習があり 又 かつては 松(マツ)を(まき)しなかった これらは 神の忌給よると伝わっています

姉埼神社と島穴神社は 両社ともに 上緫国 海上郡延喜式内社です

延喜式内社 上緫国 海上郡 姉埼神社(あねさきの かみのやしろ)

・姉埼神社(市原市姉崎)

一緒に読む
姉埼神社(市原市姉崎)〈『三代實録』姉前ノ神『延喜式』姉﨑神社〉

姉埼神社(あねさきじんじゃ)は 社伝には 日本武尊が御東征の際 走水の海で暴風雨に遭い お妃の弟橘姫の犠牲によって無事上総の地に着かれ この地 宮山台でお妃を偲び 風神 志那斗弁命を祀ったのが創建と云う その後 景行天皇が日本武尊を祀った 延喜式内社 上緫国 海上郡 姉埼神社(あねさきの かみのやしろ)です

続きを見る

延喜式内社 上緫国 海上郡 嶋穴神社(しまあなの かみのやしろ)

・島穴神社の旧鎮座地〈島穴社原地碑〉
島穴神社が 現在地に遷座する天長3年(826)までの旧鎮座地

一緒に読む
島穴社原地碑(市原市島野)〈式内社 島穴神社の旧鎮座地〉

島穴社原地碑(しまあなしゃげんちひ)は 社伝には日本武尊が東征の時 風神 志那津比古命を祀り創建 景行天皇が日本武尊・倭比賣命を合祀 昔 この地〈この丘〉にある深坎(しんかん)から常に清風が起り 島穴の社名の由来となった 延喜式内社 上緫国 海上郡 嶋穴神社(しまあなの かみのやしろ)の旧鎮座地で天正3年に現在地に遷座

続きを見る

・島穴神社(市原市島野)

一緒に読む
島穴神社(市原市島野)〈『三代實録』嶋穴ノ神『延喜式』嶋穴神社〉

島穴神社(しまあなじんじゃ)は 第12代 景行天皇の御代 日本武尊が東征の時 走水の海で暴風に遭われ 弟橘姫命が大和国の風鎮神 龍田の神を拝み 海中に身を投じ暴風が止んだ 無事に上陸ができた尊は 妃のご祈誓に従い ここに風鎮の神 志那都比古尊を祀られたと云う『延喜式』嶋穴神社(しまあなの かみのやしろ)です

続きを見る

延喜式内社 下緫国 千葉郡 蘇賀比咩神社(そかひめの かみのやしろ)

荒れた走水の海弟橘姫共に入水した゛5人の姫達を祀る 式内社 蘇我比咩神社゛について

 日本武尊が東征の折 走水の海(浦賀水道)で暴風雨に遭い 走水の海が荒れたのは龍神の怒りであると悟った妃の弟橘姫は 大和国 龍田大社の風鎮めの神に 船の安全航行を祈願し 成就した時には この地に神社を建立することを約束し 同道して来た五人の姫達と共に身を海中に投じました

 身を投じた五人の姫の中に蘇我大臣の娘たる比咩がおり この方がこの地(現在の千葉市中央区蘇我)の海岸に打ち上げられました  里人等の手厚い看護で蘇生することが出来 無事に都に帰りました

 この里人等の行為に深く感激した第十五代応神天皇は 特別の命により蘇我一族をこの周辺の国造として派遣し政治をおこなわせました 蘇我一族は 代々「春日神社」「比咩神社」を守護神として 両神社の御分霊をいただき「蘇賀比咩神社」を建立したと伝わります

・蘇我比咩神社(千葉市中央区蘇我)

一緒に読む
蘇我比咩神社(千葉市中央区蘇我)〈『延喜式』 蘇賀比咩神社〉

蘇我比咩神社(そがひめじんじゃ)は 日本武尊が東征の際 走水海で暴風雨に遭い 后の弟橘姫が同道して来た五人の姫達と共に身を海中に投じ それを鎮めました 社伝には その一人 蘇我大臣の娘 蘇我比咩は浜に打上げられ 里人により蘇生し都に帰った これを知り応神天皇が国造に任命した蘇我氏により 春日神・比咩神を祀り創建と云う

続きを見る

延喜式内社 上総國 長柄郡 橘神社(たちはなの かみのやしろ)

弟橘比賣命の櫛が 流れ着き 弟橘媛のの櫛を納めて御陵が作られた橘樹神社(茂原市本納)

橘樹神社(茂原市本納)社伝では 日本武尊が弟橘媛の御陵を作り 弟橘媛の櫛を納めて 橘の木を植えて祀ったことを創始と伝えます

・橘樹神社(茂原市本納)

一緒に読む
橘樹神社(茂原市本納)〈『三代實録』橘樹ノ神『延喜式』橘樹神社〉

橘樹神社(たちばなじんじゃ)は 『古事記』に「日本武尊の后・弟橘比賣命が走水の海に身を投じて 七日の後 后の櫛が海辺に依りき その櫛を取りて御陵を作り治置きき」と記され 社伝では 尊が后の櫛を納めた御陵を作り 橘の木を植えたのが創祀と伝える 延喜式内社 上総國 長柄郡 橘神社(たちはなの かみのやしろ)です

続きを見る

【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR内房線を下るように南南西へ約4.1km 車で11分程度

JR内房線の脇にある現地へ北側から向かいます 住宅街の端に畦道があり ここを進みます

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

向かって右にある藪がそのようで 真後ろを内房線の電車が通っています

Please do not reproduce without prior permission.

草深いのですが 藪にむかって何となく人が歩いた後のような跡がありますので 進みます

Please do not reproduce without prior permission.

藪になっている所は 何となく 土が盛り上がっていて 古墳に見えなくもありません

Please do not reproduce without prior permission.

其処には゛島穴社原地碑゛の石碑がありました

Please do not reproduce without prior permission.

島穴社原地碑(市原市島野)〈島穴神社の旧鎮座地〉に参着

Please do not reproduce without prior permission.

石碑の隣には 小さな石祠が祀られています

お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

Please do not reproduce without prior permission.

かつてあったとされる風穴があるかと 周囲を探しましたが それらしきものは見当たりませんでした

古文書などによると゛丘の上に松の木が一本あり その根元に風穴あり゛
又 すでに埋没したとも云われています

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

少し遠目から眺めると 円墳のような形をしています

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

祠に一礼をして 畦道を戻ります

Please do not reproduce without prior permission.

ここは海にも近く 周囲は湿地帯で 古代には 内海の湾が広がっていたと想像できます

Please do not reproduce without prior permission.

島穴社原地碑(市原市島野)〈島穴神社の旧鎮座地〉は ちょっとした丘陵ですので もしかすると 古代には「島」だったかもしれず 日本武尊はその島に上陸して 風の神を祀るにふさわしい「風穴」が あったのでしょうか

Please do not reproduce without prior permission.

神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 島穴神社について 所在は゛島野村に在す、今 市原郡に属す、゛〈現 島穴神社(市原市島野)〉と記しています

【抜粋意訳】

島穴神社

島穴は志萬奈と訓べし、和名鈔、郷名部島穴、印本鳴穴に誤る

〇祭神級長津彦命、地名記

〇島野村に在す、今市原郡に属す、同上例祭日、

○式廿八、兵部上総國馬、島穴五疋、

神位
 三代實録、元慶元年五月十七日丁巳、授上総國 從五位上 島穴神 正五位下、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 島穴神社について 所在は゛ 市原郡にあり、島野明神と云゛〈現 島穴神社(市原市島野)〉と記しています

【抜粋意訳】

島穴(シマナノ)神社

 市原郡にあり、島野明神と云ふ〔房総志料、巡拝祠舊記、神名帳考土代、〕

陽成天皇 元慶元年五月丁巳、従五位上勲五等 島穴神に正六位下を授く、〔三代実録〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 島穴神社について 所在は゛島野村〔字島穴 〇今属 市原郡〕(市原郡東海村大字島野)゛〈現 島穴神社(市原市島野)〉と記しています

【抜粋意訳】

島穴神社

祭神 級長津彦命

 今按 社記 日本武尊 蝦実を征にいでます時 海中暴風忽ち起りて 御船漂蕩しかば 日本武尊 此神を祭らせ玉ふ由を記せり 之に由て考るに 此時 暴風のことによりて風神を祭られしなるべし 姑附て考に備ふ

神位
 陽成天皇 元慶元年五月十七日丁已 授上總國從五位上勳五等 烏穴神 正五位下

祭日 六月初午日
社格 村社(縣社)(明細帳 縣社とあり

所在 島野村〔字島穴 〇今属 市原郡〕(市原郡東海村大字島野)

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

島穴神社(市原市島野)について 縣社として記されています

【抜粋意訳】

〇千葉縣  市原郡東海村大字島野

縣社 島穴(シマナノ)神社

祭神 志那都比古(シナツヒコノ)
相殿 日本武(ヤマトタケルノ)尊 倭比賣(ヤマトヒメノ)

 創建は景行天皇四十十一月なりと云ふ、
特選神名牒に曰く、
「今按、社記、日本武尊蝦夷ヲ征討ニイデマス時、海中暴風忽チ起リテ、御船漂蕩シシカバ、日本武尊、此神ヲ祭ラセ玉フ由ヲ説ケリ、之ニ由テ考ルニ此時暴風ノコトニヨリテ、風神ヲ祭ラレシナルベシ、姑附テ考ニ備フ、」と、
次いて 同五十三年、天皇東幸の時、日本武尊 倭比売尊を相殿に奉祀す、

淳和天皇 天長月、從五位上動六等を授けられ、〇社伝
三代實録に陽成天皇 元慶元年、正五位下に進み給ふ由見え、此の年雨の奉幣あり、〇社伝
延喜の制、式内の小社に列せらる、實に当國五座の一に坐ます、
朱雀天皇 天慶月、勅して平將門降伏の祈願を修す、
安徳天皇 治承月、源頼朝 神領三十六石を寄せられしが、正親町天皇 天正中、北條氏の兵火に罹り、社殿を始め神 社記  寄附状 等悉く 灰燼に帰す、爲めに神田を失ふ、

後ち 徳川家康 関東を領するに及び、当社の由緒を徴す、司祝所縁を知らす、訛て春日明神なる旨を答申す、故に長く神田を寄せられずと雖も、
仁孝天皇 文政年松平定信 當社を厚く崇敬し自筆の編額を納め奉らる、蓋し定信初て富津海防を修むるに際し、祈る所ありしに因るなり、其の扁額 今尚存せり、爾後 毎歳幣帛を奉らる、
神殿は後水尾天皇 元和年再建せられ、次いて仁孝天皇 天保十三年以來、領主 神殿修復料として米若干を寄進せり、
古來 當村及白塚村の鎭守にして、明治十一月郷社に列す、次いて十二月更に縣杜に昇格す。

社殿は本殿、幣殿、拝殿等あり、境内は二千四百二十坪、(官有地第一種)たり、社側に一根の老松ありと、上総國誌に曰く、
「社傍有古松一株、松下有穴、將嵐則雲気起に于穴中、今尚然否、」
と、境地古松老杉、蒼翠天外にゆ、船舶 常に航路の目標とす、

四周田圃浪風に翻り、稻雲日に映す、遙か西方に富十箱根の諸山、海色に連り、白帆点々波間に隠見す、千種有功卿詠あり。
「島穴社によみて奉る 有功
 四方のうみに仰はさぞなもみちにもはなにも風はさはらさりけり」

社 寶物としては、假面、古鉾、鏡及松平定信卿の扁額、文政年の奉納に係る領主 大岡忠愛の扁額(動五等と書す)等あり、因みに記す、姉崎村の姉崎神社は当社と創立同うし、風神の陰神 志那斗弁命を奉祀す。

境内神社
 八雲神社 加具土神社 子安神社 淡島神社 水祖神社 厳島神社 道祖神社 疱瘡神社

【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』上,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088244

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』上,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088244

島穴社原地碑(市原市島野)〈島穴神社の旧鎮座地〉 (hai)」(90度のお辞儀)

Please do not reproduce without prior permission.

上緫国 式内社 5座(大1座・小4座)について に戻る

一緒に読む
上緫国 式内社 5座(大1座・小4座)について

上緫国(かずさのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 上緫国には 5座(大1座・小4座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

続きを見る

  • B!

おすすめ記事

1

世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

2

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

4

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

5

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

6

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています