実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

椎ヶ脇神社(浜松市天竜区二俣町鹿島)〈『延喜式』猪家神社〉

椎ヶ脇神社(しいがわきじんしゃ)は 延暦二十年(801)征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷征伐のため下向の折 天竜川が氾濫し大海とな 東岸に渡ることも出来ず困っていた時 土人が筏を作り将軍を渡し 大変喜ばれこの地に減水を祈り「闇淤加美神」を祀ったと伝わる 延喜式内社 遠江國 長下郡 猪家神社(ゐけの かみのやしろ)の論社

Please do not reproduce without prior permission.

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

椎ヶ脇神社(Shiigawaki shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

静岡県浜松市天竜区二俣町鹿島1-14

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》闇淤加美命(くらをかみのみこと)
   玉比(とよちまひめのみこと)

天照皇大神 豊受大神神明神社
   菊理姫命白山神社
   彌都波能水神神社

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

椎ヶ脇神社由来

 椎ヶ脇神社は、桓武天皇の延暦二十年(八〇一)征夷大将軍坂上田村麻呂(七五八八一一)が陸奥地方の蝦夷反賊の征伐のため下向の折、天竜川が洪水氾濫し、磐田の海と重なって大海となった。東岸(野部・広瀬)に渡ることも出来ず困っていた。その時、土人(鹿島に住んでいた昔の人)が筏を作り将軍を渡したところ、大変喜ばれこの地に減水を祈り「闇淤加美神」を祀り給わった。これが現在の椎ヶ脇神社祭神である。

 尚、伝承によれば、椎ヶ脇神社の呼称は、往古 猪家神社とも呼んでいた。この神社の北側には、天竜川の深淵があり、その断崖絶壁の上に大木の椎ノ木があり、これから椎ヶ淵と称し淵に臨んだ神社から椎ヶ脇神社と転称したとも言われる。

 古来、椎ヶ脇神社は天竜川の水利を守り船の安全を保ち、堤防の破損を免れ流域の大氏神として水害多き村々に御分霊を祀ってきた徳川幕府から慶長七年(一六〇二)伊奈備前守より、神田朱印高二十石を寄進された。
 又、天正十九年(一五九一)浜松城主堀尾六左衛門光景が、宮奉行 中村宗助と代官 池田忠左右衛門に命じて再建させた本殿は、総ケヤキ造り、桁行一・八米、長さ三・九六米、梁間二・五米、棟高五・四米、軒高二・七九米である。

 神社は、明治五年十二月十日郷社に列せられ、明治四十年三月十五日神饌幣帛料を供進される神社として指定された。

祭神
 闇淤加美神(くらおかみのかみ)
 豊玉姫命(とよたまひめのみこと)

合祀祭神
 神明神社 天照皇大神 豊受大神
 白山神社 菊理姫神(きりひめのかみ)
 水神神社 彌都波能賣神(みづはのめのかみ)

利仁将軍
  
田村神社

平成二十年建立

現地案内板より

Please do not reproduce without prior permission.

【由  (History)】

郷社 椎ヶ脇神社 由緒記

郷社椎ヶ脇神社は 闇於賀美神 豊玉姫神を斎き奉り合せて 天照皇大神 豊受大神 彌都波能神を奉祀す  天龍川の河畔なる鹿の丘上に鎮座し給ふ  水利舟楫守護の大神として古より神威灼然に明治 公には郷社の列に加へられ郷民は更なり大方の尊崇景仰を纏め給ふことまことに外所に超えたり

延喜の制 遠江長下郡四座の内なる猪家神社は即ち此の御社にれるゆよし既く有識の人の間に唱へられ 公にも亦しか名されてそ今に至れる  御社の名の古今と違へるは長き間の世の移ろ淵瀬も定めぬ河沿の地の名のれるが任に長下の郡は夙く合わられて 舊き名となり猪家の謂は河の名の鹿川の訓とひて 何時しか猪川と記され更に又 椎川の文字にも替へられて竟には御社の御名も椎ヶ明神 椎ヶ脇明神などのと共に今の御名をこそへ奉るに至れるなりけれ

そゝり立つ神域の懸崖の下を流るゝ天龍の大河は そのかみ大天龍 小天龍など名もく滝鳴る流れは濶く急く天つみそらの中川のさへいみじく淵瀬定まらで懸梁かくべくもあらず旅人どもが往くさ来さ身をば浮木の思して船渡りしたりとふるもゆゝしく 一度河水の溢るれば逆巻き寄する激浪は堤塘を損ひ田畑を浸し去りて其の耗も測り知られぬ慮の外なる例も稀々にてはあらざりき  されば郷民を擧 所治むる職に皆一つ心に尊き大神の御徳を被り持ちて常に治水の謀を廻らし功績をさめし心尽の蹤も今に著く崇ひ仕へ奉れる武家地頭等が内には神地寄せ奉り宮殿へ琢きたて浅からぬ報賽の心を捧げ奉れる事どもぞ世々の史には見えたる  灼然なる神威の御光を仰ぎては河沿の郷々村々さては遠き近き多所に大神の分霊齋き奉り御社建て奉りて遠長に崇ひ奉れるら鮮からすなむ

今年皇紀二千六百年のめでたき歳を迎へ天地とゆる大御代の御隆をこと寿くなへに天の中川流れ絶えせず永久に幸へ給ふき尊き大神の御徳をへ奉りき洽き御恵の露を被りにし世々の御跡の縁の條々をかつかつにも記し叙て今を見後の記念と是を碑に彫り留めつるになり

昭和十五十一二十三  從五位橋萬次郎識 内山義一郎謹書

現地石碑文より

Please do not reproduce without prior permission.

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

【抜粋意訳】

〇靜岡縣 遠江國 磐田郡俣町大字鹿島字宮山

郷社 椎ケ脇(シイヶワキノ)神社

祭神
 闇淤加美(クラヲカミノ)
 玉比賣(トヨタマヒメノ)

合祭
 天照皇大神 豊受大神 (神明神社)
 菊理姫命(白山神社)
 彌都波能神(水神神社)

遠江國風土記傳に社を以て猪家神社と断ずる能はして、「未考」の二字を注したりといへども、式内社摘考に社なりと断定したるは、後世の學者の是認する所となり、皆社を以て 式内社 猪家神社とせり、名の解に付いては、定説と認むべきものなしといへども、
摘考に「椎川は猪川をいふなるべし、脇は川の脇にある故にいへる歟、未詳」といひ、
に「川を加とのみ云へるは、駿河  近江國甲賀郡鮎川(アユカ)云々、此社は猪川(シシカハ)の義にて、しゝかてふ川の名によれる歟、又若狭遠敷郡熊川をくまが云々」といへるは或は然らん、
傅へ云ふ、延暦 田村利仁將軍、東夷征伐の為め下向の時、天龍川氾濫して渡るを得ざりしを、土民筏を作って将軍を渡す、時に将軍自ら此地に水神を勧請して、水厄の庶民に及ぼさざらんことを祈る、之れ即ち社の創立とすと、将軍凱旋の時、社へ鬼神丸の太刀を奉納す、古来 國守地頭の崇敬厚く、遠近の帰依社なるが、殊に天龍沿岸の住民深く帰依して、皆分を奉祀す、社領は二十石、慶長年の寄連状に云く、

「遠州長上郡匂坂上村推ケ脇神領之事

合二十石也〔黑印〕
右御寄附之趣旨者、寺谷並在々新田井水満足、殊無水損、依ニ當靈神守護、為土地堅固者也、神御子、抽精誠懇祈、郡中繁昌家安全、可被祷者也、仍如件

慶長年寅卯月二十日、  伊奈備前守忠次花押

椎ヶ脇 孫丞殿

明治月郷社に列せられ、翌月神明社以下を合祀す、

社殿は本殿、雨覆、其他輿殿等を具備し、本殿は天正十七年、地頭 堀左衛門尉光景の再建たり、境内は千三十八官有地第一種を有し、宮山の丘陵上にありて、巨檜老松天をふ、社頭に出でて遠く望めば、信州の諸山巍巍として吾れに対し、俯瞰すれば天竜川脚下を走る。

境内神社 田村神社

【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』上,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088244

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』上,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088244

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

椎ヶ脇神社 社殿

Please do not reproduce without prior permission.

・本殿下の岩盤

Please do not reproduce without prior permission.

椎ヶ脇神社 本殿の覆い屋

Please do not reproduce without prior permission.

・本殿の覆い屋 鬼瓦

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

椎ヶ脇神社 拝殿

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

・〈本殿向かって左手〉境内

Please do not reproduce without prior permission.

・〈境内社〉田村神社《主》田村俊仁

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

・〈境内〉宝篋印塔

Please do not reproduce without prior permission.

・伐採された大木の切り株

Please do not reproduce without prior permission.

・参道 石灯籠

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

・神門

Please do not reproduce without prior permission.

・二之鳥居

Please do not reproduce without prior permission.

・社務所

Please do not reproduce without prior permission.

・〈境内の南側〉境内入り口

Please do not reproduce without prior permission.

・〈境内の東側 鹿島橋の付近〉社頭・一之鳥居

Please do not reproduce without prior permission.

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・水神社《主》弥都波能売神

商売を担保に金を貸す 金貸し水神さま

 ゛水神宮病気証文の由来゛

明応羽八年八月十四日(約四百六十年前)の事、天壺叫が氾濫 鹿易村の河岸に祀ってあった、水神様が流れ出した。
これを見た地元の船頭、権三郎が激流に來び込み、お救いして現在地にお祀りした。
ところが、権三郎は水の冷えで、持病(せん気)再発により重体におちいった。するとある夜、水神様が夢枕に立ち
「そちの病気はこの度の功により速やかに全快させてやる。
尚、、その也病気で苦しんで居る者があれば病気を質とし 借金証文を上げさせよ。期限までに必ず全快させよう。」

とお告げがあり、権三郎の病気も不思識と全快した。
それ以来、病気の水神様として人々の信仰厚く、遠近からの願かけや、お礼参りされる人が現れるよおになった。

現地張り紙より

Please do not reproduce without prior permission.

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)遠江國 62座(大2座・小60座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)長下郡 4座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 猪家神社
[ふ り が な ]ゐけの かみのやしろ
[Old Shrine name]Ike no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 遠江國 長下郡 猪家神社(ゐけの かみのやしろ)の論社について

・椎ヶ脇神社(浜松市天竜区二俣町鹿島)

一緒に読む
椎ヶ脇神社(浜松市天竜区二俣町鹿島)〈『延喜式』猪家神社〉

椎ヶ脇神社(しいがわきじんしゃ)は 延暦二十年(801)征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷征伐のため下向の折 天竜川が氾濫し大海となり 東岸に渡ることも出来ず困っていた時 土人が筏を作り将軍を渡し 大変喜ばれこの地に減水を祈り「闇淤加美神」を祀ったと伝わる 延喜式内社 遠江國 長下郡 猪家神社(ゐけの かみのやしろ)の論社

続きを見る

・稲荷神社(浜松市浜北区小林)

【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

天竜浜名湖鉄道・西鹿島駅から北方の天竜川方面へ約1.1km程度 徒歩での所要時間16~20分程度

当日は車の為 天竜川に架かる鹿島橋を渡ります

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

鹿島橋の南岸に社頭があります

椎ヶ脇神社(浜松市天竜区二俣町鹿島)に参着

Please do not reproduce without prior permission.

ただし ここには駐車できないので 神社の南側に廻り込む必要があります

うなぎ納涼亭の所を曲がります

Please do not reproduce without prior permission.

坂道を上がって行くと 椎ヶ脇神社 入口の案内板があります

Please do not reproduce without prior permission.

境内の南側に駐車スペースが設けられています

Please do not reproduce without prior permission.

社殿 二の鳥居境内は南を向いています

社頭は 東側にありますので ほぼ直角に右手から 表参道が南を向いているこちらの参道に突き当たる感じとなっています

Please do not reproduce without prior permission.

左手に社務所があり 正面に二の鳥居と神門が建っています

Please do not reproduce without prior permission.

社務所の窓には 末社の水神様の案内がありました 水神社の場所は 先程の うなぎ納涼亭の所です

Please do not reproduce without prior permission.

サル出没の注意書きも張られていました

Please do not reproduce without prior permission.

一礼をしてから 二の鳥居 神門をくぐり抜けます

Please do not reproduce without prior permission.

境内の参道は 三段の石段を上がると小砂利の平場があり 又 三段の石段を上がる あまり見かけない造りです

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

石燈籠が立ち 左手に手水舎があります

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

手水舎で清めます

Please do not reproduce without prior permission.

拝殿にすすみます

Please do not reproduce without prior permission.

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

拝殿の奥は 幣殿 本殿は覆い屋の内に祀られています

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

本殿の覆い屋 鬼瓦

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

本殿の覆い屋の左奥に境内社が祀られています

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

社殿に一礼をして参道を戻ります

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 猪家神社について 祭神・所在などは記されていません

参考として゛鹿島村なる椎川脇大明神なり゛〈現 椎ヶ脇神社(浜松市天竜区二俣町鹿島)〉を挙げています

【抜粋意訳】

猪家神社

猪家は井氣と

〇祭神詳ならず

 式社考去、鹿島村なる椎川脇大明神なり参考同稚河(シロガ)は猪川(シシガ)なるべし、脇なるゆえか、未詳、

○伴信友云、川を加とのみいへるは、駿河  近江國甲賀郡鮎川、アユカ伊勢員弁郡石川、以之加
 内営儀式帳に、伊久良賀波宮を伊久良賀ノ宮、なほ例あり、この社は猪川シゝカハの義にて、シゝカてふ川の名によれるが云々と云り

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 猪家神社について 所在は゛豐田郡 北鹿島村にあり、椎川脇大明神といふ゛〈現 椎ヶ脇神社(浜松市天竜区二俣町鹿島)〉と記しています

【抜粋意訳】

猪家(シシカノ)神社

今 豐田郡 北鹿島村にあり、椎川脇大明神といふ、〔遠州一統志、巡拝舊祠記、式社適考、〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 猪家神社について 所在は゛北鹿島村〔字椎ヶ脇山 〇今属 豐田郡〕(磐田郡二俣町大字鹿島 郷社椎ケ脇神社)゛〈現 椎ヶ脇神社(浜松市天竜区二俣町鹿島)〉と記しています

別の説として゛長上郡小林村 稻荷神社なり゛〈現 稲荷神社(浜松市浜北区小林)〉も挙げています

【抜粋意訳】

猪家(シシカノ)神社 稱 椎河脇神社〔明細帳に椎河脇神社とあり〕

祭神
 闇淤加美(クラヲカミノ)
 玉比賣(トヨタマヒメノ)

祭日 八月二十一日
社格 郷社

所在 北鹿島村〔字椎ヶ脇山 〇今属 豐田郡
  (磐田郡二俣町大字鹿島 郷社椎ケ脇神社)

 今按 本村社地を椎ケ脇と云ふ、自ら家の訓に通へれば今之に從へり

一説に長上郡小林村稻荷神社なりと云説もあれどき確証あるにあらねば信がたし

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

椎ヶ脇神社(浜松市天竜区二俣町鹿島) (hai)」(90度のお辞儀)

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

遠江国 式内社 62座(大2座・小60座)について に戻る

一緒に読む
遠江國 式内社 62座(大2座・小60座)について

遠江国(とほとうみのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 遠江国には 62座(大2座・小60座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

続きを見る

  • B!

おすすめ記事

1

世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

2

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

4

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

5

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

6

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています