七本木神社(しきほんぎじんじゃ)は 七本木村の鎮守 八幡神社(金井家〈新田義重の後裔〉の邸内社)でした 明治四十二年(1909)村社(7社)とその境内社を合祀して 社名を七本木神社と改称したもので 合祀中の一社゛榛名大神社゛は 延喜式内社 武蔵國 賀美郡の三座゛今城青八坂稲實神社゛゛今木青坂稲實荒御魂神社゛゛今城青坂稲實池上神社゛の論社とされています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
七本木神社(Shichihongi shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
埼玉県児玉郡上里町七本木3237
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》誉田別尊(ほんだわけのみこと)
《配》倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
菅原道真公(すがわらみちざねこう)
稚産霊神(わくむすびのかみ)
天兒屋根命(あめのこやねのみこと)
比賣大神(ひめおおかみ)
気吹戸主命(いぶきどぬしのみこと)
湯彦友命(ゆひことものみこと)
埴山姫命(はにやまひめのみこと)
迦具土命(かぐつちのみこと)
白山姫命(しらやまひめのみこと)
大山祗命(おおやまつみのみこと)
石長姫命(いわながひめのみこと)
大物主命(おおものぬしのみこと)
建御名方命(たけみなかたのみこと)
菊理媛命(きくりひめのみこと)
伊弉諾尊(いざなみのみこと)
伊弉冉尊(いざなぎのみこと)
〈明治四十二年(1909)七本木村の村社(7社)その境内社(12社)を合祀〉
・村社゛榛名大神社゛(村内 字本郷原)《主》波迩山比賣命〈延喜式内社 武蔵國 賀美郡の三座゛今城青八坂稲實神社゛゛今木青坂稲實荒御魂神社゛゛今城青坂稲實池上神社゛の論社〉
・村社゛愛宕神社゛(村内 字愛宕)《主》火産霊命〔・同社境内社 稲荷神社《主》倉稲魂命〕
・村社゛白岩神社゛(村内 字本郷南)《主》祭神不詳
・村社゛稲荷神社゛(村内 字稲荷東)《主》倉稲魂命
・村社゛稲荷神社゛(村内 字四ッ谷)《主》倉稲魂命〔・同社境内社 琴平神社《主》大国主命・同社境内社 菅原神社《主》菅原道真公〕
・村社゛八幡神社゛(村内 字窪八幡東)《主》誉田別尊〔・同社境内社 琴平神社《主》大国主命・同社境内社 諏訪神社《主》建御名方命・同社境内社 愛宕神社《主》火産霊命)・同社境内社 天神社《主》菅原道真公〕
・村社゛八幡神社゛(村内 字三軒)《主》誉田別尊〔・同社境内社 稲荷神社《主》倉稲魂命)・同社境内社 白山神社《主》伊弉冉尊、菊理姫命・同社境内社 天神社《主》菅原道真公・同社境内社 琴平神社《主》大国主命・同社境内社 愛宕神社《主》火産霊命〕
神社由緒には〈境内の一角に合祀となった七社の旧本殿が建物に納められており、いずれも古色蒼然とした立派な造りのものである。空宮となった中には、宝永5年(一七〇八)銘の稲荷大明神棟札、元文五年(一七四〇)銘の八幡宮棟札、寛政十一年(一七九九)銘の正一位稲荷大明神白幣が納められている。 一間社流造りの本殿には、弓矢を手に持つ八幡大明神座像が厨子(ずし)に納めて奉安されている。このほかに、合祀された数基の幣芯が納められており、このうち榛名神社から遷された幣芯には「今木青坂稲実池上神社」と墨書されている。〉
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・五穀豊穣、商売繁盛
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 旧村社 神饌幣帛料供進神社
【創 建 (Beginning of history)】
第62回伊勢神宮式年遷宮記念
七本木(しきほんぎ)神社 御由緒
上里町七本木三二三七
□御縁起(歴史)
当地は、旧家金井家が開発した土地であり、地名の由来は、村内に七本の古木があったことによる。『児玉郡誌』(昭和二年刊)には、久保田新田の旧八幡神社境内に、「八幡の大欅(けやき)」と称される樹齢六七〇年ほどの大木があり、地名の由来となった七本の内の一本であり、他の六本は枯れてしまったと記されている。創建については、金井家の火災により古文書を失い不詳であるが、邸内社として祀っていた八幡神社が村の鎮守となったものである。 『明細帳』によると、明治四十二年に、榛名(はるな)大神社・愛宕神社・白岩神社・稲荷神社二社・八幡神社二社を合祀して、社名を七本木神社と改めたものである。
現在、境内の一角に合祀となった七社の旧本殿が建物に納められており、いずれも古色蒼然とした立派な造りのものである。空宮となった中には、宝永5年(一七〇八)銘の稲荷大明神棟札、元文五年(一七四〇)銘の八幡宮棟札、寛政十一年(一七九九)銘の正一位稲荷大明神白幣が納められている。
一間社流造りの本殿には、弓矢を手に持つ八幡大明神座像が厨子(ずし)に納めて奉安されている。このほかに、合祀された数基の幣芯が納められており、このうち榛名神社から遷された幣芯には「今木青□坂稲実池上神社」と墨書されている。
□御祭神と御神徳
・素戔嗚尊・・・五穀豊穣、商売繁盛□御祭日
・元旦祭 (一月一日)•建国祭 (二月十一日)•祈年祭 (四月三日)
・八阪神社祭 (七月十四、十五日 )•秋祭り (十月十九日)•新嘗祭 (十一月二十三日)現地案内板より
【由 緒 (History)】
由緒
天正年間(1573-92)に金窪城より移住した金井筑前守政綱が武運守護の大神として勧請し、代々崇敬してきた。現在の社殿は江戸時代に再築されたもので、長く「八幡神社」(祭神 誉田別尊)と称し、当地の鎮守であった。後に村内の稲荷神社(祭神 倉稲魂命)と天神社(祭神 菅原道真公)の老朽化により、当社に合祀した。
明治5年村社となる。
明治42年に村内字本郷原鎮座の村社 榛名神社(祭神 波迩山比売命)、字愛宕鎮座の村社 愛宕神社(祭神 火産霊命)、同社境内社 稲荷神社(祭神 倉稲魂命)、字本郷南鎮座の村社 白岩神社(祭神不詳)、字稲荷東鎮座の村社 稲荷神社(祭神 倉稲魂命)、字四ッ谷鎮座の村社 稲荷神社(祭神 倉稲魂命)、同社境内社 琴平神社(祭神 大国主命)、同菅原神社(祭神 菅原道真公)、字窪八幡東鎮座の村社 八幡神社(祭神 誉田別尊)、同社境内社 琴平神社(祭神 大国主命)、同諏訪神社(祭神 建御名方命)、同愛宕神社(祭神 火産霊命)、同天神社(祭神 菅原道真公)、字三軒鎮座の村社 八幡神社(祭神 誉田別尊)、同社境内社 稲荷神社(祭神 倉稲魂命)、同白山神社(祭神 伊弉冉尊、菊理姫命)、同天神社(祭神 菅原道真公)、同琴平神社(祭神 大国主命)、同愛宕神社(祭神 火産霊命)を当社に合祀し、社名を七本木神社と改めた。
この7社の旧本殿は空宮となっているが、当社本殿東の建物内に納められている。この7社のうちの榛名神社は、延喜式内武蔵国賀美郡今城三社合祀の社であるとも言われている。上里 菅原神社公式HPより
http://tenjin.main.jp/cn4/pg88.html
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・社殿〈拝殿・幣殿・本殿覆屋〉
・本殿〈本殿覆屋の内 格子窓より〉
・神楽殿〈前回の参拝時(2014年)には建っていた〉
〈神楽殿の跡は 現在は更地となっています〉
・合祀社の旧本殿7社を納めている覆屋〈社殿向かって右横〉
〈正面に稲荷社・奥に6社が並立に奉納されています〉
・社殿背後に並ぶ 石祠群
〈・八坂神社・金山彦命・大山祇命・日本大小神祇・八百万神・天照皇大神の石祠・石碑など〉
・石碑゛皇紀二千六百年二月二日 神饌幣帛料共進神社指定記念゛
・手水舎と御神木
・社務所
・庚申塚
七本木神社の庚申塚
この庚申塚(こうしんづか)は、地元では「お庚申さま」と呼ばれており、本郷(もとごう)の愛宕塚(あたごづか)から移転されたものです。九八基の庚申塔が建てられており、最も古い庚申塔は享保十六年(一七三一)の青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)です。
庚申(こうしん・かのえさる) は干支(えと)の組み合わせにより日数で六十日毎、年数で六十年毎に一回めぐって来ます。庚申にあたる日の夜に寝ると、体内から三尸(さんし)と言う虫が抜け出て、天帝(てんてい)にその人の悪い行いを告げて寿命を縮めると信じられていました。このため、何軒かが一組になって講を組み庚申の日の夜に集まり青面金剛や猿田彦(さるたひこ)の掛軸を掛けて拝みました。この夜は寝ないで夜明けまで酒食をしながら世間話や農作物の話をして一夜を過ごしました。
七本木神社 上里町教育委員会
現地案内板より
・社頭・鳥居・社号標
・境内社 八坂神社の本郷獅子舞
〈本郷の八坂神社(七本木神社境内)に伝わる獅子舞は、300年以前から夏祭りに「悪魔祓い」「五穀豊穣」を祈願して町内の境で舞い、最後に八坂神社及び境内に奉納されてきたと伝えられています。〉
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
七本木神社(上里町七本木)は 合祀 榛名大神社が〈延喜式内社 武蔵國 賀美郡の三座゛今城青八坂稲實神社゛゛今木青坂稲實荒御魂神社゛゛今城青坂稲實池上神社゛の論社〉となっています
①式内社 今城青八坂稲實神社〈合祀 榛名大神社が論社〉
②式内社 今木青坂稲實荒御魂神社〈合祀 榛名大神社が論社〉
③式内社 今城青坂稲實池上神社〈合祀 榛名大神社が論社〉
① 式内社 今城青八坂稲實神社〈合祀 榛名大神社が論社〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵國 44座(大2座・小42座)[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀美郡 4座(並小)[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 今城青八坂稲實神社
[ふ り が な ](いまき あを やさか いなみの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Imaki awo yasaka inami no kamino yashiro)
② 式内社 今木青坂稲實荒御魂神社〈合祀 榛名大神社が論社〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵國 44座(大2座・小42座)[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀美郡 4座(並小)[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 今木青坂稲實荒御魂神社
[ふ り が な ](いまき あをさか いなみあらみたまの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Imaki awosaka inamiaramitama no kamino yashiro)
③式内社 今城青坂稲實池上神社〈合祀 榛名大神社が論社〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵國 44座(大2座・小42座)[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀美郡 4座(並小)[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 今城青坂稲實神社
[ふ り が な ](いまき あをさか いなみの いけかみの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Imaki awosaka inamino ikekami no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 武蔵國 賀美郡 4座(並小)について
延喜式内社 武蔵國 賀美郡 4座(並小)について その所在は4社ともに確証がなく 尚且つ明治期の合祀によって それぞれが入り乱れて論社となっています それぞれの論社を参照
長幡部神社(なかはたへの かみのやしろ)
・長幡部神社(上里町長浜)
長幡部神社(ながはたべじんじゃ)は 延喜式内社 武蔵國 賀美郡 4座(並小)のすべての論社となっています 創建年代は不詳で 此の地域に進出した長幡部氏〈高度な機織り技術を持った渡来系氏族〉が 神流川南岸の字宮の西的場に機織りの神゛天羽槌雄命゛を祀ったことが起源と伝わり 天永元年(1110)洪水のため社地が流亡し現在地に遷座と伝えています
長幡部神社(上里町長浜)
今城青八坂稲實神社(いまき あを やさか いなみの かみのやしろ)
・天神社(上里町五明)
天神社(てんじんしゃ)は 延喜式内社 武蔵國 賀美郡 今城青八坂稲實神社(いまき あをやさか いなみの かみのやしろ)の論社です 創建年代は不詳ですが 社名の起源について゛今城(いまき)゛とは 此の地域に進出した渡来系氏族 長幡部氏〈高度な機織り技術を持った今来漢人(いまきかんじん)〉が 当初の居住地゛大和国 今来郡゛から移住したもので ゛稲實(いなみ)゛は 稲霊を祀ったことによるとされます
天神社(上里町五明)
・熊野神社(神川町八日市)
熊野神社(くまのじんじゃ)は 延喜式内社 今城青八坂稲實神社(いまき あをやさか いなみの かみのやしろ)の論社の一つです 口碑によれば 当社は村内 字 今城(いまき)から今の森下の地に遷座されたと伝えられ かつては 今城の社名を号していたことを窺わせます 神社に奉納される゛八日市の獅子舞゛は 神川町指定民俗文化財となっています
熊野神社(神川町八日市)
・阿保神社(神川町元阿保)
阿保神社(あぼじんじゃ)は 村老の伝に「大古、阿保人上(にんじょう)武蔵介の建立せし所なり、其後阿保次郎實光、当国府中六所明神を移し合祀せしと云。社名は今城青坂稲實(いまきあおさかいなみ)明神なりと言伝はるを記す。古社なるべし。」とあり 阿保は゛あお゛とも読み 今城青三社の゛青゛と通じ 式内論社となっています
阿保神社(神川町元阿保)
・七本木神社(上里町七本木)
〈七本木神社に合祀 榛名大神社〉
七本木神社(しきほんぎじんじゃ)は 七本木村の鎮守 八幡神社(金井家〈新田義重の後裔〉邸内社)に 明治42年(1909)村社(7社)と境内社を合祀して 社名改称がなされ 合祀中の一社゛榛名大神社゛は 延喜式内社 武蔵國 賀美郡の三座゛今城青八坂稲實神社゛゛今木青坂稲實荒御魂神社゛゛今城青坂稲實池上神社゛の論社とされます
七本木神社(児玉郡上里町七本木)〈延喜式内社論社〉
・長幡部神社(上里町長浜)
〈長幡部神社の相殿&合祀 稲荷社(上里町長浜字久保)〉
長幡部神社(ながはたべじんじゃ)は 延喜式内社 武蔵國 賀美郡 4座(並小)のすべての論社となっています 創建年代は不詳で 此の地域に進出した長幡部氏〈高度な機織り技術を持った渡来系氏族〉が 神流川南岸の字宮の西的場に機織りの神゛天羽槌雄命゛を祀ったことが起源と伝わり 天永元年(1110)洪水のため社地が流亡し現在地に遷座と伝えています
長幡部神社(上里町長浜)
・皇大神社(上里町長浜神田)
〈長幡部神社に合祀された 稲荷社(上里町長浜字久保)の旧鎮座地〉
皇大神社(こうだいじんじゃ)は 口碑によれば この地に゛稲荷社゛があったが 長幡部神社に合祀され 跡地に゛神明社゛が祀られたと云う その後 明治5年 長浜村の村社となり 社号を「皇大神社」と改めたが 明治41年 長幡部神社に合祀され 昭和22年 氏子の希望により旧地のここに遷されたものです かつて合祀された゛稲荷社゛は 式内社 武蔵國 賀美郡の三座〈・今城青八坂稲實神社・今木青坂稲實荒御魂神社・今城青坂稲實池上神社〉の論社でした
皇大神社(上里町長浜神田)
今木青坂稲實荒御魂神社(いまき あをさか いなみあらみたまの かみのやしろ)
・熊野神社(上里町堤)
熊野神社(くまのじんじゃ)は 式内社 武蔵國 賀美郡 今城青坂稲實荒御魂神社であると伝わっていますが 証はなく 町内にある他の熊野神社が中世の武士団の信仰と関わりがあり付会ともされますが 本殿のすぐ後ろが 熊野神社古墳(東堤古墳群8号墳)となっていて この古墳を祀る故に熊野神社が勧進される以前に式内社があった可能性を示唆し 式内論社とされています
熊野神社(上里町堤)
・七本木神社(上里町七本木)
〈七本木神社に合祀 榛名大神社〉
七本木神社(しきほんぎじんじゃ)は 七本木村の鎮守 八幡神社(金井家〈新田義重の後裔〉邸内社)に 明治42年(1909)村社(7社)と境内社を合祀して 社名改称がなされ 合祀中の一社゛榛名大神社゛は 延喜式内社 武蔵國 賀美郡の三座゛今城青八坂稲實神社゛゛今木青坂稲實荒御魂神社゛゛今城青坂稲實池上神社゛の論社とされます
七本木神社(児玉郡上里町七本木)〈延喜式内社論社〉
・阿保神社(神川町元阿保)に合祀
〈今木青坂稲實荒御魂神社の論社 稲荷神社(字稲荷宿)を明治43年(1910)阿保神社に合祀〉
阿保神社(あぼじんじゃ)は 村老の伝に「大古、阿保人上(にんじょう)武蔵介の建立せし所なり、其後阿保次郎實光、当国府中六所明神を移し合祀せしと云。社名は今城青坂稲實(いまきあおさかいなみ)明神なりと言伝はるを記す。古社なるべし。」とあり 阿保は゛あお゛とも読み 今城青三社の゛青゛と通じ 式内論社となっています
阿保神社(神川町元阿保)
・長幡部神社(上里町長浜)
〈長幡部神社の相殿&合祀 稲荷社(上里町長浜字久保)〉
長幡部神社(ながはたべじんじゃ)は 延喜式内社 武蔵國 賀美郡 4座(並小)のすべての論社となっています 創建年代は不詳で 此の地域に進出した長幡部氏〈高度な機織り技術を持った渡来系氏族〉が 神流川南岸の字宮の西的場に機織りの神゛天羽槌雄命゛を祀ったことが起源と伝わり 天永元年(1110)洪水のため社地が流亡し現在地に遷座と伝えています
長幡部神社(上里町長浜)
・皇大神社(上里町長浜神田)
〈長幡部神社に合祀された 稲荷社(上里町長浜字久保)の旧鎮座地〉
皇大神社(こうだいじんじゃ)は 口碑によれば この地に゛稲荷社゛があったが 長幡部神社に合祀され 跡地に゛神明社゛が祀られたと云う その後 明治5年 長浜村の村社となり 社号を「皇大神社」と改めたが 明治41年 長幡部神社に合祀され 昭和22年 氏子の希望により旧地のここに遷されたものです かつて合祀された゛稲荷社゛は 式内社 武蔵國 賀美郡の三座〈・今城青八坂稲實神社・今木青坂稲實荒御魂神社・今城青坂稲實池上神社〉の論社でした
皇大神社(上里町長浜神田)
・稲荷神社(上里町八町河原)〈参考〉
稲荷神社(いなりじんじゃ)は 中世後期の創建を伝え 宝徳年中(1449-1452)天文年中(1532-1555)天正年間(1573-1592)の勧請と諸説あります 延喜式内社ではないだろうか とも伝わっていますが これは式内社の゛稲実(いなみ)゛と゛稲荷(いなり)゛の音が通じているための誤りであろうとされています
稲荷神社(上里町八町河原)
今城青坂稲實池上神社(いまき あをさか いなみの いけかみの かみのやしろ)
・今城青坂稲実池上神社(上里町忍保)
今城青坂稲実池上神社(いまき あおさか いなみいけがみ じんじゃ)は 社伝によれば 和銅四年(711)に勧請と伝わる 延喜式内社 今城青坂稲実池上神社(いまき あをさか いなみの いけかみの かみのやしろ)の論社です 社名の「いまき」は今城すなわち新来の意で 渡来系氏族が当地に高度な稲作技術を導入し゛稲魂゛を祀ったものとされ 江戸時代には゛稲荷社゛と呼ばれていました
今城青坂稲実池上神社(上里町忍保)
・今城青坂稲実池上神社(神川町関口)
〈天正5年(1577)3月 元阿保村と関口村が分立の際 六所社(現 阿保神社)の裏当たりに鎮座していた今城青坂稲實池上神社の論社゛丹生明神゛を関口村字池上に遷座し 関口村の鎮守としたもの〉
今城青坂稲実池上神社(いまきあおさかいなみいけがみ じんじゃ)は 天正5年(1577)3月 元阿保村と関口村が分立の際 関口村の鎮守として 現在地(関口字池上)に遷座しました もとは阿保神社の裏に鎮座していたと伝わる式内社 今城青坂稲實池上神社(いまき あをさか いなみの いけかみの かみのやしろ)の論社゛丹生明神(にうみょうじん)゛でした
今城青坂稲實池上神社(神川町関口)
・阿保神社(神川町元阿保)の境内
〈天正5年(1577)3月 元阿保村と関口村が分立の際 関口村の鎮守として遷座した今城青坂稲實池上神社の論社゛丹生明神゛の旧鎮座地に石祠を祀奉り 境内に再建(慶應三年)〉
阿保神社(あぼじんじゃ)は 村老の伝に「大古、阿保人上(にんじょう)武蔵介の建立せし所なり、其後阿保次郎實光、当国府中六所明神を移し合祀せしと云。社名は今城青坂稲實(いまきあおさかいなみ)明神なりと言伝はるを記す。古社なるべし。」とあり 阿保は゛あお゛とも読み 今城青三社の゛青゛と通じ 式内論社となっています
阿保神社(神川町元阿保)
・七本木神社(上里町七本木)
〈七本木神社に合祀 榛名大神社〉
七本木神社(しきほんぎじんじゃ)は 七本木村の鎮守 八幡神社(金井家〈新田義重の後裔〉邸内社)に 明治42年(1909)村社(7社)と境内社を合祀して 社名改称がなされ 合祀中の一社゛榛名大神社゛は 延喜式内社 武蔵國 賀美郡の三座゛今城青八坂稲實神社゛゛今木青坂稲實荒御魂神社゛゛今城青坂稲實池上神社゛の論社とされます
七本木神社(児玉郡上里町七本木)〈延喜式内社論社〉
・長幡部神社(上里町長浜)
〈長幡部神社の相殿&合祀 稲荷社(上里町長浜字久保)〉
長幡部神社(ながはたべじんじゃ)は 延喜式内社 武蔵國 賀美郡 4座(並小)のすべての論社となっています 創建年代は不詳で 此の地域に進出した長幡部氏〈高度な機織り技術を持った渡来系氏族〉が 神流川南岸の字宮の西的場に機織りの神゛天羽槌雄命゛を祀ったことが起源と伝わり 天永元年(1110)洪水のため社地が流亡し現在地に遷座と伝えています
長幡部神社(上里町長浜)
・皇大神社(上里町長浜神田)
〈長幡部神社に合祀された 稲荷社(上里町長浜字久保)の旧鎮座地〉
皇大神社(こうだいじんじゃ)は 口碑によれば この地に゛稲荷社゛があったが 長幡部神社に合祀され 跡地に゛神明社゛が祀られたと云う その後 明治5年 長浜村の村社となり 社号を「皇大神社」と改めたが 明治41年 長幡部神社に合祀され 昭和22年 氏子の希望により旧地のここに遷されたものです かつて合祀された゛稲荷社゛は 式内社 武蔵國 賀美郡の三座〈・今城青八坂稲實神社・今木青坂稲實荒御魂神社・今城青坂稲實池上神社〉の論社でした
皇大神社(上里町長浜神田)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR高崎線 神保原駅から南下 約2.9km 車7分程度
七本木小学校の東南側
社殿 境内は南向き
七本木神社(上里町七本木)に参着
社号標には゛七本木神社゛とあり 一礼をして 木製の鳥居をくぐり境内へとすすみます
すぐ右手に゛七本木神社の庚申塚゛
長い参道を進むと 正面に拝殿 向かって右手に細長い社屋
拝殿にすすみます
拝殿内 幣殿入り口には゛七本木神社゛と記された社号額 その先に本殿が鎮座しています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
外から見ると 拝殿の奥には・幣殿・本殿の覆屋が一体となっています
本殿の覆屋の中には 本殿が鎮座します
社殿の背後には 多数の石祠が祀られています
社殿の向かって右手には 細長い社屋の中には 合祀された7社の本殿〈現在は空宮〉があります
正面に稲荷社 その他は6社が並列に並んでいます
社殿に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 長幡部神社の所在について 下郷長濱村〈現 長幡部神社(上里町長浜)〉
式内社 今城青八坂稲實神社・式内社 今木青坂稻實荒御魂神社・式内社 今城青坂稻實池上神社について 三社を合祭て榛名大明神〈現 七本木神社(上里町七本木)に合祀の榛名宮神社〉と記しています
・式内社 今木青坂稻實荒御魂神社・式内社 今城青坂稻實池上神社について 青坂は゛青八坂゛が正しく 八の字が抜けている と記しています
【抜粋意訳】
長幡部(ナガタヘ)神社
古事記 日子坐王子神大根王者ーーー連之祖
式社考 下郷長濱村にあり今城青八坂稲實(イマギアヲヤサカイナミ)神社
大嘗會式 稜穂田稲実 卜部
旧 事 奉献 天瑞立今木 又云 五十櫛 亦曰 今木刺饒於布都主劔
万葉 集 五十串立神酒座奉
式社 考 本長濱村今城云々の三社を合祭て榛名大明神と称す 太田氏式社細見録に見えたり今木青坂稻實荒御魂(イマキアヲサカイナミアラミタマ)神社
〇信友云 青下脱八字
今城青坂稻實池上(イマキアヲサカイナミイケガミ)神社
〇信友云 青下脱八字
【原文参照】
『新編武蔵風土記稿(Shimpen Musashi fudokiko)』文政13年(1830)完成 に記される伝承
七本木神社(上里町七本木)について 七本木村にあり゛八幡社゛と呼ばれていた 合祀された゛榛名社゛〈式内社の論社〉についても記しています
【抜粋意訳】
新編武蔵風土記稿 巻之二百四十三 加美郡巻之二 七本木村
八幡社三宇 一は村の鎮守にて村民持 其餘は西福寺持
〇榛名社 村民持 下同
〇稲荷社
〇愛宕社 西福寺持
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 長幡部神社の所在について 長濱下郷村〈現 長幡部神社(上里町長浜)〉
式内社 今城青八坂稲實神社の所在について 七本木村〈現 七本木神社(上里町七本木)に合祀の榛名宮神社〉
式内社 今木青坂稻實荒御魂神社の所在について 七本木村〈現 七本木神社(上里町七本木)に合祀の榛名宮神社〉
式内社 今城青坂稻實池上神社の所在について 七本木村〈現 七本木神社(上里町七本木)に合祀の榛名宮神社〉
と記しています
【抜粋意訳】
長幡部神社
長幡部は 奈賀波多倍と訓べし
○祭神 長幡部連祖歟、(地名紀、祭神比咩大神と云、)
〇長濱下郷村に在す、(地名記)今長幡五社宮と称す、証考例祭 月 日、
〇古事記、(開化段)日子坐王之子大根王者、長幡部連之祖、類社
常陸國 久慈郡 長幡部神社今城青八坂稲實神社
今城青八坂稲實は 伊麻岐阿袁夜佐加伊奈美と訓べし
〇祭神 稚産靈尊、地名記
〇七本木村に在す、地名記、証考今木青坂稻實荒御魂神社
今木は 前に同し、青坂は 阿袁佐加と訓べし、疑ふらくは、前に同じく、青八坂なる八の字を脱せるか、
稻實は前に同じ、荒卿魂は阿良美多麻と訓べし、○祭神 天児屋命、此咩大神、地名記
七本木村に在す、同上
例祭 月 日、
今城青坂稻實池上神社
今城青坂稲實は 前に同じ、池上は 伊介賀美と訓ベし、
○祭神 伊吹戸主命、地名記
〇七本木村に在す、同上
例祭 月 日、前件三社、
太田氏式社細見録には、本長瀬村に合祭して榛名大明神と称すと云り、
地名記も、村名はかはれども、同所鎮坐の由は同じ、さて祭神の説は、記のまゝに載すといへども疑はし、猶考ふべし、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 長幡部神社の所在について 下郷長濱村〈現 長幡部神社(上里町長浜)〉
式内社 今城青八坂稲實神社は「八坂」となっていて
・式内社 今木青坂稻實荒御魂神社・式内社 今城青坂稻實池上神社について 「八」の文字が抜けている 本来は「八坂」であると記しています
【抜粋意訳】
長幡部(ナガタベノ)神社
今 下郷長濱村にあり、長幡部五社といふ、巡拝舊祠記、神名帳土代、
蓋 長幡部連の祖神 大根王を祀る、斟酌古事記、延喜式、今城青八坂稲實(イマキアヲヤサカイナミノ)神社
今木青坂稻實荒御魂(イマキアヲサカイナミノアラミタマノ)神社
今城青坂稻實池上(イマキアヲサカイナミノイケガミノ)神社
〇按 已上二座、坂の上疑くは八字を脱せり
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 長幡部神社について 長濱村〈現 長幡部神社(上里町長浜)〉
式内社 今城青八坂稲實神社について 社名のみ記載
式内社 今木青坂稻實荒御魂神社について 社名のみ記載
式内社 今城青坂稻實池上神社について 忍保村〈現 今城青坂稲実池上神社(上里町忍保)〉
と記していますが 参考として論社を挙げています
稲實神社は 八日市村の熊野権現〈現 熊野神社(神川町八日市)〉
稲實神社は 七本木村〈現 七本木神社(上里町七本木)〉
荒御魂神社は 七本木村の榛名明神〈現 七本木神社(上里町七本木)〉
池上神社は 伊吹戸主命にて同所〈現 七本木神社(上里町七本木)〉
この三社を本長濱村に合わせ祭りて榛名大明神と称す〈現 七本木神社(上里町七本木)に合祀の榛名宮神社〉
三座とも長幡部神社の相殿〈現 長幡部神社(上里町長浜)の相殿〉
関口村の丹生〈現 今城青坂稲実池上神社(神川町関口)〉 七本木村の榛名〈現 七本木神社(上里町七本木)に合祀の榛名宮神社〉 忍保村の稲荷〈現 今城青坂稲実池上神社(上里町忍保)〉
【抜粋意訳】
長幡部神社
祭神
今按
武藏式社道程命附に祭神 姫大神とあり
神社覈録に地名記を引るにも同じ
されど 長幡部は 古事記に 日子坐王之下大根王者 長幡部連之祖とあるに據らば神 大根王を祭れる歟
又 常陸久慈郡に長幡部神社あり 常陸風土記 古老曰 珠賣美萬命 自天降時為織御衣從而降之神名綺日安命 本自筑紫國 日向二神之峰至 三野國引津根之丘後 及 美麻貴天皇之世 長幡部造祖 多弖命 避 自三野遷于久慈造立機殿 初織之其所 織服自成衣装更無裁縫い謂之内幡とあるによる時は綺日安命 或は多弖命を祭れるか こは皇別の長幡部とは出自異にして神別の氏人 なるべし祭日
社格 村社
所在 長濱村(児玉郡長幡村大字長幡)今城青八坂稲實神社
祭神
祭日
社格
所在今木青坂稻實荒御魂神社
祭神
祭日
社格
所在今城青坂稻實池上神社
祭神
祭日
社格 村社(郷社)
所在 忍保村(児玉郡神保原村大字忍保)今按
岩鼻縣神社考に 武蔵國四十四座命附に稲實神社は八日市村の熊野権現 素戔嗚命 今本書を考るに稻實神社 祭神 稚産霊命 七本木村とあリ然るを八日市村と云るは誤りなるべし
荒御魂神社は 七本木村の榛名明神 天兒屋根命
池上神社は 伊吹戸主命にて同所にありとみえ
細見録に この三社を本長濱村に合わせ祭りて榛名大明神と称す
又 三座とも長幡部神社に相殿にますとも
又 関口村の丹生 七本木村の榛名 忍保村の稲荷とも云ひて
其所詳かならず
而 関口村なるは思ひ捨がたく 忍保村なるは池上神社ならんと云り
故 今姑く之に從へり 武蔵演露 に求凉雑記を引いて本門寺境内の七面社 是 往古の池上神社なるべしとあれと 忍保村なるは今も池上明神とも云へば七面社と云よりは勝りてきこゆ
【原文参照】
七本木神社(上里町七本木)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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武蔵国(むさしのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 武蔵国には 44座(大2座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
武蔵國 式内社 44座(大2座・小42座)について