沙沙貴神社(ささきじんじゃ)は 遠く神代に少彦名神(スクナヒコナノカミ)を祀り 古代に沙沙貴山君(ササキヤマノキミ)が大彦命(オオヒコノミコト)を祀り 景行(ケイコウ)天皇が 志賀高穴穂宮の遷都の時 大規模な社殿を造営と伝わり やがて 宇多(ウダ)天皇とその皇子の敦實(アツミ)親王が 宇多源氏の祖 佐々木大明神として祀られ それ以降 佐々木源氏の氏神とされて子々孫々が篤く崇敬しています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
沙沙貴神社(Sasaki Shrine)
(ささきじんじや)
[通称名(Common name)]
佐佐木大明神(Sasaki daimyojin)
【鎮座地 (Location) 】
滋賀県近江八幡市安土町常楽寺1
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
・四座 五柱(yonza itsuhashira)の神々を 佐佐木大明神(Sasaki daimyojin)と呼ぶ
第一座《主》少名彦神(Sukunahikona no kami)
第二座《配》大毘古神(Ohohiko no kami)
第三座《配》仁徳天皇(Nintoku tenno)
第四座《配》宇多天皇(Uda tenno)
《配》敦実親王(Atsumi no miko)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・神恩感謝 Thank you for the grace of God
・先祖感謝 Thank our ancestors
・心願成就 Realization of wish of heart
・各種祈願 Various prayers
・等 etc
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
遠く神代(カミヨ)
当神社、悠遠なる神代の昔、少彦名神の御霊跡に起こり、社号の「沙沙貴」は少彦名神に起因するといわれています。
上古にあっては、大古神の末裔、沙沙貴山君の一族の氏子として尊奉され、中古以来、宇多天皇・敦親王の末裔にあたる、佐々木源氏の一族祖神として尊崇殊に厚く、京極家・黒田家・三井家・佐々木家・また、佐佐木高綱の末孫である乃木希典大将が祖廟として本神社を崇敬されたことは有名であり、今日も全国約三百万人が佐佐木源氏の末孫として由縁があり、広く敬拝されています。
旧蒲生郡・安土・金田・馬淵・武佐・平田・桜川・朝日野・地区にわたる、沙沙貴33郷70余ケ町の総鎮守、ことには・常楽寺・上出・中屋・慈恩寺・小中・の氏神として、御神威益々高く輝き給う御社であります。
※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【由 緒 (history)】
式 内 沙沙貴神社
第一座 少彦名神 すくなひこなのかみ
神代の昔より お鎮まりの産土の神第二座 大毘古神 おおひこのかみ
沙沙貴山君の祖神第三座 仁徳天皇 おおささきのすめらみこと
沙沙貴の地に由縁深い祭神第四座 宇多天皇 うだのすめらみこと
敦実親王 あつみのみこ
宇多源治の祖神右四座五柱の神々を佐佐木大明神と申し上げる
古くより沙沙貴郷 また佐佐木庄の守護神 安土地域の氏神と崇められ 佐佐木源氏一門の祖神としても尊信されている 延喜式の名社である境内案内石板より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・磐境(Iwasaka)
《主》少名彦神(Sukunahikona no kami)
沙沙貴山君(Sasakiyama no kimi)
・権殿(聖社)(hijiri Shrine)
《主》置目姫命(okimehime no mikoto)〈沙沙貴山君の祖 韓袋宿禰の妹〉
源雅信(minamoto no masazane)〈敦実親王(アツミノミコ)の3男〉
源秀義(minamoto no hideyoshi)〈源頼朝の挙兵 佐々木四兄弟の父〉
源氏頼(minamoto no ujiyori)
乃木希典(nogi maresuke)
乃木静子(nogi shizuko)
護国の英霊(gokoku no eirei)
・少童神社(watatsumi Shrine)
《主》祓戸大神(haraedo no okami)
船守之神(funamori no okami)
・影友稲荷神社(kagetomoinari Shrine)
《主》影友稲荷之神(kagetomoinari no kami)
・加茂社(kamo Shrine)
《主》加茂之神(kamo no kami)
・八神社(yagami Shrine)
《主》八神之神(yagami no kami)
・愛宕社(atago Shrine)
《主》愛宕之神(atago no kami)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています
【延喜式神名帳】(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)近江国 155座(大13座・小142座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)蒲生郡 11座(大1座・小10座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 沙沙貴神社
[ふ り が な ](ささきの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Sasaki no kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用 国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
佐佐木源氏(ササキゲンジ)の氏神として「佐々木(ササキ)」姓の発祥の地
沙沙貴神社(Sasaki Shrine)は
宇多源氏(ウタゲンジ)の中で 武家として近江国を基盤とした系統・佐佐木源氏(ササキゲンジ)の末裔の子孫が氏神としている神社です
源氏(ゲンジ)とは
皇族(コウゾク)が臣籍降下(シンセキコウカ)〈臣下の籍に降りる〉際に「源(ミナモト)」の賜姓を受けたものです
第52代 嵯峨天皇(サガテンノウ)〈809~823在位〉⇒嵯峨(サガ)源氏
第56代 清和天皇(セイワテンノウ)〈858~876在位〉⇒清和(セイワ)源氏
などに始り 江戸時代の正親町源氏に至る21系統(21流)があるとされています
宇多源氏(ウタゲンジ)は
第59代 宇多天皇(ウダテンノウ)〈887~897在位〉の皇子・諸王を祖とする源氏氏族です
「源(ミナモト)」姓では 清和源氏や嵯峨源氏などと並び称されて著名です
佐佐木源氏(ササキゲンジ)は
宇多天皇の皇子のうち 第8皇子 敦実親王(アツミノミコ)の3男・雅信(マサザネ)王が 承平6年(936)に臣籍降下(シンセキコウカ)して 源朝臣の姓を賜い源雅信(ミナモトノマサザネ)と称しました
武家として 源雅信(ミナモトノマサザネ)の子孫の源成頼(ミナモトノナリヨリ)〈976生~1003没〉は 近江国(オウミノクニ)佐々木庄(ササキノショウ)に居住します その孫の佐々木 経方(ササキツネカタ)が 佐々木を名乗り「佐々木氏(ササキウジ)」の祖となったされます
佐々木氏(ササキウジ)は
佐々木氏の氏神である沙沙貴神社(Sasaki Shrine)が建つ近江国〈滋賀県〉を本貫として繁栄し 嫡流は六角(ロッカク)氏 京極(キョウゴク)氏と分流して 近江源氏 あるいは 佐々木源氏と称されて 繁栄し各地に氏族を広げていきます
「沙沙貴十二座(ササキジュウニザ)の神事」の絵馬
近江の守護を務めた 佐佐木源氏一族が 武家を中心に 祭祀の集団をつくり
表四座(オモテヨンザ)・裏四座(ウラヨンザ)・若宮四座(ワカミヤヨンザ)の沙沙貴十二座(ササキジュウニザ)と称され 四月・五月・十月の年三回祭礼を斎行します
中世の武家の「苗(みょう)」(姓名)を継承した馬乗(うまのり)(各家の後継者)の神事です
「目結紋(メユイモン)」系を持つ家系は 佐々木氏族の末裔
六角(ロツカク)氏が 惣領家(ソウリョウケ)〈本家〉として 近江守護職を継承しています
主な佐佐木源氏とされる姓
佐佐木 佐々木 六角 京極 黒田 三井 大原 高嶋 篠笥 笹木 佐々城 沙沙貴 尼子 伊庭 椙山 岳 朽木 和泉 山脇 田中 種村 鯰江 乃木 松下 和邇 など220余の姓が継承されます
これらの佐々木源氏は 「目結紋(メユイモン)」の使用が知られています
因みに
私事ですが 実母の祖父は 徳川将軍家の旗本「山崎」の当主です
明治維新の際に最後の第15代将軍かつ日本史上最後の征夷大将軍「徳川 慶喜(トクガワヨシノブ)公」の子息にあたる
德川 家達(トクガワイエサト)公〈世の人々は「十六代様」〉は 徳川宗家 第16代当主で 1869年(明治2)6月 静岡藩知事に就任し 徳川家ゆかりの地である駿河府中(現:静岡市葵区)へ移住することとなります
新政府(明治政府)は 旗本たちに対して 3つの選択肢を与えました
①徳川家達に従い静岡に移住して静岡藩士
➁朝臣
③帰農商
この時 私の曽祖父(母曰く 山崎のおじいちゃん)は ①を選択して 江戸を払い 静岡に移住します
この旗本 山崎家の家紋が「目結紋(メユイモン)」で 佐々木源氏であると聞かされています 確かに山崎の墓標には「目結紋(メユイモン)」が刻まれています
佐佐木四郎高綱(ササキシロウタカツナ)の後裔 乃木希典(ノギマレスケ)の石碑について
乃木希典(ノギマレスケ)〈嘉永2年11月11日(1849年12月25日) - 1912年(大正元年)9月13日〉は 明治の陸軍大将で ご夫妻で 明治天皇の後を慕って殉死したことで国際的にも著名で「乃木大将」や「乃木将軍」と呼ばれることも多く「乃木神社」や「乃木坂」に名前を残しています
この乃木さんは 佐佐木四郎高綱(ササキシロウタカツナ)の後裔で ご夫妻で 境内社 権殿(聖社)(hijiri Shrine)の御祭神となられています
生前に 佐佐木大明神に参拝の折に 安土小学校の子供達に ご先祖(佐佐木氏)様を大切にするように伝えている旨が お手植えの松と並んで石碑に残されています
乃木さんの お言葉
私は 沙沙貴神社に 度々 参詣するが
この神社には 私の お祖父さん
その又 お祖父さん
まだ ずっと先の お祖父さんが 祭ってある
この村の方々
皆さんの お父さんや お兄さんは
お宮の祭を盛んにしてくださるので
私は 非常に喜んでいる
吾々人間は 祖先が本である
その本を忘れてはならぬ
本乱れて末治まるものはない
祖先の 大恩を忘れるようでは だめである
是非 祖先をうやまうようにしほしいと
この爺が言ったと よく覚えて貰いたい乃木家は、佐佐木四郎高綱の後裔で 乃木希典将軍と静子夫人は 深く当神社を崇敬されました。「乃木将軍 御手植の松」は 明治三十九年六月二十八日に参拝された時、ご自身で鍬を持って植えられた松です。
ここにかかげた「お言葉」は、その折わざわざ安土小学校に立寄られて児童たちにお話になった言葉であります。現地石碑文より
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
安土駅南口から 南方へ約750m 徒歩10分程度
住宅街を抜けて行くと鎮守の杜が見えてきます
石碑が建っていて「沙沙貴神社 古例大祭奉納神事 御渡行 大松明行事所」とあります
鎮守の杜に添って200m程 道路を進みます
社号標「沙沙貴神社」と 鳥居が建ちます
沙沙貴神社(Sasaki Shrine)に参着
参道は もう一か所先に 石灯篭が構える入口があります こちらが表参道かもしれません
こちらの参道は 石垣に囲まれて右に折れて 楼門の真正面へと続いています
先程の東参道の脇からも 楼門の前に出られます
ちょうど 夕日が 西廻廊の脇に沈む時です
楼門には 2枚の札が掛かっています
「沙沙貴神社 楼門 滋賀県指定有形文化財」
「沙沙貴神社 佐佐木源氏の神社」
一礼をして 廻廊の中に進みます
すぐ右手には手水舎があり 清めます
正面には手前から 拝殿 弊殿 本殿と立ち並びます
拝殿を真正面から 右手に社務所 左手に権殿
左手手前から 拝殿 弊殿 本殿
境内の左手には呑月の庭に池があり
本殿の左隣に
・磐境(Iwasaka)
・権殿(聖社)(hijiri Shrine)とありお詣りをします
・磐境(Iwasaka)の中門は 県指定重文
弊殿にすすみます
「佐佐木大明神」「沙沙貴神社」の社号札が掛かります
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
向かって右手より 弊殿 本殿を仰ぎます
境内社にお詣りをします
境内の西側には神輿蔵や宝蔵 絵馬殿が建っています
絵馬殿には 様々な絵馬が掛かります
こちらから広々とした境内を一望します
廻廊に囲まれた境内から 楼門へと戻ります
楼門をくぐり 振り返り一礼をします
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『古事記(Kojiki)』和銅5年(712)に記される伝承
下巻(シモツマキ)穴穂御子(アナホノミコ)〈第20代 安康(アンコウ)天皇〉の条に記される
穴穂御子(アナホノミコ)の弟「大泊瀬皇子〈第21代 雄略天皇〉」が皇位を継ぐために 多くの皇族を殺害して 即位する過程があり 有力な皇位継承者であった市辺忍歯王(イチノベノオシハノミコ)を誘い出して殺害する記述に 「佐佐紀山君(ササキヤマノキミ)の祖先で名前を韓帒(カラフクロ)」が案内役として登場します
意訳
それから後にのことです
淡海(オウミ)の 佐佐紀山君(ササキヤマノキミ)の祖先で 名前を韓帒(カラフクロ)が申しますには「淡海(オウミ)の久多綿之蚊屋野(クタワタノカヤノ=秦荘町上蚊野)には猪鹿(シシ)が澤山おり その立っている足は(沢山いる猪鹿の足)荻原(ウハギハラ)のようで 角は枯松(カラマツ)のようです」
このときに 市辺忍歯王(イチノベノオシハノミコ)を伴って一緒に淡海(オウミ)に行かれました その野に到着すると 各々が 違う仮宮を作って宿としました
明けて朝のこと まだ日が出ない時に忍歯王(オシハノミコ)は 平静な心で馬にお乗りになられて 大長谷王(オオハツセノミコ)の仮宮のそばにお立ちになり その大長谷王の御伴人(ミトモヒト=従者人)に仰せられるには
「まだ お目を覚まされておりませんか 早く申し上げなさい 夜はすでに明けています 狩り庭に出でましょう」と仰せられて すぐに馬を進めて出て行かれました
その大長谷王(オオハツセノミコ)の御所に仕えている人たちは
「宇多弖(ウタテ)〈ますますひどくの意〉な物言いをする王子だ 慎むべきです また 身を堅める(武装する)べきです」と申しましたすぐに大長谷王(オオハツセノミコ)は 衣の中に甲(ヨロイ)を着て 弓矢を取り 腰に佩(ハ)いて〈身につけ〉馬に乗り出て行かれました たちまちの間に 馬で追いつき並らばれ 矢を抜いて忍歯王(オシハノキミ)を(馬から)射落して すぐに その身を切り 馬樎(ウマフネ)〈飼い葉桶〉に入れて 地面に埋めました
それで その市辺王(イチノミコ)の王子たち 意祁王(オケノミコ)・袁祁王(ヲケノミコ)の二柱は この争乱をお聞きになり 逃げられました
かくて 山代(ヤマシロノ)の苅羽井(カリハイ)に到着されて 御粮(ミカレイ)〈枯飯 カレイイ=干した飯〉を食べられる時に 面(オモ)〈顔〉に刺青(イレズミ)裂けた〈目尻に刺青を割いて入れた〉老人が来て その粮(カレイ)を奪っていきましたその二柱の王が言われるには
「その粮(カレイ)は惜しいとは思わない しかし お前は誰だ」
老人は答え
「私は山代の猪甘(イカイ)〈豚を飼う部〉だ」
かくして 玖須婆(クスバ)〈枚方市楠葉〉の河を逃げ渡って 針間国(ハリマノクニ)〈播磨〉に到着し その国人で 名前は志自牟(シジム)という人の家に入られて 馬甘(ウマカイ)・牛甘(ウシカイ)〈馬飼・牛飼〉の役として 身を隠して おられました
【原文参照】『古事記』選者:太安万侶/刊本 明治03年 校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用
『新撰姓氏録(Shinsen Shoji roku)』815年(弘仁6年)に記される伝承
「沙沙貴山君(ササキヤマノキミ)」〈佐々木氏の祖〉について「皇別(コウベツ)」の姓氏〈筆頭にあげられている 神武天皇以降に天皇家から分かれた氏族〉に記されています
意訳
目録の「サ」の第一巻
佐々貴山君(ササキヤマノキミ)左京七才
佐々貴山君(ササキヤマノキミ)摂津丗二才文中
佐佐貴山公(ササキヤマノキミ) 阿部朝臣(アベノアソン)同祖〈の祖先〉佐佐貴山公(ササキヤマノキミ)
阿部朝臣(アベノアソン)同祖〈の祖先〉大彦命(オオヒコノミコト)之(ノ)後(アト)〈後裔〉なり 日本紀に見不(ミエズ)
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ 『新撰姓氏録』選者:万多親王/校訂者:橋本稲彦[書誌事項]刊本(後印) ,文化04年[旧蔵者]教部省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000038380&ID=M2017051017170432508&TYPE=&NO=画像利用
『特選神名牒(Tokusen shimmyo cho)』明治9年(1876年)に記される内容
意訳
沙沙貴(ササキノ)神社
祭 神 大彦命(オホヒコノミコト)
今 按(考えるに)
社伝に
祭神 大彦命(オホヒコノミコト) 少彦名命(スクナヒコナノミコト) 仁徳天皇(ニントクテンノウ) 敦實親王(アツミノキミ)の四座と云われるが少彦名命(スクナヒコナノミコト)は 神代巻〈古事記〉に「鷦鷯羽(ミソサザイノハネ)を衣として」とあるに付会して
仁徳天皇(ニントクテンノウ)は 御名「大鷦鷯尊(オオサザキノミコト)」と申し奉るを 以って云い〈によって云われる〉敦實親王(アツミノキミ)は 宇多(ウダ)天皇の皇子にて 佐佐木源氏(ササキゲンジ)の祖(オヤ)にあられ 佐佐木氏(ササキウジ)この地に住まうより後に 合祀されたもので
実は
大彦命(オホヒコノミコト)一座にあらせられる この事は 式(延喜式)に一座となっている事からも明らか日本書紀(ニホンショキ)に
「大彦命(オホヒコノミコト)は これ 佐々城山君(ササキヤマノキミ)阿部朝臣(アベノアソン)同祖〈の祖先〉大彦命(オオヒコノミコト)之(ノ)後(アト)〈後裔〉なり」とあり古事記(コジキ)に
淡海(オウミ)〈近江〉の佐々紀山君(ササキヤマノキミ)と云う事からもこの地に同族が住んでいたと知るべきなり
・・・・・・
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』出版 大正14年(1925年)磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155
『明治神社誌料(meiji jinjashiryo)』明治45年(1912)に記される伝承
意訳
砂々貴(ササキノ)神社
祭神 大彦(オオヒコノ)命 仁徳(ニントク)天皇 宇多(ウダ)天皇
少彦名(スクナヒコナノ)命 敦實(アツザネ)親王一説
祭神 少彦名命 仁徳天皇 宇多天皇 敦實親王の四柱なりとす(近江輿地志略所掲 佐々木神社 神主 左京源重議記)
又 佐々木社記によれば 少彦名命と仁徳天皇の二柱となす
又 神社覆録神祇志料神名帳考證には 大彦命を祀ると記している本居翁〈本居宣長〉は「少彦名命と云ふは 神代紀に この神 鷦鷯羽(ミソサザイノハネ)を衣としてとあるによりての附會か 大鷦鷯尊(オオサザキノミコト)〈仁徳天皇〉といへるも御名に因れる附會たるべし さて後世 宇多源氏の佐々木の族は 此地より出でたれば 敦實(アツザネ)親王は 其の族の後に合せ祭れるなるべし」と古事記伝にのべている。
創祀年代不詳と雖も(イエドモ)この国に住める佐々木氏の祖(オヤ)が、其祖神 大彦命(オオヒコノミコト)を祀りたるに起るは 殆んど疑いがない(古事記姓氏録)
醍醐天皇(ダイゴテンノウ)延喜の制(エンギノセイ)小社に列る(延喜式)
後 朱雀天皇(スザクテンノウ)長暦元年に 宇多(ウダ)天皇の一世の孫 源成頼(ミナモトノナリヨリ)初めて此地に住す
其孫 源次大夫経方(ミナモトノツギタユウツネカタ)初めて此社の神主たり 経方(ツネカタ)の嫡男 兵庫助季定(ヒョウゴノスケスエサダ)武士となる
之れ佐々木氏の武祖なり 次男 行定(イクサダ)神主となりて社事を掌る後醍醐(ゴダイゴ)天皇 元応元年(1319)7月 正二位の位記を授け奉り(伝宣草)
尋いで 北朝 光明(コウミョウ)天皇 貞和5年(1349)正一位に叙し奉る(社記)往古は社領800石を有し 佐々木氏の氏神として世々同族の尊崇厚く 随って社頭も賑ひたりしが 正親町(オオギマチ)天皇 天正年中(1573~1593)佐々木氏 観音寺城を攻落して以来 社領が廃せられ社運は梢衰える〈樹勢の衰えた木のようであった〉
慶長5年(1600)徳川家康 上杉景勝を攻むるや 家康勝を当社に祈る
又 石田三成の徳川家康に背くや 家康これを征して関ヶ原に勝ち東にかへる時 伊庭の茶屋より遙拝す 又 神主 源安重(ミナモトノヤスシゲ)を召して1万石の社領を奉納す後又 丸亀侯 京極家よりも壱百石を奉納す
又 慶長9年(1604)鰐口1個を納める(佐々木社記 神官 佐々木左京源重議記)明治9年10月21日郷社に列す
社殿は本殿 拝殿を始め楼門 廻廊 寶蔵 神輿舎 等の附物を備え
境内6479坪(官有地第一種)あり
社地は湖水を距る事遠からず 北には安土観音の諸山を望み景勝の好地なり境内社 聖(ヒジリノ)神社 影友(カゲトモノ)神社
【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用
沙沙貴神社(Sasaki Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)には
「ササキ ノカミノヤシロ」が もう1つ所載されています
但馬国(タジマノクニ)〈兵庫県北部〉出石郡 佐々伎(ササキノ)神社です
佐々貴山君(ササキヤマノキミ)の一族がこの祖神 大彦命(オオヒコノミコト)をに祀る
佐々伎神社(但東町)の記事をご覧ください
佐々伎神社(ささきじんじゃ)は 社伝によれば 第10代 崇神天皇11年(BC 87年頃)但馬国の開拓の祖神(オヤガミ)である少彦名命(スクナヒコナノミコト)を祀ったのが始めとしていて 一説には天平19年(747)3月 出石小領に任じられた佐々貴山君(ササキヤマノキミ)が 祖である大彦命(オオヒコノミコト)を佐々貴山に祀ったとあり 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の古社です
佐々伎神社(豊岡市但東町)
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『延喜式神名帳(engishiki jimmyocho)』は 延長5年(927年)に編纂されました 当時の「全国の官社」(祈年祭(毎年2月)に神祇官から幣帛を受ける神社)の一覧表が所載されています このページは 「東山道」に鎮座する(382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340)神社の一覧表です
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近江国(おうみのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 近江国には 式内社 155座(大13座・小142座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
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