山王宮日吉神社(さんのうぐうひよしじんじゃ)は 社記には 敏達天皇元年(572)杉末神社(すぎすえじんじゃ)がこの地に鎮座し 後に「山王の神」が勧請されたと云う 日吉神社は延喜式内社 丹後國 與謝郡 木積神社(こづみの かみのやしろ)の論社 杉末神社は同じく式内社 杉末神社(すきすえの かみのやしろ)論社です
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1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
山王宮日吉神社(Sannoguhiyoshi shrine)
〈境内摂社〉杉末神社(Suginosue shrine)
【通称名(Common name)】
・「さんのうさん」
・「ひよしさん」
・ 山王宮(さんのうぐう)
【鎮座地 (Location) 】
京都府宮津市宮町1408
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
〈山王宮日吉神社〉
《主》大山咋命(おほやまくいのみこと)
大己貴命(おほなむちのみこと)
〈境内摂社 杉末神社〉
《主》大物主命(おほものぬしのかみ)
《相》大己貴命(おほなむちのみこと)
少彦名命(すくなひこなのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
〈山王宮日吉神社〉災難除去の神
〈境内摂社 杉末神社〉医薬の神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
日吉神社 宮津市字宮町
古来山王社と号した。明治維新の神仏分離政策以後、公称を日吉神社と改められたが、その間 山王社の称号はこんにちに至るまで絶えることはなかった。
祭神は大山咋(おおやまくい)神・大己貴(おおなむち)神とし、創建は近江坂本(滋賀県大津市)日吉(ひえ)大社より勧請(かんじょう)したと伝えるが、これを如願寺がその鎮守として勧請したとする説は必ずしも正確ではない。
例祭は近世より四月中の申の日としたが、今は五月十五日に定めている。藩祭・国祭・宮津祭といわれ、近郷よりの人出で湧き立った。その時くり出した芸屋台の一部は今も保有され、祭りを賑わした浮太鼓は今尚続いている。境内 杉末(すぎのすえ)神社はこの地に数少ない式内社のひとつである。船魂・恵比寿神社は町の漁師・船乗りたちによって祀られているが、創建の事情は明らかでない。
現存社殿は日吉神社本殿が貞享五年(一六八八)、拝殿は天保五年(一八三四)、杉末神社は寛政六年(一七九四)、船魂神社もほぼ同時代、恵比寿神社は明和九年(一七七二)の建造である。
大工棟梁は、本殿・拝殿・杉末神社は何れもこの町の富田大工が担当した。本殿の入母屋造に縋破風(するがはふ)の向拝部を付した屋根に対して、南側に流達の屋根を持つ社殿が並び、蟇股(かえるまた)・組物・虹梁(こうりょう)等にも意匠の変化がみられ、美しい建築群である。
裏の滝上山とともに宮津の景勝地であって、京都府は隣の如願寺と地続きの一郭を「文化財環境保全地区」としている。
宮津市教育委員会
宮津市文化財保護審議会
現地案内板より
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山王宮日吉神社
古来より、山王社(さんのうしゃ)と呼ばれる、宮津郷の総産土の神とされ、例祭は五月十五日に執り行われる、山王社の起源説はいろいろとあり、其のいずれもが平安期までさかのぼり、江州坂本より勧請されたものとある。
大己貴命(おおなむちのみこと)、大山咋命(おおやまくいのみこと)の二柱をお祀りし、国造りの神であるところから宮津藩守護神として歴代藩主の厚い尊敬を受け、従って家中、町方とも深いかかわりを持ちつつ、祭礼が続けられてきた。
宮津開府以来、山王祭は藩祭、国祭りとして盛大な祭り絵巻を繰り広げ、城主自ら音頭をとり神輿を造り、漁師町、白柏町、葛屋町、河原町、川向町、魚屋町、万町、本町などの城下の芸屋台はもちろん、藩内の岩滝、加悦、上宮津、府中、男山、内宮、外宮より、計七十七人の世話人を選び練りものを出したと記録にある、宮津祭と呼ばれる所以である、
波路御旅所への神輿渡御の際は、宮津城はとくに大手、波路両門を開いて通過を許し、そこへ神輿、屋台同士が城内巡行の順路をめぐって争いながら押しかけたため、「宮津祭は将棋の駒よ、大手々々と詰めかれる」との俗謡も生まれた。特殊神事として、六十一年毎に甲子大祭が執り行われている。境内には七社の神社があり、摂社 杉末神社は延喜式内社として、千有余年の歴史を持ち、旧城下においては最古の神社である。大物主命(おおものぬしのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)をお祀りし、宮津西町の氏神とされている。十月十日の例祭には、「赤ちゃんの初土俵入り」の神事があり、化粧まわしを付けた幼児が、神と相撲をとることによって健康を授かるという、極めて珍しい神事として名高い。
現地案内板より
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【由 緒 (History)】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
〇京都府 丹後國 與謝郡宮津町字宮
日吉(ヒヨシノ)神社
祭神
大山咋(オホヤマクヒノ)命
大己貴(オホナムチノ)命本社創建年代詳ならず、社記に曰く「人皇五十一代 平城天皇御代、近江國坂本より遷奉す」と又 國花萬葉記に「宮津明神といふ、祭神大己貴命、少彦名命也、後冷泉院永承五年九月、託宣によって社を建立す」と見ゆ、當社は、宮津一統の産土神にして、例祭を宮津祭 又 國祭と稱す、宮津城主は代々神饌米を供し、又 長柄曳馬等を差出され、奥平家領主迄は祭典の際 神職に乘馬を貸與あり、爾來 例祭は舊式古格を失ふことなかりきと云ふ、
明治五年郷社に列す。社殿は本殿、拜殿、輿藏、神樂股、綸馬殿等ありて、境内坪數千百八十六坪(官有地第一種首)を有せり。
境内神社
惠美須神社 船魂神社 金刀毘羅神社 年徳神社
稲荷神社 山神社
【原文参照】
明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』上,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088244
由緒
大山咋命 大己貴命 災難除去の神々
宮津の町では昔から「山王さん」の名で親しまれています。神社ができたのは平安期と伝えられ、江戸時代より歴代宮津藩の守護神として城主の深い信仰を受け、お殿様、ご家中を始めとした城下町宮津の総氏神とされて参りました。そのため当神社の例祭(山王祭)に限り特に宮津祭の名で呼ばれています。山王宮に鎮まります神々は、昔より「災難除去の神」とされ、不幸をもたらす悪霊(まがつび)を遠ざけ災難より万物を守る非常に強い力を持つ神と言われています。そのため古来数多くの信仰を集め、季節を通し行われる数々の御祭では、古式に定められた儀礼の中で、災厄は祓われ幸福が祈願されています。今日「厄除祈願」「交通安全祈願」等に遠方からの参拝者が多いのも、そうした御神力によるものと言えます。
※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・山王宮日吉神社 社殿
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・山王宮日吉神社 本殿・渡殿・幣殿
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・山王宮日吉神社 拝殿
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・〈境内 摂社〉杉末神社(すぎすえじんじゃ)
延喜式内社 丹後國 與謝郡 杉末神社(すきすえの かみのやしろ)の比定社
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『丹後宮津志』,宮津町,大正15年に記される内容
元の鎮座地は゛元來杉末町ノ上ニ鎭座ニテ 社ノ側ニ杉ノ大樹在之依テ杉末神社ト稱ス゛
現在地への遷座は良くわからないが一説には゛天正年間 領主 細川藤孝依心願遷之ト云々゛と記しています【抜粋意訳】
杉末神社
祭神 大物主命
相殿 大已貴命 少彥名命由緒
延喜式神名帳所載の一社也社記曰 人皇三十一代 敏達天皇卽位元年 大和國三諸山ヨリ遷奉 杉末神社ト 齋祭明年癸巳四月六日官幣ヲ奉ルト云々
社地 元來杉末町ノ上ニ鎭座ニテ 社ノ側ニ杉ノ大樹在之依テ杉末神社ト稱スト也
當社地ヘ遷シ候 年曆不詳一曰天正年間 領主 細川藤孝依心願遷之ト云々。
明治六年二月村社被定置
【原文参照】
京都府宮津町 編『丹後宮津志』,宮津町,大正15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1020204
『丹後史料叢書』第5輯,昭和2年に記される
【抜粋意訳】
杉末神社
〇未當作米出雲國 須義禰神社 米與禰通
【宮津志】
宮津城下杉末町ニアリ 杉未大明神 山王同所ナリ 山王社地ハ本當社鎭座ノ地也 中古ヨリ山王ヲ本社トナシ 當社ヲ攝社ノ如クナシ來レリ
【覈】宮津市場杉末町
【明細】宮町 祭神 大物主 相殿 大巳貴 少彦名 祭日九月十日
【道】宮津町 宮津大明神
【式考】宮津町 日吉社境内祭 ル神ハ大和國 三諸山ヨリ降臨ノ由サレバ大物主櫛甕魂命ナルベシト吉岡氏云リ
【豐】宮津宮町字松ヶ岡 大物主神 十月十日
【原文参照】
『丹後史料叢書』第5輯,丹後史料叢書刊行会,昭和2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1175358
『丹後史料叢書』第5輯,丹後史料叢書刊行会,昭和2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1175358
・土俵〈杉末神社の例祭に執り行われる神事〉
赤ちゃん 初土俵入
赤ちゃん「初土俵入」は、摂社「杉末神社」例祭の神賑行事として体育の日に執り行われる相撲神事です。華麗な化粧回しを付けた幼児が見えない神様を相手に相撲をとるという、全国でもきわめて珍しく、また可愛らしい神事として広く知られています。
化粧回しを付けた幼児は行司に抱えられて、先ず土俵中央で神社に向かい四股を踏みます。その後、土俵際まで神様を押し出すように進み、次に押し返されて土俵中央に戻り尻もちをつきます。神様は強くて赤ちゃんは負けてしまうのですが、神様と相撲をとり神聖な土俵の砂を身体に付けることで健康に育つと伝えられています。
初土俵入は江戸時代中頃、それまで行われていた地元力士による奉納花相撲の影響を受けて、氏子中の有力な家々が屋号などを元にした化粧回しを作り、 その子供達を土俵に上げたのか始まりてす。
以来今日まで城下町宮津の子供たちの大切な儀式として守られてまいりました。
現在は地域や男女を問わずに参加が認められ、風景や花々をあしらった美しい化粧回しも作られました。当日、境内は全国各地から集う沢山の子供達の泣き声、そしてそれを見守る人々の歓声で大いに賑わいます。現地土俵の立札より
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・土俵の奥〈境内 末社〉
・〈境内 末社〉船魂神社(ふなだまじんじゃ)《主》猿田彦命
〈境内 摂社〉杉末神社の向かって右 土俵の左奥の祠
・年徳神社(としとくじんじゃ)《主》歳徳神
〈境内 末社〉船魂神社と神馬舎の間 中央の祠
・〈神馬舎〉神馬
〈境内 末社〉年徳神社の右の祠
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・山神社(やまのかみのやしろ)
〈境内 末社〉年徳神社と〈神馬舎〉神馬の間 土俵の奥 石段の上の祠
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・〈本殿向かって右の境内 末社3社〉
向って右から
・恵比寿神社(えびすじんじゃ)《主》事代主命
・琴平神社(ことひらじんじゃ)《主》大物主命
・致命壮烈社(ちめいそうれつしゃ)《主》護国の英霊
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・御神木
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・手水舎
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・鳥居
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・山王宮神輿
この神輿(みこし)は元治元年(一八六四年)に行われた甲子(きのえね)大祭にあわせて宮津藩主を始め家中、また各町の寄進により作られたもので、華やかな彫金や装飾彫刻はいずれも重厚で質が高く、扉を始め各所には山王の神の使いとされる神猿の像が美しく施されています。屋根の繫ぎ九ツ目紋は当時の藩主であった本庄家の家紋であり、宮津藩守護神である山王宮と藩との関係をそこに窺い知ることが出来ます。
例祭は山王祭と呼ばれ藩祭とされていました。宮津祭の名はその俗称です。遠く湾の向こう波路御旅所までの町中を巡幸して城下の平安を祈願する神幸の儀は、現在も変わらずに続けられています。
山王宮では例祭とは別に六十年毎に甲子大祭と呼ばれる式年祭があります。江戸時代には神輿の新調が行われ その度により豪華なものとなっていきました。それ以前の神輿は近くの神社に引き取られたと伝えられ、また近郷には山王宮から頂いたという話が今も残っています。
現地案内板より
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・〈境内続き〉如願寺
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Englishmen Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
山王宮日吉神社&〈境内摂社〉杉末神社は それぞれ式内社の論社です
①丹後國 與謝郡 木積神社〈山王宮日吉神社〉
②丹後國 與謝郡 杉末神社〈境内摂社 杉末神社〉
①丹後國 與謝郡 木積神社〈山王宮日吉神社〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)丹後國 65座(大7座・小58座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)與謝郡 20座(大3座・小17座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 木積神社
[ふ り が な ](こづみの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kozumi no kaminoyashiro)
②丹後國 與謝郡 杉末神社〈境内摂社 杉末神社〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)丹後國 65座(大7座・小58座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)與謝郡 20座(大3座・小17座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 杉末神社
[ふ り が な ](すきすえの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Sukisue no kaminoyashiro)
【原文参照】
国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 丹後國 與謝郡 木積神社(こつみの かみのやしろ)の論社
・木積神社(与謝野町字弓木小字石田宮ヶ谷)
木積神社(きづみじんじゃ)は 江戸時代には山王大神 又 大和國三輪より勧請した三輪大神とも云われていました 罹災等により建築物 社記 古文書等を消失しましたが 2つの式内社〈①丹後國 與謝郡 阿知江神社(あちえの かみのやしろ)②丹後國 與謝郡 木積神社(こづみの かみのやしろ)〉の論社となっています
木積神社(与謝野町字弓木小字石田宮ヶ谷)〈『延喜式』阿知江神社・木積神社〉
・木積神社(丹後市大宮町久住)
木積神社(きづみじんじゃ)は 伝記には 丹後国與謝郡「三重郷」五十日眞黑人(いかがまくろうど)の宅に潜在した伝承を持つ 二皇子〔弘計尊(をけのみこと)〈第23代 顕宗天皇〉・億計尊(おけのみこと)〈第24代 仁賢天皇〉〕を祭神とする 延喜式内社 丹後國 與謝郡 木積神社(こつみの かみのやしろ)の論社です
木積神社(京丹後市大宮町久住)〈『延喜式』木積神社〉
・山王宮日吉神社(宮津市宮町)
山王宮日吉神社(さんのうぐうひよしじんじゃ)は 社記には 敏達天皇元年(572)杉末神社(すぎすえじんじゃ)がこの地に鎮座し 後に「山王の神」が勧請されたと云う 日吉神社は延喜式内社 丹後國 與謝郡 木積神社(こづみの かみのやしろ)の論社 杉末神社は同じく式内社 杉末神社(すきすえの かみのやしろ)論社です
山王宮日吉神社〈『延喜式』木積神社〉&境内摂社 杉末神社〈『延喜式』杉末神社〉
延喜式内社 丹後國 與謝郡 杉末神社(すきすえの かみのやしろ)の論社
・杉末神社(宮津市宮町)
〈山王宮日吉神社 境内摂社〉
山王宮日吉神社(さんのうぐうひよしじんじゃ)は 社記には 敏達天皇元年(572)杉末神社(すぎすえじんじゃ)がこの地に鎮座し 後に「山王の神」が勧請されたと云う 日吉神社は延喜式内社 丹後國 與謝郡 木積神社(こづみの かみのやしろ)の論社 杉末神社は同じく式内社 杉末神社(すきすえの かみのやしろ)論社です
山王宮日吉神社〈『延喜式』木積神社〉&境内摂社 杉末神社〈『延喜式』杉末神社〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
京都丹後鉄道宮豊線 宮津駅から府道606号経由で西方向へ約1.4km 車での所要時間は5~6分程度
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参道は 京都丹後鉄道宮豊線の線路をくぐり抜けています
線路の手前には 鳥居が建てられています
扁額には「山王宮」と記されています
山王宮日吉神社 &〈境内摂社〉杉末神社(宮津市宮町)に参着
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京都丹後鉄道宮豊線の線路をくぐり抜けると 樹齢八百年とも千年とも云われる御神木があります
左手には手水舎があり 清めてから石段を上がると 社殿の建つ境内となります
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石段を上がると 石畳みの参道の正面に拝殿が建ちます
拝殿にすすみます
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拝殿の両脇には〈境内社〉が祀られています
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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
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拝殿の奥には 幣殿 渡殿 本殿が続いています
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向って右隣りは〈境内社〉恵比須神社です
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向って左隣は〈境内 摂社〉杉末神社(すぎすえじんじゃ)
延喜式内社 丹後國 與謝郡 杉末神社(すきすえの かみのやしろ)の比定社です
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境内社にお参りをして 境内の石畳の参道を戻ります
境内は 高台にありますので 東側にある宮津湾を眼下にすることが出来ます
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石段を下った所には 六角形の赤い策に囲まれた゛御神木゛があります
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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 木積神社について 祭神は良くわかっていない 所在は゛皇住村に在す゛〈現 木積神社(丹後市大宮町久住)〉と記されています
【抜粋意訳】
木積神社
木積は 古都美と訓べし
〇祭神詳ならず
〇皇住村に在す〔舊事記〕
式内社 杉末神社について 所在は゛宮津市場杉末町に在す゛〈現 山王宮日吉神社の〈境内摂社〉杉末神社(宮津市宮町)〉と記しています
【抜粋意訳】
杉末神社
杉末は 須伎須と訓べし
〇祭神詳ならず
〇宮津市場杉末町に在す〔舊事記〕
【原文参照】
鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 木積神社について 祭神・所在は記されず 社号のみが記されています
【抜粋意訳】
木積(キツミノ)神社
式内社 杉末神社について 所在は゛今 宮津の杉末町に在り、杉末大明神といふ、゛〈現 山王宮日吉神社の〈境内摂社〉杉末神社(宮津市宮町)〉と記しています
【抜粋意訳】
杉末(スギスエノ)神社
今 宮津の杉末町に在り、杉末大明神といふ、〔丹後宮津志、〕
〔〇按 今 本社 同所山王祠あるは、其舊址なり、〕
【原文参照】
栗田寛 著『神祇志料』第15−17巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815497
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 木積神社について 所在は゛(中郡五箇村大字久住)゛〈現 木積神社(丹後市大宮町久住)〉と記されています
さらに
゛弓木村゛〈現 木積神社(与謝野町字弓木小字石田宮ヶ谷)〉
゛府中男山村゛
゛岩ケ鼻村゛〈現 山王宮日吉神社(宮津市宮町)〉
゛石田村 山王社と云は誤なるべし゛
と諸説あり一定しないと 記しています
【抜粋意訳】
木積(コヅミノ)神社
祭神 五十猛命
祭日 九月十一日
社格 村社所在 (中郡五箇村大字久住)
今按 豐岡縣取調記に弓木村とし 神社覈録 府中男山村とみえ
道志流倍に岩ケ鼻村とし 石田村 山王社と云は誤なるべしと云ひて 諸説一定せず
式内社 杉末神社について 所在は゛宮津宮町〔字松ヶ丘〕゛〈現 山王宮日吉神社の〈境内摂社〉杉末神社(宮津市宮町)〉と記しています
【抜粋意訳】
杉末(スギスエノ)神社
祭神 大物主命
祭日 九月十日
社格 村社所在 宮津宮町〔字松ヶ丘〕
【原文参照】
教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
山王宮日吉神社 &〈境内摂社〉杉末神社(宮津市宮町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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丹後国 式内社 65座(大7座・小58座)について に戻る
丹後国(たんごのくに)の式内社とは 平安時代中期 「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧『延喜式神名帳』〈927年朝廷編纂『延喜式』(律令の施行細則 全50巻)の巻9・10を云う〉に所載される 丹後国65座(大7座・小58座)の神を云います
丹後國 式内社 65座(大7座・小58座)について