実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

漢國神社(奈良市漢国町)

漢国神社(かんごうじんじゃ)は 推古天皇 元年(593)大神君白堤(おおみわのきみしらつつみ)が勅を賜いて 園神(そのかみ大物主命祀り その 元正天皇の養老元年(717)藤原不比等公(ふじわらのふひとこう) 更に 韓神(からかみ)の二座大己貴命(おほなむちのみこと)少彦名命(すくなひこなのみことを相殿として祀りました 清和天皇 貞観元年(859)平安城宮内省へと 園神韓神は勧請されたと社伝は云います

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

漢國神社(Kangou Shrine
(かんごうじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

奈良県奈良市漢國町2番地

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

祭神三座
《主》園神(Sonokami
 大物主命(Ohomononushi no mikoto
《主》韓神(Karakami)
 大己貴命(Ohonamuchi no mikoto) 少彦名命(Sukunahikona no mikoto)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

国土経営・五穀豊穣・開運招福・縁結び・安産子育て・家内安全夫婦和合・商売繁盛・学業成就・交通安全・病気平癒・諸芸上達・等

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳Engishiki jimmeicho)所載社

【創  (Beginning of history)】

社伝には 推古天皇(すいこてんのう)の元年23大神君白堤(おおみわのきみしらつつみ)が勅を賜いて 園神(そのかみ)大物主命祀り その 元正天皇の養老元年(717)藤原不比等公(ふじわらのふひとこう) 更に韓神(からかみ)の二座大己貴命(おおなむちのみこと)少彦名命(すくなひこなのみこと)を相殿として祀られたと伝わります

【由  (History)】

漢國神社(かんごうじんじゃ由緒略記(ゆいしょりゃくき)

祭神三座
園神(そのかみ) 大物主命(おおものぬしのみこと)
韓神(からかみ) 大己貴命 少彦名命(おおなむちのみこと すくなひこなのみこと)

一、鎮座由来(ちんざゆらい)
当神社は 推古天皇(すいこてんのう)の元年23日(今より約1400年前)、大神君白堤(おおみわのきみしらつつみ)と申(もう)す方(かた)が、勅(みことのり)を賜(たま)いて 園神(そのかみ)の神霊(しんれい)をお祭りせられ、其後 元正天皇(げんしょうてんのう)の養老元年1128日、藤原不比等公(ふじわらのふひとこう) 更に韓神(からかみ)の二座を相殿として祀(まつ)られたのが漢國神社(かんごうじんじゃ)であります。
古(ふる)くは春日率川坂岡社(かすがいさかわさかおかしゃ)と称しました。

一、平安城宮内省(へいあんじょうくないしょう)へ勧請(かんじょう)
清和天皇(せいわてんのう)の貞観元年正月27日、平安城宮内省に当社の御祭神を勧請して皇室(こうしつ)の御守護神とせられたのであります。

一、御神徳(ごしんとく)
御祭神は 第一に国土経営(こくどけいえい)の御大業(ごたいぎょう)をなされ、第二には 国民の為に衣食住の根基(もとい)を樹(た)て給いし 最(いと)も尊(とうと)い神々で、殊(こと)に医薬造酒(いやくぞうしゅ)の粗神(そじん)でもあります。また、家康公(いえやすこう)に因(ちな)み開運招福(かいうんしょうふく)の霊験(れいけん)を崇ばれております。

一、林神社(りんじんじや)
林神社(りんじんじや)は、林浄因命(りんじょういんのみこと)を御祭神として御祀(おまつ)りする我国で唯一の「饅頭(まんじゅう)の社(やしろ)」であります。林浄因命(りんじょういんのみこと)は 中国浙江省(ちゅうごくせっこうしょう)の人、林和靖(りんわせい)の末裔(まつえい)で、歴応4年に来朝(らいちょう)され、漢國神社 社頭(しゃとう)に住まいされるや、我国で最初に饅頭(まんじゅう)を御作になり好評を博しました。その後、足利将軍家を経て、遂には宮中(きゅうちゅう)に献上(けんじょう)するに至り、今日 全国の菓業界の信仰を集めています。また、室町末期から桃山初期にかけて林家(りんけ)では碩学の林宗二が、初期の国語辞書である「饅頭屋本節用集(まんじゅうやほんせつようしゅう)」を著(あらわ)し、印刷・出版の嚢祖(のうそ)として知られています。

一、徳川家康公鎧と鎧蔵
慶長191115日、大坂陣(おおさかじん)の際、徳川家康公(とくがわいえやすこう)木津(きづ)の戦に破れ 当社境内の桶屋(おけや)に落忍(おちしの)ばれ 九死に一生を得給う。依って報賽祈願(ほうさいきがん)の為翌16 当社に御参拝(ごさんぱい)、御召鎧一領(おめしよろいちりょう)を御奉納(ごほうのう)(あそ)ばさる。其後 鎧蔵を建立し 累世の将軍家は 年々使者をお立てになりました。
(鎧は現今 国立奈良博物館に出陳中)

一、白雄塚
元正天皇(げんしょうてんのう) 当社 御崇敬の念厚く、養老54月に百済王(くだらおう) 献上(けんじょう)した白雉(はくち)を当社へ奉納遊ばされました。其の後 神亀元年918日この雉を埋め、塚を築いたのであります。
由緒書より

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【境内社 (Other deities within the precincts)】

林神社(リンジンジャ)《主》林浄因命(リンジョウインノミコト)

室町時代のはじめ中国から渡来し 日本に初めて饅頭(アンマンジュウ)を伝えた林浄因命(リンジョウインノミコト)を祀ります

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・葵神社(アオイジンジャ)《主》東照大権現(トウショウダイゴンゲン)

徳川家康公祀ります

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源九郎稲荷神社《主》宇賀御魂神(ウカノミタマノカミ)

 大正13年(1924)山の寺から勧請

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八王子神社《主》八王子神

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水神社 手水舎に祀られる

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小祠2合殿 祭神不詳

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【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭Meijin sai)」の条 285座

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂

延喜式巻第3は『臨時祭〈・遷宮天皇の即位や行幸国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で名神祭Meijin sai)』の条に 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています

名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています

名神祭285座の筆頭に記されています

座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩

嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦) 

大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合

加えるに 
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺 
絲(イト)1絇を 布1端に代える

名神祭 二百八十五

(ソノノ)神社 一座 
韓(カラノ)神社 二座  巳上座 宮内省

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

式内社の元宮と論社となっています

宮中式内社の元宮として

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)宮中 36座…大(預月次新嘗)30・小6)
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)宮内省坐神 3座(並大)
[名神大 大 小] 式内名神大社

[旧 神社 名称 ] 園神社(貞・名神大 月次 新嘗)
         韓神社二座(名神大 月次 新嘗)

[ふ り が な ]そのかみ かみのやしろ)
         からかみ かみのやしろ)

[Old Shrine name]Sonokami no kamino yashiro)
          Karakami no kamino yashiro)

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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宮中式内社の論社として

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和国 286座
 (大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)添上郡 37座(大9座・小28座)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 狭岡神社 八座
[ふ り が な ]さをか かみのやしろ)
[Old Shrine name]Sawoka no kamino yashiro)

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
宮中 36座の中 宮内省坐神 3座(並大)について

漢國神社の社伝では 宮中の宮内省坐神 3座(並大)清和天皇(せいわてんのう)の貞観元年(859)正月27日、平安城宮内省に当社の御祭神を勧請して皇室(こうしつ)の御守護神とせられたのであります」として 当社より遷座したと伝わっています

園神社韓神社〈宮中三殿 神殿〉 

鵺大明神玉姫大明神朝日大明神(京都市上京区主税町) 

一緒に読む
鵺大明神 玉姫大明神 朝日大明神(京都市上京区主税町)

鵺大明神 玉姫大明神 朝日大明神(ぬえだいみょうじん たまひめだいみょうじん あさひだいみょうじん)は『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 宮中神 神紙官西院坐御巫の八神殿の一座「大宮賣神」の名跡 大宮姫命稲荷神社があります この地は その更なる古跡とされています 又『平家物語』で 有名な「鵺」の話の舞台で 平安時代末期 近衛天皇(在位1141~1155)〉の御代 源頼政卿が鵺を退治して ここの池で 鵺(ぬえ)を射た矢じりを洗ったと伝えられます

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漢国神社(奈良市漢国町)〈元宮〉

一緒に読む
漢國神社(奈良市漢国町)

漢国神社(かんごうじんじゃ)は 推古天皇 元年(593)大神君白堤(おおみわのきみしらつつみ)が勅を賜いて 園神(そのかみ)〈大物主命〉を祀り その後 元正天皇の養老元年(717)藤原不比等公(ふじわらのふひとこう)が 更に 韓神(からかみ)の二座〈大己貴命(おほなむちのみこと)少彦名命(すくなひこなのみこと)〉を相殿として祀りました 清和天皇 貞観元年(859)平安城宮内省へと 園神韓神は勧請されたと社伝は云います

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宮中に鎮座する 36座『延喜式神名帳』の所載一覧

宮中に鎮座せらる 36座『延喜式神名帳』の所載一覧  

『延喜式神名帳(engishiki jimmyocho)』は 延長5年(927年)に編纂されました
当時の「全国の官社」(祈年祭(毎年2月)に神祇官から幣帛を受ける神社)の一覧表が所載されています

このページは
「宮中」に鎮座する(36座…大(預月次新嘗)30・小6)神社の一覧表です

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『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
大和国 286座の中 添上郡 狹岡神社 八座 の論社について

延喜式神名帳に狭岡神社八座とあるが 本来は「狭加岡神社〈漢國神社のこと〉あったが 流布した写本には 「の字を脱していて現在のようになっているする説があります

漢国神社古くは春日率川坂岡社(かすがいさがわ さかおかしゃ)と称しました

・狭岡神社(奈良市法蓮町)

漢国神社(奈良市漢国町) 

一緒に読む
漢國神社(奈良市漢国町)

漢国神社(かんごうじんじゃ)は 推古天皇 元年(593)大神君白堤(おおみわのきみしらつつみ)が勅を賜いて 園神(そのかみ)〈大物主命〉を祀り その後 元正天皇の養老元年(717)藤原不比等公(ふじわらのふひとこう)が 更に 韓神(からかみ)の二座〈大己貴命(おほなむちのみこと)少彦名命(すくなひこなのみこと)〉を相殿として祀りました 清和天皇 貞観元年(859)平安城宮内省へと 園神韓神は勧請されたと社伝は云います

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

近鉄奈良駅から南西へ約160m 徒歩2分ほど

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やすらぎの道100mほど南下し西側朱塗りの鳥居が建ち 参道の両側に社号標が立ちます 「縣社 漢國神社饅頭の祖神 林神社

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鳥居の扁額には「漢國神社」とあり 一礼をして くぐり抜けます
参道の右手は社務所です

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参道を進むと少しに 白壁に囲まれた境内地に四脚門〈表門〉があり鎮座しています
漢國神社(Kangou Shrineに参着

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表門をくぐり抜けると すぐ左手の白塀の内に境内社の源九郎稲荷神社が鎮座しています

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正面は狛犬が座して 朱色の鳥居の先に社殿が建っています

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鳥居をくぐり抜けて 御神燈の提灯が懸けられた 拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿は 三間流造・檜皮葺きの桃山時代の美しい建物です

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街中に在って 境内地それほど広くはありませんが 白壁の内側は神域となっていて 喧騒を忘れてしまいます
ゆっくりと社殿を廻るように石畳みの参道があり 境内社を巡りながら順番にお詣りをします

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社殿に再び 一礼をします

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『大和名所図会(Yamato Meisho Zue)』〈寛政3年(1791年)刊〉に記される伝承

漢國町に韓神が鎮座していると記されています

【意訳】

韓神(からのかみの)(やしろ)

高天町の南 漢國町の西側にあり

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『大和名所図会』選者:秋里籬島/画家:竹原春朝斎[数量]7冊[書誌事項]刊本 ,寛政03年[旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003118&ID=M2018050217074528140&TYPE=&NO=

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『大和志料(Yamato shiryo)』〈大正3年(1914)〉に記される伝承

創建は古く 率川神社の別宮ではあるが 同じく 推古天皇元年 大神君白堤 勅を奉じて創建されている

漢国神社古くは春日率川坂岡社(かすがいさがわ さかおかしゃ)と称していた
延喜式神名帳に狭岡神社八座とあるが 本来は「狭加岡神社〈漢國神社のこと〉あったが 流布した写本には 加の字を脱していて現在のようになっている

延喜式神名帳に 宮中宮内省に祀られ名神大社に列すると記される園神社・韓神社は 当社からの勧請であると記しています

【意訳】

漢國(カンガウ)神社

奈良市大字漢國町にあり もと韓神(カンカウ)と称す 神國(カワコク)音相若けり 故に「カンガウ」と呼び 遂に漢國(カンガウ)・漢郷(カンガウ) 八重桜の字面を用ふるに至れるなり

祭神は 園神(そのかみ)大物主命韓神(からかみ)大己貴命少彦名命〉の三座にして 古くは率川神社の別社たり
故に仁安2年(1167)10月21日の率川神社記 大倭祝大倭盛繁撰に
別宮・・・・
園韓(ソノカラ)神社 三座 
大神氏家牒曰く 養老年中 藤史亦建に園韓神社 奉斎焉神名帳云う 宮内省坐神三座 並名神大 月次 新嘗 園神社一座 韓神社二座
旧記云う 件神等 素戔嗚尊の子孫 守 疫神なり
伝聞 園神者 大己貴命の和魂 大物主命 韓神者 大己貴命 少彦名命なり
〇この一章の全文 率川社に引用せり 参照すべし

とあり 以って祭る所の神名を知るべし 然るに坊目考に これを韓神 大物主命(左座) 園神 大己貴命(中座) 韓神 少彦名命(右座)とするは頗る故実を失へり

当社は 率川社記に據るに 亦 養老年中 藤原不比等の創始に係るものの如しといえども その実は 本社 率川社と同じく 推古天皇元年 大神君白堤 勅を奉じて 剏斎(ソウサイ)する所なり

大三輪鎮座次第 嘉禄2年 大三輪氏勘作に
春日三枝神社 媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメノミコト)なり

社伝 小墾田宮御宇天皇御世 大三輪君白従奉勅立に社 於春日邑率川坂岡両所に奉斎 媛蹈鞴五十鈴媛命 大物主命なり
平城宮御宇天皇御世 益造両社の相殿の為に三座
と見ゆ

この文を吟味するに ここ率川社 即ち 春日三枝社 及び 当社の創立を井記せるものにして 所謂 媛蹈鞴五十鈴媛命は 春日率川に祭られ 大物主命は 園神の名を以って 坂岡に祭られたるなり
その「平城宮 御世益造両社の相殿為に三座」とは 既に上に述べる如く
率川社は もと媛蹈鞴五十鈴媛命のみなりしを養老年中 藤原不比等 子守・狭井の二神を相殿に祭り 初めて三座とせしものなるが ここに両社とあるは その一社は 即ち坂岡の園神にして この時 不比等 韓神 大己貴命少彦名命 二座をこれが相殿とせしこと甚だ著明なり
然らば 即ち
 率川社記に「養老年中 史亦建園韓神社奉斎焉」とあるは 韓神の二座を園神の相殿に創斎せしを記せしものにして 亦の字は率川の相殿に櫬接せしものなり

元要記に当社の事を記して
崇神天皇6年2月葵酉於 春日里 率川旧庭に社檀一所宮柱立・・・養老元年4月甲子朔 漢國社銭檀率川御門北面の内 蘭林坊良方 三所宮柱太敷立奉る 安に神体・・・と云えり
そのこれを崇神天皇の御世に係ぐるは謬伝なるべきも 社檀一所は 即ち園神にして 養老以前のありしを藤原不比等 相殿二座を副造り 三座となしたるの事実は大神氏の家牒に符号せり 亦以って 傍証となすに足るべし

 延喜式神名帳に狭岡神社八座とあるを 大和志に在法連寺属邑佐保田と見え 因って  奈良市法蓮町の佐保山にあるものを以って 式内狭岡神社と称し 現に村社たり

然るに 大神分身類社鈔(1265)を読み 狭岡神社 佐保田にあらずして漢国社の一名なるを発見せり 
その書には
『率川狭加岡神社一座 添上郡 旧本神名帳に云う 鳴神神社八座 率川坐大神御子神社三座 狭加岡神社 率川阿波神社と 流布に鳴神神社を一座と為し狭加岡神社を八座と為して 加の字を脱す 今旧本に随ふ・・・大物主命 現在三座 相殿合祭 大己貴命 少彦名命なり』とあり

大神君白堤 勅を奉じて園神 大物主命を坂岡に祭り その子の五十鈴姫命を率川祭りこと 大三輪鎮座次第に見えて 正に分身類社鈔むと相符合せり
類社鈔は 文永年中 率川阿波社神官 大神(オオミワノ)家次ノ撰に係り 所謂 神名帳旧本は 今は伝わらずと雖も 三輪の神主 大三輪氏の蔵本なりし由 類社鈔の抜文に見えたり 然らば即ち 当 漢國社はもと 狭加岡神社の名称を以って 延喜式神名帳に収められしを 流布の神名帳に偶々加の字を脱せるより古来謬を伝え 遂に当社を措きて 他に狭岡神社なるものありとするに至れるなり 案せざるべからず 以って千古の謬を正すに足れり

清和天皇 貞観元年 当社の祭神を平安城宮内省に勧請し 正4位を授け奉り名神大の社格となし 月次新嘗の官幣に預からしむ 延喜式に「宮内省坐神三座 並 名神大 月次新嘗 園神韓神社二座」と 即ちこれ

降りて治承兵火 当社 率川社と共に焼失せしが文治4年の再興

元要記曰く
人王56代 清和天皇 御宇 貞観元年正月27日 平安城都宮内省に勧請 園神一座 韓神二座 これ即ち 当国 漢國社 乎太裏遷 本位 正4位 この時 一階を加え云々

要するに当社は 率川社の別宮たりと雖も その創立は本社同時して 奈良に於ける旧社たり 且つ 藤原不比等等之が社殿を造立し 相殿を加え祭りしより 藤原氏に尊崇せられしは これを宮内省に移し祭れるを以って徴すべし
故に古は その神地も広く 随て所領も多かりしならんに 中世以来 暫く衰退せしは 亦 率川社と その原因同じうせしなるべし 宜しく彼の社の下を参考すべし 慶長19年11月15日 徳川家康 奈良に次するや 当社に参詣し祈願する所ありて 鎧一領を奉納す 今尚存せり

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『大和志料』著者 奈良県 編 出版年月日 大正3年 出版者 奈良県教育会
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950813『大和志料』1 『大和志料』2 『大和志料』3

徳川家康公 奉納伝承について

慶長19年(1614)の大坂陣の際に 徳川家康公が木津の戦に破れ 境内あった桶屋(現在の念仏寺)に桶の中に身を隠して 九死に一生を得たと伝わり そのため 家康が御礼に奉納した鎧が伝わっています

徳川家康公 御 由緒略記

慶長十九年十一月十五日
大坂陣の際 徳川家康公 木津の戦に破れ 当社境内の桶屋に落忍ばれ 九死に一生を得給う
依って 報賽祈願の為 翌十六日 当社に御参拝 御召鎧一領を御奉納遊ばさる
其後 鎧蔵を建立し 累世の将軍家は 年々使者をお立てになりました
追記 当時代の鎧は現在 国立奈良博物館に出陳中

平成9年1月吉日 漢國神社

境内掲示 額文より

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茶糸威胴丸具足

更新日:2021年1月27日更新

 この具足は、徳川家康が慶長19年(1614)に漢國神社に参詣して奉納したものと伝えます。本作品のように前立(まえだて)を歯朶(しだ)形とした具足は家康に好まれ、甲冑師(かっちゅうし)岩井与左衛門(いわいよざえもん)によって家康にたびたび献上されており、本具足も与左衛門作である可能性が高いものです。中世~近世初頭の奈良は甲冑生産の中心地であり、なかでも岩井与左衛門は当社隣地に屋敷を構え、のち江戸に移り御具足師として徳川家に代々重用されました。与左衛門奈良在住期の作と推定される具足は、ほかに静岡・久能山東照宮の一領(重要文化財)と茨城・水戸東照宮の一領(県指定文化財)が知られる程度で貴重であり、優れた作行からも、本作品は市内における近世の甲冑の代表的作例といえます。

 なお、江戸前期の漢國神社所蔵「漢国旧記」には、家康が与左衛門家に寄ったのち当社に具足を飾って参拝した経緯が記録され、後世の「御鎧之由来」にもこの由緒や与左衛門が家康に鎧を奉じた旨が伝承されます。また、漢國神社境内にはこの具足を奉安するため壇上に厨子を設けた鎧蔵(よろいぐら)が現存し、棟札に寛政12年(1800)の銘があり、江戸時代に具足が家康にかかわる神宝として尊重されていたことを示しており、歴史的価値も高いものです。

件名 茶糸威胴丸具足

 附 漢国旧記 1冊
   御鎧之由来・御兜之図 3巻
   具足櫃 1合

かな ちゃいとおどしどうまるぐそく
 つけたり かんごうきゅうき おんよろいのゆらい・おんかぶとのず ぐそくびつ

数量 1領

指定(分類) 奈良市指定文化財(工芸品)
指定日 平成16年3月3日
所在(有) 奈良市漢国町6 漢國神社
小学校区 椿井
寄託 奈良国立博物館
形状等 胴高37.3cm 草摺高32.5cm
備考 桃山時代

奈良市役所HPより
https://www.city.nara.lg.jp/site/bunkazai/8656.html

漢國神社(Kangou Shrine (hai)」(90度のお辞儀)

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大和国 式内社 286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)について に戻る

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大和国 式内社 286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)について

大和国(やまとのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 大和國の286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)の神社のことです

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宮中に鎮座せらる 36座『延喜式神名帳』の所載一覧  

『延喜式神名帳(engishiki jimmyocho)』は 延長5年(927年)に編纂されました
当時の「全国の官社」(祈年祭(毎年2月)に神祇官から幣帛を受ける神社)の一覧表が所載されています

このページは
「宮中」に鎮座する(36座…大(預月次新嘗)30・小6)神社の一覧表です

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています