大山祇神社(おおやまずみじんじゃ)は 社号を日本総鎮守・三島大明神・大三島宮と称し 歴代朝廷の尊崇篤く 延喜式には名神大社に列し 伊予国一之宮に定められ 全国津々浦々に御分社が奉斎される四国唯一の大社です 創建は 神武天皇御東征のみぎり 祭神の子孫 乎知命(おちのみこと)が 瀬戸内海 芸予海峡の要衝 御島(大三島)に鎮祭したことに始まるとされます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
大山祇神社(Oyamazumi shrine)
[通称名(Common name)]
・大三島宮(おおみしまぐう)
【鎮座地 (Location) 】
愛媛県今治市大三島町宮浦3327
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大山積神(おほやまづみのかみ)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・家内安全・身体健全・厄祓い・神恩感謝・心願成就・初宮詣・七五三詣・年祝い・誕生祭・安産祈願・子授祈願・縁結祈願・学業成就・合格祈願・必勝祈願・病気平癒・旅行安全・交通安全・車清祓・商業繁盛・企業繁栄・企業安全・工事安全・作業安全・鉱山安全・海上安全・大漁満足・五穀豊穣・その他
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 伊豫国一之宮
・ 旧 國幣大社
・ 別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
大山祇神社の歴史
大山祇神社社殿後方には【鷲ヶ頭山-わしがとうさん】【安神山-あんじんさん】【小見山-おみやま】の三山が見える。本殿が再建された頃作られたとされる大山祇神社古図(国指定重要文化財)には、御本社・上津社・下津社の神体山として描かれている。島内最高峰(436.5m)の鷲ヶ頭山は古くは神野山(ごうやさん)と呼ばれ、現在でも頂上西側一帯は神野の地名を残している。安神山は毎年1月7日の生土祭に用いる赤土を山麓にて拝戴する。小見山は「お宮の山」が変化したものとされ、いずれも大山祇神社との深い関係を伝えている。また、大山祇神社御本殿の御扉は内開きとなっており、通常外開きの様であることを考えると極めて珍しいものと言える。これは過去に社殿後方の三山を御神体として拝していた故に御扉を押し開く様にしたのではないかと推測される。
当宮の例祭日は旧暦の4月22日と定められているが、これは養老3年(719年)4月22日、現在の地(大三島町宮浦)に遷座された佳日によるものである。それ以前は大三島南東部にあたる瀬戸(上浦町瀬戸)に祀られていたとされる。当宮の記録によれば瀬戸の地の社は【横殿宮-よこどののみや】と呼ばれ、大山祇神社または三島宮とは呼ばれていない。何故「横殿」なのか。「横」には「わき」「かたわら」「そば」などの意がある。つまり「横殿」は、主体があって、その「わき」「かたわら」に建てられたものと考えられる。具体的には小千命(おちのみこと)によって勧請鎮祭された当時よりこの地、大三島宮浦に大山祇神社社殿があり、何らかの理由によって仮の社殿が建てられた。それが「横殿宮」ではなかろうか。これ以前の記録が残されていないため推測の域を出ないが、そう考えるのが極めて自然である。因みに、「横殿宮」即ち「瀬戸」の地からは、かつての神体山である三山を望むことはできない。大山祇神社公式HPより
https://oomishimagu.jp/about/
【由 緒 (History)】
日本総鎮守
大三島宮 大山祇神社由緒
御祭神 大山積大神
御祭神 大山積大神は天照大神の兄神で山の神々の親神に当り(古事記・日本書紀)天孫瓊々杵尊の皇妃となられた木花開耶姫命の父神にあたる日本民族の祖神として、和多志大神(伊豫國風土記)と申し上げる。
海上安全の守護神である。
地神・海神兼備の大霊神として日本の国土全体を守護し給う神であるところから古代より日本総鎮守と尊称され朝廷を初め国民の崇敬は各時代を通して篤く中世は四社詣、五社詣の中心となり、平安時代既に市が立ち現在に続いている。
御分社は、全国に一〇、〇〇〇余社祀られ、延喜式名神大社に列せられ伊予国一の宮に定められた。
明治以降は国幣大社に列せられ四国で唯一 の大社として尊崇されている。現地案内板より
日本総鎮守 大山祇(おおやまづみ)神社 由緒
大山祇神社は、瀬戸内海のなかでも特に景勝の地である芸予海峡の中央に位置して、大小の島々に囲まれた国立公園大三島に、日本最古の原始林社叢の楠群に覆われた境内に鎮座している。御祭神は大山積大神 一座で天照大神の兄神に当らせられる。
天孫瓊々杵尊 御降臨の際、大山積大神、またの名 吾田国主事勝国勝長狭命(大山積神の擬神体)は女 木花開耶姫尊を瓊々杵尊の后妃とし、国を奉られたわが国建国の大神であらせられるが、同時に和多志大神と称せられ地神・海神兼備の霊神であるので日本民族の総氏神として古来日本総鎮守と御社号を申し上げた。
大三島に御鎮座されたのは、神武天皇御東征のみぎり、祭神の子孫 小千命が先駆者として伊予二名島(四国)に渡り瀬戸内海の治安を司どっていたとき芸予海峡の要衝である御島(大三島)に鎮祭したことに始まる。
本社は社号を日本総鎮守・三島大明神・大三島宮と称せられ歴代朝廷の尊崇、国民一般の崇敬篤く奈良時代 までに全国津々浦々に御分社が奉斎せられた。 延喜式には名神大社 に列し、伊予国一の宮に定められ、官制に依り国幣大社に列せられた四国唯一の大社である。現在官制は廃せられたが、地神・海神兼備の大霊神として千古の昔に変わらぬ崇敬を寄せられ、全国に奉斎される大山祇神社・三島神社の総本社として、又数万点に及ぶ宝物類を蔵する国宝の島として四季を通して多数の参拝がある。大山祇神社宝物館
開館午前八時三十分
閉館 午後五時(入館は午後四時三十分迄)
大山祇神社に奉納された多数の美術工芸品を展示、なかでも刀剣・甲冑を主体とする武具類は日本一として知られる。
国宝 禽獣葡萄鏡 斉明天皇 御奉納
国宝 澤潟威鎧兜大袖付 越智押領使好方 奉納
国宝 赤絲威鎧大袖付 源義経 奉納
国宝 紺絲威鎧兜大袖付 河野通信 奉納
国宝 紫綾威鎧大袖付 源 頼朝 奉納
国宝 牡丹唐草文兵庫鎖太刀拵 護良親王 奉納
国宝 大太刀拵付豊後友行 大森彦七 奉納
国宝 大太刀銘千手院長吉 後村上天皇 御奉納
他に重要文化財 指定の鎧・兜・刀剣・美術工芸品及び文書類等
多数展示大三島海事博物館 (葉山丸記念館)
昭和天皇 が三十余年にわたり海洋生物研究の御採集船としてご使用になられた葉山丸を永世保存している。
所在地 愛媛県今治市大三島町宮浦
電話 〇八九七-八二-〇〇三二現地案内板より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
〈本殿向かって右〉・上津社
・上津社《主》雷神(いかづちのかみ)
〈本殿向かって左〉・下津社
・下津社《主》高龗神(たかおかみのかみ)
〈神門から拝殿に通ずる廻廊〉
・神門&廻廊
〈廻廊に奉納される〉・隼人の舞
隼人の舞
薩摩の隼人族が大和朝廷の貢物とした芸能が隼人舞だといわれている その祖形は山幸彦が海幸彦に勝利した物語を表現したものとも言われ隼人族と朝廷との親密な関係があったことが「日本書紀」から読み解ける 現在隼人舞は隼人の鹿児島神宮で伝承されており歌舞伎成立以前の古代芸能として大変貴重な文化遺産である
現地奉納板より
〈本殿の背後に鎮座 三社合殿〉・姫子邑神社
・姫子邑神社《主》木花開耶姫命,火火出見命,火須勢理命
〈本殿回廊の向かって左外 四祠〉・院内荒神社・地神社・稲荷神社・石神社
・院内荒神社《主》神饌調理の竈神
・地神社《主》地主神
・稲荷神社《主》宇賀御魂神
・石神社
〈境内の向かって左奥 一社と二祠〉・酒殿・八重垣神社・御鉾神社
・酒殿《主》大山積神
・八重垣神社《主》素戔嗚命
・御鉾神社《主》御鉾大神
〈境内の向かって左〉・十七神社
・十七神社《主》大山祇命,中山祇命,麓山祇命,正勝山祇命,保食神,磐裂神,稲倉魂神,啼沢女神,磐長姫命,木花開耶姫命,枉津日神,狭田彦神,闇龗神,瀬織津姫神,速佐須良姫命,大昼目命,大直日神,火須勢理神,火火出見命,市杵島姫命
〈十七神社の奥〉・神輿庫
〈境内の向かって右 三社合殿〉・葛城神社・祓殿神社・伊予国総社
・葛城神社《主》一言主神
・祓殿神社《主》大禍津日神,大直日神,伊豆能売神,速佐須良姫神
・伊予国総社
〈総門の先 向かって左〉・斎館(旧社務所)
〈斎館の奥〉・宇迦神社
・宇迦神社《主》宇賀神
〈総門の先 向かって左〉・馬神社
・馬神社《主》天斑駒神
〈二の鳥居の先〉・総門
〈二の鳥居の先 右〉・斎田
斎田(さいでん)
大山祇神社 伝統の神事 御田植祭(旧暦五月五日)と抜穂祭は この神田に於いて行われます。このとき、愛媛県無形文化財 一人相撲が奉仕されます。
現地立札より
〈斎田の奥〉・御棧敷殿
御棧敷殿(おさじきでん)
この建物は御田植祭旧暦五月五日と抜穂祭旧暦九月九日に、御神輿の渡御を申し上げ神田斎場祭を奉仕する御殿です。
現地立札より
〈二の鳥居の先 右〉・絵馬殿
・乎知命(おちのみこと)手植の楠
天然記念物
乎知命(おちのみこと)手植の楠
御島(大三島)に祖神大山積大神を祭った乎知命の御手植楠(樹齢2600年)と伝えられ古来御神木として崇められている。
現地立札より
・大山祇神社 楠木群
天然記念物(国指定)
大山祇神社楠木群
境内の楠木は昭和26年6月9西h一括国の天然記念物に指定された。
指定樹38本の他大小約200本の楠木が群生する。
この楠も国指定天然記念物対象で直径2.6m、高さ24mである。
大山祇神社社務所現地立札より
・河野通有兜掛の楠
河野通有兜掛の楠
弘安四年蒙古襲来に当り通有は当社に参籠祈願し、三島水軍を率いて筑前に進発し当神社の神使白鷺の導により勝利を得る。其の出陣の際兜を掛けたと伝う。
現地立札より
・能因法師 雨乞の楠
天然記念物
能因法師 雨乞(あまごい)の楠
日本最古の楠(樹齢三、〇〇〇年)で後冷泉天皇の御代(九〇〇年前)伊予国守 藤原範国(のりくに)は能因法師を使者として祈雨の為参拝させた。
其の時
「天の川苗代水にせきくだせ天降ります神ならば神」と
詠し幣帛に書付け祈請したところ伊予国中に三日三夜雨が降った(金葉和歌集)と伝えられている。現地立札より
・伊藤博文公記念楠樹
伊藤博文公記念楠樹
伊藤博文公は我国初代首相 明治四十二年三月二十二日 当社へ参拝 社号標の揮毫並に楠樹の記念植樹をされた。
現地立札より
〈境内隣接地〉・八坂神社・五穀神社
・八坂神社《主》素戔嗚命,少彦名命
・五穀神社《主》宇賀御魂神
〈明治以前の神宮寺跡〉・祖霊社
・祖霊社《主》大国主命,氏子の祖霊
〈重要文化財 鎌倉時代後期 花崗岩 高さ 429cm〉・宝篋印塔 中央塔
重要文化財
宝篋印塔(ほうきょういんとう)
鎌倉時代
時宗(じしゅう)の開祖一遍上人は河野通広の子として松山宝厳寺で生まれ、三島水軍河野通信の孫に当たり、一遍上人絵伝に知られる通り大三島宮の参拝の折奉納したものです。
現地立札より
〈境内隣接地〉・大山祇神社宝物館 大三島海事博物館
〈境内隣接地〉・鶴姫(つるひめ)像
大山祇神社の大祝職(大宮司)・大祝安用(おおほうり やすもち)の娘とされる
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
神体山 鷲ヶ頭山(436.3m)安神山(266.8m)
元宮〈大山祇神社の旧跡と伝え 養老3年(719年)以前の旧鎮座地〉
・横殿宮(よこどののみや)(今治市上浦町瀬戸)
大三島の南東部 伯方島との間 鼻栗瀬戸に面する上浦港にある
〈横殿宮跡の北方へ直線で150m程〉・みたらしの水
海水の中から湧きでる真水とされ 太古 神が禊(みそぎ)をするために清水を湧き出させたという伝説あり
〈島外地の別宮 大領の越智玉澄公(おちたまずみ こう)が 創建した〉・別宮大山祇神社(今治市別宮町)
・別宮大山祇神社(今治市別宮町)
別宮大山祇神社(べっくおおやまずみじんじゃ)は 社伝によれば 大宝3年(703)第42代文武天皇の勅命により 和銅5年(712)大領の越智玉澄公(おちたまずみ こう)が 日本総鎮守 伊豫国一之宮 大三島鎮座・大山祇神社の別宮〈地御前(ちごぜん)〉として 越智郡日吉郷に勧請創建したことに始まります
別宮大山祇神社(今治市別宮町)
大領の越智玉澄公(おちたまずみ こう)が 創建した もう一つの三島神社
別宮大山祇神社(今治市別宮町)を創建した 越智玉澄公(おちたまずみ こう)が 奈良時代初期に宇摩の大領に任じられ 上柏町御所に新館を建て住し 毎月 大山祇神社(今治市大三島町)に参詣していましたが 年老い出来なくなり 養老4年(720)旧8月23日に大山祇神社の御神霊を八綱浦三津名岬加茂川上冠岡の地に勧請し それより此の地を三島と云う様になった とする伝承を持つ三島神社
・三島神社(四国中央市三島宮川)
三島神社(みしまじんじゃ)は 社伝によれば 創建は 奈良時代初期 越智玉澄公(おちたまずみ こう)が 宇摩の大領に任じられ 上柏町御所に新館を建て住し 毎月 大山祇神社(今治市大三島町)に参詣していた 年老いて毎月の参詣が出来なくなり 養老4年(720)大山祇神社の神霊を〈現在地〉に勧請したのが始まりとします しかし境内には 二千年以上前の磐座(いわくら)〈古代祭祀の遺跡〉があります
三島神社(四国中央市三島宮川)〈旧市名(伊予三島市)〉
〈奥の院への門〉・生樹の御門(いききのごもん)
天然記念物
昭和二十六年十一月二十七日 愛媛県指定生樹の御門
愛媛県指定天然記念物 生樹の御門 大山祇神社奥の院(元神宮寺)の南方30mにある。樹齢3000年の老楠、根廻り31mに及ぶ。真ん中が自然の洞をなし、奥の院の参拝通路となるので生樹の御門と言われている。
現地立札より
〈宮浦港 波打ち際に鎮座 境外摂社〉・阿奈波神社
・阿奈波神社(あなばじんじゃ)《主》磐長姫命
〈その他の島内境外社〉・御子宮神社・厳島神社・轟神社・天神社・三島神社
・御子宮神社(今治市大三島町宮浦字御子宮)《主》大直日神
・厳島神社(今治市大三島町宮浦字厳島)《主》市杵島姫命
・轟神社(今治市大三島町宮浦字坂中)《主》啼沢女神
・天神社(今治市大三島町宮浦字小見山)《主》天之御中主神,高産霊神,神産霊神,《配》菅原道真公
・三島神社〈御浜殿〉(今治市大三島町台)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『続日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉に記される伝承
伊曾乃神〈現 伊曽乃神社〉・大山積神〈現 大山祇神社〉・野間神〈現 野間神社〉に神階の奉授と 神戸5烟を充てると記されています
【抜粋意訳】
天平神護二年(七六六)四月甲辰〈十九日〉の条
○甲辰
伊豫國(いよのくに)
神野郡 伊曾乃神
越智郡 大山積神を 並びに授(さずく)従四位下を 充てるに 神戸各五煙久米郡 伊予神
野間郡 野間神 並びに授(さずく)従五位下 神戸各二煙
【原文参照】
『続日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承
大山積神〈現 大山祇神社〉・野間神〈現 野間神社〉が 並んで名神大社に列せられています
【抜粋意訳】
承和四年(八三七)八月戊戌〈七日〉の条
○戊戌
伊豫國(いよのくに)
從四位下 大山積神(おほやますみのかみ)
從五位下 野間神(のまのかみ)を
並びに 預(あず)からしむ 名神に
【原文参照】
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
卷十二 貞觀八年(八六六)閏三月七日壬子の条
○七日壬子
進に 伊豫國 從三位 大山積神に 階の加へる 正三位を
近江國 從四位上 山津照神
伊豫國 從四位上 礒野神 野間天皇神 伊豫村神 並びに授づく 正四位下
近江國 從四位下勳八等 伊香神
伊豫國 從四位下 瀧神 並びに從四位上
山城國 正六位上 降居神 從五位下
【原文参照】
卷十八 貞觀十二年(八七〇)八月廿八日戊申の条
○廿八日戊申
先ず是より
對馬嶋言 境近新羅 動恣侵掠 既無其師 弩機何用 絶域孤嶋 誰救警急 廼者有聞 彼國寇賊 學釼習戰 若不豫 恐難應卒 望請置弩師一員
勅 大宰府簡擇其人 補任置之 立爲恒例
授くに 伊豫國
正三位 大山積神 從二位
正四位下 礒野神 野間神 瀧神 伊豫村神 並に 正四位上
正五位下 村山神 正五位上常陸國
從四位上 筑波男神 正四位下
從四位下 筑波女神 從四位上
從五位下 羽梨神 從五位上
參河國
正五位下 智立神 砥鹿神 並に正五位上
從五位上 狹投神 正五位下
出羽國
白磐神 須波神 並に 從五位下
【原文参照】
卷二十七 貞觀十七年(八七五)三月廿九日壬子晦の条
○廿九日壬子晦
授に 伊豫國 從二位 大山積神 正二位
正四位上 礒野神 近江國 正四位下 三上神 並に從三位
大和國 正五位下 天石戸別神 靈産魂命神 並に從四位下
美作國 從五位上 高野神 正五位下
從五位下 御鴨神 從五位上
因幡國 正六位上 神前神 伊豫國 正六位上 風伯神 並に從五位下
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
名神祭 二百八十五座
・・・
・・・
大山積(オホヤマツミノ)神社 一座 巳上 伊豫國
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉
加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座…大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊予国 24座(大7座・小17座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)越智郡 7座(大2座・小5座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 大山積神社(貞・名神大)
[ふ り が な ](おほやまつみの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Ohoyamatsumi no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『釈日本紀(shaku nihongi)』に記される 大山積神を祀る 代表的神社
『釈日本紀(shaku nihongi)〈文永元年(1264)~正安3年(1301)〉』に記される伝承 として 伊予国風土記逸文の前に 大山積神を祀る 神社が記されています
『延喜式神名帳』摂津國 嶋下郡 三嶋鴨神社(みしまかもの かみのやしろ)
・三島鴨神社(高槻市三島江)
・鴨神社(高槻市赤大路町)
『延喜式神名帳』伊豫國 越智郡 大山積神社 名神大 俗称 三嶋明神
・大山祇神社(今治市大三島町)
大山祇神社(おおやまずみじんじゃ)は 社号を日本総鎮守・三島大明神・大三島宮と称し 歴代朝廷の尊崇篤く 延喜式 名神大社に列し 伊予国一之宮とされ 全国津々浦々に御分社が奉斎される四国唯一の大社 創建は 神武天皇御東征の時 祭神の子孫 乎知命(おちのみこと)が 瀬戸内海 芸予海峡の要衝 御島(大三島)に鎮祭したと云う
大山祇神社(今治市大三島町宮浦)〈伊豫国一之宮〉
三島神社の類社として
『延喜式神名帳』伊豆國 賀茂郡 伊豆三島神社 名神大 月次 新嘗
・三嶋大社(三島市)
三嶋大社(みしまたいしゃ)は 古くから伊豆諸島の噴火・造島活動を司る神として 朝廷の尊崇を受ける 伊豆国一之宮です 平安中期以降に伊豆国賀茂郡から現在地に移ったとされ 平安末期には源頼朝が 源氏の再興を願い参詣祈願の後 治承4年(1180)旗挙げを果たし 鎌倉武家政権を樹立し 鎌倉幕府崇敬の神社となり 現在に至ります
三嶋大社(三島市大宮町)〈延喜式内社 名神大社・伊豆國一之宮〉
・伊古奈比咩命神社(白浜神社)〈三嶋大社の元宮〉
伊古奈比咩命神社(いこなひめのみことじんじゃ)は 三嶋大社の元宮とされ 神社の縁起に「この神 三宅島よりここに遷り 後更に 三島に遷座す」とあります 鎮座地 白浜海岸にある丘陵「火達山(ひたちやま)」は 古代から 伊豆半島から伊豆諸島に向けて神に祈り祀る祭祀遺跡で 祭神は伊豆諸島の開拓神「御島神=三嶋神」と その后神「伊古奈比咩命」が祀られます
伊古奈比咩命神社〈白浜神社〉(下田市白浜)
・富賀神社(三宅島 阿古)〈三島神の発祥地ともされます〉
富賀神社(とがじんじゃ)は もともとは 峯富賀平(雄山の8合目付近)に鎮座するも 噴火により 二島ヶ山(新富賀山(二富賀山)古錆浜の荒島神社へ遷座し その後 現在地の富賀山(海抜60.4m)中腹に鎮座したと伝わります 古来より伊豆七島の総鎮守「三島大明神」として 伊豆の三島大社の祭神の発祥地だとする説もあります
富賀神社(三宅島 阿古)〈延喜式内社 阿米都(和)氣命神社の論社〉
『延喜式神名帳』越後国 三嶋郡 三島神社
・三島神社(柏崎市剣野町)
・三嶋神社(長岡市大積三島谷町)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR山陽本線 福山駅から しまなみハイウェイバスで 大三島を目指します
大三島BSに到着 海岸は整備されていて 広島県側の生口島との県境にかかる多々羅大橋が目の前
ここ大三島BSから路線バスで 大山祇神社前へ
大山祇神社(今治市大三島町)に参着
社号標には 大日本總鎮守 大山祇神社 と刻まれます
一礼をして 鳥居をくぐり抜けます
参道の右手には 斎田があります
参道の延喜式内社 伊豫国一宮 大山祇神社 の社号標の先には 総門
総門に懸かる扁額には
日本總鎮守 大山積大明神 と記されています
左右には随神が構えます
随神に一礼をして 総門をくぐり抜けます
広い砂地の境内は 鬱蒼とした楠の大木の中にあります
正面に御神木 大楠 右手にある手水舎で 清めます
御神木 乎知命(おちのみこと)手植の楠 の脇を抜けて神門へと向かいます
注連縄の懸かる神門をくぐり抜けて 廻廊内の神域へと
拝殿にすすみます
社殿の屋根は 檜皮葺き
神紋は 隅切折敷縮三文字(すみきりおしきちぢみさんもんじ)
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の両脇には ・上津社・下津社の拝所が設けられています
拝殿の奥に鎮座する 本殿(重要文化財) その左手前に 神水の井戸
神門と拝殿の周りは 廻廊で囲まれています
廻廊を抜けて本殿の裏手に廻り込みます
・上津社・本殿・下津社が鎮座します
社殿の背後に神体山が見えています
橋を渡り・大山祇神社宝物館 大三島海事博物館を見学します
鶴姫ロードを大山祇神社に戻ります
社殿に一礼をして 境内を戻ります
しまなみ海道を道後へと向かいます
御島(大三島)には 瀬戸内海の要として 又 航海の神として 大山祇神社が鎮祭されたと伝わりますが 眼下には 島々の間を潮流が渦を巻きながら流れ まさしく芸予海峡の要衝である事がわかります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『釈日本紀(shaku nihongi)〈文永元年(1264)~正安3年(1301)〉』に記される伝承
伊予国風土記逸文として 大山積神の伝承が記されています
【抜粋意訳】
巻第六 伊豫國風土記 逸文(Iyonokuni Fudoki itsubun)
乎知郡(をちのこほり) 御島(みしま)の条
御嶋(みしま)坐(ましま)す神の御名は 大山積神(おほやまつみのかみ)一名は 和多志大神(わたしのおほかみ)なり是の神は 難波高津宮(なにはのたかつのみや)御宇天皇(仁徳天皇)の御世に顕れました
此神は 百済国(くだらのくに)より度(わた)り来まして 津国の御嶋(みしま)に坐(ましま)した(云々)御嶋と謂ふのは 津国の御嶋の名からなり
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
大山積神社 名神大
大山積は於保夜萬都美と訓べし
〇祭神 大山祇神 風土記
〇御嶋に在す、愛媛面影 三嶋明神と称す、社家注進
〇式三、臨時祭 名神祭 二百八十五座 中略 伊豫國 大山積神社 一座
〇日本紀、神代上 一書曰、伊弉諾尊 飢時生子、中略 號ニ山祇
〇当國一宮なり 一宮記
〇永萬紀曰、三嶋社
〇伊豫國風土記曰、釈日本紀所引用 乎知郡 御嶋坐神 御名 大山積神 一名渡大神和多志也 是神者 所顯 難波高津宮御宇天皇仁德世 此神自百濟國度來坐而 津國御嶋坐 云々類社
伊豆國 賀茂郡 伊豆三島神社 名神大 月次 新嘗
越後国 三嶋郡 三島神社神位
続日本紀
天平神護二年(七六六)四月甲辰〈十九日〉○甲辰。伊予国 越智郡 大山積神 並授 従四位下続日本後紀
承和四年(八三七)八月戊戌〈七日〉○戊戌。伊豫國 從四位下 大山積神 預名神日本三代実録
貞觀二年(八六〇)閏十月十六日壬戌○十六日壬戌 進 伊豫國 從四位上 大山積神 階加 從三位
貞觀八年(八六六)閏三月七日壬子○七日壬子 進伊豫國 從三位 大山積神 階加 正三位
貞觀十二年(八七〇)八月廿八日戊申○廿八日戊申 授 伊豫國 正三位 大山積神 從二位
貞觀十七年(八七五)三月廿九日壬子晦○廿九日壬子晦 授 伊豫國 從二位 大山積神 正二位神戸
続日本紀 天平神護二年(七六六)四月甲辰〈十九日〉○甲辰。伊予国 越智郡 大山積神 充てるに 神戸各五煙雑事
・・・・云々
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
大山積神は 蕃神〈外国の神〉の如く云われるが 我が国の神である と記しています
【抜粋意訳】
大山積神社 名神大
祭神 大山積命
今按〈今考えるに〉
釋日本紀に伊豫國 越智郡 大山積神社 名神大 俗称 三島明神
伊豫國風土記 乎知郡 御嶋坐神 御名 大山積神 一名渡大神和多志也 是神者 所顯 難波高津宮御宇天皇仁德世 此神自百濟國度來坐而 津國御嶋坐 云々とみえたる百濟國渡来坐と云文によりて
此神は 蕃神〈外国の神〉の如くに云ふめれど素戔嗚尊 五十猛命 大巳貴命 少彦名命の韓国に至り坐る如く 此神も上古外蕃に渡りまししか 仁徳天皇の御世に帰り来ませるをかく云るものなるべし神位
名神
孝謙天皇
天平神護二年(七六六)四月甲辰〈十九日〉○甲辰。伊予国 越智郡 大山積神 並授 従四位下仁明天皇
承和四年(八三七)八月戊戌〈七日〉○戊戌。伊豫國 從四位下 大山積神 預名神清和天皇
貞觀二年(八六〇)閏十月十六日壬戌○十六日壬戌 進 伊豫國 從四位上 大山積神 階加 從三位
貞觀八年(八六六)閏三月七日壬子○七日壬子 進伊豫國 從三位 大山積神 階加 正三位
貞觀十二年(八七〇)八月廿八日戊申○廿八日戊申 授 伊豫國 正三位 大山積神 從二位
貞觀十七年(八七五)三月廿九日壬子晦○廿九日壬子晦 授 伊豫國 從二位 大山積神 正二位祭日 四月十一日 二十二日 五月五日 九月三日
社格 國幣中社(國幣大社)
所在 宮浦村(越智郡宮浦村大字宮浦)
【原文参照】
大山祇神社(今治市大三島町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」について
伊豫國 式内社 24座(大7座・小17座)について に戻る
伊豫国(いよのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 伊豫國 24座(大7座・小17座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
伊豫國 式内社 24座(大7座・小17座)について