王子和田津美神社(おうじわたつみじんじゃ)は 徳島藩の地誌『阿波志』には゛延喜式小祠と為す 和多村に在り 今王子と称す゛と記され 延喜式内社 阿波国 名方郡 和多都美豊玉比賣神社(わたつみとよたまひめの かみのやしろ)の論社とされています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
王子和田津美神社(Ojiwatatsumi shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
徳島県徳島市国府町和田宮ノ元20
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》豊玉媛命(とよたまひめのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・祈雨、天候、厄災除け、子宝
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
創建年代不詳
【由 緒 (History)】
王子和田津美神社 改築記念碑
鎮座地 徳島市国府町和田字宮ノ元二十番地
御祭神 豊玉媛命(とよたまひめのみこと)
当神社は延喜式神明帳に記載のある「和多都美豊玉比賣神社」に比定されている古社である。
徳島藩の地誌「阿波志」を詠み下した「阿波誌」には「和多都美豊玉比賣祠、延喜式小祠と為す。和多村に在り、今王子と称す。」と記述されている。
また、当地「和田」の地名は海神「和多都美神」の「和多」に由来する。
古代、この辺りは鮎喰川の河口部で、海岸線も近かった。豊玉媛命は和多都美神の娘で、火遠理命(山幸彦)と結ばれ、神武天皇の父神 鵜草葺不合命をお産みになられた。豊玉媛命は、初代天皇 神武天皇の祖母神である。
王子和多津美神社旧社殿には「明治二十五年 本殿屋根替 十月二十九日 上棟」との棟札があり、江戸時代中期の建立と推定される。
幾多の歳月が経過し、近年社殿の老朽化が甚だしく、平成二十五年十一月「王子和多津美神社改築奉賛会」を結成、全氏子、和田地区町内会等より、多大なるご支援ご寄付をいただき、平成二十八年五月に新社殿が竣工した。尚、旧社殿の欅の彫刻・本殿御扉・宝珠柱など修復可能な部分は全て後世への伝承の意をこめて組み込みをした。
茲に関係各位のご協力とご奉賛に裏心より御礼を申し上げると共に、由緒ある氏神様の神威の発揚と、氏子崇敬者各位の繁栄と安寧を心より祈念する。
平成二十八年八月吉日 王子和多津美神社改築奉賛会
例祭 十月十五日
氏子 一五〇戸
宮司 岩野理考
禰宜 岩野考能
総代 加藤義明 川島正義 加藤勝蔵現地碑文より
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・祟水神宮
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
阿波國 和多都美豐玉比咩神(ワタツミトヨタマヒメノカミ)に 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
卷四十四 元慶七年(八八三)十二月二日〈甲午〉
○二日甲午
授に
阿波國 從五位下 和多都美豐玉比咩神 白馬神に並に從五位上大和國 正六位上 散吉大健命神 散吉伊能城神
越前國 正六位上 氣多神 並に從五位下を
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座…大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)阿波國 50座(大3座・小47座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)名方郡 9座(大1座・小8座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 和多都美豊玉比賣神社
[ふ り が な ](わたつみとよたまひめの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Watatsumi toyotamahime no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される ゛海神社゛について
海神は「あまのかみ」「わたつみ」と呼ばれます 式内社で「あまのかみ」「わたつみ」と呼ぶ社と その論社について
東日本の式内社には該当するものがありません
但馬国 城崎郡 海神社(貞・名神大)(あまの かみのやしろ)
・海神社(豊岡市小島)
・絹巻神社(豊岡市気比絹巻)
隠岐国 知夫郡 海神社 二座(あまの かみのやしろ ふたくら)
・渡津神社(隠岐 知夫里村 島津島)
渡津神社(わたつじんじゃ)は かつては「地触神 ちぶり神」「道路(海路)の神様」すなわち「道触の神:ミチブルのカミ」が祀られていました 渡津神社が鎮座する「知夫里」は 隠岐諸島のうちで 最も本土に近く 隠岐に渡航する門戸にあたり 古来 日本海の航行の船舶が必ず寄港する所でありました この神と渡津の海の様子は「紀貫之(きのつらゆき)」の『土佐日記』にも詠われています
渡津神社(隠岐 知夫里村 島津島)
・海神社(隠岐 西ノ島)
海神社(かいじんじゃ or うみじんじゃ)は 本殿背後に古墳もあり 古くからの社地と思われますが 創立年などは不詳です 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載社とされていて 近世になって江戸時代には 別府村の「六社大明神(rokusha daimyojin)」と称されていました
海神社(隠岐 西ノ島)
播磨國 明石郡 海神社三座(並名神大月次新嘗)(たるみの かみのやしろ みくら)
・海神社(神戸市垂水区宮本町)
・下畑海神社(神戸市垂水区下畑町)
紀伊国 那賀郡 海神社(あまの かみのやしろ)
・海神社(紀の川市神領)
海神社(かいじんじゃ)は 通称「海神(うながみ)さん」の名で親しまれ 主祭神は豊玉彦命・国津姫命です 創建は 第11代 垂仁天皇の御代〈BC.29~72AD.〉忌部宿禰が 神のお告げによって創建したと伝えられる古社で 『延喜式神名帳(927 AD.)』所載の紀伊國 那賀郡 海神社(あまの かみのやしろ)とされます
海神社(紀の川市神領)〈延喜式内社 海神社の論社〉
紀伊国 牟婁郡 海神社三座(あまの かみのやしろ みくら)
・潮崎本之宮神社(串本町串本)
・熊野本宮旧社地 大斎原(田辺市本宮町)に合祀
阿波国 名方郡 和多都美豊玉比賣神社(わたつみとよたまひめの かみのやしろ)
・雨降神社(徳島市不動西町)
雨降神社(あまたらしじんじゃ)は 創建年代は不祥です 『延喜式神名帳(927 AD.)』に所載の 二つの式内社〈①天石門別豊玉比賣神社(あめのいはとわけ とよたまひめの かみのやしろ)②和多都美豊玉比賣神社(わたつみとよたまひめの かみのやしろ)〉の論社です 近世では゛雨降大明神゛と称し 雨乞の霊験が伝わります
雨降神社(徳島市不動西町)〈延喜式神名帳所載 論社〉
・王子和田津美神社(徳島市国府町)
王子和田津美神社(おうじわたつみじんじゃ)は 徳島藩の地誌『阿波志』には゛延喜式小祠と為す 和多村に在り 今王子と称す゛と記され 延喜式内社 阿波国 名方郡 和多都美豊玉比賣神社(わたつみとよたまひめの かみのやしろ)の論社とされています
王子和田津美神社(徳島市国府町和田宮ノ元)〈式内社 和多都美豊玉比賣神社の論社〉
壹岐嶋 石田郡 海神社(大)(あまの かみのやしろ)
・海神社(壱岐市石田町筒城西触)
海神社(かいじんじゃ)は 延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で式内社 海神社と比定されました しかし それ以前は 筒城村の海浜の海神(カイジン)山と称する所に上海神 下海神と云い伝えて 社もなく定めた祭りも無く 古来より”けいじん”と云われていたとされます
海神社(壱岐市石田町筒城西触)
・白沙八幡神社(壱岐市石田町筒城仲触)
白沙八幡神社(はくさはちまんじんじゃ)は 本来の式内社 石田郡 海神社(大)だとされています 社記に延暦6年(787)神殿を辰(東南東)向きに建立とあり 八幡勧請以前は ”管城社” と呼ばれ 壱岐国大七社の一社で 例祭時には国主参拝の神社として特別扱いされていたが 延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉の際 ”八幡宮” の称号であった為 誤査定となった とあります
白沙八幡神社(壱岐市石田町筒城仲触)
對馬嶋 上縣郡 和多都美神社(名神大)(わたつみの かみのやしろ)
・和多都美神社(対馬 仁位)
和多都美神社(わたつみじんじゃ)は 伝承によれば 山幸彦(彦火火出見尊)が 豊玉姫命を妃として留まったワタツミノ宮の古跡され 古くから竜宮伝説が残ります 社殿裏手の深い森の中に 磐座〈豊玉姫の墳墓〉があり 本殿から正面へと海へ向かって海中に鳥居が建ち 満潮時にはまるで海に浮かぶ竜宮城のような神秘的な光景が広がります
和多都美神社(対馬市豊玉町仁位字和宮)〈延喜式内社 和多都美神社(名神大社)〉
・海神神社(対馬 木坂)
海神神社(かいじんじんじゃ)は 八幡神が神風を吹かせたと伝わる 木坂の伊豆山の麓に鎮座します 神功皇后(ジングウコウゴウ)が 三韓征伐より凱旋の折に 対馬で掲げたと伝わる 八旒の旗〈8本の旗〉「振波幡」「切波幡」「振風幡」「切風幡」「豊幡」「真幡」「広幡」「拷幡」ここから 八幡(ヤハタ)が発祥しているとして「八幡信仰の源流」とされ 江戸時代までは「八幡本宮」と号していました 対馬国一之宮であり 由緒正しき古社です
海神神社(対馬 木坂)
對馬嶋 下縣郡 和多都美神社(貞・名神大)(わたつみの かみのやしろ)
・嚴原八幡宮神社(対馬 厳原)
厳原八幡宮神社(いづはらはちまんぐうじんじゃ)は 文明8年(1476)の棟札に「当社は 雍州 男山八幡宮の原廟と記す」とあり 八幡信仰の中心 京都 男山の「石清水八幡宮の起源」とも云われ 社伝には 神功皇后(ジングウコウゴウ)〈第14代 仲哀天皇の皇后〉が 三韓征伐からの凱還の時 対馬の清水山に行幸し 神霊の止まるべき山であるとして 山頂に神鏡と幣帛を置き 天神地祇(テンジンチギ)を祀り 磐境(イワサカ)を設けた その後 第40代 天武天皇の勅命(677)により 清水山の麓に社殿を造営 5柱の神を祀り 八幡宮と称したと伝
厳原八幡宮神社(対馬 厳原)
・乙和多都美神社(対馬 久和)
乙和多都美神社(おとわたつみじんじゃ)は 下縣で 唯一のワタツミの社号を伝へた神社である とされています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の「對馬嶋 下縣郡 和多都美神社 名神大」の論社として 厳原八幡宮神社と並んで論社ですが どちらも「名神大 和多都美神」となる決め手と証がありません
乙和多都美神社(対馬 久和)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR徳島線 府中駅 から東へ約1.7km 車で6分程度
JR徳島線の踏切を渡ると こちらに向けて南向きに参道があります
南向きの参道の先には鳥居が立ちます
王子和田津美神社(徳島市国府町和田宮ノ元)に参着
一礼をして鳥居をくぐります
鳥居の扁額には゛王子和田津美神社゛とあり
ちょうど本殿の新築工事の最中で工事用のクレーン車両が止まっていました
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『阿波志(awashi)』〈文化12年(1815)全12巻〉に記される伝承
式内社 和多都美豐玉比賣祠について 所在は゛延喜式小祀となす 和多村に在り 今王子と称す゛〈現 王子和田津美神社(徳島市国府町和田宮ノ元)〉と記しています
【抜粋意訳】
阿波志 巻之八 名東郡 祠廟 和多都美豐玉比賣祠
延喜式小祀となす 和多村に在り 今王子と称す
有豫章数株大並 四五圍村 舊井上郷 神代紀云 井上有一湯津社 樹枝葉扶疏時 彦火々出見尊 就其樹下 徒倚彷徨 又云 彦火々出見尊 娶海神女 豊玉姫仍留海宮經三年
三代実録 元慶七年十二月二日 授 從五位上
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 和多都美豊玉比賣神社について 所在については確定しないと記し
〔神社帳、名東郡庄村ニ海宮アリ、〕と記しています
【抜粋意訳】
和多都美豊玉比賣神社
和多都美は假字也、豊玉は登與多麻と訓べし、比賣は、假字也、
〇祭神 明か也
〇在所 慥(たしか)ならず、〔神社帳、名東郡庄村ニ海宮アリ、〕
〇日本紀〔神代下〕彦火々出見尊、因娶ニ海神女豊玉姫仍留ニ 住海宮已経ニ三年、
神位
三代實錄、元慶七年十二月二日甲午、授ニ阿波國從五位下 和多都美豊玉比咩神從五位上、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 和多都美豊玉比賣神社について 所在については確定しないとし 〔神社帳、名東郡庄村ニ海宮アリ、〕と記しています
【抜粋意訳】
和多都美豊玉比賣神社
舊 徳島城内にある龍王宮 盖是也、〔阿府志、式社畧考、〕
〔〇按 本書 龍王宮を以て、天石門別豊玉比賣神社にあつる者、此神を和多都美豊玉比賣神と同神と思へるよりの誤り也、俗に龍王と云稱の海神たる事、もとより著し、故之を訂して引り、〕海神の子 豊玉比賣命を祀る、〔日本書紀、古事記、延喜式〕
即 安曇宿禰、凡海連等の祖神也、〔古事記、新撰姓氏録、三代実録〕陽成天皇 元慶二年二月乙酉、從五位下 山背忌寸大海全子に詔して、山城正税稲三百束を賜ふ、幣を氏神に奉る為に阿波國に向ふを以て也」
〔〇按 山背忌寸大海全子は、元大海姓なりしが、山背忌寸に由縁ありつるより、山背忌寸を冠らせて、複姓とせしなるへし、大海は、凡海に同しき事、凡河内を大河内とも書るが如し、さて大海全子は即 凡海連なる故に、此神を以て氏神とせしなり、本社の氏神なる事は、安曇栗麻呂が名東郡に住るにて明らか也、姑附て考に備ふ、〕七年十二月甲午、從五位下 和多都美豊玉比賣神に從五位上を授く、〔三代実録〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 和多都美豊玉比賣神社について 所在については゛阿府志に南新居村にあり 俗に雨降(アマタラシ)ノ宮と云゛〈現 雨降神社(徳島市不動西町)〉と記しています
【抜粋意訳】
和多都美豊玉比賣神社
祭神 豊玉比賣命
神位 陽成天皇元慶七年十二月二日甲午 授阿波國 從五位下 和多郡美豊玉比賣神 從五位上
祭日
社格所在
今按 阿府志に南新居村にあり 俗に雨降(アマタラシ)ノ宮と云 此神社に村民 雨を祈事あれば 前池より小蛇出て木にのほる 果して雨降ると云とみえ
式社略考に同社の事を雨垂宮と云あり 古事記に海神の事を吾掌水ともみえ その御娘なれば 雨を乞に由あり 然れば 雨垂の宮 必豊玉姫なるべしと云いて 両垂宮に海神を附會せるが如し また 阿波志に在和多村 今稲 王子有豫章数株大並四五圍村 舊井上郷 神代紀云 井上有一湯津社 樹枝葉扶疏時 彦火々出見尊 就其樹下 從倚彷徨 又云 彦火々出見尊 娶海神女 豊玉姫仍留海宮經三年と云るは 井上の湯津社 樹に牽強したるにて從ひがたけれど 和多村とあるは海神に由ありて聞ゆるを 名西郡高系村の玉子神社ならんとの考説ありて 縣廳より注進せり なほ寶地に就て可非得失を考ふべし
【原文参照】
王子和田津美神社(徳島市国府町和田宮ノ元)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
阿波国 式内社 50座(大3座・小47座)について に戻る
阿波国(あわのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 阿波国 50座(大3座・小47座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
阿波国 式内社 50座(大3座・小47座)について