実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

渡津神社(隠岐 知夫里村 島津島)

渡津神社(わたつじんじゃ)は かつては「地触神 ちぶり神」「道路(海路)の神様」すなわち「道触の神:ミチブルのカミ」が祀られていました 渡津神社が鎮座する「知夫里」は 隠岐諸島のうちで 最も本土に近く 隠岐に渡航する門戸にあたり 古来 日本海の航行の船舶が必ず寄港する所でありました この神と渡津の海の様子は「紀貫之(きのつらゆき)」の『土佐日記』にも詠われています

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(shrine name)】

 渡津神社(Watatsu Shrine)
 (わたつ じんじゃ) 

 [通称名(Common name)]

 【鎮座地 (location) 】

島根県隠岐郡知夫村薄毛3962

 [地 図 (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》五十猛命(itakeru no mikoto)

かつては
・わたす宮(watasu no miya)
 《主》地触神(chiburi no kami)

【御神格 (God's great power)】

・海上安全 Maritime safety
・豊漁 Big catch prayer
・家内安全 Pray to God that the home is peaceful

【格 式 (Rules of dignity) 】

・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社

【創 建 (Beginning of history)】

創立年代不詳

渡津神社

 知夫里は本土に最も近い一島であり、隠岐諸島のうち最も小さい島であるが、本土より隠岐に渡航する門戸にあたり、島の南端に知夫里港が有って、古来日本海の航行の船舶が必ず寄港する所であった。
ゆえにこの島に道路の神、すなわち地触神を奉紀して、海路の安全を折り後に日本全国の渡海の船舶は必ずこの神に手向することとなった。これが知夫里(旧・道触・千波・等)の名の起源である。(隠岐島誌より)

「船を出して、漕ぎ来る道に手向けするところあり、舵取りして幣奉らする、あるいはよめる。わたつの海の、ちぶりの神に手向けする、ぬさのおひかぜやまず吹なん・紀貫之・土佐日記」

「隠岐の国にて知夫利崎といふにわたす宮といふ神おわす、船をいだすとてこの神に奉幣してわたすを祈るぞと・顕昭・袖中抄」

この神社付近には弥生~古墳時代の土器が多数出土している。この神社は古代~平安時代にかけては日本を代表する海上交通の神社であった。

知夫村教育委員会

現地案内板より

【由 緒 (history)】

多沢地区の渡津島に鎮座。海上の守護神、漁業の神として漁民の信仰が厚い。創立年代不詳。
『国内神名帳』に従四位上 和田酒明神。
宝暦7年『両島神社書上帖』渡津大明神、
元禄16年『島前村々神名記』にも渡津大明神・五十猛神と記されている。

島根県神社庁HPより

 この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています 

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)隠岐国 16座(大4座・小2座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)知夫郡 7座(大1座・小6座)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社名 ] 海神社 二座
[ふ り が な  ](あまの かみのやしろ)
[How to read ](amano kamino yashiro) 

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

かつての 御祭神「地触神 ちぶり神(chiburi no kami)」について
西ノ島に鎮座する「由良比女神社(yurahime shrine)」の伝承では

かつて 隠岐島は 大陸交通(日本海)の要所であり
西ノ島に鎮座する「由良比女神社(yurahime shrine)」は 海上守護神として 古来より海上安全を祈願されてきました

遣唐使や使節を派遣する際や外敵を防ぐときなどには 隠岐国の諸神とともに
朝廷からの尊崇を受け 丁重なる祈願をしたと『続日本後紀(shoku nihon koki)』や『日本三代実録(nihon sandai jitsuroku)』にも記されています

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』には 隠岐国知夫郡7座で大1座 小6座の中の名神大社とされ その御祭神は 元の名は「和多須神(watasu no kami)」と記されています

この「和多須神(watasu no kami)」は 『土佐日記(tosa nikki)』には「ちぶり神(chiburi no kami)」と記されています

島前の一之宮「由良比女神社」の記事もご覧ください

一緒に読む
由良比女神社(隠岐の島前 西ノ島)

由良比女神社(ゆらひめじんじゃ)は 西ノ島の「いか寄せの浜」に鎮座します 伝説では ご祭神 由良比女命が海を渡っている時 海に手をひたしたところ美しき姿を見て「いか」が噛みついた その非礼をわびて「いか」が 毎年 由良の浜に群れで押し寄せるようになったと伝わります 当社は もと知夫里島の「いか浜」にあって 浦郷の由良の浜に神社が遷されてからは「いか」が「いか浜」には寄らなくなったとも伝えられています

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知夫里島にある島津島に鎮座する「渡津神社(watatsu shrine)」の伝承では

知夫里島の言い伝えでは

知夫村の地名は 島津島に「道路(海路)の神様」すなわち「道触の神:ミチブルのカミ」が祀られた神社があったので名付けられたとしています
この「地触神 ちぶり神(chiburi no kami)」が 知夫里島にある島津島(無人島)に鎮座する「渡津神社(watatsu shrine)」としています

「紀貫之(ki no tsurayuki)」が 土佐国から宮に帰る道中日記『土佐日記(tosa nikki)』にも詠われていて
「 わたつみの 道触の神に 手向する ぬさの追い風 止まず吹かなん 」
とは 島津島に鎮座する「渡津神社(watatsu shrine)」としています

とすると 西ノ島の「由良比女神社(yurahime shrine)」の「いか寄せ浜」に残る伝承が気になります
元々 知夫里島の古海に鎮座していた由良比女神社が 浦郷に移されてから 知夫里島に烏賊が寄らなくなったと伝えられています

当社は もと知夫里島の「いか浜」にあつたが 浦郷の由良の浜に神社が遷されてから「いか」が「いか浜」には寄らなくなつたとも伝えられています。

由良比女神社 いか寄せ浜 案内板より

もと知夫里島の「いか浜」とは この渡津神社(watatsu shrine)のことではないのでしょうか?
とすれば この地が「由良比女神社(yurahime shrine)」の元宮となってしまいますが
仮に そうだとしても それに相応しい美しく歴史のある浜辺に鎮座しています

知夫里島の渡津(わたつ)を出港した船は 出雲の千酌浜(ちくみのはま)を目指します

出雲の千酌浜(ちくみのはま)に鎮座する爾佐神社(にさじんじゃ)

・爾佐神社

一緒に読む
爾佐神社(松江市美保関町千酌)

爾佐神社(にさじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』に「伊差奈枳命(いざなきのみこと)の御子 〈御祭神の〉都久豆美命(つくつみのみこと)が この所で生まれたので 都久豆美というべきであるが 今の人はただ 千酌(ちくみ)と号している」と記される千酌浜(ちくみのはま)に鎮座します

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神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

知夫来居港から 県道322号経由 約4.5km 徒歩60分 車20分程度
途中眼下に 島津島(無人島)が見えます 一番右端(西側)に神社は鎮座しています
ここは隠岐諸島で本土に最も近い場所にあって かつては 日本海を航行する船が寄港する港で 航海安全の神が祀られています

島津島へは 近年「お松橋」 が架かり陸続きになったとの事です 美しい景観です

エメラルドグリーンの透明度抜群の清らかな海に架かる「お松橋」を 徒歩で渡ります

島津島には 隠岐民謡「どっさり節」発祥の地として「お松の碑」があります 橋の名前は 恋歌の伝説「知夫のお松」に因んでいます

美しい海岸線に沿って遊歩道が整備されていて とても歩き易く ゆったりとしています

途中にキャンプ場がありましたが 先日の大雨により島津島遊歩道の一部で崖崩れが発生したため 安全を考慮して閉ざされていました

ですので 波打ち際を歩きますが 満潮時には通行出来ないと想います

肉眼で確りと神社が見えてきました

渡津神社(watatsu shrine)に到着

風待ちの港とあるように 風を避けるように丘を背にして 社殿が建ちます

目の前には 穏やかな海が広がります

石製の鳥居は倒れていて 木製の鳥居が建ちます

一礼して鳥居をくぐり抜けます

拝殿にすすみます 

賽銭をおさめ お祈りです 

ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

この神社は 千木は「内削ぎ」になっています
一般には 御祭神が「男神の社は外削ぎ」「女神の社は内削ぎ」になっていると云われています

現在の御祭神は「五十猛命(itakeru no mikoto)」で男神ですが
やはり かつての御祭神が「渡明神(watasu myojin)」「地触神(chiburi no kami)」とも云われていて
「和多須神(watasu no kami)」は女神と云われていますので それでなのかな~とも想ってしまいます

お詣りをして振り返ると 美しく穏やかな海が鳥居の先に広がります
「お松橋」が架かるまでは 御参拝は海から船で詣でたようで 今でも人口の桟橋があります

神社の裏手は すぐに日本海になっていて 正しく神社側の湾が 風待ちの港であったことが良くわかります

再度 風待ちの湾内を見ると

鳥居をくぐり 振り返り一礼します

海岸沿いに遊歩道を戻ります

「お松橋」の上から渡津神社(watatsu shrine)の方角を眺めながら 一礼をします

お松橋を渡ります

神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

渡津神社(watatsu shrine)(隠岐 知夫里島)の式内社の論証について

『大日本史神祇志(dainihonshi jingishi)』や
伴信友『神名帳考証土代(jimmyocho kosho dodai)』では

渡津神社(watatsu shrine)が 知夫村の「渡島(watasu no shima)」(現在の島津島)に鎮座していると記されています
島の西の崎に「渡明神(watasu myojin)」と号する神社があり これが「和田酒明神(watasu myojin)」であり
『延喜式神名帳
(engishiki jimmeicho)』の「海神社(amano kamino yashiro)」であろうとしています

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』隠岐国 知夫郡 7座に所載されている もう一つの海神社 二座(amano kamino yashiro)の論社

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』隠岐国 知夫郡 7座に所載されている もう一つの海神社 二座(amano kamino yashiro)の論社
「海神社」の記事をご覧ください

一緒に読む
海神社(隠岐 西ノ島)

海神社(かいじんじゃ or うみじんじゃ)は 本殿背後に古墳もあり 古くからの社地と思われますが 創立年などは不詳です 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載社とされていて 近世になって江戸時代には 別府村の「六社大明神(rokusha daimyojin)」と称されていました

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渡津神社(watatsu shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

島前の一之宮「由良比女神社」の記事もご覧ください

一緒に読む
由良比女神社(隠岐の島前 西ノ島)

由良比女神社(ゆらひめじんじゃ)は 西ノ島の「いか寄せの浜」に鎮座します 伝説では ご祭神 由良比女命が海を渡っている時 海に手をひたしたところ美しき姿を見て「いか」が噛みついた その非礼をわびて「いか」が 毎年 由良の浜に群れで押し寄せるようになったと伝わります 当社は もと知夫里島の「いか浜」にあって 浦郷の由良の浜に神社が遷されてからは「いか」が「いか浜」には寄らなくなったとも伝えられています

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隠岐国 式内社16座(大4座・小2座)について に戻る

一緒に読む
隠岐国 式内社16座(大4座・小2座)について

隠岐の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載されている 隠岐國の16座(大4座・小12座)の神社のことです 現在の論社は 22神社となり 隠岐の固有の神々を祀る神社が多く貴重です

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