大神下前神社(おおみわしもさきじんじゃ)は 氣比大神四守護神の北方鎮守社で元は北東の天筒山山麓の宮内村(現・敦賀市金ケ崎町)に境外末社として鎮座していた 明治四十四年(1911)鉄道敷設に伴って現在の地に遷座 稲荷神社 金刀比羅神社を合祀しました
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
大神下前神社(Ohomiwashimosaki shrine)〈氣比神宮境内〉
[通称名(Common name)]
道後神社(どうごじんじゃ)
【鎮座地 (Location) 】
福井県敦賀市曙町11-68
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大己貴命(おおなむちのみこと)〈大神下前大神〉
《合》金刀比羅大神(こんぴらおほかみ)
稲荷大神(いなりのおほかみ)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
大神下前神社
末社、祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)、式内社、敦賀市内氣比大神四守護神の一つとしてもと天筒山麓に鎮座されていたのを明治年間現在の地に移転、稲荷神社と金刀比羅神社を合祀し、特に海運業者の信仰が篤い。
気比神宮公式HPより
https://kehijingu.jp/map/keidai_14.html
【由 緒 (History)】
角鹿神社(つぬがじんじゃ)
摂社(式内社)。祭神は都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)。
崇神天皇の御代、任那の皇子の都怒我阿羅斯等命が氣比の浦に上陸し貢物を奉る。天皇は氣比大神宮の司祭と当国の政治を任せられるその政所(まんどころ)の跡にこの命を祀った。その命の居館の跡が舞崎区であり同区の氏神が当神社である。
現在の敦賀のもとの地名は「角鹿」でこの御名に因る。往古は東口が表参道であったため氣比神宮本社の門神であった。兒宮(このみや)
末社。祭神は伊弉冊尊(いざなみのみこと)。元は氣比神宮寺の境内に鎮座。
平安時代、寛和二年(986)九月二十日遷宮の事が残されており由緒は古く、子宝及び安産の神と称され、小児の守神として今日に至る。大神下前神社(おおみわしもさきじんじゃ)
末社(式内社)。御祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)。敦賀市内氣比大神四守護神の一社で元は北東の天筒山麓に境外末社として鎮座されていたのを明治四十四年現在の地に遷座、稲荷神社、金刀比羅神社を合祀した。
境内案内板より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
大神下前神社〈氣比神宮境内〉(敦賀市曙町)と並んで
〈式内社〉摂社・角鹿神社(つぬがじんじゃ)
《主》都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)《合》松尾大神(まつのおおおかみ)
・角鹿神社〈氣比神宮境内〉(敦賀市曙町)
角鹿神社(つぬがじんじゃ)は 社伝には 祭神 都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)〈任那(みなま)の皇子〉は 崇神天皇の御代 氣比の浦に上陸し 天皇に貢物を奉り 氣比大神宮の司祭と当国の政治を任せられたとあり その政所(まんどころ)の跡に鎮座する門神〈往古は氣比神宮の東門口が表参道〉でした 敦賀(つるが)の地名は 御神名 角鹿(つぬが)が語源とされる
角鹿神社〈氣比神宮境内〉(敦賀市曙町)
・兒ノ宮(このみや)
《主》伊弉冊尊(いざなみのみこと)
本社 氣比神宮について
・氣比神宮(敦賀市)
氣比神宮(けひじんぐう)は 太古 伊奢沙別命(いざさわけのみこと)〈氣比大神〉1柱を祀りましたが 大宝2年(702)文武天皇の勅命で 仲哀天皇・神功皇后・日本武尊・応神天皇・玉妃命・武内宿禰命の神々が合祀され七柱の御祭神となりました 延喜式には「祭神七座並 名神大社」とあります
氣比神宮(敦賀市曙町)
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
角鹿神社〈氣比神宮境内〉(敦賀市曙町)のすぐ東 敦賀北小学校〈廃校〉校庭に鎮座
伊奢沙別命は 笥飯大神(けひのおおかみ)御食津大神とも称し 2千有余年 天筒の嶺に霊跡を垂れ 境内の聖地(現在の土公)に降臨したと伝承される
神籬磐境(ひもろぎいわさか)の形態を留めている
・土公(どこう)〈氣比神宮 古殿地〉(敦賀市曙町)
大宝2年(702)社殿造営以前の神籬(ひもろぎ)氣比大神降臨の地
氣比神宮 土公(どこう)は 氣比之大神 降臨の地とされます 御祭神 氣比之大神は 伊奢沙別命(いざさわけのみこと)とも 笥飯大神(けひのおほかみ)御食津大神(みけつおほかみ)とも称し 2千有余年 天筒の嶺に霊跡を垂れ 境内の聖地(現在の土公)に降臨したと伝わり 神籬磐境(ひもろぎいわさか)の形態を今に留めています
氣比神宮 土公〈氣比大神降臨の地〉(敦賀市曙町)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)越前国 126座(大8座・小118座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)敦賀郡 43座(大7座・小36座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 大神下前神社
[ふ り が な ](おほむわのしもさきの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Ohomuwanoshimosaki no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
氣比之大神が霊跡を垂れた 天筒山(てづつやま)について
天筒山(てづつやま)は 2千有余年 氣比神宮の御祭神 氣比之大神〈伊奢沙別命(いざさわけのみこと)笥飯大神(けひのおおかみ)御食津大神(みけつおほかみ)とも称し〉が 天筒の嶺に霊跡を垂れ 境内の聖地(現在の土公)に降臨したと伝承されます
天筒山(てづつやま)には 遺跡が多くあり 南端の舞崎遺跡には 二千年前頃(弥生時代中期)の見張台を持った村 の遺跡があり「2千有余年 氣比神宮の御祭神 氣比之大神が 天筒の嶺に霊跡を垂れ」との氣比神宮の社伝に一致します
【天筒山南端の舞崎遺跡】
①二千年前頃(弥生時代中期)の見張台を持った村
②4世紀初め頃(古墳時代前期)の古墳
③8世紀頃(奈良時代)の小さなお堂跡
④12世紀頃(平安時代末期)の経塚
⑤16世紀(戦国時代)天筒山城の南の郭現地案内板より
この天筒山(てづつやま)の遥拝所として 土公(どこう)があり 神籬磐境(ひもろぎいわさか)の形態を留めています
大神下前神社(おおみわしもさきじんじゃ)は 氣比大神四守護神の北方鎮守社として 元は北東の天筒山(てづつやま)山麓の宮内村(現・敦賀市金ケ崎町)に境外末社として鎮座していました 明治四十四年(1911)鉄道敷設に伴って現在の地に遷座しています
・土公(どこう)〈氣比神宮 古殿地〉(敦賀市曙町)
大宝2年(702)社殿造営以前の神籬(ひもろぎ)氣比大神降臨の地
氣比神宮 土公(どこう)は 氣比之大神 降臨の地とされます 御祭神 氣比之大神は 伊奢沙別命(いざさわけのみこと)とも 笥飯大神(けひのおほかみ)御食津大神(みけつおほかみ)とも称し 2千有余年 天筒の嶺に霊跡を垂れ 境内の聖地(現在の土公)に降臨したと伝わり 神籬磐境(ひもろぎいわさか)の形態を今に留めています
氣比神宮 土公〈氣比大神降臨の地〉(敦賀市曙町)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR北陸本線 敦賀駅から北へ約1.1km 徒歩15分程度
氣比神宮 表参道には 旧国宝の氣比の大鳥居が建ちます
氣比神宮(敦賀市曙町)に参着
・氣比神宮(敦賀市)
氣比神宮(けひじんぐう)は 太古 伊奢沙別命(いざさわけのみこと)〈氣比大神〉1柱を祀りましたが 大宝2年(702)文武天皇の勅命で 仲哀天皇・神功皇后・日本武尊・応神天皇・玉妃命・武内宿禰命の神々が合祀され七柱の御祭神となりました 延喜式には「祭神七座並 名神大社」とあります
氣比神宮(敦賀市曙町)
そのまま車道を西へ進み 南参道口 さらに東参道口へと進むと最寄りの入口になります 境内案内図を参照願います
東参道を進むと 左手には 境内社が鎮座します
向かって左より・大神下前神社・兒宮・角鹿神社 3つの神社が並んで祀られています
向かって右より
〈式内社〉摂社・角鹿神社(つぬがじんじゃ)
《主》都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)《合》松尾大神(まつのおおおかみ)
・角鹿神社〈氣比神宮境内〉(敦賀市曙町)
角鹿神社(つぬがじんじゃ)は 社伝には 祭神 都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)〈任那(みなま)の皇子〉は 崇神天皇の御代 氣比の浦に上陸し 天皇に貢物を奉り 氣比大神宮の司祭と当国の政治を任せられたとあり その政所(まんどころ)の跡に鎮座する門神〈往古は氣比神宮の東門口が表参道〉でした 敦賀(つるが)の地名は 御神名 角鹿(つぬが)が語源とされる
角鹿神社〈氣比神宮境内〉(敦賀市曙町)
中央の鳥居の先には
・兒ノ宮(このみや)
《主》伊弉冊尊(いざなみのみこと)
本殿は 覆屋の中に祀られていて 〈享保十一年(1726)〉約300年前の狛犬が左右に座します
向かって左に鳥居が建ちます
大神下前神社〈氣比神宮境内〉(敦賀市曙町)に参着
社号標には「式内 大神下前神社」と刻まれています
一礼をして鳥居をくぐり
拝殿にすすみます
拝殿は 本殿の覆屋のような造りになっています
扁額には 祀られる御祭神の三柱〈大神下前大神・金刀比羅大神・稲荷大神〉が記されています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
右隣に祀られている・兒ノ宮(このみや)に詣で
更に右の・角鹿神社(つぬがじんじゃ)に詣で
参道を戻ります
氣比神宮へと向かいます
・氣比神宮(敦賀市)
氣比神宮(けひじんぐう)は 太古 伊奢沙別命(いざさわけのみこと)〈氣比大神〉1柱を祀りましたが 大宝2年(702)文武天皇の勅命で 仲哀天皇・神功皇后・日本武尊・応神天皇・玉妃命・武内宿禰命の神々が合祀され七柱の御祭神となりました 延喜式には「祭神七座並 名神大社」とあります
氣比神宮(敦賀市曙町)
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
祭神について不詳 所在は宮内村 と記しています
【抜粋意訳】
大神下前神社
大神は於保美和 下前は志毛佐岐と訓べし
〇祭神詳ならず
〇宮内村に在す、今 道後明神と称す 敦賀志
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
祭神は不明
所在について 國兼村の八幡大神境内〈現 大鹽八幡宮(越前市国兼町)の境内社〉としています
但し 宮内村との説もあり よく考えるべし と記しています
【抜粋意訳】
大神下前神社
所在 國兼村 八幡大神境内 (南條郡王子保村 大字國兼 八幡神社境内)
今按〈今考えるに〉
区別帳に國兼村 八幡境内にありとあれど 古名考明細帳には 宮内村にありとみえ 神社覈録にも敦賀志によりて同所にます道後明神なりと云り 宮内の名由ありて聞ゆ 尚よく考へし
【原文参照】
大神下前神社〈氣比神宮境内〉(敦賀市曙町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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越前国(えちぜんのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 越前国には 126座(大8座・小118座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
越前國 式内社 126座(大8座・小118座)について