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『出雲國風土記』仁多郡【不在神祇官社(fuzai jingikan no yashiro)】8社

出典近畿中国森林管理局Webサイト(httpswww.rinya.maff.go.jpkinkisimanemori-enjoyizumonokunihudoki.html)

仁多郡の神社は 写本の順番で並んでいます " Shrines are arranged in order of manuscripts "

 『出雲國風土記』仁多郡(nita no kori)条 所載の神社の数は「10社」です 
 「 2社」 神祇官社(jingikan sha)=『延喜式神名帳』所載社
 「 8社」 不在神祇官社(fuzai jingikan sha)

『出雲國風土記』仁多郡【不在神祇官社(fuzai jingikan no yashiro)】8社は 写本の順番で並んでいます

玉作社 (たまつくり) (tamatsukuri no) yashiro

・玉作神社〈湯野神社の境内末社〉

一緒に読む
湯野神社(奥出雲町亀嵩)& 玉作神社〈境内社〉

湯野神社(ゆのじんじゃ)& 玉作神社〈たまつくりじんじゃ〉は 『出雲國風土記733 AD.』所載の仁多郡 不在神祇官社「湯野社(ゆぬ)のやしろ」「玉作社(たまつくり)のやしろ」です 玉作社は もとは玉峰山の山上に鎮座しましたが 今は 湯野神社の境内に祀られています

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須我乃非社 (すがのひ) (suganohi no) yashiro

・須我非神社

一緒に読む
須我非神社(奥出雲町三所)& 天照神社

須我非神社(すがひじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』所載の仁多郡 不在神祇官社「須我乃非社(すがのひ)のやしろ」とされ 菅火野(すがのひの)山の峯に神社(かみのやしろ)があり と記されています その後 山城の築城に伴い 現在地に遷座したと伝わります

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湯野社 (ゆぬ) (yunu no) yashiro

・湯野神社

一緒に読む
湯野神社(奥出雲町亀嵩)& 玉作神社〈境内社〉

湯野神社(ゆのじんじゃ)& 玉作神社〈たまつくりじんじゃ〉は 『出雲國風土記733 AD.』所載の仁多郡 不在神祇官社「湯野社(ゆぬ)のやしろ」「玉作社(たまつくり)のやしろ」です 玉作社は もとは玉峰山の山上に鎮座しましたが 今は 湯野神社の境内に祀られています

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比太社 (ひた) (hita no) yashiro

・比太神社

一緒に読む
比太神社(安来市広瀬町西比田)

比太神社(ひだじんじゃ)は 古代 大和朝廷の命を受けた吉備族が 出雲平定 と 良質な和鉄を求めて進軍した時に 建立されたと伝わり 社殿が北向きなのは出雲に対峙していたからとも言われています 『出雲國風土記733 AD.』所載の仁多郡 不在神祇官社「比太社(ひた)のやしろ」とされます

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漆仁社 (しつに) (shitsuni no) yashiro

・温泉神社

一緒に読む
温泉神社(雲南市)

温泉神社(おんせんじんじゃ)は 八俣の遠呂智(ヤマタノオロチ)伝説ゆかりの神社です 境内には 足名椎(あしなづち)と手名椎(てなづち)の神陵なるものがあります

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大原社 (おおはら) (ohara no) yashiro

・大原神社

一緒に読む
大原神社(奥出雲町上阿井)

大原神社(おおはらじんじゃ)は 第13代 成務天皇 五年(135)創建 雲崎に鎮座と伝わり その後 和銅二年(709)神田へ 万治三年(1660)更に現今の地に遷座しました 『出雲國風土記733 AD.』所載の仁多郡 不在神祇官社「大原社(おおはら)のやしろ」の論社です

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・石壺神社

一緒に読む
石壺神社(雲南市木次町)

石壺神社(いわつぼじんじゃ)は 『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)』所載社の 2つの論社となっています 又 境内には「尾呂地神社(orochi shrine)」があり ここには「八岐大蛇(yamata no orochi)の尾」が祀られていると伝わります

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仰支斯里社 (かみきり) (kamikiri no) yashiro

・仰支斯里神社

一緒に読む
仰支斯里神社(奥出雲町八代)

仰支斯里神社(かみきりじんじゃ)は 神職伝によれば 御神体は素戔嗚尊(すさのをのみこと)の「遺髪三筋」 故に 髪切(かみきり)と称す とあります 『出雲國風土記733 AD.』所載の仁多郡 不在神祇官社「仰支斯里社(かみきり)のやしろ」とされます

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石壺社 (いわつぼ) (iwatsubo no) yashiro

・石壺神社

一緒に読む
石壺神社(雲南市木次町)

石壺神社(いわつぼじんじゃ)は 『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)』所載社の 2つの論社となっています 又 境内には「尾呂地神社(orochi shrine)」があり ここには「八岐大蛇(yamata no orochi)の尾」が祀られていると伝わります

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・日御碕神社

一緒に読む
日御崎神社(雲南市木次町平田)

日御崎神社(ひのみさきじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』所載の仁多郡 不在神祇官社「石壺社(いわつぼ)のやしろ」の論社です 当社はもと石壱社日御碕神社と称し 明治四十年十月三日・籠守神社・海野神社・鑪原神社を合祀して 現在に至ります

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『出雲國風土記(Izumo no kuni Fudoki)に所載の神名帳(Jimmeicho)』に戻る

一緒に読む
『出雲國風土記(Izumo no kuni Fudoki)に所載の神名帳(Jimmeicho)』399社

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」でありますので 各郡の条に「〇〇郡 神社」として 神社名の所載があります
『風土記(fudoki)』が編纂(733年)された 当時の「出雲の神社(399社)」を『出雲國風土記 神名帳(izumo no kuni fudoki jimmeicho)』として伝える役割をしています

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世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

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出雲國(izumo no kuni)は「神の國」でありますので 各郡の条に「〇〇郡 神社」として 神社名の所載があります
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