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『出雲國風土記』神門郡【神祇官社(jingikan no yashiro )】25社

出典近畿中国森林管理局Webサイト(httpswww.rinya.maff.go.jpkinkisimanemori-enjoyizumonokunihudoki.html)

 

『出雲國風土記』神門郡(kando no kori)条 所載の神社の数は「37社」です 
 「25社」 神祇官社(jingikan sha)=『延喜式神名帳』所載社
 「12社」 不在神祇官社(fuzai jingikan sha)

国立公文書館デジタルアーカイブ『出雲国風土記』写本https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003351&ID=&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ『出雲国風土記』写本https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003351&ID=&TYPE=&NO=画像利用

『出雲國風土記』神門郡【神祇官社(jingikan no yashiro )】25社は 写本の順番で並んでいます " Shrines are arranged in order of manuscripts "

美久我社 (みくが) (mikuga no) yashiro

彌久賀神社

一緒に読む
彌久賀神社(出雲市湖陵町大池)& 蛇池神社

彌久賀神社(みくがじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』所載の神門郡 神祇官社「美久我社(みくが)のやしろ」です 『延喜式神名帳927 AD.』には神門郡「彌久賀神社(みくか)の かみのやしろ」とされ 江戸時代には 若一王子権現御社と呼ばれていました

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阿須理社 (あすり) (asuri no) yashiro

・阿須利神社

一緒に読む
阿須利神社(出雲市大津町)

阿須利神社(あすりじんじゃ)は もともとは 現在のように八幡宮と一所ではなく 阿世理池(あせりのいけ)の杓子山といふ小丘に鎮座していました 明治五年(1872)『出雲國風土記733 AD.』所載の神門郡 神祇官社「阿須理社(あすり)のやしろ」を八幡宮と共に 龍王社〈現社地〉に合祀せよ との県庁の指令により現在の神社となりました

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・三谷神社〈阿須利神社の古社地〉 

一緒に読む
三谷神社〈阿須利神社の古社地〉(出雲市大津町 字西谷)

三谷神社(みたにじんじゃ)は 約500年前に紀州熊野(和歌山県東牟婁郡)から勧請し 上来原の大神谷の山上に祀られました 元禄5年(約300年前)池ノ内の干拓があり それまで同地 杓子山にあった式内社〈阿須利神社の古社地〉を三谷山上に遷した機会に いっしょに三谷の地に奉遷し合祀したので 式内 三谷大明神と呼ばれました 明治5年(1872)阿須利神社は独立し分離 その後 昭和37年に現在地に遷座して今日に至っています

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比布知社 (ひふち) (hifuchi no) yashiro

芦谷の滝〈比布智神社 当初の鎮座地 天ヶ淵〉

一緒に読む
芦谷の滝〈比布智神社 当初の鎮座地 天ヶ淵〉

芦谷の滝(あしだにのたき)は 比布智神社 当初の鎮座地 天ヶ淵(あまがぶち)とされます その後 比布智神社は 芦渡 保知石(ふぢし)の比布智神社旧跡「阿弥陀堂(あみだどう)」に遷り 寛永九年~十三年(1632~1636)にかけて現在地に遷座しました

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・阿弥陀堂〈保知石の比布智神社旧跡〉(出雲市芦渡町)

一緒に読む
阿弥陀堂〈保知石の比布智神社旧跡〉(出雲市芦渡町)

阿弥陀堂(あみだどう)は 芦渡 保知石(ふぢし)の比布智神社旧跡で 神仏習合時代の神宮寺の跡とされます 比布智神社は それ以前は 保知石谷(ふぢしだに)の山奥にあった小祠に鎮座と伝わり それから この地に鎮座されましたが その後 寛永九年~十三年(1632~1636)にかけて現在地(出雲市下古志町)に遷座しました

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比布智神社

一緒に読む
比布知神社(出雲市下古志町)

比布智神社(ひふちじんじゃ)は もともとは芦渡 保知石(ふぢし)に旧跡があり その後 寛永九年~十三年(1632~1636)にかけて現在地に遷座しました 『出雲國風土記733 AD.』所載の神門郡 神祇官社「比布知社(ひふち)のやしろ」・「又比布知社(またひふち)のやしろ」の論社とされます

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又比布知社 (またひふち) (mata hifuchi no) yashiro

芦谷の滝〈比布智神社 当初の鎮座地 天ヶ淵〉

一緒に読む
芦谷の滝〈比布智神社 当初の鎮座地 天ヶ淵〉

芦谷の滝(あしだにのたき)は 比布智神社 当初の鎮座地 天ヶ淵(あまがぶち)とされます その後 比布智神社は 芦渡 保知石(ふぢし)の比布智神社旧跡「阿弥陀堂(あみだどう)」に遷り 寛永九年~十三年(1632~1636)にかけて現在地に遷座しました

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・比布智神社〈智伊神社の境内社〉

一緒に読む
智伊神社(出雲市知井宮町)& 境内社「比布智神社」

智伊神社(ちいじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』所載の神門郡 神祇官社「知乃社(ちの)のやしろ」とされます 又 境内社「比布智神社(ひふちじんじゃ)」は 神門郡 神祇官社「又比布知社(またひふち)のやしろ」とされ どちらも『延喜式神名帳927 AD.』にも所載される由緒ある古社です

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・阿弥陀堂〈保知石の比布智神社旧跡〉(出雲市芦渡町)

一緒に読む
阿弥陀堂〈保知石の比布智神社旧跡〉(出雲市芦渡町)

阿弥陀堂(あみだどう)は 芦渡 保知石(ふぢし)の比布智神社旧跡で 神仏習合時代の神宮寺の跡とされます 比布智神社は それ以前は 保知石谷(ふぢしだに)の山奥にあった小祠に鎮座と伝わり それから この地に鎮座されましたが その後 寛永九年~十三年(1632~1636)にかけて現在地(出雲市下古志町)に遷座しました

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・〈比布智神社に合祀〉

一緒に読む
比布知神社(出雲市下古志町)

比布智神社(ひふちじんじゃ)は もともとは芦渡 保知石(ふぢし)に旧跡があり その後 寛永九年~十三年(1632~1636)にかけて現在地に遷座しました 『出雲國風土記733 AD.』所載の神門郡 神祇官社「比布知社(ひふち)のやしろ」・「又比布知社(またひふち)のやしろ」の論社とされます

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多吉社 (たき) (taki no) yashiro

・多伎神社

一緒に読む
多伎神社(出雲市多伎町多岐)

多伎神社(たきじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』神門郡 多伎郷(たきのさと)の条に「所造天下大神(あめのしたつらししおおかみ)の御子(みこ)阿陀加夜努志多伎多伎吉比賣命(あだかやぬし たききひめのみこと)が坐(ましま)す 故に 多吉(たき)という」とあり 神門郡 神祇官社に二つある「多吉社(たき)のやしろ」両方の論社となっています

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夜牟夜社 (やむや) (yamuya no) yashiro

・鹽冶神社

一緒に読む
鹽冶神社(出雲市上塩冶町)

鹽冶神社(えんやじんじゃ)は 「大國主命(okuninushi no mikoto)」の御孫神「鹽冶毘古命(yamuya hiko no mikoto)」を祀ります 江戸時代に流行した『仮名手本忠臣蔵』の主役「塩谷判官(enya hangan)」はこの子孫になります

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矢野社 (やぬ) (yanu no) yashiro

・八野神社

一緒に読む
八野神社(出雲市矢野町)

八野神社(やのじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』所載の神門郡 神祇官社「矢野社(やぬ)のやしろ」とされ その御祭神と八野の地名の起こりについて「八野若姫命(やぬのわかひめのみこと)」は 須佐能表命(すさのをのみこと)の御子で 大国主命が 姫と婚姻のために屋を建てられたことから「やぬ」と呼ぶ と記されています 現在も古来のままの御祭神と社地とを保ち続けていると伝わります

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波加佐社 (はかさ) (hakasa no) yashiro

・佐伯神社

一緒に読む
佐伯神社(出雲市神西沖町)

佐伯神社(さえきじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』所載の神門郡 神祇官社「波加佐社(はかさ)のやしろ」とされます 中古から近世にかけて那賣佐神社に合祀され衰徴してしまった 貞享四年(1678)に始った神西沖町の干拓により里人が 日御碕神社の祭神を奉齋し これを佐伯神社として復活しました

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中古から近世にかけて 那佐神社に合祀

一緒に読む
那賣佐神社(出雲市東神西町)

那賣佐神社(なめさじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』に二つある神門郡 神祇官社「奈賣佐社(なめさ)のやしろ」の両方の論社です 大国主命が 須佐之男命の御子で この里の岩坪で生誕せられたという須勢理姫(すせりひめ)命を娶り 通(かよ)い坐(まし)ました所とされます

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奈賣佐社 (なめさ) (namesa no) yashiro

・那賣佐神社

一緒に読む
那賣佐神社(出雲市東神西町)

那賣佐神社(なめさじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』に二つある神門郡 神祇官社「奈賣佐社(なめさ)のやしろ」の両方の論社です 大国主命が 須佐之男命の御子で この里の岩坪で生誕せられたという須勢理姫(すせりひめ)命を娶り 通(かよ)い坐(まし)ました所とされます

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知乃社 (ちの) (chino no) yashiro

・智伊神社

一緒に読む
智伊神社(出雲市知井宮町)& 境内社「比布智神社」

智伊神社(ちいじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』所載の神門郡 神祇官社「知乃社(ちの)のやしろ」とされます 又 境内社「比布智神社(ひふちじんじゃ)」は 神門郡 神祇官社「又比布知社(またひふち)のやしろ」とされ どちらも『延喜式神名帳927 AD.』にも所載される由緒ある古社です

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・多聞院 〈智伊神社の旧鎮座地〉

一緒に読む
多聞院 〈智伊神社の旧鎮座地〉(出雲市知井宮町)

多聞院(たもんいん)は 古くから智伊神社〈多聞院の南横に鎮座していた〉の祭祀にたずさわり神宮寺と号していました その後 智伊神社が現在地(出雲市知井宮町)に遷座したため 亨保九年(1724年)に 神宮寺の号から多聞院へと改称しています

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浅山社 (あさやま) (asayama no) yashiro

・朝山神社

一緒に読む
朝山神社(出雲市)

朝山神社(あさやまじんじゃ)は 「容姿端正 淑徳玉の如く」であったと伝わる女神「真玉着玉邑姫命」が坐ます・大穴持命(onamuchi no mikoto)が毎朝通いましたので「朝山」というと伝わります

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久奈為社 (くない) (kunai no) yashiro

・久奈子神社

久奈爲神社
久奈子神社(出雲市古志町)

久奈子神社(くなこじんじゃ)は 眼下に広がる「出雲の平野」を一望のもと見渡せる「栗栖山(久留須山)」の山腹に坐ます

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・火守神社〈明治40年に(火守神社 八幡宮 朝間神社 大歳神社を合殿合祀して)熊野神社(式内論社)を火守神社と改称する 〉

一緒に読む
火守神社(出雲市宇那手町)

火守神社(ほもりじんじゃ)は 料理祖神である櫛八玉命を主祭神とします もともとは宇那手村右谷に有る火鑚瀧(ひきりのたき)の淵付近に『火鑚社』として鎮座 明治四十年(1907)に「火守神社 八幡宮 朝間神社 大歳神社」を (現在の社殿) 熊野神社〈式内社 久奈爲神社の論社〉へ合殿合祀し 火守神社と改称されました

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・熊野神社〈久奈爲神社の古社地〉

久奈爲神社 古社地
熊野神社(馬木町)

熊野神社(くまのじんじゃ)は 『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載の「久奈爲神社(kunai no kamino yashiro)」論社の可能性があります

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佐志牟社 (さしむ) (sashimu no) yashiro

・佐志武神社

一緒に読む
佐志武神社(出雲市湖陵町差海)

佐志武神社(さしむじんじゃ)は 社伝によれば『日本書紀』にある「高天原から葦原中国を平定するため 経津主神(ふっつぬしのかみ)と武壅槌神(たけみかずちのかみ)が遣わされた」その二神が降り立った地であると伝えます 『出雲國風土記733 AD.』所載の神門郡 神祇官社「佐志牟社(さしむ)のやしろ」とされます

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多支枳社 (たきき) (takiki no) yashiro

・多伎藝神社

一緒に読む
多伎藝神社(出雲市多伎町)

多伎藝神社(たききじんじゃ)は 黄泉の国の雷神を追い払った「桃の実」の神「大迦牟豆美命(okamuzumi no mikoto)」(雷避けの神)と 所造天下大神の御子神「多伎吉比賣命(takiki hime no mikoto)」を祀ります

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阿利社 (あり) (ari no) yashiro

・阿利神社

一緒に読む
阿利神社(出雲市塩冶町)

阿利神社(ありじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』と『延喜式神名帳927 AD.』の論社です 旧社地は 御祭神の阿遅須枳高日子根命(あじすきたかひこねのみこと)の住居されたところにお祀りしたものとされますが 明治15年(1882)に故あって現在地に移遷されました 

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・〈阿利神社の跡地〉

一緒に読む
阿利神社跡(出雲市塩冶有原町)

阿利神社跡(ありじんじゃ あと)は 『出雲國風土記733 AD.』神門郡 高岸の郷(たかぎしのさと)に記される 御祭神 阿遅須枳高日子根命(あじすきたかひこねのみこと)の住居された高崖(たかぎし)の阿利原(ありはら)〈現 塩冶有原町〉の地にお祀りしたと伝わります 明治15年(1882)に故あって現在地 (出雲市塩冶町)に移遷されました

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阿如社 (あね) (ane no) yashiro

・阿禰神社

一緒に読む
阿禰神社(出雲市湖陵町二部)

阿禰神社(あねじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』所載の神門郡 神祇官社「阿如社(あね)のやしろ」とされます 現社地には 江戸時代に大きな八幡宮(氏神)が鎮座し 阿禰神社は 姉谷の里の奥 小祠に鎮座していましたが 明治二十四年(1891)現在地に遷座し 八幡宮は阿禰神社に合祀され 現在に至ります

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國村社 (くむら) (kumura no) yashiro

・國村神社

一緒に読む
國村神社(出雲市多伎町久村)

國村神社(くにむらじんじゃ)は 社伝によれば 垂仁天皇(紀元前28年)の御代 出雲宿祢(いずものすくね)が建立したのが初めとされ 『出雲國風土記733 AD.』によれば 御祭神「八束水臣津努命(やつかみずおみづぬのみこと)」が「国引き神話」の時に用いた「綱」が 鎮座地「薗の長浜(そののながはま)」になったと記されています

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奈賣佐社 (なめさ) (namesa no) yashiro

・岩坪明神〈神霊を那賣佐神社に平安時代 合祀〉

一緒に読む
岩坪明神(出雲市東神西町)〈奈賣佐社の旧鎮座地〉

岩坪明神(いわつぼみょうじん)は 『出雲國風土記733 AD.』神門郡 神祇官社に 二つある「奈賣佐社(なめさ)のやしろ」の一つで 大国主命と須佐之男命の御子で この里の岩坪で生誕せられたという須勢理姫(すせりひめ)命を娶り 通(かよ)い坐(まし)ました所とされます

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・〈那賣佐神社に合祀〉「同[那賣佐]社坐和加湏西利比賣神社」

一緒に読む
那賣佐神社(出雲市東神西町)

那賣佐神社(なめさじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』に二つある神門郡 神祇官社「奈賣佐社(なめさ)のやしろ」の両方の論社です 大国主命が 須佐之男命の御子で この里の岩坪で生誕せられたという須勢理姫(すせりひめ)命を娶り 通(かよ)い坐(まし)ました所とされます

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阿利社 (あり) (ari no) yashiro

・〈阿利神社に合祀〉「同[阿利]社坐加利比賣神社」

一緒に読む
阿利神社(出雲市塩冶町)

阿利神社(ありじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』と『延喜式神名帳927 AD.』の論社です 旧社地は 御祭神の阿遅須枳高日子根命(あじすきたかひこねのみこと)の住居されたところにお祀りしたものとされますが 明治15年(1882)に故あって現在地に移遷されました 

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大山社 (おおやま) (oyama no) yashiro

大山神社出雲市小山町

一緒に読む
大山神社(出雲市小山町)

大山神社(おおやまじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』神門郡 神祇官社「大山社(おおやま)のやしろ」とされ 古老の伝承によると 現在の小山町東北端 大塚町との境辺りに小高い丘陵地があり そこに大山社として祀られていた 度重なる洪水により下流に押し流され 現在地に留まって鎮座まし坐したと伝わります

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保乃加社 (ほのか) (honoka no) yashiro

・富能加神社

一緒に読む
富能加神社(出雲市所原町)

富能加神社(ほのかじんじゃ)は 元社地は 星神山(鉾山)〈現社地の北 約1km〉中腹の巌窟に社があって 山麓に拝殿を設けて祭事を執行していました 星神大明神と称し『出雲國風土記733 AD.』所載の神門郡 神祇官社「保乃加社(ほのか)のやしろ」の論社です 明治44年に現在の小野山麓〈小野神社の社地〉に遷座し 明治49年 小野神社を合祀して今に至ります

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・〈市森神社に合祀〉星宮大明神

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市森神社(出雲市稗原町)

市森神社(いちもりじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』所載・神門郡 神祇官社「保乃加社(ほのか)のやしろ」・神門郡 不在神祇官社「加夜社(かや)のやしろ」の二つの論社の合祀社で かつて薭原両社とも称され一つの拝殿に御本殿は「星宮大明神」「市森大明神」の同形同大の二社であったと伝わります

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多吉社 (たき) (taki no) yashiro

・〈多伎神社に合祀〉「同[多伎]社大穴持神社」

一緒に読む
多伎神社(出雲市多伎町多岐)

多伎神社(たきじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』神門郡 多伎郷(たきのさと)の条に「所造天下大神(あめのしたつらししおおかみ)の御子(みこ)阿陀加夜努志多伎多伎吉比賣命(あだかやぬし たききひめのみこと)が坐(ましま)す 故に 多吉(たき)という」とあり 神門郡 神祇官社に二つある「多吉社(たき)のやしろ」両方の論社となっています

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夜牟夜社 (やむや) (yamuya no) yashiro

・〈塩冶神社に合祀〉「鹽冶比古神社」

塩冶神社に合祀
鹽冶神社(出雲市上塩冶町)

鹽冶神社(えんやじんじゃ)は 「大國主命(okuninushi no mikoto)」の御孫神「鹽冶毘古命(yamuya hiko no mikoto)」を祀ります 江戸時代に流行した『仮名手本忠臣蔵』の主役「塩谷判官(enya hangan)」はこの子孫になります

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同夜牟夜社 (おなじきやむや) (onajiki yamuya no) yashiro

・〈塩冶神社に合祀〉「鹽冶比古麻由弥能神社」

塩冶神社に合祀
鹽冶神社(出雲市上塩冶町)

鹽冶神社(えんやじんじゃ)は 「大國主命(okuninushi no mikoto)」の御孫神「鹽冶毘古命(yamuya hiko no mikoto)」を祀ります 江戸時代に流行した『仮名手本忠臣蔵』の主役「塩谷判官(enya hangan)」はこの子孫になります

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比奈社 (ひな) (hina no) yashiro

・比那神社

一緒に読む
比那神社(出雲市姫原)

比那神社(ひなじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』所載の神門郡 神祇官社「比奈社(ひな)のやしろ」・『延喜式神名帳927 AD.』所載の神門郡「比那神社 ひなの かみのやしろ」とされます この地域が「姫原(ひめばら)」と呼ばれるのは「比奈原」が訛ったからと云われています

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『出雲國風土記(Izumo no kuni Fudoki)に所載の神名帳(Jimmeicho)』に戻る

一緒に読む
『出雲國風土記(Izumo no kuni Fudoki)に所載の神名帳(Jimmeicho)』399社

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」でありますので 各郡の条に「〇〇郡 神社」として 神社名の所載があります
『風土記(fudoki)』が編纂(733年)された 当時の「出雲の神社(399社)」を『出雲國風土記 神名帳(izumo no kuni fudoki jimmeicho)』として伝える役割をしています

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世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

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大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷で 出雲国造が その任に就いた時や遷都など国家の慶事にあたって朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉としていて 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています