二宮神社(にのみやじんじゃ)は 現在の鎮座地には 元は「管原神社」がありました 昭和29年(1954)に「二宮神社跡(伊波乃比咩命神社 旧鎮座地)」を合祀して神社名が「二宮神社」と改称され 同じく 昭和29年(1954)には 坪田集落周辺の「4つの式内社の論社」が合祀され 現在に到っています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
二宮神社(Ninomiya Shrine)
(にのみやじんじゃ)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
東京都三宅島 三宅村坪田
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》伊波乃比咩命(Iwanohime no mikoto)
【御神格 (God's great power)】
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社の合祀先
【創 建 (Beginning of history)】
現在の鎮座地には 元々は「管原神社」がありました
しかし 昭和29年(1954)に 二宮神社跡(伊波乃比咩命神社 旧鎮座地)を合祀して神社名が「二宮神社」と改称されました
同じく 昭和29年(1954)には 坪田集落周辺の「式内社の論社」が合祀されました
にのみやじんじゃ
二宮神社「伊波乃比咩命神社」として延喜式内社に数えられます。御笏神社の御祭神の姉にあたり、その第二王子さまもお祀りすることから「二宮」とよばれているといわれます。
現在坪田地区の中心にご鎮座し、多くの合祀社・境内社があります。かつてのご鎮座地は大路池の近くです。毎年正月に御刀様が巡る若菜祭では、二宮神社を訪れ直会が開かれています。
<御祭神>伊波乃比咩命(いわのひめのみこと)
(大明神の御后神)神主・壬生家が運営する
公式HPよりhttps://miyakejima-jinja.jimdofree.com/
【由 緒 (history)】
二宮(にのみや)神社
この神社には、事代主命(ことしろぬしのみこと)の后・伊波乃比呵命(いわのひめのみこと)が祀られている。
三宅島記には「次女 ましましき、かの島のひつじの方(南西)に置きまいらせ給う。この御腹に王子二人ましましき。」とあり、伊波乃比眸命とその第二王子(二宮)を祀る神社であることから「二宮神社」と呼ばれている。
さらに三宅島記によれば「次女おば 坪田にある水海(湖)の並びに峯あり、それに斎(すま)いまいらせべし」と記されており、その昔 坪田村(旧村)は古澪池(大路池)の近く小倉山附近に位冒していたものと思われ、古地図には古澪村と記された記録も残っている。二宮神社もそこに祀られていたのであるが、集落ともどもこの地に移転したのがいつの頃であったか定かではない。
三宅村
境内案内板より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
覆屋が3つ建ちます
1つは 本殿横に鎮座〈不明〉
1つは その横 剣を持つ仏像 〈不動明王のように見えます〉
1つは 「太子堂」〈聖徳太子であろうと思われます〉
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています
【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
三宅島は 活火山島のため 噴火により 神社は 遷座が繰り返されています
この神社には 4つの式内社を合祀していると伝わります
①坪田観音【旧蹟 伊波耶観音神社】から⇒大路池の小倉山を合祀
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豆国 92座(大5座・小87座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀茂郡 46座(大4座・小44座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社名 ] 伊波比咩命神社
[ふ り が な ](いはひめのみことの かみのやしろ)
[How to read ](Iwahime no mikoto no kaminoyashiro)
➁ 二宮神社跡(伊波乃比咩命神社 旧鎮座地)を合祀
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豆国 92座(大5座・小87座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀茂郡 46座(大4座・小44座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社名 ] 加弥命神社
[ふ り が な ](かみのみことの かみのやしろ)
[How to read ](Kami no mikoto no kamino yashiro)
③ 久良濱神社〈高山様〉(三宅島 坪田)を合祀
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豆国 92座(大5座・小87座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀茂郡 46座(大4座・小44座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社名 ] 久良恵命神社
[ふ り が な ](くらえのみことの かみのやしろ)
[How to read ](Kurae no mikoto no kamino yashiro)
④ 御嶽神社跡(三宅島 坪田)を合祀
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豆国 92座(大5座・小87座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀茂郡 46座(大4座・小44座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社名 ] 夜須命神社
[ふ り が な ](やすのみことの かみのやしろ)
[How to read ](Yasuno mikoto no kamino yashiro)
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
当社に合祀されている
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)の論社について
三宅島は 活火山島のため 噴火による遷座が繰り返されています
①伊豆国(izu no kuni) 賀茂郡(kamo no kori)
伊波比咩命神社(Iwahime no mikoto no kaminoyashiro)
・【当初】坪田観音【旧蹟 伊波耶観音神社】
坪田観音(つぼたかんのん)は『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の由緒(格式ある歴史)を持っています 現在は「二宮神社(坪田)」に合祀されている「伊波比咩命神社(いはひめのみことの かみのやしろ)」の当初の鎮座地であると云われる「伊波耶観音神社(いわのかんのんじんじゃ)」の旧蹟です
坪田観音【旧蹟 伊波耶観音神社】(三宅島 坪田)
・【次に】二宮神社跡(伊波乃比咩命神社 旧鎮座地)
二宮神社跡は 伊波乃比咩命神社の 旧鎮座地です 三宅島では 度重なる火山活動によって 多くの神社で遷座が繰り返されています 当神社も 当初の鎮座地「坪田観音(Tsubota kannon)」から 坪田村小倉山「当地〈二宮神社跡〉」に遷座して 現在は 二宮神社(三宅島 坪田)に合祀されています
二宮神社跡(伊波乃比咩命神社 旧鎮座地)
・【合祀】二宮神社(三宅島 坪田)〈当社〉
二宮神社(にのみやじんじゃ)は 現在の鎮座地には 元は「管原神社」がありました 昭和29年(1954)に「二宮神社跡(伊波乃比咩命神社 旧鎮座地)」を合祀して神社名が「二宮神社」と改称され 同じく 昭和29年(1954)には 坪田集落周辺の「4つの式内社の論社」が合祀され 現在に到っています
二宮神社(三宅島 坪田)
・【論社】雲見浅間神社(松崎町雲見)
雲見浅間神社(くもみせんげんじんじゃ)は 伊豆半島の最西端の雲見海岸に聳える烏帽子山(162m)に鎮座します ・山麗には「拝殿」・中腹には「中之宮」・山頂付近には「本殿」があり 全国の浅間信仰の神社(約1,300社)の中でも 祭神として「磐長姫命(いわながひめのみこと)」一柱のみを祀る 大変珍しい祭祀形態の神社です
雲見浅間神社(松崎町雲見)
➁伊豆国(izu no kuni) 賀茂郡(kamo no kori)
加弥命神社(Kami no mikoto no kamino yashiro)
・【当初】カミイノ宮 旧鎮座地(三宅島 神着 首山)
※原生林の奥の為 未参拝です
・【次に】二宮神社【旧地】山ノ神(三宅島 神着 東郷)
二宮神社【旧地】山ノ神(にのみやじんじゃ【きゅうちんざち】やまのかみ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の「加弥命神社(かみのみことの かみのやしろ)」の旧鎮座地とされています 当初は神着 首山の「カミイノ宮」に鎮座 その後神着 東郷の「山の神(二宮神社)」〈当社〉に遷座したと伝わり さらに 明治7年(1874)の噴火で この地から 御笏神社の境内西の奥にへ遷座し 現在は 御笏神社の本殿に合祀されています
二宮神社【旧地】山ノ神(三宅島 神着東郷)
・【合祀】カミイノ宮 御笏神社の本殿に合祀
御笏神社(おしゃくじんじゃ)は ご神託に基づき永正13年(1516)現社地(三宅島 神着(かみつき)に ご遷座になりました 元々は「神着の東郷(ひがしごう)」三宅島の北東に鎮座していました 旧社地は明治7年(1874)の火山噴火で溶岩流の下になってしまいました 格式は高く『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「佐伎多麻比咩命神社(Sakitamahime no mikoto no kamino yashiro)」に比定され その他に4つの式内社の論社を合祀している由緒ある古社です
御笏神社(三宅島 神着)
・【論社】二宮神社(三宅島 坪田)(合祀先)〈当社〉
二宮神社(にのみやじんじゃ)は 現在の鎮座地には 元は「管原神社」がありました 昭和29年(1954)に「二宮神社跡(伊波乃比咩命神社 旧鎮座地)」を合祀して神社名が「二宮神社」と改称され 同じく 昭和29年(1954)には 坪田集落周辺の「4つの式内社の論社」が合祀され 現在に到っています
二宮神社(三宅島 坪田)
③伊豆国(izu no kuni) 賀茂郡(kamo no kori)
久良恵命神社(Kurae no mikoto no kamino yashiro)
・【当初】久良濱神社(三宅島 坪田)
※未参拝
島民は「高山さん」は非常にこわい神様だとして恐れ足を踏み入れない
・【遥拝所】久良濱神社【出張(でばり)】
久良浜神社〈高山様 出張〉〈たかやまさま でばり〉は 昭和15~16年頃(1940~1941)二宮神社(坪田)に合祀された「久良濱神社(くらはまじんじゃ)の遥拝所」です 「久良濱神社」は『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の比定社で 由緒(格式ある歴史)を持っています 島民は「高山さん」は非常にこわい神様だとして恐れ 「出張〈でばり〉」からおまいりし 本殿「高山さん」には足を踏み入れたことはない ということである
久良濱神社〈高山様 出張〉(三宅島 坪田)
・【合祀】二宮神社(三宅島 坪田)
二宮神社(にのみやじんじゃ)は 現在の鎮座地には 元は「管原神社」がありました 昭和29年(1954)に「二宮神社跡(伊波乃比咩命神社 旧鎮座地)」を合祀して神社名が「二宮神社」と改称され 同じく 昭和29年(1954)には 坪田集落周辺の「4つの式内社の論社」が合祀され 現在に到っています
二宮神社(三宅島 坪田)
④伊豆国(izu no kuni) 賀茂郡(kamo no kori)
夜須命神社(Yasuno mikoto no kamino yashiro)
・【当初?】嶽比良神社(三宅島 伊豆)
※掟により入山禁止の為 未参拝
・【嶽比良神社の遥拝所?】子安宮(三宅島 神着)
子安宮(こやすのみや)は 三宅島の神着 字 門ノ原に 通称「バンバ山」という小丘があり ここに母体を像どる石神の側に陰陽を表わす二個の石が祀られています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載「夜須命神社(Yasu no Mikoto Shrine)」の旧鎮座地とも 遥拝所ともされています
子安宮(三宅島 神着)
・【合祀】二宮神社(三宅島 坪田)〈当社〉
二宮神社(にのみやじんじゃ)は 現在の鎮座地には 元は「管原神社」がありました 昭和29年(1954)に「二宮神社跡(伊波乃比咩命神社 旧鎮座地)」を合祀して神社名が「二宮神社」と改称され 同じく 昭和29年(1954)には 坪田集落周辺の「4つの式内社の論社」が合祀され 現在に到っています
二宮神社(三宅島 坪田)
・走湯神社(下田市大賀茂)〈論社〉
走湯神社は 「(そうとうじんじゃ)or(すとうじんじゃ)」と呼ばれます 『南国伊豆の昔話』によれば 蓮台寺の神様と お湯の取り合いをして 走り戦いましたので「走湯」というと云われています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の由緒(格式ある歴史)を持っています
走湯神社(下田市大賀茂)
神社にお詣り(Pray at the shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
三池港から 三宅一周道路を南下 約3.4km 車6分程度
坪田の公民館と郵便局の向かいに鎮座します
三宅一周道路に面して参道があります
二宮神社(Ninomiya Shrine)に参着
一礼をして鳥居をくぐります
左手には由緒案内板 正面の石段を上がると 拝殿が建っています
拝殿にすすみます 扁額には「二宮神社」とあります
千社札(senjafuda)が勝手に張られていない とても綺麗です
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
本殿は 拝殿とは繋がっていません 奥に石段があり その先に建っています
正面が白色 後ろが朱色です
本殿の向かって 右側に境内社が並んで鎮座します お詣りをします
隣接する 海蔵寺には 奈良時代の仏像が祀られています(伝承では 三宅島への伝来は漂着とあります)
再び 拝殿の横に戻ります
参道を戻り 鳥居をくぐり抜けて 振り返り一礼をします
正面の郵便局の屋根越しに 見えている山のようなものは「御蔵島(Mikura Island)」です
神社の伝承(Old tales handed down to shrines)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『三宅記(miyakeki)』に記される 3人の后と八王子 の伝承
三島大明神が 箱根芦ノ湖辺の老翁の娘3人を三宅島に迎え 后として3人を置きました
長女が 「后神社(Kisaki Shrine)」
《主》伊賀牟比賣命(Ikamuhime no mikoto)王子が4人
次女が「二宮神社(Ninomiya Shrine)」
《主》伊波乃比咩命(Iwanohime no mikoto)王子が2人
三女が「御笏神社(Oshaku Shrine)」
《主》佐伎多麻比咩命(Sakitamahime no mikoto)王子が8人
とされていて 王子は14人が記されています
この次の后(次女)〈伊波乃比咩命(Iwanohime no mikoto)〉が「二宮神社(Ninomiya Shrine)」のご祭神です
「未の方角(南南西 方向)」に置かれました その御腹には王子が 2人いらっしゃいました
1人は「うらみ子」といって 大明神の側を離れずにいらっしゃいます
又 1人は「二宮(にのみや)」といって母御前のもとにいらっしゃいました
と記されています
意訳
又 三島大明神は 見目に
「この后の姉たちは 何処へいらしゃったのか お捜しなさい」と言いつけられました
見目は御言葉に従って捜されると白根ヶ嶽(芦ノ湖と富士山の間にある白根山)におられました「大明神の言いつけですので(三宅島に)お入りください」と申し上げました
「それは出来ないことです」と返事をされました
見目は様々になだめて 2人共に誘い参上されたので 大明神は大いに喜ばれて御寵愛になりましたこうして「ちゃく(嫡)女」〈伊賀牟比賣命(Ikamuhime no mikoto)〉を 島の「酉の方角(西 方向)」に置かれました
その御腹には王子(名称不詳)が4人いらっしゃいました
この后は「みとくちの大后(新島の泊大后大明神)」を妬まれて 幼少の王子をお抱きになられて「いかゐ(イカイ)の海」(伊ケ谷の海)に飛び入られて石となって 海中にいらっしゃいますあと2人の(王子の)うち 1人は「丑寅の方角(北東 方向)」で海中にお入りになりました
もう一人は 「辰巳の方角(南東 方向)」の渚で思いつめて亡くなられました
残った1人は 大明神に付き添われています又 次の后(次女)〈伊波乃比咩命(Iwanohime no mikoto)〉は この島の「未の方角(南南西 方向)」に置かれましたその御腹には王子が 2人いらっしゃいました 1人は「うらみ子」といって 大明神の側を離れずにいらっしゃいます 又 1人は「二宮(にのみや)」といって母御前のもとにいらっしゃいました
三女〈三島大明神の第三の后神(佐岐多麻比咩命(sakitamahime no mikoto)〉は 三宅島の丑寅(うしとら)〈北東〉の方に置かれました
かまつけ(神着)という所です
その腹から8人の王子が 一度にお産まれになりました
1番は「ナコ」
(南子命)〈南子神社or后神社境内社〉
2番は「カネ」
(加彌命)〈カミイノ宮〉
3番は「ヤス」
(夜須命)〈御嶽神社〉
4番は「テイ」
(氐良命)〈神澤神社or湯船神社〉
5番は「イタヒ」
(志理太宜命)〈椎取神社or志理太乎宜神社(片瀬白田)〉
6番は「クライ」
(久良惠命)〈久良浜神社【出張(でばり)】〉
7番は「カタスケ」
(片菅命)〈片菅神社or若宮神社or片菅神社(片瀬白田)〉
8番は「ヒンスケ」
(波夜志命)〈峯指神社or走湯神社(下田市大賀茂)〉
と申します又「ななはしら」と言うところでお育てになられました
ところどころに宮々を置かれました
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ 『三宅記』鎌倉時代末期 [書誌事項]写本 ,明治04年[旧蔵者]教部省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?BID=F1000000000000040542&ID=&LANG=default&GID=&NO=&TYPE=JPEG&DL_TYPE=pdf&CN=1画像利用
『三宅記(miyakeki)』に記される 三宅島の分配 伝承
三島大明神の遺言として 島を4つに分けて 末の代に后や王子たちにの宮処を定めるくだりがあります
三姉妹の次女が「伊波乃比咩命(Iwanohime no mikoto)」です
「次女は 坪田の水乃海(湖)「古澪(フルミオ)池(大路池)」の並びに峰があるのでそこにお祀り」と記されています
この場所が「伊波乃比咩命神社(Iwanohime no mikoto no kaminoyashiro)」の旧鎮座地です
「古澪(フルミオ)池」・古澪(フルミオ)・新澪(シンミオ)池跡は 現在の「大路池」周辺です
「爆裂火口地形(マール)」で 地質学では「古澪マール」と呼ばれて 2000年以上の昔に水蒸気爆発によって形成された火口湖とされています
例えば
『三宅記(miyakeki)』で 三島大明神が 3人の后に等しく 宮処を定めたのだと仮定すれば
次女には「坪田の水乃海(湖)」を授けるとなっており この湖が「古澪(フルミオ)池」と呼ばれています
「澪(みお)」の意味は《河川や海で船が航行する水路(航路)》を指しますので かつて溶岩流に閉ざされる前は 海に通じる水路を持った湖だったのであろうと推測できます
そうだとすると 文中の3人の后には それぞれ 外洋に対応した港を与えている それに相応しい地形「入り江」を授けていることになります
長女は 伊豆に入海《海が陸地に入り込んだ入り江》
三女は 神着に浦《海や湖の 波が静かな入江》
とありますので 均等遺産の分配の遺言になっています
この3か所の入り江は どの風向きにも 外洋から 島の港として対応する機能を持ちます
意訳
又 三島大明神は 若宮 見目 壬生の館に
「この島を4つに分けて 末の代に后や王子たちにの宮処を定めようと思いますがいかがでしょう」とお尋ねがありました「どのようにでもお計らいください」とお答えになりました
4つに分けられて
一つを 神着(カミツキ)とする二つを 伊豆(イズ)と号す
三つを 阿古(アコ)と号す
四つを 坪田(ツボタ)と号す嫡女(長女)は 伊豆に入海があるのでここにお祀りし
また 次女 は 坪田の水乃海(湖)の並びに峰があるのでそこにお祀りし
また 三女 は 神着に浦があって「シトリ」と名付けるので ここに祀り
また 阿古 は 末の代になってから 私の宮殿を造りなさい
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ 『三宅記』鎌倉時代末期 [書誌事項]写本 ,明治04年[旧蔵者]教部省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?BID=F1000000000000040542&ID=&LANG=default&GID=&NO=&TYPE=JPEG&DL_TYPE=pdf&CN=1画像利用
二宮神社(Ninomiya Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
・坪田観音【旧蹟 伊波耶観音神社】〈当初の鎮座地〉
坪田観音(つぼたかんのん)は『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の由緒(格式ある歴史)を持っています 現在は「二宮神社(坪田)」に合祀されている「伊波比咩命神社(いはひめのみことの かみのやしろ)」の当初の鎮座地であると云われる「伊波耶観音神社(いわのかんのんじんじゃ)」の旧蹟です
坪田観音【旧蹟 伊波耶観音神社】(三宅島 坪田)
・二宮神社跡(伊波乃比咩命神社 旧鎮座地)
二宮神社跡は 伊波乃比咩命神社の 旧鎮座地です 三宅島では 度重なる火山活動によって 多くの神社で遷座が繰り返されています 当神社も 当初の鎮座地「坪田観音(Tsubota kannon)」から 坪田村小倉山「当地〈二宮神社跡〉」に遷座して 現在は 二宮神社(三宅島 坪田)に合祀されています
二宮神社跡(伊波乃比咩命神社 旧鎮座地)
各々の神社の記事をご覧ください
母神 三島大明神の第三の后神
(佐岐多麻比咩命(sakitamahime no mikoto)を祀る神社
・御笏神社(Oshaku Shrine)
御笏神社(おしゃくじんじゃ)は ご神託に基づき永正13年(1516)現社地(三宅島 神着(かみつき)に ご遷座になりました 元々は「神着の東郷(ひがしごう)」三宅島の北東に鎮座していました 旧社地は明治7年(1874)の火山噴火で溶岩流の下になってしまいました 格式は高く『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「佐伎多麻比咩命神社(Sakitamahime no mikoto no kamino yashiro)」に比定され その他に4つの式内社の論社を合祀している由緒ある古社です
御笏神社(三宅島 神着)
・祖師堂(Soshido)御笏神社の旧鎮座地
祖師堂(そしどう)は 一説には 御笏神社(Oshaku Shrine)の旧鎮座地で 現在の祖師堂(観音堂)の場所であったとされています 御笏神社(Oshaku Shrine)の東北100m程のところ 三宅一周道路に面しています
祖師堂(三宅島 神着)【御笏神社(Oshaku Shrine)旧鎮座地】
・椎取神社(三宅島神着)〈古社地〉
椎取神社(しいとりじんじゃ)は ジオスポットとして有名です 笠木だけを残して埋まったかつての鳥居が残され 平成12年(2000年)の噴火当時発生した 大量の泥流の凄まじさが判ります 神社の歴史は『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の由緒(格式ある歴史)を持っています この拝殿から さらに南西に約100m程奥の森の中には 太古から変わらずに残る神秘的な聖域に 聳え立つ溶岩の陰に 御本殿が祀られています
椎取神社(三宅島 神着)
・両神社(下田市須崎)
両神社(りょうじんじゃ)は 伊豆半島 下田の須崎港に鎮座します 須崎には 古代祭祀遺蹟の残る恵比寿島があり 伊豆半島の三島信仰の聖地ともされいて 当社も 江戸期には「両社明神」と呼ばれ「薬師堂」が祀られ「三島明神」であるとされていました こうしたことから『延喜式神名帳』(927年12月編纂)の論社となっています
両神社(下田市須崎)
・波夜多麻和氣神社(下田市相玉)
波夜多麻和気命神社(はやたまわけのみことじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社で 由緒(格式ある歴史)があります しかし 御祭神「波夜多麻和気命(Hayatamawake no mikoto)」は謎の神とされます 鎮座地の相玉は 辺りは山深い郷ですが 古くは「大井 (おほゐ) 」と呼ばれ豊かな水があって栄えていたであろうことは 稲生沢川(inozawa gawa)を挟むような相玉の郷の田園風景を一望すれば 推測はできます 稲生沢川は 下田の港に流れ込みますので これを遡れば この辺りの交通の便は良かったのであろうと想像は出来ます 下田から 海上ルートで容易に その先の伊豆諸島と繋がります「三島(御島)の神々」なのかも知れません
波夜多麻和氣命神社(下田市 相玉)
1番「ナコ」(南子命)を祀る神社
・南子神社(三宅島 神着)
南子神社(なごじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の格式の高い由緒のある神社です 御笏神社の祭神「佐岐多麻比咩命(sakitamahime no mikoto)」の一番目の王子とされる「南子命(Nago no mikoto)」を御祭神として祀ります 神着の南方にある 南子山の原生林の中に鎮座しています
南子神社(三宅島 神着)
・御笏神社(Oshaku Shrine)に合祀 三ノ朔幣神社(南子神社の遥拝所)
御笏神社の記事をご覧ください
御笏神社(おしゃくじんじゃ)は ご神託に基づき永正13年(1516)現社地(三宅島 神着(かみつき)に ご遷座になりました 元々は「神着の東郷(ひがしごう)」三宅島の北東に鎮座していました 旧社地は明治7年(1874)の火山噴火で溶岩流の下になってしまいました 格式は高く『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「佐伎多麻比咩命神社(Sakitamahime no mikoto no kamino yashiro)」に比定され その他に4つの式内社の論社を合祀している由緒ある古社です
御笏神社(三宅島 神着)
・三ノ朔幣神社(san no sakuheino Shrine)旧鎮座地(三宅島 神着)
三ノ朔幣神社 旧鎮座地の記事をご覧ください
三ノ朔幣神社 旧鎮座地は 御笏神社(Oshaku Shrine)の東北100m程に鎮座します 三宅島 神着の南方にある南子山に鎮座する「南子神社(Nago Shrine)」の遥拝所であったとも 三宅島 阿古に鎮座する「富賀神社(Toga Shrine)」の遥拝所であったとも伝わります 現在は 御笏神社(Oshaku Shrine)に合祀されています
三ノ朔幣神社 旧鎮座地(三宅島 神着)
・后神社(Kisaki Shrine)境内社の南子神社
后神社(境内社の南子神社)の記事をご覧ください
后神社(きさきじんじゃ)は 御祭神について 三島大明神の三宅島の后「伊賀牟比売命(いかむひめのみこと)」は 幼い子を抱いて 入水し石になって海中に鎮まっていると『三宅記(みやけき)』に記されます そうした訳でしょうか 三宅島の伊ヶ谷港の高台から太平洋を眺めるように鎮座します 又『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される格式ある由緒を持ちます 江戸時代に 三宅島に流された「禊教の教祖・井上正鐵の碑」もあります
后神社(三宅島 伊ヶ谷)
・南子神社(下田市 神子元島)
※式内社調査報告には記されていますが 現在 神子元島には神社や祠は見あたりません
波風が強く 何度も消失したとも伝わります
2番「カネ」(加彌命)を祀る神社
・カミイノ宮 御笏神社の本殿に合祀
御笏神社(おしゃくじんじゃ)は ご神託に基づき永正13年(1516)現社地(三宅島 神着(かみつき)に ご遷座になりました 元々は「神着の東郷(ひがしごう)」三宅島の北東に鎮座していました 旧社地は明治7年(1874)の火山噴火で溶岩流の下になってしまいました 格式は高く『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「佐伎多麻比咩命神社(Sakitamahime no mikoto no kamino yashiro)」に比定され その他に4つの式内社の論社を合祀している由緒ある古社です
御笏神社(三宅島 神着)
・カミイノ宮 旧鎮座地(三宅島 神着 首山)※原生林の奥の為 未参拝です
・二宮神社【旧地】山ノ神(三宅島 神着 東郷)〈当社〉
二宮神社【旧地】山ノ神(にのみやじんじゃ【きゅうちんざち】やまのかみ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の「加弥命神社(かみのみことの かみのやしろ)」の旧鎮座地とされています 当初は神着 首山の「カミイノ宮」に鎮座 その後神着 東郷の「山の神(二宮神社)」〈当社〉に遷座したと伝わり さらに 明治7年(1874)の噴火で この地から 御笏神社の境内西の奥にへ遷座し 現在は 御笏神社の本殿に合祀されています
二宮神社【旧地】山ノ神(三宅島 神着東郷)
・二宮神社(三宅島 坪田)(合祀先)〈論社〉
二宮神社(にのみやじんじゃ)は 現在の鎮座地には 元は「管原神社」がありました 昭和29年(1954)に「二宮神社跡(伊波乃比咩命神社 旧鎮座地)」を合祀して神社名が「二宮神社」と改称され 同じく 昭和29年(1954)には 坪田集落周辺の「4つの式内社の論社」が合祀され 現在に到っています
二宮神社(三宅島 坪田)
3番「ヤス」(夜須命)を祀る神社
・御嶽神社跡(三宅島 坪田)〈当社〉
御嶽神社 跡(みたけじんじゃあと)は 由緒(格式ある歴史)を持っ『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載されている「夜須命神社(やすのみことの かみのやしろ)」の元の鎮座地とされています 昭和29年(1954)に「二宮神社(にのみやじんじゃ)」に合祀されていて 現在は旧鎮座地となり 鳥居が残ります
御嶽神社 跡(三宅島 坪田)
・二宮神社(三宅島 坪田)〈合祀〉
二宮神社(にのみやじんじゃ)は 現在の鎮座地には 元は「管原神社」がありました 昭和29年(1954)に「二宮神社跡(伊波乃比咩命神社 旧鎮座地)」を合祀して神社名が「二宮神社」と改称され 同じく 昭和29年(1954)には 坪田集落周辺の「4つの式内社の論社」が合祀され 現在に到っています
二宮神社(三宅島 坪田)
・嶽比良神社(三宅島 伊豆) ※掟により入山禁止の為 未参拝
・子安宮(三宅島 神着)
子安宮(こやすのみや)は 三宅島の神着 字 門ノ原に 通称「バンバ山」という小丘があり ここに母体を像どる石神の側に陰陽を表わす二個の石が祀られています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載「夜須命神社(Yasu no Mikoto Shrine)」の旧鎮座地とも 遥拝所ともされています
子安宮(三宅島 神着)
4番「テイ」(氐良命)を祀る神社
・神澤神社(三宅島 伊豆)
神沢神社(かんざわじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「弖良命神社(Tera no mikoto Shrine)」に比定される格式の高い由緒ある神社です 三宅島の伊豆にある神座山の太古の森の中に 静かに鎮座しています
神澤神社(三宅島 伊豆)
・湯船神社(三宅島 神着)〈論社〉
湯船神社の記事をご覧ください
湯船神社(ゆぶねじんじゃ)は 三宅一周道路 神着のバス停 湯舟グラウンドの横に鎮座しています 元々の鎮座地は「東郷の湯池の湖畔」に鎮座していましたが 明治7年(1874年)7月3日正午頃より始まった噴火により 東郷集落が埋没焼失したため この地に遷座しました
湯船神社(三宅島 神着)
・八王子社(下田市中)
八王子社の記事をご覧ください
5番「イタヒ」(志理太宜命)を祀る神社
・椎取神社(三宅島神着)
椎取神社(しいとりじんじゃ)は ジオスポットとして有名です 笠木だけを残して埋まったかつての鳥居が残され 平成12年(2000年)の噴火当時発生した 大量の泥流の凄まじさが判ります 神社の歴史は『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の由緒(格式ある歴史)を持っています この拝殿から さらに南西に約100m程奥の森の中には 太古から変わらずに残る神秘的な聖域に 聳え立つ溶岩の陰に 御本殿が祀られています
椎取神社(三宅島 神着)
・志理太乎宜神社(片瀬白田)
志理太乎宜神社(しりたおぎじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)の論社とされ 早い時期から 三宅島の御祭神の分霊を祀っていたとも云われます 一方で八幡神を配祀して「来宮」とも「木の宮」ともされています 地元では 親しみを込めて「白田のキノミヤさん」と呼ばれています
志理太乎宜神社(片瀬白田)
6番「クライ」(久良惠命)を祀る神社
・久良濱神社【出張(でばり)】
久良浜神社〈高山様 出張〉〈たかやまさま でばり〉は 昭和15~16年頃(1940~1941)二宮神社(坪田)に合祀された「久良濱神社(くらはまじんじゃ)の遥拝所」です 「久良濱神社」は『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の比定社で 由緒(格式ある歴史)を持っています 島民は「高山さん」は非常にこわい神様だとして恐れ 「出張〈でばり〉」からおまいりし 本殿「高山さん」には足を踏み入れたことはない ということである
久良濱神社〈高山様 出張〉(三宅島 坪田)
・久良濱神社(三宅島 坪田)
※未参拝 島民は「高山さん」は非常にこわい神様だとして恐れ足を踏み入れない
・二宮神社(三宅島 坪田)〈合祀〉
二宮神社(にのみやじんじゃ)は 現在の鎮座地には 元は「管原神社」がありました 昭和29年(1954)に「二宮神社跡(伊波乃比咩命神社 旧鎮座地)」を合祀して神社名が「二宮神社」と改称され 同じく 昭和29年(1954)には 坪田集落周辺の「4つの式内社の論社」が合祀され 現在に到っています
二宮神社(三宅島 坪田)
7番「カタスケ」(片菅命)を祀る神社
・片菅神社(三宅島 神着美茂井)
片菅神社の記事をご覧ください
片菅神社(かたすげじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)にも所載されて 由緒(格式ある歴史)を持っています 『三宅記(みやけき)』(鎌倉時代末期の作)によれば 三女〈三島大明神の后神(佐岐多麻比咩命(さきたまひめのみこと〉のお産みになられた 7番目の御子の名が「かたすけ」と呼ばれ この御子神が 当社の御祭神「片菅命(かたすげのみこと)」であるとされています
片菅神社(三宅島 神着 美茂井)
・御笏神社 に合祀された境内神社の勝祖神社
御笏神社の記事をご覧ください
御笏神社(おしゃくじんじゃ)は ご神託に基づき永正13年(1516)現社地(三宅島 神着(かみつき)に ご遷座になりました 元々は「神着の東郷(ひがしごう)」三宅島の北東に鎮座していました 旧社地は明治7年(1874)の火山噴火で溶岩流の下になってしまいました 格式は高く『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「佐伎多麻比咩命神社(Sakitamahime no mikoto no kamino yashiro)」に比定され その他に4つの式内社の論社を合祀している由緒ある古社です
御笏神社(三宅島 神着)
・若宮神社(三宅島 伊ヶ谷)后神社の境内社 もしくは 后神社の本殿に合祀
后神社(三宅島 伊ヶ谷)の記事をご覧ください
后神社(きさきじんじゃ)は 御祭神について 三島大明神の三宅島の后「伊賀牟比売命(いかむひめのみこと)」は 幼い子を抱いて 入水し石になって海中に鎮まっていると『三宅記(みやけき)』に記されます そうした訳でしょうか 三宅島の伊ヶ谷港の高台から太平洋を眺めるように鎮座します 又『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される格式ある由緒を持ちます 江戸時代に 三宅島に流された「禊教の教祖・井上正鐵の碑」もあります
后神社(三宅島 伊ヶ谷)
・若宮神社(三宅島 伊豆)后神社の境外社
若宮神社(三宅島 伊豆)の記事をご覧ください
若宮神社は 后神社の境外社です 三宅一周道路から 伊豆岬灯台へと下る道路の左側 道路と海の間にある藪の中に に小さな祠が鎮座しています
若宮神社(三宅島 伊豆)(后神社の境外 末社)
・片菅神社(東伊豆町片瀬)
片菅神社(かたすげじんじゃ)は 徳治2年(1307)創始と伝えますが この説は 若宮八幡神を合祀勧請した時のものとされ 別の説では 片菅神社の創祀は さらに以前であって 三宅島に鎮座する片菅神社を分霊したもので 伊豆地方では「若宮」とは「三島神の御子神」を意味し 7番目の御子名「かたすけ」とされます
片菅神社(片瀬白田)〈延喜式内社 片菅命神社の論社〉
8番「ヒンスケ」(波夜志命)を祀る神社
・峯指神社(Hoshino kamino yashiro)御笏神社の本殿に合祀
御笏神社(おしゃくじんじゃ)は ご神託に基づき永正13年(1516)現社地(三宅島 神着(かみつき)に ご遷座になりました 元々は「神着の東郷(ひがしごう)」三宅島の北東に鎮座していました 旧社地は明治7年(1874)の火山噴火で溶岩流の下になってしまいました 格式は高く『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「佐伎多麻比咩命神社(Sakitamahime no mikoto no kamino yashiro)」に比定され その他に4つの式内社の論社を合祀している由緒ある古社です
御笏神社(三宅島 神着)
・峯指神社(Hoshino kamino yashiro)旧鎮座地
峯指神社(ほうしじんじゃ)〔 旧鎮座地 〕は 風速山を祀っていたと伝わります 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載された格式高い由緒を持ちますが 明治7年(1874)の噴火で 旧鎮座地は 溶岩流の台地の中にあります 現在は御笏神社(おしゃくじんじゃ)に合祀されています
峯指神社〔 旧鎮座地 〕(三宅島 神着)
・走湯神社(下田市大賀茂)
走湯神社は 「(そうとうじんじゃ)or(すとうじんじゃ)」と呼ばれます 『南国伊豆の昔話』によれば 蓮台寺の神様と お湯の取り合いをして 走り戦いましたので「走湯」というと云われています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の由緒(格式ある歴史)を持っています
走湯神社(下田市大賀茂)
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伊豆国(いつのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 伊豆国には 92座(大5座・小87座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
伊豆國 式内社 92座(大5座・小87座)について