実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

村国神社(各務原市)

村国神社(むらくにじんじゃ)は 社伝によれば 飛鳥時代(592710年)の地一帯を治めていた村国氏の祖が火明命(ameno hoakari no mikoto)と御子 石凝姥命(ishikoridome no mikoto)を御祭神として創建したと伝えます その後「壬申乱(jinshin no ran)」(672)で勲功のあった村國連男依が 祭神として神社に祀られました

1.ご紹介(Introduction)

この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

村国神社Murakuni Shrine)
むらくにじんじゃ

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

岐阜県各務原市各務おがせ町3-46

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》火明命(ameno hoakari no mikoto)
   石凝姥命(ishikoridome no mikoto)
   村国男依命(murakuni no oyori no mikoto)
   白山権現(hakusan daigongen)

【御神格 (God's great power)】

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社
・ 金弊社(kimpeisha)

【創  (Beginning of history)】

社伝によれば
飛鳥時代(592~710年)
この地一帯を治めていた村国氏の祖が
天之火明命(ameno hoakari no mikoto)と御子 石凝姥命(ishikoridome no mikoto)を御祭神として創建

【由  (history)】

式内金幣

村國神社(由緒)

御祭神 火明命
    石凝姥命
    男依命
    白山権現

当神社は、飛鳥時代、此の地一帯を治めていた村國氏の祖が、天之火明命と御子 石凝老命を御祭神として創建された社であります。

弘文元年、壬申(ジンシン)の乱に 大海人皇子(オオアマノミコ)の命を受け、この地の豪族 村国男依(ムラクニノオヨリ)氏は大勝し、この功勲で、帝の信任厚く 時の政権の座につきましたが、天武4年、天命を全うし この世を去りました。
延久4年(約920年前)白山大権現が合祀され、濃州一円の士豪も、勝利の神と、大いにあがめ祀ったと伝えられている由緒ある神社であります。

昭和48年 岐阜県神社庁より
金幣に昇格した。

境内 案内板より

【境内社 (Other deities within the precincts)】

秋葉神社Akiba Shrine)
《主》火具土命(kagutsuchi no mikoto)

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

延喜式神名帳】(engishiki jimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)美濃国 39座(大1座・小38座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)各務郡 7座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 ] 村國神社 二座
[ふ り が な  ](むらくにの かみのやしろ ふたざ)
[How to read ]Murakuni no kamino yashiro futaza) 

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)には 二座とあります

二座のうち一座は 当社です
もう一座は 村国明神 白山大権現とも称されて 直線で東南約150m(参道入り口からなら約50m)にあり 「村国男依の墓所」があった場所と伝わり 現在では御旅所となっています

村国神社 御旅所の記事をご覧ください

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村国神社 御旅所(各務原市)

村国神社 御旅所(むらくにじんじゃ おたびところ)は 『延喜式神名帳 AD.927』に 美濃国各務郡 村國神社 二座とあり 一座は 村国神社 もうひとつ一座が 村國連男依命の墳墓の地 と云われており 現在の御旅所になります

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境内にある 村国座について

村国座とは
「村国座」は、壬申の乱の英雄「村国男依」を祭神にまつった村国神社の境内にあります。
年に一度行われる村国神社の祭礼で、氏子が奉納する地芝居を上演する目的で明治10年ごろ建設された舞台です。客席を備え、本格的な廻り舞台と広い花道、奈落を持っており、虚飾を廃した素朴で力強い造りの建物です。

村国座は原形を大幅に変える改築や、映画館向きに改造されることもなく保存され、江戸時代末期から明治時代初期の劇場建築の典型を今に伝える数少ない農村舞台であるとして、昭和49年(1974年)に国重要有形民俗文化財に指定されました。

村国座の歩み誕生
大衆の娯楽としても芝居がさかんであった江戸時代末期の慶応2年(1866年)に各務村の大庄屋長縄八左衛門が発起し、江戸から明治への混乱期を経て、木材などの寄進や労働奉仕など各務村村民が一丸となって取り組み、明治10年ごろに完成しました。

激動の時代
村国座が建築されてから約140年、その間に濃尾地震(明治24年)や伊勢湾台風(昭和34年)など、かずかずの自然災害を乗り越えてきました。
また、生活の変化や娯楽の多様化によって全国各地の農村歌舞伎が衰退し、多くの芝居小屋が解体されていく中、「村国座の奉納歌舞伎」は、役者を「大人」から「子ども」に切り替えることで存続し、今も秋の村国神社の祭礼では、地元の小学生による子供歌舞伎が上演されています。

大修理と現在
建築から約130年が経過した頃から、建物全体の老朽化が目立つようになってきました。
調査の結果、建物が大きく南西方向に傾いており、礎石の据え直しや建物の建て起こしといった、根本的な修復工事が必要であることが分かりました。
平成18年から3年を費やして、建物全体の修復や基礎工事、耐震補強工事を含めた「村国座 平成の大修理」を行いました。輝きを取り戻した村国座は、本格的な舞台照明や音響設備を備え、歌舞伎以外の公演にも幅広く活用されています。

更新日 平成29年5月9日

各務原市役所 公式HPより
http://www.city.kakamigahara.lg.jp/murakuniza/000808.html

写真 右が社殿 正面が村国座

村国座の道具小屋もありました

神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

各務原駅から R21号経由 北へ約3.1km苧ケ瀬池の北西 車10分程度

村国神社Murakuni Shrine)に参着
長い参道の入り口には 社号標「式内 村國神社」とあります

ちょうど 秋祭りの日で 幟旗がたてられています

参道には 祭列だと思うのですが 氏子の皆さんが礼服(黒服)を着て 神楽の中を厳かに進まれていますので 迂闊に立ち入れない

祭列が遠ざかりましたので 一礼して鳥居をくぐります

遠目から望遠で 祭列を撮影

上手く獲れていませんが 動画です

ゆったりとした歩調で進む祭列

参道は 祭事の進行があり 歩けませんので 迂回して 境内に

御神橋の隣の橋から 境内を望みます

川沿いの境内入り口側から 境内には「村国座」の旗が色鮮やかに

御神橋あたりから 神楽が聞こえています

祭列先頭には 二本の竹を先端で結んであるような この竹を手に持った方が 神橋を渡っている最中です

ゆったりとした祭列は 参道を進んでいます

社殿前には 神輿が置かれて 御神事の最中です
御神事の妨げになってはいけませんので

社務所の横から お祈りです 

ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと 柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

境内を後に 御神橋の隣の橋から 振り返り 再度 一礼をします

御旅所に向かいます

村国神社 御旅所の記事をご覧ください

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御旅所のお詣りをすませて 再び 正面の鳥居前に来ました
祭列は 先程と殆ど変わらない位置でゆっくりと進んでいます
一礼をします

神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『続日本紀(shoku nihongi)』大宝元年 (701年) 7月21日条 に記される伝承

「大宝元年 (701年) 7月21日条(第42代 文武天皇の時)
先朝(第40代 天武天皇)が 壬申の論功をおこなった時 村国小依が120戸の封を賞として与えられた」と記されています

村国小依(村国男依)の120戸は 論功の筆頭に記されて最多です

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『続日本紀』』延暦16年(797年)選者:菅野真道 写本 慶長19年[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000045548&ID=M2014100619504988793&TYPE=&NO=画像利用

村国神社Murakuni Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

村国神社 御旅所の記事をご覧ください

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当社の創始と同様に 村国氏によって創建された延喜式内社
村国真墨田神社Murakuni masumita Shrine)の記事をご覧ください

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村国真墨田神社(各務原市鵜沼山崎町)

村国真墨田神社(むらくにますみたじんじゃ)は 「美濃国一之宮 南宮大社」と「尾張国 一宮 真清田神社」を合祀 その後 天武元年(672)に起こった壬申の乱で功績をあげた゛村国男依(murakuni no oyori)゛を 祭神として合祀した由緒を持ちます 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の美濃国 各務郡 村国真墨田神社(むらくにますみたの かみのやしろ)に比定されます

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美濃國(みののくに)の 式内社 39座(大1座・小38座)について

美濃国(みののくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 美濃国には 39座(大1座・小38座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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