森神社(もりじんじゃ)は 『延喜式神名帳927 AD.』所載の式内社 京中 左京二条坐神 太詔戸命神(ふとのとの みことの かみ)(大月次相嘗新嘗)の旧鎮座地とも 大和国 添上郡 太祝詞神社(大月次新嘗)(ふとのとの かみのやしろ)であるともされます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
森神社(Mori shrine)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
奈良県天理市森本町178
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天児屋根命(あめのこやねのみこと)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
元々この神は対馬国の占部に祀る亀卜の神で、天平神護元年(765)ごろ大和の添上郡へ勧請されたと考えられる。
平安遷都(794)に当たって、大和国の諸社が京中へ遷座の節、当社も京中へ移されたとみられる。『奈良県史』第五巻 神社〈平成元年(1989)五月発行〉より
現在の鎮座地は 当初からでないとも云われ 一説には 奈良市東新在家町(現在 奈良女子大学の敷地内)とも云われます
【由 緒 (History)】
森本(もりもと)
中世、西大寺三宝料田園の記録に「添上郡三条七里六坪わにのもりもと」とありますが、そこは今の森本の唐林池の東の小字唐林の地に当たり、森本領です。
古代の和爾の地は今の大字和爾よりは広い地域でしたから、中之庄や森本は和爾の中です。また古池の南、和爾の丘陵の下にさかもとという地名があり、ここが神武紀の和珥(わに)の坂下(さかもと)であると考証されています。
ここの氏神を森神社又は森本神社といいますが、神をまつった所が森で、そこにできた村だから森本といったのか、この東に唐林という森があってその下の村でこういう名になったのか、どちらかでしょう。杜本庄とも書かれていますが、杜は森の古字です。天理観光ガイド・天理市観光協会よりhttps://kanko-tenri.jp/town-name/morimoto/
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・八王子神社《主》八柱御子神
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻1 四時祭上 六月祭十二月准 月次祭
月次祭(つきなみのまつり)『広辞苑』(1983)
「古代から毎年陰暦六月・十二月の十一日に神祇官で行われた年中行事。伊勢神宮を初め三〇四座の祭神に幣帛を奉り、天皇の福祉と国家の静謐とを祈請した」
大社の神304座に幣帛を奉り 場所は198ヶ所と記しています
月次祭(つきなみのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
坐別に絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両・・・・云々
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻2「四時祭下」中の「相嘗祭神七十一座」
太祝詞神社(ふとのとのやしろ)二座 坐左京二条
絹(キヌ)4疋 絲(イト)2絇2両 綿6屯 調布7端3丈8尺 唐布2段2丈6尺 木綿3斤4両 鮑1斤4両 堅魚5斤4両 腊(きたい)〈干し肉〉8斤 凝海藻6斤 塩2升 海藻4斤 筥2合 瓼(サラケ)缶(モタイ) 水瓫(ホトギ)山都婆波 小都婆波 筥瓶 高盤片盤 短女杯筥杯小杯陶曰各4口 酒稲100束 神統
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻2 四時祭下 新嘗祭
新嘗祭(にいなめのまつり)は
「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくを意味する 収穫された新穀を神に奉り その恵みに感謝し 国家安泰 国民の繁栄を祈る祭り
大社の神304座で 月次祭(つきなみのまつり)に准じて行われる
春には祈年祭で豊作を祈り 秋には新嘗祭で収穫に感謝する
新嘗祭(にいなめのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
坐別に絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両・・・・云々
中臣祝詞(なかとみののりと)は 准に月次祭(つきなみのまつり)に
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
①太詔戸命神(大月次相嘗新嘗)(ふとのと の みこと の かみ)
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)京中 3座…大(預月次新嘗)3(うち預相嘗2)
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)左京二条坐神 2座(並大)
[旧 郡 名 ]
(神様の鎮座数)
[名神大 大 小] 式内大社
[旧 神社 名称 ] 太詔戸命神(大月次相嘗新嘗)
[ふ り が な ](ふとのと の みこと の かみ)
[Old Shrine name](WFutonoto no miko no kami)
【原文参照】
➁太祝詞神社(大月次新嘗)(ふとのとの かみのやしろ)
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和国 286座(大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)添上郡 37座(大9座・小28座)
[名神大 大 小] 式内大社
[旧 神社 名称 ] 太祝詞神社(大月次新嘗)
[ふ り が な ](ふとのとの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Futonoto no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社の太詔戸命神 (大 月次 相嘗 新嘗)(ふとのりとのみことのかみ)について
『奈良県史』第五巻 神社によれば
『延喜式』神名帳 京中坐祝三座の中の左京二条坐神社二座 太詔戸命神の頭注に、「本社大和国添上郡・対馬国県郡太祝詞神社」とあるのは、平安遷都に当たって、大和国の諸社が京中へ遷座の節、当社も京中へ移されたとみられる。と同時に、元々この神は対馬国の占部に祀る亀卜の神で、天平神護元年ごろ大和の添上郡へ勧請されたと考えられる。
日本古来の太占(ふとまに)〈鹿の骨を焼いて生じたヒビを見て占う〉とは異なる占いとして
対馬・壱岐では 太古 大陸経由で亀卜(きぼく)〈亀の甲羅を焼いて生じたヒビを見て占う〉さらには 卜筮(ぼくぜい)〈亀卜(きぼく)と筮竹(ぜいちく)の併用〉による卜(うらない)が行われました この時に「卜部(うらべ)」により 奏上された祝詞が「太祝詞」と云い この亀の霊を祀り「太祝詞神社」となったと伝わります
「朝廷の大事から民間の吉凶に至るまで苟(いやしく)も人事の及ばざるものは 一に卜筮に依り これを決断した」とされ
四つの国〈・對馬・壱岐・大和・伊豆〉の「卜部(うらべ)」は 大和朝廷では 神祇官の管理下に置かれ重んじられた祭祀氏族となり その亀卜(きぼく)は 大和朝廷の政治に大きな影響力を持つようになりました その後 やがて政治の中心となっていた中臣氏(藤原氏)に組み込まれていきました
ちなみに「くじ」という漢字は「鬮」〈意味は くじ/たたかいとる〉
太詔戸命神 (大 月次 相嘗 新嘗)(ふとのりとのみことのかみ)の論社について
・森神社(天理市)〈「大和國添上郡 太祝詞神社 大」の元宮とも云われます〉
森神社(もりじんじゃ)は 『延喜式神名帳927 AD.』所載の式内社 京中 左京二条坐神 太詔戸命神(ふとのとの みことの かみ)(大月次相嘗新嘗)の旧鎮座地とも 大和国 添上郡 太祝詞神社(大月次新嘗)(ふとのとの かみのやしろ)であるともされます
森神社(天理市森本町)
・太祝詞神社(対馬 加志)〈更にその元宮〉「對馬島 下県郡 太祝詞神社 名神大」
太祝詞神社(ふとのりとじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 名神大社で 大和朝廷にも大きな影響力があった対馬の卜部(ウラベ)の祖神(オヤガミ)である雷大臣命(イカツチオオオミノミコト)を祭神としています 鎮座地の加志(カシ)では 亀卜(キボク)が行われていたと云われ ご祭神の 雷大臣命の最後の住居趾であり 墳墓であるとも伝わります
太祝詞神社(対馬 加志)
対馬には 亀の甲羅を熱して占う 亀卜(キボク)の社があります
・雷神社(対馬 豆酘)
雷神社(いかづちじんじゃ)は 天下国家の吉凶を亀の甲羅を熱して占った「 亀卜(キボク)」を日本に伝えた〈対馬卜部(ウラベ)の祖〉雷大臣命(イカツオオオミノミコト)が御祭神です かつて大和朝廷では 757年『養老令』に「卜部20人」と定員が規定され 927年『延喜式』巻3「臨時祭 卜部 宮主の条」には その術者「卜部(ウラベ)」には 優秀な者を 伊豆5人 壱岐5人 対馬10人を採用すべし と記され 国家の「亀卜」は 対馬卜部が中心でした 神社では 旧歴 正月3日 サンゾーロー祭りがあり その年を卜います 亀卜が 現代まで続く唯一の神社です
雷神社(対馬 豆酘)亀の甲羅を熱して占う 亀卜(キボク)の社
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
近鉄奈良駅から約7km 県道754号を東へ R169号を南下した道沿い 車13分程度
入口は 境内の東側にあり 鳥居が建っています
森神社(天理市森本町)に参着
一礼をして 鳥居をくぐると 進行方向の右手 社殿は南を向きます 一段高い社地に 玉垣に囲まれて 御神木と社殿が建ちます
社殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿のすぐ前には 御神木 向かって左手には境内社の八王子神社があり お参りをします
社務所には 祭礼予定の張り紙があります
社殿 御神木に一礼をして 参道を戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
式内社 京中坐祝三座 左京二條坐神社二座 太詔戸命神 (大 月次 相嘗 新嘗)(ふとのりとのみことのかみ)について
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
左京二條太詔戸神は 本社和州添上郡、對州下縣郡、天兒屋命なり と記しています
【抜粋意訳】
太詔戸命神(ふとのりとのみことのかみ)
太祝詞は布斗能理斗と訓べし、・・・・・・・
〇頭注に、左京二條太詔戸神、本社和州添上郡、對州下縣郡、天兒屋命なり、
・・・・・類社
大和国 添上郡 太祝詞神社(大月次新嘗)
對馬島 下縣郡 太祝詞神社(名神大)神位・・・・・
連胤云
按るに、貞観元年の紀に依れば、左京職内に在す如く見ゆれど、職は拾芥抄に、朱雀東、姉小路北とあり、当社鎮座の地と異なり、こはただし左京職の管内といふばかりなるべし、職の字に泥むべからず、こは貞観元年の叙位に、左京職とあるより誤れるもの也、今は廃しい旧地去れずといへども、古事談等の文にて、大かた知られたること、前に云が如し、
【原文参照】
式内社 大和国 添上郡 太祝詞神社(大月次新嘗)(ふとのとの かみのやしろ)について
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
鎮座地は 不明と記しています
【抜粋意訳】
太祝詞神社 大月次新嘗
太祝詞は布登乃止と訓べし
○祭神 天児屋命、(頭注)○在所詳ならず
連胤云、当社はト庭神に坐て、崇敬他に異りといへども、左京二條に祭て後は、自然軽略になりて、終に在所も知れがたく成にけむ、
類社
京中左京二條坐神社の下見合すべし
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
祭日・社格・所在 については記入がなく不明
【抜粋意訳】
太祝詞(フトノリトノ)神社 大月次新嘗
祭神 天兒屋根(アメノコヤネノ)命
今按〈今考えるに〉
社伝 祭神不詳とあれとも日本書紀に使 天兒屋根(アメノコヤネノ)命 掌 其解除之 大諄辯(フトノリトコトヲ)而焉とみえ 兼俱本の式帳書入に天兒屋根命なりとあり 今も本社を春日社と云などによりて思うに兒屋根命にますこと明ならば 今は兼俱本の書入れに従いて記せり祭日
社格
所在
【原文参照】
『大和志料(Yamato shiryo)』〈大正3年(1914)〉に記される伝承
卜筮〈亀卜(きぼく)〉が 大陸〈古代中国(殷・周)〉から 壱岐・對馬の二島に伝わり その後 内地に伝わり 朝廷の大事から民間の吉凶に至るまで苟(いやしく)も人事の及ばざるものは 一に卜筮に依り これを決断した
従事する者を 卜部(うらべ)と称し その族 壱岐・對馬・大和・伊豆に分居し 官府に勤仕したと記しています
太祝詞(フトノリトノ)神社は 卜部等が亀霊を祭り 称したもので 延暦遷都の後 旧京の諸神を平安に遷すに及び 更に太祝詞社を左京二條に建つものであった 奈良の太祝詞社は 衰微して廃し 所在は不明だが 一説に奈良市東新在家町南側東角人家の後にありと云ふ と記しています
【抜粋意訳】
太祝詞(フトノリトノ)神社
延喜式神名帳に「太祝詞神社 大 月次新嘗」
新抄格勅符抄に「太祝詞命神一戸 大和国 天平神護元年」と見え、太祝詞命を祭る、太祝詞命は 卜巫を知る亀の霊なり、故に亀津比女とも称す、
当社の事は元要記曰・・・・・・・
・・・・・
太祝詞神社 本社在三国 壱岐島壱岐郡 大和国添上郡 對馬国上縣郡
今祭る卜部坊に櫛間智神社 母は鹿木神なり・・・・・・・・・
抑に 卜筮〈亀卜(きぼく)〉の我国に伝わるは、蓋し壱岐・對馬の二島に於てす。後これを内地に伝へ、朝廷の大事より民間の吉凶に至るまで苟(いやしく)も人事の及ばざるものは 一に卜筮に依り これを決断す。
故に当時 その勢力顔る盛にして、以て神人相通の一機関となせり、その之に従事する者を 卜部(うらべ)と称し、天兒屋根命の後と云ふ、その族 壱岐・對馬・大和・伊豆に分居し、時を以て出でて官府に勤仕し、これを四国卜部と謂う、而して 此輩 その居る所に於いて各主神を祭る。天香山の坂門社の当国に於ける、太祝詞社の對馬に於ける皆その類なり。然らば即ち当社は平城の朝に神祇官に奉仕せる 卜部等 亀霊を祭り太祝詞社と称せるものなり。
延暦遷都の後 旧京の諸神を平安に遷すに及び、更に太祝詞社を左京二條に建つ。延喜式神名帳に所謂 京中 左京二條坐 太祝詞命神にして、
亀相記に「本社在に 三国 今祭 卜部坊」と。即ち是なり。爾後 当社漸次衰微し、今巳廃し その址詳ならず、或いは奈良市東新在家町南側東角人家の後にありと云ふ。
【原文参照】
『奈良県史』第五巻 神社〈平成元年(1989)五月発行〉に記される伝承
太祝詞神社 大 月次新嘗
森本集落の北東、奈良市と桜井市を結ぶ街道の東沿いの森に鎮座する神社を今、森神社と称するが、『延喜式』神名帳の式内大社 太祝詞神社にあてられる有力候補の社である。
祭神 天児屋根命。寛五年(1665)の棟札に「祝太詔戸神社之上棟 祭神亀津姫命」の墨書や、「森恵家系譜」の寛永十五年(1638)の記事中に、「杜本邑太詔戸社北隣清水丘に館建立」とあることから、当社が添上郡太祝詞神社(大。月次、新嘗)の杜と考えられたとみられる。
創祀は明らかでないが、古いことは『新抄格勅符抄』によると、太詔詞神社は、天平神護元年(765)大和国内に神戸一戸をあてられていることでわかる。『延喜式』神名帳 京中坐祝三座の中の左京二条坐神社二座 太詔戸命神の頭注に、「本社大和国添上郡・対馬国県郡太祝詞神社」とあるのは、平安遷都に当たって、大和国の諸社が京中へ遷座の節、当社も京中へ移されたとみられる。と同時に、元々この神は対馬国の占部に祀る亀卜の神で、天平神護元年ごろ大和の添上郡へ勧請されたと考えられる。
現在 祭神は天児屋根命としているが、寛文五年の棟札に「祝太詔神社之上棟 祭神亀津姫命」とあるが(宮司家所蔵文書)、『釈日本紀』の「禹兆伝」を引用した「式内社調査報告」は、当社を占部氏の管掌する神社であったと推量されている。なお『坊目拙解』はこの式内社は奈良市新在家の社にあてている。
『奈良県史』第五巻 神社 著者 奈良県史編集委員会・編集 出版社 名著出版
森神社(天理市森本町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
大和国 式内社 286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)について に戻る
大和国(やまとのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 大和國の286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)の神社のことです
大和国 286座(大128座(並月次新嘗就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)
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『延喜式神名帳(engishiki jimmyocho)』は 延長5年(927年)に編纂された 当時の官社の一覧表です このページには 「京中」に鎮座する(3座…大(預月次新嘗)3(うち預相嘗2))神社の一覧表です 現在の論社を掲載しています
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