実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

物部布都神社跡(壱岐市郷ノ浦町田)

物部布都神社跡(もののべふつじんじゃ あと)は 延宝四年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で 式内社と比定された物部村に鎮座していた布都ノ宮〈物部布都神社の跡地です 昭和40年(1965)5月 天手長男神社に合祀されました

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

物部布都神社跡(Mononobe shrine Ruins)

通称名(Common name)

【鎮座地(Location)

(Google Map)

【御祭神(God's name to pray)】

現在天手長男神社合祀される祭神は
《合祀》物部布都神社 経津主神

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格(Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho927 AD.所載社の旧鎮座地

【創(Beginning of history)】

創建年代不詳

延宝四年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で 式内社とされて其の後火災にあって 石祠のままであった

【由(History)】

旧物部村 天手長比賣神社の末社だったが 明治維新 神社改制に際し無社格として独立

昭和四十年(一九六五)五月 次の記の五社が 天手長男神社に合祀(ごうし)された
天手長男神社  式内社(名神大)
天手長比売神社 式内社(名神大)
物部布都神社  式内社(名神大)
若宮神社
宝漓神社

【境内社(Other deities within the precincts)】

【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

・現在の合祀先 天手長男神社

・天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町)〈物部布都神社を合祀〉

一緒に読む
天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町)

天手長男神社(あまのたながおじんじゃ)は 鎌倉時代の元寇により荒廃し その後廃絶し 所在も不明となっていた天手長男神社を 延宝4年(1676)平戸藩主の命により藩の国学者 橘三喜が 現地の地名「たながお(たなかを)」から推定し比定したものです それ以前は 櫻江村 若宮と云って式外社で 天手長男神社の由緒を存するものではないとされていました

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則全50巻』〈平安時代中期朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)壱岐 24座(大7座・小17座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)石田郡 12座(大3座・小9座)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 物部布都神社
[ふ り が な ]もののへのふつの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Mononohe no Futsu no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

式内社 物部布都神社(貞)(もののへのふつの かみのやしろ)論社について

・物部布都神社跡(壱岐市郷ノ浦町田)〈旧鎮座地〉

一緒に読む
物部布都神社跡(壱岐市郷ノ浦町田)

物部布都神社跡(もののべふつじんじゃ あと)は 延宝四年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で 式内社と比定された物部村に鎮座していた布都ノ宮〈物部布都神社〉の跡地です 昭和40年(1965)5月 天手長男神社に合祀されました

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・天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町)〈物部布都神社を合祀〉

一緒に読む
天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町)

天手長男神社(あまのたながおじんじゃ)は 鎌倉時代の元寇により荒廃し その後廃絶し 所在も不明となっていた天手長男神社を 延宝4年(1676)平戸藩主の命により藩の国学者 橘三喜が 現地の地名「たながお(たなかを)」から推定し比定したものです それ以前は 櫻江村 若宮と云って式外社で 天手長男神社の由緒を存するものではないとされていました

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・國津神社(壱岐市郷ノ浦町)

一緒に読む
國津神社(壱岐市郷ノ浦町渡良浦)

國津神社(くにつじんじゃ)は 三つの式内社の論社〈『延喜式神名帳927 AD.』所載 壱岐嶋 石田郡・国津神社(くにつかみのやしろ)・津神社(つの かみのやしろ)・物部布都神社(もののへのふつの かみのやしろ)〉とされます 神功皇后が「異国退治して無事帰朝せれば この所の守護神と成る」との伝説があります

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『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載 「物部神社」の名称を持つ式内社の論社について

太古の大和朝廷では 物部氏は 神道を奉じ軍事を司る氏族として「八十物部(やそのもののべ)」と云われ 絶大な勢力を保持していました
その後 神道を奉じる物部氏の宗家〈物部守屋大連〉は 仏教を信奉する蘇我氏〈蘇我馬子 大臣〉と戦い敗れ〈用命天皇2年(587)〉 物部氏は徐々に衰退をして行く事になります

『延喜式(Engishiki)』(927年12月編纂)の時代となっても かつての物部氏の勢力の大きさを示すように 広範囲に物部の神社は分布しています

東海道

「伊勢國 飯高郡 物部神社」 

・伊勢寺神社(松阪市伊勢寺町)〈合祀〉 

  

「伊勢國 壹志郡 物部神社」 

・物部神社(津市新家町)〈山辺の行宮〉 

  

「尾張國 春日部郡 物部神社」 

・味美白山神社(春日井市二子町)〈合祀〉 

 

・味美二子山古墳(春日井市二子町)〈旧鎮座地〉  

 

・諸大明神社(春日井市松本町) 

 

・八所神社(豊山町豊場木戸) 

 

「尾張國 愛智郡 物部神社」 

・物部神社(名古屋市東区筒井) 

 

・御器所八幡宮(名古屋市昭和区) 

 

「甲斐國 山梨郡 物部神社」 

・物部神社(笛吹市石和町) 

 

・御室山〈大蔵経寺山〉(笛吹市春日居町)〈旧鎮座地〉 

 

・大石神社(山梨市西) 

 

・大石神社(甲州市塩山赤尾) 

 

・白山建岡神社(山梨市上栗原) 

 

「武蔵國 入間郡 物部天神社」 

・北野天神社(所沢市小手指元町)  

一緒に読む
北野天神社(所沢市小手指元町)〈正式名称゛物部天神社 國渭地祇神社 天満天神社゛〉

北野天神社(きたのてんじんしゃ)は 三社を合殿に祀る総称で 正式名称は゛物部天神社・國渭地祇神社・天満天神社゛です 元々は 日本武尊が祀ったと伝わる入間郡の式内社 物部天神社とされ さらに国渭地祇神社を(一説には出雲祝神社も)合祀すると云う 長徳元年(995)京都より北野天神を勧請し 坂東第一北野天神と称しました

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東山道

「美濃國 厚見郡 物部神社」 

・伊奈波神社(岐阜市伊奈波通) 

 

・伊奈波神社 旧跡(岐阜市赤ケ洞) 

 

・岩戸八幡神社(岐阜市長森岩戸) 

 

・岩戸神社(岐阜市長森岩戸)〈参考論社〉 

 

北陸道

「越中國 射水郡 物部神社」 

・物部神社(高岡市東海老坂) 

 

「越後國 頸城郡 物部神社」 

・物部神社(上越市清里区) 

一緒に読む
物部神社(上越市清里区南田中)〈延喜式内社 物部神社(もののへの かみのやしろ)〉

物部神社(もののべじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の式内社「越後國 頸城郡 物部神社」です かつては 武士(もののふ)村に鎮座し 山王権現〈日吉神〉と呼ばれていました その後 田中村新田に遷座 昭和46年4月 圃場整備事業のため現在地〈南田中〉に遷座しました

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「越後國 三嶋郡 物部神社」 

・二田物部神社(柏崎市西山町) 

 

「佐渡國 雑太郡 物部神社」 

・物部神社(佐渡市小倉) 

 

山陰道

「丹後國 與謝郡 物部神社」 

・物部神社(与謝野町石川) 

一緒に読む
物部神社(与謝野町石川物部)

物部神社(もののべじんじゃ)は 創建年代は不祥ですが 延喜式内社 丹後國 與謝郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)とされます 『朝野群載』承暦四年(1080)には 御卜〈天皇の身体を亀甲で卜い 卜兆に現れたところを奏上する儀式〉にて゛丹後國 物部神の神祟あるを以て社司に中祓を科す゛と記されていますので 神威ある神社であることは確かです

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「但馬國 城崎郡 物部神社」 

・韓國神社(豊岡市城崎町) 

 

「石見國 安濃郡 物部神社」 

・物部神社(大田市)石見国一之宮 

一緒に読む
物部神社(大田市)〈延喜式内社・石見國一之宮〉

物部神社(もののべじんじゃ)は 大和朝廷が出雲の勢力を牽制するために 御祭神の宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)が 大和の地から物部氏の一族をひきいて尾張・美濃・越国を平定され さらに播磨・丹波を経て石見国に入り この地に宮居を築かれ 祖神として祀られたものと伝わります

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山陽道

「播磨國 明石郡 物部神社」 

・可美真手命神社(押部谷町細田) 

 

・惣社(神戸市西区伊川谷町) 

 

西海道

「壱岐島 石田郡 物部布都神社」 

・物部布都神社跡(壱岐市郷ノ浦町田)〈旧鎮座地〉 

一緒に読む
物部布都神社跡(壱岐市郷ノ浦町田)

物部布都神社跡(もののべふつじんじゃ あと)は 延宝四年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で 式内社と比定された物部村に鎮座していた布都ノ宮〈物部布都神社〉の跡地です 昭和40年(1965)5月 天手長男神社に合祀されました

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・天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町)〈物部布都神社を合祀〉 

一緒に読む
天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町)

天手長男神社(あまのたながおじんじゃ)は 鎌倉時代の元寇により荒廃し その後廃絶し 所在も不明となっていた天手長男神社を 延宝4年(1676)平戸藩主の命により藩の国学者 橘三喜が 現地の地名「たながお(たなかを)」から推定し比定したものです それ以前は 櫻江村 若宮と云って式外社で 天手長男神社の由緒を存するものではないとされていました

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・國津神社(壱岐市郷ノ浦町) 

一緒に読む
國津神社(壱岐市郷ノ浦町渡良浦)

國津神社(くにつじんじゃ)は 三つの式内社の論社〈『延喜式神名帳927 AD.』所載 壱岐嶋 石田郡・国津神社(くにつかみのやしろ)・津神社(つの かみのやしろ)・物部布都神社(もののへのふつの かみのやしろ)〉とされます 神功皇后が「異国退治して無事帰朝せれば この所の守護神と成る」との伝説があります

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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

天手長男神社天手長比賣神社南西方向徒歩15分ほど

現在は跡は見当たらず 住宅地になっています

物部布都神社跡(壱岐市郷ノ浦町田)に参着

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

式内社物部布都神社の所在は 物部村〈現 物部布都神社跡(壱岐市郷ノ浦町田)〉と記しています

【抜粋意訳】

物部布都(モノノヘノフツノ)神社

和抄 物部
〇今 物部村あり

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

『壱岐名勝図誌』〈文久元年(1861)に完成〉に記される伝承

巻16 物部村之部 物部布都神社は延宝四年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で 式内社とされたものだが 本来の式内社 物部布都神社は國津神社(壱岐市郷ノ浦町)だとの説を記しています

【抜粋意訳】

巻16 物部村之部 物部布都神社 在 大屋

祭神 布都主神なり

・・・・
・・・・

風土記云 当社は 神名壱岐島石田郡物部布都神社と所載あり 中葉久しく社号をうしなひて者なりしに
延宝年中 此所に再興なりて 石祠木鏡等 国司より奉納せられしより以来 人崇敬し奉る也

いさをしいは大屋の里にまつれる 布つに窟居の神をしらむ 三喜 英正按 旧事記に芹田物部布都留物部あり 是を以てみるに芹田の上に鎮座ませて芹田物部をまつる社とも 又 布都留物部を祭る社ともいふ へれども物部布都の四字連続すれは物部氏 当国の守 及 郡司を補佐せしなりし事ありて 其の物部布都久留大連とまつれるにやいふよし 以上
神社考云 物部村大屋の野中に所祭の神元に石祠木鏡を哭置して 物部布都神社と新勧請を 此は是 物部云々と称されたは 物部村に有べきと見たり故之 右に所謂 物部郷三か村同郷にして 渡良村 蓬の宮(ふつのみや) 則式内の物部布都神社なる事と考へをして 国津神社とせり云々 国津神社の部を見合はへるなり

【原文参照】

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社の物部布都神社について 物部村〈現 郷ノ浦町田中触〉に鎮座している 現在 天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町)に合祀されている天手長比神社末社物部布都神社を論社として 記しています

【抜粋意訳】

物部布都神社

物部は毛乃々倍と訓べし 和名鈔 物部、布都は假字
〇祭神 師霊歟
物部村 元名 深江村と云う に在す、今 布都神社

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社物部布都神社の所在は 渡浦村 蓬の宮(ふつのみや)〈現 國津神社(壱岐市郷ノ浦町)〉と記しています

【抜粋意訳】

物部布都(モノベフツノ)神社

今 物部郷 渡浦村に在り 蓬の宮(ふつのみや)と云う
蓋 建御雷之男神 亦名 建布都神を祀る

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 物部布都神社所在を物部邑とした 延宝四年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉には 疑問があり

論社としては 有力な別説があり 次の通り
物部布都神社は 渡良村〈現 國津神社(壱岐市郷ノ浦町)

【抜粋意訳】

物部布都神社

祭神 布都主命

祭日 九月十六日

所在
今按〈今考えるに〉
明細帳式内社記に物部邑とあれど 神社考に此村 大屋の野中の辻に社もなかりしを 延寶の時〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉石社木鏡を安置しし 新たに勧請し 布都神社と定めたるは 古に所謂 物部郷は物部武水水渡浦三邑にて 渡浦村 蓮宮則式内の物部布都神社なる事を考へず偏るに 当社は物部邑にあるべき社と見たる故也と見え 式社沿革考に壱岐24座記 承應社記 吉野公光記 神社考 式社略考の五書にも 物部布都神社は 渡良村と待しは 此渡良村を国津神社と云は 社号の混乱なりと云るに従いて この所在を定むべきなり

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

『壱岐国神社誌』(Ikinokuni jinjashi)〈昭和16年(1941)〉』に記される伝承

当社は 延宝四年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で 式内社とされて火災にあって 石祠のままであった

旧物部村 天手長比賣神社の末社だったが 明治維新 神社改制に際し無社格として独立した と記しています

【抜粋意訳】

柳田村ノ部 無社格 物部布都神社 (旧号 布都ノ宮)

鎮座地柳田物部田中觸字古城
祭 神 経津主神
例祭日 十一月二十二日 大神楽奏奏
境内地 160坪

[由緒沿革]
当社は 延喜式内社にして 嵯峨天皇弘仁二年の草創たり
文徳天皇 仁壽元年正月 正六位上に叙せられ給い 以降 神階を進められ給ふ事 式内小社の例に依れるを以て玄に略す

[旧事記]に云
磐余彦尊欲馭ニ天下、興師東征 長髄彦(ながすねひこ)勒 兵拒之、干時 宇摩志麻遅命(うましまぢのみこと)従 舅謀 誅殺 很戻師 衆基準之、時天孫嘉ニ其忠節、授以ニ神剱、答ニ其大勲ニ凡厥 神剱 韴霊劔刀(ふつみたまのつるぎ)、亦名 布都主神魂刀(ふつぬしかみのたまつるぎ)、亦云ニ 佐士布都(さしふつ) 又云ニ 富布都神(ふふつのかみ)是なり

今按ずるに 宇摩志麻遅命は 物部の上祖なり。
故に号して 物部布都神社と謂うならん。

当社は 旧物部村 天手長比賣神社の末社なりしを 明治維新 神社改制に際し無社格として独立せり。本社を離れる百五十間。

延宝以後 社殿炎上し 後久しく石祠あるのみなりしを、大正十一年四月十六日 現在の社殿を造営し 久しく本社に假鎮座まし、御鏡(延宝四年六月朔日 国主 松浦鎮信公より奉献せられたる)を右 布都神社に還し奉れり。

石禿倉ノ銘に曰、
物部布都神社 所載ニ延喜式 壹州廿四社其一也、今存名而巳、因 茲 国主鎮信公命、遣両使 瀧川彌一右衛門時盛村松伊織正供再建立焉
延寶四年六月丙辰朔日 橘三喜板誌とあり。

【原文参照】

『壱岐国神社誌』国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1035221出版昭和16年(1941)著者 長崎県神職会壱岐支会 編 出版者 長崎県神職会壱岐支会

物部布都神社跡(壱岐市郷ノ浦町田)に (hai)」(90度のお辞儀)

壹岐嶋 式内社 24座(大7座・小17座)について に戻る 

一緒に読む
壹岐嶋 式内社 24座(大7座・小17座)について

壱岐島(いきのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 壹岐嶋 24座(大7座・小17座)の神社です

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8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています