物部神社(もののべじんじゃ)は 創建年代は不祥ですが 延喜式内社 丹後國 與謝郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)とされます 『朝野群載』承暦四年(1080)には 〈天皇の身体を亀甲で卜い 卜兆に現れたところを奏上する儀式〉御卜にて゛丹後國 物部神の神祟あるを以て社司に中祓を科す゛と記されていますので 神威ある神社であることは確かです
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
物部神社(Mononobe shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
京都府与謝郡与謝野町石川物部2013
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》宇摩志麻遅命(うましまぢのみこと)
一説に〈蘇我石川宿祢命(そがいしかわすくねのみこと)〉
※神道を奉じる物部氏の宗家〈物部守屋大連〉は 仏教を信奉する蘇我氏〈蘇我馬子 大臣〉と戦い敗れ〈用命天皇2年(587)〉 物部氏は徐々に衰退をして行く事になります
この蘇我氏およびその同族の伝説上の祖が 蘇我石川宿祢命
どのような説で 物部神社の祭神となっているのだろか
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
創建年代不詳
〈延喜式(927年)より以前〉
(式内)物部神社(もののべじんじゃ)
この社(やしろ)は、平安時代の始め(西暦九〇〇年頃)醍醐(だいご)天皇の命によってつくられた延喜式神名帳(えんきせしきしんめいちょう)に登録されている由緒ある式内神社であります。
神殿は江戸中期(一七三〇~一七四〇)に造営されたといわれているもので、その型式は権現造(ごんげんつくり)向拝付(こうはいつき)で欅材(けやきざい)でつられており、屋根は榑葺(くれふき)の建物です。
「祭神」は「宇麻志麻遅命 うましまぢのみこと(一説に蘇我石川宿祢命 そがいしかわすくねのみこと)」、「ご神体」は「神鏡 しんきょう」です。
「神像 しんそう」は左大臣(さだいじん)、右大臣(うだいじん)の木造坐像と記されていますが 現存していません。神殿正面の「物部大明神 もののべだいみょうじん」の額は天明五年(一七八五)日野資枝の筆によるもので、元は鳥居にあがっていたものです。
参道の鳥居(横3.7メートル×高4.3メートル)は文化一〇年(一八一四)に建立されたものであり、掲げてある扁額「物部社」は「正二位 清原宣光公」の落款のある書と記されています。
祭事は毎年四月二十五日、石川区合同の祭礼が行われ 当社より神楽・獅子舞・太刀振り・笹噺踊の行列が宮司・神社総代・区役員を先頭にして 上・中・下地の区屋台とともに大宮神社まで巡行します。
尚、当社では秋に「社日(しゃにち)祭」を行い農作物の豊じょうを感謝します。
現地由緒書きより
【由 緒 (History)】
物部神社
石川村 小字 物部谷鎮座、村社 祭神 石川宿禰命、
延喜式神名帳所載の神社にて 朝野群載に承暦六年 御卜に物部神の神祟あるを以て社司に中祓を科す旨あり、
田敷帳物部神神田四反七十八歩 別当社僧 石川山神宮寺普門院累代奉仕し 霊代聖観音像 今同院に遺存す、
明治六年豊岡縣より村社に列せられ 祭典九月九日 氏子二百二十戸を有す。
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)丹後国 65座(大7座・小58座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)與謝郡 20座(大3座・小17座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 物部神社
[ふ り が な ](もののへの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Mononohe no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載 「物部神社」の名称を持つ式内社について
物部氏は 太古の大和朝廷では 神道を奉じ軍事を司る氏族として「八十物部(やそのもののべ)」と云われ 絶大な勢力を保持していました
その後 神道を奉じる物部氏の宗家〈物部守屋大連〉は 仏教を信奉する蘇我氏〈蘇我馬子 大臣〉と戦い敗れ〈用命天皇2年(587)〉 物部氏は徐々に衰退をして行く事になります
『延喜式(Engishiki)』(927年12月編纂)の時代となっても かつての物部氏の勢力の大きさを示すように 広範囲に物部の神社は分布しています
各々の式内社〈物部神社〉の論社について
東海道
「伊勢國 飯高郡 物部神社」
・伊勢寺神社(松阪市伊勢寺町)〈合祀〉
「伊勢國 壹志郡 物部神社」
・物部神社(津市新家町)〈山辺の行宮〉
「尾張國 春日部郡 物部神社」
・味美白山神社(春日井市二子町)〈合祀〉
・味美二子山古墳(春日井市二子町)〈旧鎮座地〉
・諸大明神社(春日井市松本町)
・八所神社(豊山町豊場木戸)
「尾張國 愛智郡 物部神社」
・物部神社(名古屋市東区筒井)
・御器所八幡宮(名古屋市昭和区)
「甲斐國 山梨郡 物部神社」
・物部神社(笛吹市石和町)
・御室山〈大蔵経寺山〉(笛吹市春日居町)〈旧鎮座地〉
・大石神社(山梨市西)
・大石神社(甲州市塩山赤尾)
・白山建岡神社(山梨市上栗原)
「武蔵國 入間郡 物部天神社」
・北野天神社(所沢市小手指元町)
北野天神社(きたのてんじんしゃ)は 三社を合殿に祀る総称で 正式名称は゛物部天神社・國渭地祇神社・天満天神社゛です 元々は 日本武尊が祀ったと伝わる入間郡の式内社 物部天神社とされ さらに国渭地祇神社を(一説には出雲祝神社も)合祀すると云う 長徳元年(995)京都より北野天神を勧請し 坂東第一北野天神と称しました
北野天神社(所沢市小手指元町)〈正式名称゛物部天神社 國渭地祇神社 天満天神社゛〉
東山道
「美濃國 厚見郡 物部神社」
・伊奈波神社(岐阜市伊奈波通)
・伊奈波神社 旧跡(岐阜市赤ケ洞)
・岩戸八幡神社(岐阜市長森岩戸)
・岩戸神社(岐阜市長森岩戸)〈参考論社〉
北陸道
「越中國 射水郡 物部神社」
・物部神社(高岡市東海老坂)
「越後國 頸城郡 物部神社」
・物部神社(上越市清里区)
物部神社(もののべじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の式内社「越後國 頸城郡 物部神社」です かつては 武士(もののふ)村に鎮座し 山王権現〈日吉神〉と呼ばれていました その後 田中村新田に遷座 昭和46年4月 圃場整備事業のため現在地〈南田中〉に遷座しました
物部神社(上越市清里区南田中)〈延喜式内社 物部神社(もののへの かみのやしろ)〉
「越後國 三嶋郡 物部神社」
・二田物部神社(柏崎市西山町)
「佐渡國 雑太郡 物部神社」
・物部神社(佐渡市小倉)
山陰道
「丹後國 與謝郡 物部神社」
・物部神社(与謝野町石川)
物部神社(もののべじんじゃ)は 創建年代は不祥ですが 延喜式内社 丹後國 與謝郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)とされます 『朝野群載』承暦四年(1080)には 御卜〈天皇の身体を亀甲で卜い 卜兆に現れたところを奏上する儀式〉にて゛丹後國 物部神の神祟あるを以て社司に中祓を科す゛と記されていますので 神威ある神社であることは確かです
物部神社(与謝野町石川物部)
「但馬國 城崎郡 物部神社」
・韓國神社(豊岡市城崎町)
「石見國 安濃郡 物部神社」
・物部神社(大田市)石見国一之宮
物部神社(もののべじんじゃ)は 大和朝廷が出雲の勢力を牽制するために 御祭神の宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)が 大和の地から物部氏の一族をひきいて尾張・美濃・越国を平定され さらに播磨・丹波を経て石見国に入り この地に宮居を築かれ 祖神として祀られたものと伝わります
物部神社(大田市)〈延喜式内社・石見國一之宮〉
山陽道
「播磨國 明石郡 物部神社」
・可美真手命神社(押部谷町細田)
・惣社(神戸市西区伊川谷町)
西海道
「壱岐島 石田郡 物部布都神社」
・物部布都神社跡(壱岐市郷ノ浦町田)〈旧鎮座地〉
物部布都神社跡(もののべふつじんじゃ あと)は 延宝四年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で 式内社と比定された物部村に鎮座していた布都ノ宮〈物部布都神社〉の跡地です 昭和40年(1965)5月 天手長男神社に合祀されました
物部布都神社跡(壱岐市郷ノ浦町田)
・天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町)〈物部布都神社を合祀〉
天手長男神社(あまのたながおじんじゃ)は 鎌倉時代の元寇により荒廃し その後廃絶し 所在も不明となっていた天手長男神社を 延宝4年(1676)平戸藩主の命により藩の国学者 橘三喜が 現地の地名「たながお(たなかを)」から推定し比定したものです それ以前は 櫻江村 若宮と云って式外社で 天手長男神社の由緒を存するものではないとされていました
天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町)
・國津神社(壱岐市郷ノ浦町)
國津神社(くにつじんじゃ)は 三つの式内社の論社〈『延喜式神名帳927 AD.』所載 壱岐嶋 石田郡・国津神社(くにつかみのやしろ)・津神社(つの かみのやしろ)・物部布都神社(もののへのふつの かみのやしろ)〉とされます 神功皇后が「異国退治して無事帰朝せれば この所の守護神と成る」との伝説があります
國津神社(壱岐市郷ノ浦町渡良浦)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
京都丹後鉄道 与謝野駅から東南方向へ約1.9km 車5分程度
府道613号で 野田川を渡り 続いて香河川を渡ると R176号との交差点があり そのまま直進すると旧道に突き当たる これを左折すると 右手に参道入り口の鳥居が見えてきます
社頭には駐車スペースはあります
石段に覆いかぶさるように古木があり 古社の様相を示しています
建屋があり 中を覗くと 手水鉢があり 手水舎でした 清めます
石段の前には 獣除けのバリケード柵と扉があり 開け閉めを行いながら参拝します
物部神社(与謝野町石川)に参着
獣除けの扉には シカ・イノシシの侵入を防ぐとあり 熊と書かれていないので 扉を開け閉めて 石段をあがります
長い石段を上がると 踊り場があり もう一度 石段があります
境内は 二段になっていて 石垣が積まれた上壇に社殿が鎮座します
下壇には 土俵だろうか 祭祀場だろうか 中央に土の盛られた場所があります 石灯籠と 百度参りの゛百度碑゛があります
拝殿にすすみます
上壇に上がる石段の手前には 狛犬が座します
石段を上壇にすすみます
拝殿はなく 幣殿が拝所のようになっていて 本殿は覆屋の中に在ります
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
本殿のすぐ手前に置かれていた これは何でしょうか
仏教で云う゛木魚゛のようなものでしょうか?
使い方がわからなかったので 触れませんでした
扁額は 説明書きによると
゛神殿正面の「物部大明神 もののべだいみょうじん」の額は天明五年(一七八五)日野資枝の筆によるもので、元は鳥居にあがっていたものです゛
社殿の周囲には 玉垣が廻されていて 奥は山となっています
玉垣の内には 神田の寄進の碑が建っています
社殿に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 物部神社について 大水口宿禰(おおみなくちのすくね)に関係するのではないかと考察しています
大水口宿禰は
・『先代旧事本紀』「天孫本紀」や「物部」系図では出石心大臣命(いずしこころのおおおみのみこと 饒速日尊三世孫)と新河小楯姫の子と記され
・『新撰姓氏録』の「左京神別 天神 穂積臣」条では 伊香賀色雄(伊我男命)と新河小楯姫命の子 神饒速日命の六世孫と伝える
同書では伊香色雄命(伊香賀色雄)は 饒速日尊六世孫とする
【抜粋意訳】
物部(モノノヘノ)神社
〇宇麻志麻治命
「旧事紀」物部呉足尼連公依羅連祖 續紀 宝亀七年閏八月 丹後国 與謝郡 人米女部乃自女一産三男
〇按 米女朝臣 大水口宿祢之後 物部同祖也
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 物部神社について 所在は石川村〈現 物部神社(与謝野町石川)〉と記しています
【抜粋意訳】
物部神社
物部は毛乃乃倍と訓べし、和名抄、郷名部 物部
〇祭神 宇摩志麻治命
〇石川村に在す 舊事記
類社 伊勢國 飯高郡 物部神社の條見合すべし
雑事 朝野群載云、承暦四年六月十日、秦亀卜 御體御卜、中略 坐 丹波國 物部神云々、社司等依過穢神事祟給、遣使科 中祓可 令祓清奉仕事、下略 宮主正六位上行少祐 卜部宿祢兼宗、中臣従六位下行大祐 大中臣朝臣惟維、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 物部神社について 所在は石川村〈現 物部神社(与謝野町石川)〉
物部大明神と呼ばれている と記しています
承暦四年(1080)に 御卜〈天皇の身体を亀甲で卜い 卜兆に現れたところを奏上する儀式〉にて 物部神の神祟あるを以て社司に中祓を科す とも記しています
【抜粋意訳】
物部(モノノベノ)神社
今 石川村にあり、物部大明神といふ、
蓋 物部連の祖神を祭る
白河天皇 承暦四年六月 御卜に、物部神の神祟あるを以て社司に中祓を科す
伏見天皇 正慶元年 物部郷の神田凡四段七十八歩ありき
凡 九月九日を例祭とす
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 物部神社について 所在は石川村〈現 物部神社(与謝野町石川)〉
と記しています
【抜粋意訳】
物部(モノノベノ)神社
祭神 宇麻志摩遅(ウマシマジノ)命
祭日 九月九日
社格 村社
所在 石川村 字物部(與謝訓石川村大字石川)
【原文参照】
物部神社(与謝野町石川)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
丹後国 式内社 65座(大7座・小58座)について に戻る
丹後国(たんごのくに)の式内社とは 平安時代中期 「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧『延喜式神名帳』〈927年朝廷編纂『延喜式』(律令の施行細則 全50巻)の巻9・10を云う〉に所載される 丹後国65座(大7座・小58座)の神を云います
丹後国 式内社 65座(大7座・小58座)について