賣沼神社(めぬまじんじゃ)は 『延喜式神名帳927 AD.』所載の因幡国 八上郡「賣沼神社(ひめぬの かみのやしろ)」とされます 創建は神代に遡り 神話の舞台でもあります『古事記』大国主の稻羽之素菟(いなばのしろうさぎ)の段で登場する゛稻羽(いなば)の八上比売(やがみひめ)゛を神に祀ります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
賣沼神社(Menuma shrine)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
鳥取県鳥取市河原町曳田169
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》八上比賣神(やかみひめのかみ)
明治元年(1868)8月 曳田村 鎮座の4社を合祀
《合》伊弉冊尊(いざなみのみこと)〈村内 原山鎮座 熊野神社〉
《合》保食神(うけもちのかみ)〈村内 上土居鎮座 稲荷神社〉
《合》建御名方神(たけみなかたのかみ)〈村内 引野山鎮座 諏訪神社〉
《合》高龗神(たかおかみのかみ)〈村内 下土居鎮座 貴布禰神社〉
《合》闇龗神(くらおかみのかみ)〈村内 下土居鎮座 貴布禰神社〉
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・縁結び 安産祈願
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
式内社 賣沼神社(めぬまじんじゃ)
一、祭神(さいじん)八上姫命(やかみひめのみこと)
由緒「延喜式神名帳(えんぎしきじんめいちょう)」に「八上郡(やかみごおり)賣沼神社(めぬまじんじゃ)」 とある神社でありまして、中世より「西 日天王(にしびてんのう)」といっておりましたが、元禄年間(げんろくねんかん)よりもとの賣沼神社(めぬまじんじゃ)という名にかはりました。御祭神(ごさいじん)は「八上姫神(やかみひめのかみ)」でありまして御祭日(おまつりび)は十月一日を大祭(たいさい)としております
「古事記」の伝えるところによると、出雲国(いずものくに)の大国主神(おおくにぬしのかみ)は八上姫神(やかみひめのかみ)をオキサキになさろうとしてこの因幡国(いなばのくに)にお出になりました。途中で白兎(しろうさぎ)の難をお救いになりまして、この白兎神(しろうさぎのかみ)の仲介(なかだち)で八上姫神(やかみひめ)と首尾(しゅび)よく御結婚になりました。この神話伝説は漂着した外地(がいち)の舟人たちが千代川(せんだいがわ)をさかのぼって、まずこの曳田郷(ひけたのさと)をひらいたことに間違はありません。対岸山麓(たいがんさんろく)の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)を神跡(しんせき)とするのも決して単なることとは云えないようであります。現地案内板より
【由 緒 (History)】
売沼神社(めぬまじんじゃ)
「延喜式神名帳」(927年)に、八上郡「売沼(ひめの)神社」と記されているのが、現在の「売沼(めぬま)神社」です。
祭神は「稲羽八上比売命(いなばやかみひめのみこと)」で、明治元年には、イザナミノミコト、ウケモチノカミ、タケミナカタノカミ、タカオカミ、クラオカミの5神が合祀されました。
元禄年間(1688年から1704年)に「西の天王」から「式内社売沼(ひめの)神社」と復称し、寛政6年(1794年)9月に社殿を再建。社伝の記録には、「八上姫神社」拝殿扁額には「稲羽八上姫命神社(いなばやかみひめのみこと)」とありますが、今日では、一般に「売沼(めぬま)神社」と呼ばれています。鳥取市役所公式HPよりhttps://www.city.tottori.lg.jp/www/contents/1098207288984/index.html
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・熊野神社〈本殿向かって右に鎮座〉
・稲荷神社〈本殿向かって左に鎮座〉
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
・嶽古墳(だけこふん)〈賣沼神社 旧 鎮座地〉
八上姫の御陵〈古墳〉とされる
曳田川(ひけたがわ)の対岸にある梁瀬山(やなせやま)の中腹〈写真の右手〉
烏取市指定史跡
指定 昭和55年10月1日
所在地 鳥取市河原町曳田156番地嶽(だけ)古墳
嶽古墳は 前方正面にそびえる梁瀬山(やなせやま)の先端尾根に築造された前方後円墳で、全長50m、後円部直径25.8m、前方部24.2m、前方部の幅19m、くびれ歪部分は幅15.6m、高さは後円部4m、前方部3mを測る。
封土は少ない。この地方では、八上姫(やかみひめ)の古墳 もしくは八上姫を中心とする地方豪族の古墳であると言い伝えられている。
平成19年10月 烏取市教育姜員会八上姫公園の案内板より
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)因幡国 50座(大1座・小49座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)八上郡 19座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 賣沼神社
[ふ り が な ](ひめぬの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Himenu no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
稻羽(いなば)の八上比売(やがみひめ)の伝承地
『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』に記されている 八上比売(やがみひめ)と大穴牟遅神(おほなむじのかみ)〈大国主神〉の 神代からの恋物語にちなんだ地名や場所の伝承が今も残っています
・「袋河原」大穴牟遅神が 贈り物を詰めた袋を捨てた千代川の河原
・「布袋」「荒御崎神社」のある地名
・「円通寺」〈縁通路〉八上比売と大穴牟遅神の2柱の縁が通じたとする由来
・「倭文神社」大穴牟遅神が 恋文を書いたところ
・倭文神社(鳥取県鳥取市)
河原町:布袋(ほてい)・袋河原(ふくろがわら)/鳥取市:倭文(しとり)・円通寺(えんつうじ)
鳥取市から河原町にはいると、「布袋」「袋河原」と言う地名があります。古に、大国主命が曳田の八上姫にかよわれた時、重い袋をここに置かれたというので「袋河原」、その袋は布の袋であったろうということで「布袋」と名づけられたのではないでしょうか。さらに、恋文を書いたところが「倭文」(鳥取市)。現在の「円通寺」(鳥取市)という地名は、2人が縁を通じた「縁通路」に由来するとか。
鳥取市役所公式HPよりhttps://www.city.tottori.lg.jp/www/contents/1098207288984/index.html
・「嶽(だけ)古墳」八上姫の御陵〈古墳〉とされ 賣沼神社 旧 鎮座地
簗瀬山に築造 前方後円墳(全長50m、幅19m、高さ4m)
”時の架け橋” 大国主神(おほくにぬしのかみ)
『古事記』に登場する神話の舞台 をみる
大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう
”時の架け橋” 大国主神(おほくにぬしのかみ)『古事記』に登場する神話の舞台
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
鳥取自動車道「河原IC」もしくは「道の駅 清流茶屋かわはら」から約2.7km 車6分程度
千代川の対岸の西岸へと渡り 県道195を南下して 曳田川(ひけたがわ)沿いに鎮座します
手水舎があり 清めます
神社の直ぐ南脇を曳田川が流れています
賣沼神社(鳥取市河原町)に参着
一礼をして 鳥居をくぐります
正面の一段高い檀に社殿が建ち 参道の左手は曳田川 境内は右手に広がっていて 神饌殿でしょうか 一つ建っています
社殿の建つ檀までは 10段程の石段を上がります
拝殿にすすみます
拝殿の前に置かれている 狛犬は 小さく愛嬌がたっぷりです
拝殿の扁額には「稲羽八上姫命 賣沼神社」(いなばやかみひめのみこと)と記されています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 幣殿 本殿が鎮座します
本殿の両脇には 境内社が祀られています
社殿に一礼をして 参道を戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』 に記される伝承
【抜粋意訳】
稻羽之素菟(いなばのしろうさぎ)と稻羽(いなば)の八上比売(やがみひめ)
この大国主神(おおくにぬしのかみ)の兄弟(あにおとうと)には 八十神(やそがみ)〈沢山の神〉が 坐(ましま)した
しかし その八十神(やそがみ)は皆 大国主神(おおくにぬしのかみ)に国を譲ってしまいました
その理由は 八十神(やそがみ)は 稻羽(いなば)の八上比売(やがみひめ)に求婚したくて欲していて おのおのが 皆で一緒に 因幡(いなば)に行きました
この時 大穴牟遅神(おほなむじのかみ)に袋を負わせ 従者として連れて行きました気多之前(けたのさき)に至った時に 裸(あかはだか)の兎(うさぎ)が伏しておりました
八十神(やそがみ)が その兎(うさぎ)に云うには
「傷を治すには 海水を浴び 風に当たり 高山の尾上(おのえ)に伏しているとよい」
それで兎(うさぎ)は 八十神(やそがみ)の教えのとおり 伏していましたところが その海水の乾(かわ)くままに その身の皮が 悉(ことごと)く風に吹かれてひび割れ 痛んで泣き伏しておりました
すると最後に来た大穴牟遅神(おほなむじのかみ)が その兎(うさぎ)を見て「なんで 泣き伏しているのですか」とお尋ねになつた
兎が申しますには
「わたくしは 淤岐嶋(おきのしま)にいて この国に渡りたいと思いましたが 渡る方法がございませんでした
そこで 海の和邇(わに)を欺あざむいて言いました「わたしとあなたと どちらの同族が多いか競(くらべ)て見ましょう
あなたは一族を悉(ことごと)く連れて来て この島から気多前(けたのさき)まで 皆 列伏(ならびふし)てください
わたしは その上を蹈んで走り数を読んでいきます わたしの一族と どちらが多いかということを知ることにしよう」と言いました欺かれて 並び伏している時に わたくしは その上を蹈んで渡つて来て 今土におりようとする時「お前は わたしに騙されたのだ」と言い終わるや否や 最も端(はし)に伏していた 鰐(わに)が わたくしを捕えて 衣(きもの)を悉(ことごと)く剥ぎました
それで困って泣いていると 八十神(やそがみ)の命が「海水を浴びて 風に当たって伏せろ」と教えられましたので その教えのとおりにしました 身は悉(ことごと)く傷だらけとなりました」
そこで大穴牟遅神(おほなむじのかみ)は その兎に教えて言いました
「今 いそいで 水門(みなと)に行き 水でお前の身体を洗い すぐにその水門の蒲黄(がまの花粉)を取って 敷き散らして その上に寝廻ったならば お前の身体は元の膚(はだ)に必ず治るだろう」と言われた依って 教え通りにすると その身は もとの通りになりました
これが 稻羽之素菟(いなばのしろうさぎ)
今では 兎神(うさぎがみ)と云うなり
その兎(うさぎ)は 大穴牟遅神(おほなむじのかみ)に云いました
「八十神(やそがみ)は 必ず 八上比売(やがみひめ)を得られません 袋を負っていても あなたが 獲(え)るでしょう」八上比売(やがみひめ)は 八十神(やそがみ)達に返答をしました
「わたくしは あなた方の言うことを聞けません 大穴牟遅神(おほなむじのかみ)の嫁となります」
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
本来の社名は「比賣沼(ひめぬま)」で 「比」の脱字と記しています
【意訳】
賣沼神社
賣沼は 仮字なり
〇祭神 八上姫 因幡志〇曳田郷 曳田村に在す、今 西日天王と称す 因幡志
因幡志に云、按に賣の字上に此の字ありして、延喜式におとせりとみゆ云々、伴信友云、此文きこえがたし、曳田村に此妻沼神社と云ふがありといへるにか類社 但馬國 二方郡 面沼神社
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
【意訳】
賣沼神社
祭神 八上比賣神(やかみひめのかみ) 称 西日天王
祭日 十月九日 十二月十五日
社格 郷社
所在 八頭郡 八上村 大字 曳田
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
【意訳】
〇鳥取縣 因幡国 八頭郡 曳田村 大字曳田字土居
郷社 賣沼(めぬま・ひめぬ)神社
祭神 八上比賣神(やかみひめのかみ)
合祭 伊弉冉尊(いざなみのみこと) 保食神(うけもちのかみ)
建御名方神(たけみなかたのかみ)
高龗神(たかおかみのかみ)闇龗神(くらおかみのかみ)創立年代詳ならず、延喜の制 式内小社に列せらる、伝え云ふ、祭神 八上比賣神 出生の地なる故を以て 之を祀ると、御神體は木像なりと云ふ、旧と西日天王(にしひてんのう)と称し奉りしが、元禄年間、旧称に復せり、造営は私営にして、
明治五年十月 郷社に列す、社殿は本殿、幣殿、拝殿を具へ、境内 五百十八坪あり、
因幡志に「先代旧事本紀 神社本紀に、因幡國 鵜部神社は、上皇初代の時、八上姫大神以為 出生之地住在 鎮座とあるは、当社のことなるべし、祭ニ祀之するの日於茲幾千歳ぞ、州中最初の神趾可 崇敬矣」とあり、合祭神
伊弉冉尊(いざなみのみこと)は 村内 原山に鎮座せられ、旧と紀州熊野宮を勧請し、十二社権現と称し、
保食神(うけもちのかみ)は 村内 上土居に在りて、稲荷大明神と称し、
建御名方神(たけみなかたのかみ)は 同じく村内 引野山に在りて、諏訪大明神と称し、
高龗神(たかおかみのかみ)闇龗神(くらおかみのかみ)は 同じく村内 下土居に在りて、貴布禰大明神と称せしが、
明治元年 十二社権現を熊野神社と改称し、外三柱は大明神の号を廃して某神社と改称し、同年藩命に依り、当社に合祭せり、
社殿は本殿、拝殿の二宇あり、境内地は五百十八坪にして、本村の西端に位し、小丘の上に在りて、城内檜、樫、楓等繁茂し、幽遼なり、又 其の三方は耕地にして曳田川の流水を帯せり。
【原文参照】
賣沼神社(鳥取市河原町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
”時の架け橋” 大国主神(おほくにぬしのかみ)
『古事記』に登場する神話の舞台 をみる
大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう
”時の架け橋” 大国主神(おほくにぬしのかみ)『古事記』に登場する神話の舞台
因幡国 式内社 50座(大1座・小49座)について に戻る
因幡国(いなばのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 因幡国には 50座(大1座・小49座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
因幡國 式内社 50座(大1座・小49座)について