実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

賣夫神社(稲沢市平和町嫁振)〈『延喜式』賣夫神社〉

賣夫神社(めふじんじゃ)は 『日本書紀』崇神天皇10年 四道将軍派遣の時 武淳川別命に従ってきた大咩布命 崇神天皇の御母の弟 伊香色雄命の御子 この地に留ま その子孫繁栄しやがて命のを氏神として祀ったと云う 延喜式内社 尾張國 中嶋郡 賣夫神社(ひめふの かみのやしろ)とされます

Please do not reproduce without prior permission.

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

賣夫神社(Mefu shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

愛知県稲沢市平和町大字六輪字 嫁振(ヨメフリ)81

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》大鞆和氣命(おほともわけのみこと)
 崇神天皇の御母の弟 伊香色雄命の御子

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

ご由緒

祭神は人皇第 崇神(スジン)天皇の御母の弟 伊香色雄命(イカシキヲノミコト)の御子 大布咩命(オホヒメフノミコト)である。

醍醐(ダイゴ)天皇の延喜年中(今から一千六十六年前)諸国に神社調べがあり その時の記録 延喜式に中島之郡 (ヒメフノ)神社とあり、これを以て明治年 式内郷社に指定された

地名 娵(ヨメフリ) 往古は ひめふり と言ったのである。「尾張誌」に隠岐国知夫(チフリ)郡を ちふり と読むと同例であると記している。
又「本国帳」に従三位 賣(ヒメフリ)天神と記してある。「尾張名所図会」には娌振(ヒメフリ)村にあり  八幡社と称すと記してある。

崇神天皇(今から二千五十八年前)は 諸国の治安開拓のため皇族を四道将軍として各地に派遣された。東海地方には武淳川別命(タケヌナカワワケノミコト)が当たられたが この命(ミコト)に従って この地方に来て治安開拓に功績を残されたのは大布咩命(オオヒメフリノミコト)であった。命(ミコト)はこの地方に畄まり その子孫次第に繁栄しやがて命(ミコト)を氏神として祀ったのである

昭和四十年一月一日調べ

現地石碑文より

Please do not reproduce without prior permission.

【由  (History)】

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

社名を 賣夫(ヒメフリノ)神社と記しています

【抜粋意訳】

○愛知縣 尾張國 中島郡平和村大字六輪

鄉社 賣夫(ヒメフリノ)神社

祭神 大和氣(オホトモワケノ)

 舊と八幡社ともす、創立年代詳ならといへども、延喜式内社にして、奉唱國内神名帳に「従三位賣夫天神」と見え、参考に「本作 正四位下、中ノ庄 娌振(ヒメフリ) 八幡社歟、」と記せり、尾張志に「賣夫(ヒメフリノ)神社 隠岐國 知夫郡をチリといふ例にてヒメリとべし」とあり、御神體は木像に坐ま、明治五年五月郷社に列せらる。

社殿は本殿、祭文殿、拝殿等を具備し、境内地三百八十一(民有地第二種)、松樹枝をへて清楚たり。

【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』上,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088244

『尾張志』8 中島郡,明治31年に記される内容

【抜粋意訳】

神社

賣夫(ヒメブリノ)神社

隱岐國知夫郡をチフリといふ例もてヒメブリと訓へり 神名式に中島郡 賣夫ノ神社と見え 本國帳に從三位 賣夫天神と記せり 伊香色雄(イカガシコヲ)ノ命の御子 大布咩ノ命を祭れるなるへし 今 娌振(ヒメブリ)に坐して八幡宮と申す

〔津田正生が考に 娌振は新田にて舊地にあらすといへり されども其あたり海を築出したる地にてはなく むかしの草生などを開発したる新田なれば 古き地名は有へく 又 あたらしき村名を付んにはヨメブリなとは思ひよりかたく 舊名にあらざれば呼そめがたし よくよく考ふべし〕

【原文参照】

Please do not reproduce without prior permission.

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

賣夫神社 本殿

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

賣夫神社 拜殿

Please do not reproduce without prior permission.

・拝殿の「龍」の彫刻

Please do not reproduce without prior permission.

拜殿前 狛犬

Please do not reproduce without prior permission.

・境内〈境内向かって右 境内社〉秋葉社

Please do not reproduce without prior permission.

・社頭

Please do not reproduce without prior permission.

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・行燈之宮

・行燈之宮が 祀られた経緯が 昔話に語られています

稲沢のむかしばなし 行燈池(平和町嫁振)

むかしむかし、嫁振の里に行燈池という名の池がありました。お盆が近づくと、里の人たちが、この池で行燈を洗ったのでそう呼ぶようになったということです。

里の長者の家には大ぜいのお手伝いさんがいました。その中に、おさよというとても美しい娘がおりました。いつもにこにこしていてよく働きましたので、里の若者たちは「おさよが大きくなったら、おらのお嫁さんにしたいなあ」と、思っていました。しかし、おさよは、それらの男たちには目もくれませんでした。それは、同じ長者の家で働いている富三という若者に心をよせていたからです。

富三は一番の早起きでした。「富三さん、おはようございます」と言って二番目に顔を洗いにくるのがおさよでした。富三は、働き者で心やさしくだれからも好かれていました。おさよが水くみをしているとそっと手伝ってくれたりしました。

そんな富三に、おさよの恋心はいっそうつのるのでした。

しかし、二人ともまだ若かったし長者の家で使われている身分です。富三も、おさよの気持ちは分かっていても、なかなか思うようにはいきませんでした。

そのころは、一年に一度お盆の七日に行燈を洗うならわしがありました。おさよも長者の言いつけで行燈を洗いに行燈池へ行きました。洗っているうちに、富三のことが頭に浮かんできて、ひとりでに顔が赤くなったりしました。

そんなとき、ふとしたはずみで洗っていた行燈が手からはなれ、池の中へ流れていってしまったのです。あわてたおさよが手をのばしたとたん、池に落ちてしまいました。池は底なしの泥沼です。都合の悪いことに、そのときはおさよのほかは誰もいませんでした。おさよは何度も富三の名を呼んでしまいました。

田んぼからの帰り道、富三が行燈池の近くを通りかかると、「富三さん」「富三さん」と、おさよが呼んでいるような気がしました。池を見ると洗いかけの行燈が浮いていました。そして「富三さん」と、またおさよが呼んだような気がしました。富三は、おさよが池に落ちて沈んでしまったんだとさとり、悲しみにくれました。

それからというもの、夜になると、この池から灯火があらわれて里の方へ来るようになりました。

その話を聞いた若者たちが元気に任せて見に行きました。するとその灯火は消えてなくなります。しかし、帰りかけるとまた灯火があらわれて里の方へ動いて行きます。これが何度も繰り返されるのです。

そんなことが続いたので、里の人は哀れに思いおさよの霊を慰めるために、池のほとりに小さな祠をたてました。それからは、もう灯火はあらわれなくなりました。

この行燈池も、昭和三十一年五月、近くの日光川の堤を直したときの残った土で埋め立てられてしまって今は田んぼに変わってしまいました。

しかし祠は、売夫神社の北西に「行燈之宮」として大切にお祀りされています。

稲沢市役所 教育委員会事務局HPより
https://www.city.inazawa.aichi.jp/0000002562.html

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『風土記(ふどき)』和銅6年(713)
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

『風土記(ふどき)』和銅6年(713)の特徴について
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本です
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史の総称

・『日本書紀』養老4年(720)完成
『續日本紀』延暦16年(797)完成
『日本後紀』承和7年(840)完成
『續日本後紀』貞観11年(869)完成
『日本文徳天皇実録』元慶3年(879)完成
『日本三代實録』延喜元年(901)完成

〇『延喜式(えんぎしき)』延長5年(927)完成
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)全50巻 約3300条からなる

『延喜式神名帳(Englishmen Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)尾張國 121座(大8座・小113座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)中島郡 30座(大3座・小27座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 賣夫神社(貞)
[ふ り が な ](ひめふの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Himefu no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「(ひめふの かみのやしろ)」について

八社があり それぞれの式内論社について

延喜式内社 尾張國 中嶋郡 賣夫神社(貞)(めふの かみのやしろ)

・賣夫神社(稲沢市平和町嫁振)

一緒に読む
賣夫神社(稲沢市平和町嫁振)〈『延喜式』賣夫神社〉

賣夫神社(めふじんじゃ)は 『日本書紀』崇神天皇10年 四道将軍派遣の時 武淳川別命に従ってきた大咩布命〈第十代 崇神天皇の御母の弟 伊香色雄命の御子〉が この地に留まり その子孫が繁栄しやがて命の靈を氏神として祀ったと云う 延喜式内社 尾張國 中嶋郡 賣夫神社(ひめふの かみのやしろ)とされます

続きを見る

・天神社(一宮市萩原町西宮重東光堂)

延喜式内社 攝津國 河邊郡 賣布神社(たかひめふの かみのやしろ)

・高賣布神社(三田市酒井)

一緒に読む
高売布神社(三田市酒井字宮ノ脇)〈『延喜式』高賣布神社〉

高賣布神社(たかめふじんじゃ)は 推古天皇の頃の創立と伝えますが明らかでない 神社の後方に独立丘は 古の齋場の跡とされ 土俗は酒井の斎さま(さかいのいつきさま)と称し 勧請の昔は齋女が神の意を伝えた古代の様子を今に伝えている 延喜式内社 攝津國 河邊郡 髙賣布神社(たかひめふの かみのやしろ)です

続きを見る

延喜式内社 攝津國 河邊郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)

・賣布神社(宝塚市売布山手町)

一緒に読む
賣布神社(宝塚市売布山手町)〈『延喜式』賣布神社〉

賣布神社(めふじんじゃ)は 社傳には 推古天皇十八年の勧請とある 神仏習合時に「貴船大明神」と称されましたが 徳川八代将軍吉宗公が元文元年(1736)寺社奉行大岡越前守忠相に命じ大阪の佛者並河五市郎が調査し「賣布社」であると判明 延喜式内社 攝津國 河邊郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)の比定社です

続きを見る

延喜式内社 丹後國 竹野郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)

・賣布神社(京丹後市網野町木津女布谷)

一緒に読む
賣布神社(京丹後市網野町木津女布谷)〈『延喜式』賣布神社〉

賣布神社(めふじんじゃ)は 垂仁天皇90年 但馬国造 田道間守は 勅を奉じて常世國に渡航し 不老不死の香菓たる橘を得て 景行天皇元年に帰国しました この時 報賽の爲めに この地〈田神山〉に神籬を設けて奉祀したのが 当社の創始と伝わります 延喜式内社 丹後國 竹野郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)です

続きを見る

延喜式内社 丹後國 熊野郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)

・賣布神社(京丹後市久美浜町女布初岡)

一緒に読む
賣布神社(京丹後市久美浜町女布初岡)〈『延喜式』賣布神社〉

賣布神社(ひめふじんじゃ)は 『丹後一覧記』等によると第11代 垂仁天皇の御代 川上麻須の勧請に係れりと云う 延喜式内社 丹後國 熊野郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)です 当初の鎮座地は「久美浜町谷の足洗井戸があり 祭神が始めて留りし地であり 野中 安養寺を経て船にて女布に着き小字舟處に上陸された」と伝わります

続きを見る

・布森神社〈布杜神社〉(京丹後市久美浜町女布)
〈賣布神社の神幸時の御旅所〉元宮であるとも云う

一緒に読む
布森神社〈布杜神社〉(京丹後市久美浜町女布)〈『延喜式』賣布神社〉

布森神社〈布杜神社〉(ふもりじんじゃ)は 由緒など不祥ですが 賣布神社の神幸時の御旅所で 元宮であるとも云います 里での呼称も 賣布神社を大宮 布杜神社を小宮と呼んでいます 延喜式内社 丹後國 熊野郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)の参考論社とも考えられています

続きを見る

延喜式内社 但馬國 氣多郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)

布ヶ森遺跡公園(豊岡市日高町祢布)
〈賣布神社の当初の鎮座地〉
・賣布神社跡地(豊岡市日高町国分寺字山ノ脇)
〈令和元年(2019)荒神神社に合祀〉

一緒に読む
賣布神社跡(豊岡市日高町国分寺字山ノ脇)〈『延喜式』賣布神社〉

賣布神社跡(めふじんじゃ あと)は 延喜式内社 但馬國 氣多郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)の跡地です 往古は禰布ヶ森に鎭座し 洪水で社殿が流され 中世に天神山中腹に遷宮 萬延元年(1860)本殿再建 文久二年(1862)この地に遷座 令和元年(2019)中世の鎮座地〈現 荒神神社に合祀遷座〉へと戻りました

続きを見る

・荒神神社(豊岡市日高町国分寺)
・〈中世~文久二年(1862)までの賣布神社の鎭座地 中世の鎮座地〉
・〈令和元年(2019)荒神神社に賣布神社を遷座合祀 現在の合祀先〉

延喜式内社 出雲國 意宇郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)

一緒に読む
賣布神社(松江市和多見町)〈『延喜式』賣布神社〉

賣布神社(めふじんじゃ)は 遠く神代に始まると伝わり 『出雲風土記』に賣布の社 『延喜式神名帳』に賣布神社と列記される古社です 摂社の御祭神「櫛八玉神(くしやたまのかみ)」が 速秋津比賣神(はやあきつひめのかみ)〈大祓詞のなかにある潮の流れの神(水戸ノ神 祓戸ノ神)〉をお祀りになられたのが起源とされます

続きを見る

【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

名鉄尾西線 六輪駅から東へ約950m 徒歩での所要時間は13~15分程度

県道126号が日光川に架かる六輪橋の西側 嫁振農村公園の隣です

Please do not reproduce without prior permission.

賣夫神社(稲沢市平和町嫁振)に参着

Please do not reproduce without prior permission.

鳥居の向かって右 社頭の石号標「お鍬祭り・賣夫神社改築

Please do not reproduce without prior permission.

鳥居の向かって左 社頭の社号標「式内 郷社 賣夫神社

Please do not reproduce without prior permission.

一礼をしてから鳥居をくぐると 南向きの広い平地の境内があり その先に鎮守の杜が残っていて 杜の中に社殿が見えています
向って右手には〈境内社〉秋葉社が祀られています

Please do not reproduce without prior permission.

拝殿にすすみます

Please do not reproduce without prior permission.

拝殿には見事な龍の彫刻が施されています

Please do not reproduce without prior permission.

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

Please do not reproduce without prior permission.

神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 賣夫神社について 所在は゛ 娌振(ヒメフリ)村に在す、今 八幡宮と稱す、゛〈現 賣夫神社(稲沢市平和町嫁振)〉と記されています

【抜粋意訳】

賣夫神社

賣夫は假字也

○祭師詳なち

○中 娌振(ヒメフリ)村に在す、今 八幡宮と稱す、〔考証、集説、〕

 張州府志、娌振村八幡宮は見ゆれど、賣夫神社といはず、心あるべし、

〇集說云、據に物部氏舊譜、波蘇伎、大口、賣夫三祠者、同氏族類之神 分明也、

類社
 摂津國 河邊郡 賣布神社の條見合すべし

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 賣夫神社について 所在は゛ 中莊煙振村にあり゛〈現 賣夫神社(稲沢市平和町嫁振)〉と記されています

【抜粋意訳】

賣夫神社、

 中莊煙振村にあり、〔國内集説、式社考、神名帳考証、

 大綜杵命の孫 大賣布命を祭る、〔舊事本紀〕

凡 毎年二月二十五日祭を行ふ、〔愛智縣神社調〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 賣夫神社について 所在は゛中之庄娶振村〔字宮浦〕(中島郡平和村大字六輪)゛〈現 賣夫神社(稲沢市平和町嫁振)〉と記されています

又 別説として゛西宮重村なる子安天神゛〈現 天神社(一宮市萩原町西宮重東光堂)〉との説を挙げています

【抜粋意訳】

賣夫(ヒメフリノ)神社  八幡宮

祭神

 今按 社傳に 祭神 譽田別命とあれど こは今 八幡宮と云によりて云る說なれば取らず

祭日 二月二十五日
社格 郷社

所在 中之庄娶振村〔字宮浦〕(中島郡平和村大字六輪)

 今按 本國帳集說訂考に西宮重村なる子安天神ならんかと云る考あれども 是は證なければとり難し

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

賣夫神社(稲沢市平和町嫁振) (hai)」(90度のお辞儀)

Please do not reproduce without prior permission.

尾張国 式内社 121座(大8座・小113座)について に戻る

一緒に読む
尾張國 式内社 121座(大8座・小113座)について

尾張国(おわりのくに・をはりのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 尾張国には 121座(大8座・小113座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

続きを見る

  • B!

おすすめ記事

1

世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

2

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

4

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

5

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

6

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています