実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

賣布神社(京丹後市網野町木津女布谷)〈『延喜式』賣布神社〉

賣布神社(めふじんじゃ)は 垂仁天皇90 但馬 田道間守 勅を奉じて常世國に渡航し 不老不死の香たるを得て 景行天皇元年に帰国しました この時 報賽の爲めに この田神山神籬を設けて奉祀したのが 当社の創始と伝わります 延喜式内社 丹後國 竹野郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)です

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

賣布神社(Mefu shrine

通称名(Common name)

・祇園さん(ぎおんさん)

【鎮座地 (Location) 

京都府京丹後市網野町木津小字女布谷217番地

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》宇賀能咩命(とようがのめのみこと)

》素盞嗚命(すさのをのみこと)正安二年1300京都祇園社より勧請

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

『式内社調査報告第十八巻』昭和59年に記される内容

【抜粋】

賣布(ヒメフノ・メフノ)神社
【祭神】

宇賀能咩命・素戔嗚尊を祭神とする。その他 賣布を神とするもある。丹後式内神社取調書』頭注の『丹後式内社神社考』(籠神社権禰宜大原美能理)には、「和田上野村祭神大賣布命トハ傳ル歟」、また同書『丹後但馬神社道志倍』(但馬朝來郡宮本臣)には「此神社熊野郡但馬氣多都ニアリ祭神大賣布連ナルコト其處二云ヘリ」と説いてゐる。

【由緒】

『竹野郡誌』の「本社記錄」の項には次のやうに記されてゐる。即ち「本社は垂仁天皇九十年春二月朔日、田道間守 勅を奉じて常世國に渡航し、不老不死の香たるを得、景行天皇元年三月十二日萬里浪無恙歸國せし 報賽の爲め 田神山一名 風船山神籬を設けて禮典をげられしより、此地に奉祀せしを以て創始とする。 田神は田道に國音近く、船は香葉塔載の義に因る後一度び小字賣布谷今の責布神社境外官林の頂上に移され、文安四年八月現在の境内に社殿を建立して移せり。
尚ほ素盞鳴は正安二年庄内に疫病流行せしより 之が疫の神として京都祇園社より勧請し相殿と奉祀せるに始まる。明治六年二月村社に列せられ、四十三年四月十二日神幣帛料を供進し得べき社に指定せらる」と。
・・・

【原文】

『式内社調査報告第十八・十九巻』著者 式内社研究会編纂.刊行年.昭和59年.出版社 皇学館大学出版部より

京都府指定文化財

売布(めふ)神社

垂仁天皇90年、但馬の造であった田道間守命(たじまもりのみこと)は、天皇の命により不老不死の香菓の実を求め、景行天皇元年に帰しましたこの時、田道間守命が祭壇を設けたところが、売布神社の創立された場所と伝えられています。

 その後、文安4(1447)年には、現在地に社殿を移したと伝えられています。

 本殿は、寛文9(1669)年に建築された一間社流造で、京都府指定文化財に指定されています。

京丹後市教育委員会

現地案内板より

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【由  (History)】

『丹後舊事紀』に記される「賣布神社」について

【抜粋意訳】

丹後舊事紀(たんごきゅうじき)巻八 神祇之部

賣布神社 木津上野村下和田

祭神 大賣布命

合神 牛頭天王

延喜式竝小社

【原文参照】

『[丹後旧事紀]』(国文学研究資料館所蔵)出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/200017524

『丹後史料叢書』第5輯,昭和2年に記される内容

【抜粋意訳】

賣布神社

○大賣布命

神社覈録木津上野村下和田ニマス

神社明細和田上村

【丹後但馬神社道志倍】下和田村當邊ハ和名抄木津ナリ 社ノ側ヨリ通ル道ヲ 賣布谷卜云トゾ 此神社 熊野郡但馬氣多郡ニアリ 祭神 大賣布連ナルコト 其處ニ云へリ 

【豊岡式内神社取調書】竹野郡 神社 和田上野村字女布谷豐宇賀資命 十月十九日

【豊岡式社未定考案記】和田上野村 祭神大賣布命卜云ハ傳アル

【原文参照】

『丹後史料叢書』第5輯,丹後史料叢書刊行会,昭和2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1175358

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

賣布神社 社殿〔本殿覆い屋・拝殿が一体となつています〕

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売布(めふ)神社本殿 一棟 (京都府指定文化財)

京丹後市網野町木津小字女布谷

本殿 (一棟)一間社流造、こけら葺

  棟札 二枚 造立寛文九己酉年三月朔日の記があるもの
   家祢替天明四年辰三月吉日の記があるもの
銘板 一枚 家祢替天明四年辰三月吉日の記がある

建立年代 寛文九年(一六六九)

 売布神社は、『延喜式神名帳』に記されている竹野郡十四座のうちの小社で、祭神豊宇賀能咩命(とようがのめのみこと)を祀り、素戔鳴尊(すさのおのみこと)を合祀しています。近世以前は木津庄十三ケ村の氏神でしたが、現在はそのうちの下和田区の氏子によって護り伝えられています。境内には、本殿の左右に稲荷神社や八幡神社などの小社が祀られています。

 本殿は一間社流造、こけら葺建物で、身舎は内々陣・内陣・外陣の三室に分けられています。寛文九年(一六六九)三月一日に宮津の大工一宮與次兵衛尉・桐村権兵衛尉・松本徳右衛門達によって建てられたことが、棟札によりわかっています。このほかにも本殿に関する銘板として、天明四年(一七八四)屋根葺替えの棟札一枚と銘文一枚があります。

 丹後地方における一七世紀後期の神社本殿は建物を装飾化する傾向がみられますが、この本殿は装飾的要素が少なく、木太い古風な建物を言え、装飾化が進む以前の神社本殿の様子が伺えます。棟札により造営年代・造営大工等も明らかであり、丹後地方における一七世紀中期の神社本殿として極めて貴重なものです。

京丹後市教育委員会

現地案内板より

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賣布神社 拜殿

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・〈社殿の左右 境内社〉覆い屋内に小祠

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・社頭〔社号標・鳥居〕

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)丹後國 65座(大7座・小58座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)竹野郡 14座(大1座・小13座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 賣布神社
[ふ り が な ](ひめふの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Himefu no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「ひめふの かみのやしろ)」について

八社があり それぞれの式内論社について

延喜式内社 尾張國 中嶋郡 賣夫神社(大貞)(ひめふの かみのやしろ)

・賣夫神社(稲沢市平和町嫁振)

・天神社(一宮市萩原町西宮重東光堂)

延喜式内社 攝津國 河邊郡 高賣布神社(たかひめふの かみのやしろ)

・高賣布神社(三田市酒井)

延喜式内社 攝津國 河邊郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)

・賣布神社(宝塚市売布山手町)

延喜式内社 丹後國 竹野郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)

・賣布神社(京丹後市網野町木津女布谷)

一緒に読む
賣布神社(京丹後市網野町木津女布谷)〈『延喜式』賣布神社〉

賣布神社(めふじんじゃ)は 垂仁天皇90年 但馬国造 田道間守は 勅を奉じて常世國に渡航し 不老不死の香菓たる橘を得て 景行天皇元年に帰国しました この時 報賽の爲めに この地〈田神山〉に神籬を設けて奉祀したのが 当社の創始と伝わります 延喜式内社 丹後國 竹野郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)です

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延喜式内社 丹後國 熊野郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)

・賣布神社(京丹後市久美浜町女布初岡)

一緒に読む
賣布神社(京丹後市久美浜町女布初岡)〈『延喜式』賣布神社〉

賣布神社(ひめふじんじゃ)は 『丹後一覧記』等によると第11代 垂仁天皇の御代 川上麻須の勧請に係れりと云う 延喜式内社 丹後國 熊野郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)です 当初の鎮座地は「久美浜町谷の足洗井戸があり 祭神が始めて留りし地であり 野中 安養寺を経て船にて女布に着き小字舟處に上陸された」と伝わります

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・布森神社〈布杜神社〉(京丹後市久美浜町女布)
〈賣布神社の神幸時の御旅所〉元宮であるとも云う

一緒に読む
布森神社〈布杜神社〉(京丹後市久美浜町女布)〈『延喜式』賣布神社〉

布森神社〈布杜神社〉(ふもりじんじゃ)は 由緒など不祥ですが 賣布神社の神幸時の御旅所で 元宮であるとも云います 里での呼称も 賣布神社を大宮 布杜神社を小宮と呼んでいます 延喜式内社 丹後國 熊野郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)の参考論社とも考えられています

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延喜式内社 但馬國 氣多郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)

布ヶ森遺跡公園(豊岡市日高町祢布)
〈賣布神社の当初の鎮座地〉
・賣布神社跡地(豊岡市日高町国分寺字山ノ脇)
〈令和元年(2019)荒神神社に合祀〉

・荒神神社(豊岡市日高町国分寺)
・〈中世文久二年1862までの賣布神社の鎭座
・〈令和元年(2019)荒神神社に賣布神社を遷座合祀

延喜式内社 出雲國 意宇郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)

一緒に読む
賣布神社(松江市和多見町)〈『延喜式』賣布神社〉

賣布神社(めふじんじゃ)は 遠く神代に始まると伝わり 『出雲風土記』に賣布の社 『延喜式神名帳』に賣布神社と列記される古社です 摂社の御祭神「櫛八玉神(くしやたまのかみ)」が 速秋津比賣神(はやあきつひめのかみ)〈大祓詞のなかにある潮の流れの神(水戸ノ神 祓戸ノ神)〉をお祀りになられたのが起源とされます

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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

京都丹後鉄道 宮豊線 夕日ヶ浦木津温泉駅から東へ約880m 徒歩での所要時間は8~10分程度

京都丹後鉄道宮豊線の踏切を越えて 集落の南東の谷筋〈賣布谷〉に鎮座します

賣布神社(京丹後市網野町木津女布谷)に参着

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賣布神社」の扁額がある社頭の鳥居に一礼をして 境内に進みます

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参道 社頭は北西を向いていますが 社殿境内は南南西を向いています

社殿の両側に境内社が祀られています

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社殿向って左側には 境内社の横に 石祠も祀られていました

拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿に一礼をして 境内を戻ります

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 賣布神社について 所在は゛木津上野村下和田に在す゛〈現 賣布神社(京丹後市網野町木津女布谷)〉と記しています

【抜粋意訳】

賣布神社

賣布は假字也

○祭神詳ならず

○木津上野村下和田に在す〔舊事記〕

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 賣布神社について 所在は゛ 木津 下和田村 賣布谷にあり、社邊の道を賣布谷と云<、゛〈現 賣布神社(京丹後市網野町木津女布谷)〉と記しています

【抜粋意訳】

賣布(メフノ)神社、

 木津 下和田村 賣布谷にあり、社邊の道を賣布谷と云<、〔神社覈録、神社道志流倍、

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第15−17巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815497

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 賣布神社について 所在は゛和田上野村安女〕(竹野郡木津村大字木津)゛〈現 賣布神社(京丹後市網野町木津女布谷)〉と記しています

【抜粋意訳】

賣布(メフノ)神社

祭神
祭日 六月十四日
社格

所在 和田上野村安女〕(竹野郡木津村大字木津

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

賣布神社(京丹後市網野町木津女布谷) (hai)」(90度のお辞儀)

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丹後国 式内社 65座(大7座・小58座)について に戻る

一緒に読む
丹後國 式内社 65座(大7座・小58座)について

丹後国(たんごのくに)の式内社とは 平安時代中期 「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧『延喜式神名帳』〈927年朝廷編纂『延喜式』(律令の施行細則 全50巻)の巻9・10を云う〉に所載される 丹後国65座(大7座・小58座)の神を云います

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