丸山神社(まるやまじんじゃ〈伊奈波神社 旧蹟〉)は 稲葉山の一角にある丸山の山頂に鎮座する伊奈波神社の旧鎮座地です 天文8年(1539年)斎藤道三による稲葉山城の築城により 丸山から現在の場所へ遷されたと伝わります 現在も石基と六尺周囲一丈余りの烏帽子岩が存在し「伊奈波神社旧蹟」の標号もあります
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1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
丸山神社(Maruyama shrine)〈伊奈波神社 旧蹟〉
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
岐阜県岐阜市赤ケ洞(丸山の山頂)
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》伊奈波大神(いなばのおほかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
丸山神社
御祭神 伊奈波大神
祭礼日 4月25日
稲葉山の一角にある丸山の山頂に鎮座しており、伊奈波神社の旧鎮座地です。天文8年(1539年)に斎藤道三が居城の際に、丸山から現地へ遷しお祀りされました。丸山神社には現在も石基と六尺周囲一丈余りの烏帽子岩が存在し、「伊奈波神社旧蹟」の標識もあります。
伊奈波神社公式HPより
https://www.inabasan.com/precincts/
丸山 まるやま(伊奈波神社伝承地)
中世以前、稲葉山(いなばやま)(金華山)は伊奈波神社(いなばじんじゃ)の 社地(しゃち)であり、斎藤道三(さいとうどうさん)による稲葉山城(いなばやまじょう)の築城により現在の場所へ遷されたと伝わります。
特にこの丸山(まるやま)は重要な場所で、江戸時代には伊奈波神社の摂社(せっしゃ)・丸山神社(まるやまじんじゃ)として復活し、昭和初期ころまで社殿も存在していました。
現在も象徴的な「烏帽子岩(えぼしいわ)」が残り、毎年例祭が行われています。
現地案内板より
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【由 緒 (History)】
『岐阜名所図絵』明治45年7月に記される内容
【抜粋意訳】
十一、丸山神社(まるやまじんじゃ)
岐阜の北東 金華山(きんくわざん)の麓(ふもと)丸山の絶頂に在り、伊奈波神社の摂社(せっしゃ)にして、伊奈波大神を祀る、此地は往古(おうこ)椿原(つばきはら)と稱し 伊奈波神社の舊跡(きゅうせき)なり、同社縁起に『美濃國厚見郡を敷地(しきち)として椿原に社殿(しゃでん)を創立(さうりつ)す』
又 船田後記に『明應(めいおう)五年夏五月 齊藤利安基朝洎小藏氏 村山氏 鷲見氏 山田氏等 馳 馬向 因幡神祠 神祠後強 長良川』とあるは 即(すには)ち是(これ)なり、
天文八年 斎藤道三 稲葉城(いなばじょう)修築の時、山南井の口谷へ遷座(せんざ)し、一奇石を存し遺跡(ゐせき)を留めしが、
天保十二年 尾州藩主(びしゅうはんしゅ)徳川慶藏 岐阜巡視の節(せつ)愛知郡那須佐之男 別當天主坊住職の建議(けんぎ)に依り官許(くわんきょ)の上(うえ)、社殿及鳥居基を建て、嚴然(げんぜん)たる舊に復(ふく)せしも、
明治維新(めいじゐしん)の際(さい)、神佛の區別判然たるに及び祭祀(さいし)殆(ほと)んど絶(た)へたりしを、
明治八年二月再興(さいこう)の許可を得て、社殿を修築(しゅうちく)せしも、震災の為め社宇(しゃう)悉く倒壊(たうくわい)し 今は一小祠を存するのみ、境内(けいだい)一奇石(きせき)あり烏帽子岩(えぼしいは)と云ふ、高さ凡そ六尺周り一丈餘あり、今 伊奈波神社(いなばじんじゃ)にあるものは其模(そのうつ)しなりと云ふ、
此山の北西麓(ほくせいろく)に深淵(しんえん)あり、之れ古の御手洗池(みたらしいけ)にして今尚ほ みたらしの名を存す、山頂低しと雖ども、眺望佳絶(てうぼうかぜつ)なるを以て、四季其勝を探ぐる者多し。
【原文参照】
近藤隆之助 (非仏) 編『岐阜名所図絵』,西濃印刷会社岐阜出版部,明45.7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/764995
『岐阜市史』昭和3年に記される内容
元々は この岩戸字西山の辺り〈岩戸観音の地とも岩戸八幡社の社地とも云う〉は 式内社 物部神社の旧社地であったと伝わっています
【抜粋意訳】
第一編 前編 第二章 古代之沿革 第二節 伊奈波神社の鎮座
物部神社の舊地
偖て、物部神社が伊奈波神社の合殿にましますことは、伊奈波神社の井之口谷遷座來の事である。
伊奈波神社の舊社地が、丸山である如くに、物部神社の舊社地は、岐阜の東、稲葉郡岩戸の岩屋観音の地であると云ふ事を、古傳として、岩戸村民の間に傳へて居る。里俗に依ると、昔、此氏神 物部神社を、井之口谷へ移したが、後、伊奈波神社も、丸山の地から井之口谷へ遷座、合祀されたと云ふのである。
岩戸村民と伊奈波神社との関係
此故に、岩戸村民は、古来、伊奈波神社の第一の氏子であつて、神社の元日の松飾を始めとして、神酒、〈神酒を盛った錫器には、岩戸村の銘がある、〉神饌の供進から、例年、神楽料及び初穂の進獻を初めとして、神輿の駕與丁〔白丁著用〕は勿論、神事故障の場合、神官の代理から、賽銭領の取締、神殿の鍵の保管に至るまで、悉く、岩戸村の氏子に於て、之を掌り、其他、本殿の修繕には、村民限りにて足場をかけるなど、神社に昵近(じっきん)して、神事を執行する古例が、頗る多かった。之に對して、岐阜町數町の氏子は、一の故障をも、申出るものがなかったと云ふ。
然るに、明治四年、郡村區劃分れてからは、岩戸村は岐阜町の境城外となり、岩戸村民は、其時から氏子を離れて同郡藏之前村郷社に属したが、今も尚、岩戸村より寄進にかかる古物大釜、並び石燈籠が、伊奈波神社に存し、何れも、岩戸村の銘があって、古来の關係を物語って居る。
此 口碑は、如何程迄信するに足りるかわからないが、
兎に角、物部神社の舊肚地である岩戸村民が、伊奈波神社の管理を、全然掌握して居た事を、知る事が出来ると共に、岐阜町の氏子は、是に對し、何等の發言権をも有して居なかったらしい。物部神社の遷座は文安二年(1445)以前
然らば、物部神社が、井之口谷に移ったのは、何時であらうか。是に就ては、岩戶村 岩戶觀音之緣起に依ると、観音の創立を以て、文安二乙丑年二月として、齋藤越前守利永の勧請とあるし、岩戸村の里傳に、観音の境内は、服穢の者の参入を忌むと云ふところなどから考へて見ると、物部神社が井之口谷に遷されたのは、少くも、既に、文安二年(1445)以前であると見るのが、妥當である様に思はれる。
然しながら、其何故に遷されたるかに就ては、知る由もないが、利永は文安二年に加納に城を築いたから、恐らく郡内の名社を、因幡山の背後から前面の山下に移して、井之口里の鎭護とする為めでもあったのであらう。
要するに、此兩社の由緒に就て綜合しえられる事は元来、伊奈波神社と物部神社とは、別社であるのみか、其所在に就ても、一は稲葉山の西北麓、丸山にあり、一は同山の東、岩戸村にあつて、各、異なる氏子の崇敬を集めて居たものである。
面して、物部神社が井之口谷に遷されたのは、既に文安二年以前の事であるが、其後 天文八年、齋藤氏の稲葉山築城と共に、丸山にあつた伊奈波神社も、井之口谷に遷されて、茲に、兩社の合祀を見るに至り、宏壮なる社殿が建てられて、岐阜町鎮守の淵源をなすに至つたものである。
然るに、此 兩社の祭神の間に、其 區別 甚だ鮮明を缺いたが爲めに、兩社の關係は、或は二社の如く、又一社の如く、判然しないのみならず、其主神に就ても、混沌として變化あるを免がれなかった。
・・・・〈以下略 必要な場合は原文参照のこと〉
【原文参照】
岐阜市 編『岐阜市史』,岐阜市,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1170918
岐阜市 編『岐阜市史』,岐阜市,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1170918
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・〈御神石〉「烏帽子岩(えぼしいわ)」と〈社号標〉「伊奈波神社旧蹟」
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・昭和初期ごろの 烏帽子岩(えぼしいわ)と社殿の写真
烏帽子岩(えぼしいわ)は 御神石とされていて
昭和初期ごろまでは 烏帽子岩(えぼしいわ)の背後に社殿があったことが写真からわかります
※現地の案内板の写真より
※現地の案内板の写真より
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・御手洗池
現在の「水手道(みずてみち)」〈かつての登城路〉は 一部が付け替っていて 本来は 長良川沿いの 御手洗池(みたらしいけ)の辺りから 丸山へと登ったとされています
下の地図は現在の水手道
御手洗池(みたらしいけ)
むかしうしろの山に伊奈波神社がありこの池で手を洗つて参拝したことからこの名がある。
慶長五年(西暦 一六〇〇年)関ヶ原合戦があり 時の岐阜城主 織田秀信(おだのぶひで)は石田三成(いしだみつなり)に味方し徳川軍の福島正則、池田輝政らに攻められ落城した。
そのおりに大勢の奥女中らがこの池に投身自殺したと伝えられる。正史(せいし)にはさありとも雁(かり)の涙おつ
塩谷鵜平(えんやうへい)岐阜市
現地案内板より
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・〈現在の鎮座地〉伊奈波神社(岐阜市伊奈波通)
天文8年(1539年)斎藤道三(さいとうどうさん)による稲葉山城(いなばやまじょう)の築城により現在の場所へ遷されたと伝わります
・伊奈波神社(岐阜市伊奈波通)の記事を参照
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)美濃國 39座(大1座・小38座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)厚見郡 3座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 物部神社
[ふ り が な ](もののへの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Mononohe no kaminoyashiro)
【原文参照】
国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載 「物部神社」の名称を持つ式内社の論社について
太古の大和朝廷では 物部氏は 神道を奉じ軍事を司る氏族として「八十物部(やそのもののべ)」と云われ 絶大な勢力を保持していました
その後 神道を奉じる物部氏の宗家〈物部守屋大連〉は 仏教を信奉する蘇我氏〈蘇我馬子 大臣〉と戦い敗れ〈用命天皇2年(587)〉 物部氏は徐々に衰退をして行く事になります
『延喜式(Engishiki)』(927年12月編纂)の時代となっても かつての物部氏の勢力の大きさを示すように 広範囲に物部の神社は分布しています
東海道
「伊勢國 飯高郡 物部神社」
・伊勢寺神社(松阪市伊勢寺町)〈合祀〉
伊勢寺神社(いせでらじんじゃ)は 寛正2年(1461)当村で疫病が流行し多くの村人が亡くなり 疫病鎮めの神として一志郡多気村の牛頭天王社を当地に勧請し高福大明神と称したのが始めと言う 明治41年(1908)式内社の論社3社〈大神神社・物部神社・堀坂神社〉を含む35社を合祀します 昭和5年(1930)伊勢寺神社と改称
伊勢寺神社(松阪市伊勢寺町)〈式内論社3社〈大神神社・物部神社・堀坂神社〉を合祀〉
「伊勢國 壹志郡 物部神社」
・物部神社(津市新家町)〈山辺の行宮〉
物部神社(もののべじんじゃ)は 古代この地方を支配した物部氏の一族 新家氏の氏神とされます 寛保元年(1741)の洪水により 古記録等が流失し創立当時の確かな記録はないが 当社は所替せず古来の地にあると云う 〈山辺の行宮〉の跡地ともされる 延喜式内社 伊勢國 壹志郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)とされます
物部神社(津市新家町)〈山辺の行宮〉〈延喜式内社〉
「尾張國 春日部郡 物部神社」
・味美白山神社(春日井市二子町)〈合祀〉
・味美二子山古墳(春日井市二子町)〈旧鎮座地〉
・諸大明神社(春日井市松本町)
・八所神社(豊山町豊場木戸)
「尾張國 愛智郡 物部神社」
・物部神社(名古屋市東区筒井)
物部神社(もののべじんじゃ)は 御神体の霊璽が゛一塊の巨大な石゛で 初代 神武天皇の御代に当地の凶魁を討たれ この石〈俗に要石 鎮撫石 根石とも云う〉を国の鎮めとされ 石神様とも呼ばれます 第11代 垂仁天皇の御代 初めて社殿が造営された云う 延喜式内社 尾張國 愛智郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)です
物部神社(名古屋市東区筒井)〈御神体の霊璽゛一塊の巨大な石゛〉
・御器所八幡宮(名古屋市昭和区)
御器所八幡宮(ごきそ はちまんぐう)は 第54代 仁明天皇の勅願所として熱田社の鬼門を守護するために創建と社伝に云う 御器所(ごきそ)の地名は『吾妻鏡』に この地で熱田社の神事に使う土器を焼いていたことから名付けられたと記述があり 尾張國 愛智郡の二つの式内社〈・高牟神社・物部神社〉の論社となっています
御器所八幡宮(名古屋市昭和区御器所)〈八所大明神〉
「甲斐國 山梨郡 物部神社」
・物部神社(笛吹市石和町)
物部神社(もののべじんじゃ)は 大和朝廷の使者として武内宿禰(たけのうちのすくね)らが東方巡察の折 物部氏の従者により創祀されたと云う 『六国史』には゛物部神゛に神階の奉授が記され 『延喜式』に甲斐國 山梨郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)と所載されます 当初 御室山に鎮座し 鎌倉時代に現在地に遷座と云う
物部神社(笛吹市石和町松本)〈『六国史』物部神・『延喜式』物部神社〉
・御室山〈大蔵経寺山〉(笛吹市春日居町)〈旧鎮座地〉
・大石神社(山梨市西)
大石神社(おおいしじんじゃ)は その名の通り 巨大な花崗岩のご神体〈磐座信仰〉が坐します 社殿の周囲にも数々の巨大な石〈磐座〉があり 不思議な景観となっています 社伝によると 古くは物部神社と称していたとあり 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)の論社となっています
大石神社(山梨市西)〈巨大な花崗岩のご神体が坐します〉
・大石神社(甲州市塩山赤尾)
大石神社(おおいしじんじゃ)は 社伝に 第21代 雄略天皇御宇 詔(みことのり)により海部直赤尾物部兎代宿禰(あまのあたいあかお もののべのとよのすくね)によって勧請されたと伝わります 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)の論社とされ 明治時代には 物部神社と称したと云う
大石神社(甲州市塩山赤尾)〈延喜式内社 物部神社の論社〉
・白山建岡神社(山梨市上栗原)
建岡神社(たておかじんじゃ)は 江戸時代には〔白山権現〕と呼ばれていました 同じく上栗原村にあった〔小市明神〕は 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)であるとの一説もあります 現在〔小市明神〕は 建岡神社に合祀されているのか?
白山建岡神社(山梨市上栗原)〈上栗原村〔小市明神〕を合祀か?〉
「武蔵國 入間郡 物部天神社」
・北野天神社(所沢市小手指元町)
北野天神社(きたのてんじんしゃ)は 三社を合殿に祀る総称で 正式名称は゛物部天神社・國渭地祇神社・天満天神社゛です 元々は 日本武尊が祀ったと伝わる入間郡の式内社 物部天神社とされ さらに国渭地祇神社を(一説には出雲祝神社も)合祀すると云う 長徳元年(995)京都より北野天神を勧請し 坂東第一北野天神と称しました
北野天神社(所沢市小手指元町)〈正式名称゛物部天神社 國渭地祇神社 天満天神社゛〉
東山道
「美濃國 厚見郡 物部神社」
・伊奈波神社(岐阜市伊奈波通)
・丸山神社〈伊奈波神社 旧蹟〉(岐阜市赤ケ洞)
丸山神社(まるやまじんじゃ〈伊奈波神社 旧蹟〉)は 稲葉山の一角にある丸山の山頂に鎮座する伊奈波神社の旧鎮座地です 天文8年(1539年)斎藤道三による稲葉山城の築城により 丸山から現在の場所へ遷されたと伝わります 現在も石基と六尺周囲一丈余りの烏帽子岩が存在し「伊奈波神社旧蹟」の標号もあります
丸山神社〈伊奈波神社 旧蹟〉(岐阜市赤ケ洞)〈『延喜式』物部神社〉
・岩戸八幡神社(岐阜市長森岩戸)
岩戸八幡社(いわどはちまんしゃ)は 揖斐川改修の為 八幡社が高須町大字日下丸から現地へ明治43年(1910)遷座したもの 里人の口伝には「元々この地は 延喜式内社 美濃國 厚見郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)が鎮座していたが 斎藤道三の時代(天文8年・1539)丸山へ遷座し 後に伊奈波神社に合祀された」と云う
岩戸八幡社(岐阜市長森岩戸)〈『延喜式』物部神社の跡地〉
・岩戸神社(岐阜市長森岩戸)〈参考論社〉
岩戸神社(いわどじんじゃ)は 岐阜市長森岩戸(ながもりいわど)字西山に鎮座する 猿田彦大神を祀る神社で 創建年代 由緒など不祥です 元々この岩戸字西山の辺り〈岩戸観音の地とも岩戸八幡社の社地とも云う〉は 式内社 物部神社の旧社地であったと伝わっていますので 延喜式内社の〈参考論社〉として掲載します
岩戸神社(岐阜市長森岩戸)〈『延喜式』物部神社の〈参考論社〉〉
北陸道
「越中國 射水郡 物部神社」
・物部神社(高岡市東海老坂)
物部神社(もののべじんじゃ)は 当初鎮座地は この谷の奥地「氷見の庄 物部神社と称し(氷見との境界の奥山に鎮座)」とされ 次に現在地の西方 鳥帽子山という山に遷座 その後に 現在地〈海老坂八幡宮のあった地〉に遷座しました 延喜式内社 越中國 射水郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)です
物部神社(高岡市東海老坂)〈『延喜式』物部神社〉
「越後國 頸城郡 物部神社」
・物部神社(上越市清里区)
物部神社(もののべじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の式内社「越後國 頸城郡 物部神社」です かつては 武士(もののふ)村に鎮座し 山王権現〈日吉神〉と呼ばれていました その後 田中村新田に遷座 昭和46年4月 圃場整備事業のため現在地〈南田中〉に遷座しました
物部神社(上越市清里区南田中)〈延喜式内社 物部神社(もののへの かみのやしろ)〉
「越後國 三嶋郡 物部神社」
・二田物部神社(柏崎市西山町)
物部神社(もののべじんじゃ)は 祭神 二田天物部命は 天香山命に奉仕て 高志国(越国)に天降りしたと云う 二田を献上する者がおり その地に居を定め その里を「二田」と称したと伝え 命は薨(こう)じて 二田の土生田(はにゅうだ)の高陵に葬られたと云う 延喜式内社 越後國 三嶋郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)です
二田物部神社(柏崎市西山町二田)〈『延喜式』物部神社〉
「佐渡國 雑太郡 物部神社」
・物部神社(佐渡市小倉)
物部神社(もののべじんじゃ)は 穂積朝臣老(ほづみのあそみおゆ)が養老二年(722)佐渡配流の謫居二十年の間 小祠に物部氏の祖神゛宇麻志麻治命゛を祀り 祈り続けたと云う 『續日本紀』〈延暦10年(791)物部天神 従五位下〉と神位の奉叙が記されている 延喜式内社 佐渡國 雑太郡 物部神社(もののべのかみのやしろ)です
物部神社(佐渡市小倉)〈『續日本紀』物部天神・『延喜式』物部神社〉
山陰道
「丹波國 船井郡 嶋物部神社」
・荒井神社(南丹市八木町美里字荒井)
荒井神社(あらいじんじゃ)は 創建年代は不祥ですが『三代實録』元慶6年(882)丹波國 荒井神に従五位を授けると記され 又 この付近には延喜式内社 丹波國 船井郡 嶋物部神社(しまもののへの かみのやしろ)があったとされるが その所在は不明となっていて 荒井神社は嶋物部神社の有力候補と云われます
荒井神社(南丹市八木町美里字荒井)〈『三代實録』荒井神『延喜式』嶋物部神社〉
「丹後國 與謝郡 物部神社」
・物部神社(与謝野町石川)
物部神社(もののべじんじゃ)は 創建年代は不祥ですが 『朝野群載』承暦四年(1080)に 御卜〈天皇の身体を亀甲で卜い 卜兆に現れたところを奏上する儀式〉にて゛丹後國 物部神の神祟あるを以て社司に中祓を科す゛と記されており 神威ある神社でした 延喜式内社 丹後國 與謝郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)です
物部神社(与謝野町石川物部)〈延喜式内社 物部神社〉
「但馬國 城崎郡 物部神社」
・韓國神社(豊岡市城崎町)
韓國神社(からくにじんじゃ)は 第25代 武烈天皇の命を受け 物部眞鳥(もののべのまとり)が 韓國へ派遣された後 但馬の楽々浦に着き 都へ報告に上った その功績により 韓國連を賜わり 物部韓國連眞鳥と称し その子・墾麿(こま)は 城崎郡司に任命され その孫・物部韓國連 鵠(くくひ)が創建した物部神社とされます
韓國神社(豊岡市城崎町飯谷)〈延喜式内社 物部神社〉
「石見國 安濃郡 物部神社」
・物部神社(大田市)石見国一之宮
物部神社(もののべじんじゃ)は 大和朝廷が出雲の勢力を牽制するために 御祭神の宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)が 大和の地から物部氏の一族をひきいて尾張・美濃・越国を平定され さらに播磨・丹波を経て石見国に入り この地に宮居を築かれ 祖神として祀られたものと伝わります
物部神社(大田市)〈延喜式内社・石見國一之宮〉
山陽道
「播磨國 明石郡 物部神社」
・可美真手命神社(押部谷町細田)
可美真手命神社(うましまでのみこと じんじゃ)は 成務天皇十九年(149)に創建されたと伝えられる 延喜式内社 播磨國 明石郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)とされ 又 天平勝宝六年(754)摂津国住吉大社の社家「津守連」が楯神・鉾神と共に住吉大神を勧請したと伝えられる押部谷 住吉神社 最初の鎮座地です
可美真手命神社(押部谷町細田)〈延喜式内社 物部神社〉
・惣社(神戸市西区伊川谷町)
伊川谷惣社(いかわだに そうしゃ)は 神功皇后が三韓征伐の帰途 明石川から伊川を船でのぼり ここで一休みして「大国主命をここに祀れ」と命じたのが創始であると伝わります 『国内鎮守大小明神社記』では 延喜式内社 播磨國 明石郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)としています
伊川谷惣社(神戸市西区伊川谷町上脇)〈延喜式内社 物部神社〉
西海道
「壱岐島 石田郡 物部布都神社」
・物部布都神社跡(壱岐市郷ノ浦町田)〈旧鎮座地〉
物部布都神社跡(もののべふつじんじゃ あと)は 延宝四年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で 式内社と比定された物部村に鎮座していた布都ノ宮〈物部布都神社〉の跡地です 昭和40年(1965)5月 天手長男神社に合祀されました
物部布都神社跡(壱岐市郷ノ浦町田)〈『延喜式』物部布都神社〉
・天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町)〈物部布都神社を合祀〉
天手長男神社(あまのたながおじんじゃ)は 鎌倉時代の元寇により荒廃 その後廃絶し 所在も不明となっていました 延宝4年(1676)平戸藩主の命により藩の国学者 橘三喜が 現地の地名「たなかを」から(たながお)推定し比定したものです それ以前は 天手長男神社の由緒は無いとされていた 櫻江村 若宮と云われた式外社でした
天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町田中触)〈壱岐嶋一之宮〉
・國津神社(壱岐市郷ノ浦町)
國津神社(くにつじんじゃ)は 三つの式内社の論社〈『延喜式神名帳927 AD.』所載 壱岐嶋 石田郡・国津神社(くにつかみのやしろ)・津神社(つの かみのやしろ)・物部布都神社(もののへのふつの かみのやしろ)〉とされます 神功皇后が「異国退治して無事帰朝せれば この所の守護神と成る」との伝説があります
國津神社(壱岐市郷ノ浦町渡良浦)〈延喜式内社〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
名鉄岐阜駅からR256号を北へ3.5km 車での所要時間は9~15分程度 長良川の手前に岐阜公園があります
岐阜公園から 金華山の山頂 岐阜城に至る水手道経由で約500mの登り道 徒歩での所要時間15~25分程度 途中の丸山の山頂にあります
当日は名古屋方面から車で 岐阜市内を北上してすると 岐阜城が見えてきました
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金華山の西北の麓に位置する 岐阜公園に到着しました
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岐阜公園から金華山(稲葉山)に築かれた「岐阜城」跡へ向かう「水手道(みずてみち)」〈かつての登城路〉を登っていきます
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「水手道(みずてみち)」〈かつての登城路〉は 現在は 金華山登山道「めい想の小径」〈総延長2300m 所要時間 約60分〉と呼ばれていて 多くの人々が登山を楽しんでいます
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今回の目的地「丸山神社〈伊奈波神社 旧蹟〉」は 「水手道(みずてみち)」の途中 ここから500m程の距離の山道を上がった 丸山の頂上にあります
図を見る限り 五回ほどのつづら折れの山道です
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通行止め箇所を避けて山へと入ります
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「水手道(みずてみち)」は 往時のままの狭い道が つづら折れながら上がって行きます
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「水手道(みずてみち)」は 岐阜城が活動の場であった中世 以来大きな変化はなく 続いている景色なのだろうと思っていると
「もともと地上に道はない 魯迅」の案内板が掲げられています 想わず納得してしまう看板でした
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しかし これは
「もともと地上に道はない 歩く人が多くなれば それが道になる」という言葉で 中国の作家・魯迅の短編小説『故郷』(1921年)の〈最後の部分〉結びの言葉です 希望も最初からあるものではなく 多くの人が同じ方向へ進み続けることで実現される という意味です
この「水手道(みずてみち)」もかつて「岐阜城」への登城路として 多くの人々が歩いて 道となったもの といった意味で掛けられているのでしょうか
すると 今度は「金華山の地質」の解説板があり チャートという硬い岩石〈ガラス質の殻を持つ方散虫というプランクトンの遺骸が 深海底に蓄積してできた岩石〉は 約2.6億年~2.3億年前に 南半球の赤道付近に堆積し プレート移動で北上してきたものとあり 金華山がチャートという硬い岩石 で出来ていると書かれています
岩肌が露出していると想っていましたが それも納得できました
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そうこうしていると「丸山 まるやま(伊奈波神社伝承地)」と云う案内板があり
丸山神社〈伊奈波神社 旧蹟〉(岐阜市赤ケ洞)に参着
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現地は 岩盤の露出した平地となっていて 現在は社殿などは建っていません
天文8年(1539年)斎藤道三(さいとうどうさん)による稲葉山城(いなばやまじょう)の築城により現在の場所へ遷されたと伝わります
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烏帽子岩(えぼしいわ)と社号標「伊奈波神社旧蹟」があります
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烏帽子岩(えぼしいわ)は 御神石とされていて
昭和初期ごろまでは 烏帽子岩(えぼしいわ)の背後に社殿があったことが写真からわかります
※現地の案内板の写真より
※現地の案内板の写真より
烏帽子岩(えぼしいわ)にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
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烏帽子岩の背後には かつての社殿の基石があります
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ここ丸山の山頂からは「水手道(みずてみち)」から分岐して岐阜城に向う道があり 岐阜城への近道として使われていた可能性がある「馬の背登山道」があります
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今回の目的は 丸山神社〈伊奈波神社 旧蹟〉ですので 岐阜城には向かわずに 烏帽子岩(えぼしいわ)に一礼をして 「水手道(みずてみち)」を下ります
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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 物部神社について 所在は゛岐阜稻葉山に在す、古今 因幡明神と稱す゛〈現 伊奈波神社(岐阜市伊奈波通)の相殿〉としていますが
様々な考証の結果 伊奈波神について 伊奈波神と物部神は別神にて 式外社と想える と推察しています
【抜粋意訳】
物部神杜
物部は毛乃々倍と訓べし
○祭神 五十瓊敷入彦命、淳熨斗姫命、日葉酢姫命、十千根命、〔社説〕
○岐阜稻葉山に在す、古今 因幡明神と稱す、
○日本紀、垂仁天皇十五年八月壬午朔、立 日葉酢媛命爲 皇后、〔中略〕生 三男二女、第一曰 五十瓊敷入彦命、三十九年十月、是後 命 五十瓊敷命 卑主 石上神宮之神寳、八十七年二月丁亥朔辛夘、五十瓊敷命、謂 妹大中姫 曰、我老也、不能掌 神賓、自 今以後、必汝主焉、遂大中姫命授 物部十千根大連 而令治、云云、
神主縣則満云、因幡明神は延喜式 物部神社と舊記にあり、然れども土岐齋藤の乱に、因幡山に城を築の時、當社も今の處に遷す、其後 信長公居城し時、井之口を岐阜、因幡山を金花山と地名をさへ改められ、猶又 三七郎殿大乱にて、明白ならぬ事多しと云り、
〔連胤〕按るに、紀伊國 伊都郡 丹生都比女神社を、古今 天野明神と稱する例なるべし、神位
續日本後紀、承和十二年七月辛酉、美濃國厚見郡 無位 伊奈波神、奉授 從五位下、依 國司等解状也、
三代實録、貞観十一年十二月五日戊子、授 美濃國從五位上 伊奈波神 正五位下、元慶二年九月十六日戊申、授 美濃國 正五位下否間神正五位上、同四年十一月九日己未、授 美濃国正五位下 伊那波神 從五位下、
本國神名帳、正一位伊那波大神、〔連胤〕按るに、本國神名帳、從五位下物部明神、同物部財主明神、同物部財公明神とあるは別神にて、式外社と思はれたり、
【原文参照】
鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015
鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 物部神社について 所在は記していません
祭神について゛三野後國造の同族、物部氏の祖神を祭る゛として 考証しています
【抜粋意訳】
物部(モノノベノ)神社、
盖 三野後國造の同族、物部氏の祖神を祭る、〔舊事本紀、東大寺古文書、〕
〔○按新抄格勅符云 聖武天皇 神龜元年、射園神に美乃地一戸を充て神封とす、又按 績日本紀、物部用善に物部射園連姓を賜ふ、是に據らは、射園連は物部連の同族にして 物部神 或は射園神と同じき歟、未だ明証を得ず、姑く附て考に備ふ、〕
【原文参照】
栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 物部神社について 所在は゛因幡神社合殿゛〈現 伊奈波神社(岐阜市伊奈波通)の相殿〉としていますが
様々な考証の結果 定まっていない と結論付けています
【抜粋意訳】
物部神社 因幡神社合殿
祭神
祭日 三月三日
社格所在
今按 岐阜稻葉山因幡神社の傳說に 式内物部神社合殿にますとみえ 美濃名細記にも因幡社の條に物部神社云々 伊奈波神叙位の事を記して疑を存せり
さて同書に正一位因幡社 垂仁天皇之皇子 五十瓊磯城入彥命 日葉酢媛ノ命 渟熨斗媛ノ命 物部ノ十千根大連とあり
神社覈錄に神主 縣則滿云 因幡明神は延喜式物部神社と舊記にあり 然れども織田信長公の時 井之口を岐阜 又 因幡山を金花山と改められたるを以て 明白ならぬ事となれりとみえ
名細記に土俗傳云 此ノ神被封ニ因幡國敕シテ自ニ陸奥 金石を取來て 止ニ此地云々 附會之説歟 伊奈波山 又 稱ニ金花山者陸奥國 金花山を形容て稱之歟とある説ともをとり 總て考るに先づ 開化天皇の皇子を日子坐王と云ひ 其御子に丹波比古多々須美知宇王あり 神大根ヲ王 亦名 八瓜入日子、王あり美知能宇斯ノ王の御女を比婆須比賣ノ命と云ふ 垂仁天皇の大后となりまして 印色之入日子ノ命を生玉へり 印色之入日子ノ命は書紀 垂仁天皇巻に三十九年十月 五十瓊敷命居ニ於 芽渟莵砥川上ノ宮作ニ劔一千口、云々 是後 命ニ五十瓊敷命、俾、主ニ石上ノ神宮之神實ヲ本注に一云云々 是時,楯部。倭文部。神弓削部。神矢作部。大穴磯部。泊橿部。玉作部。神刑部。日置部。太刀佩部。並十箇ノ品部ヲ賜ニ 五十瓊敷皇子云々
八十七年〔五十瓊敷命妹 大中姫ノ命に石上神寶を掌らしめ玉ひし時のことを云る條に〕然テ大中姫命授テ 物部十千根ノ大連ニ、而令 治故 物部連至ニ于今ニ石上ノ神寶 是其縁也とみえたるのみにて 此美濃國に由なきが如くなれども 外會父 日子坐王の子 美知能宇王は稲葉ノ國造となり玉ひ 其弟神 大根王は三野國造 本巢ノ國造の組にて 因幡美濃兩國に所祿あり 故に土俗の傳に被封ニ因幡國とは云りしにて 外祖の御ことを誤り傳へたるものとみえたり 斯れば實は三野ノ國造 本巢ノ國造のゆかりによりて 其ノ御兄にます美知能宇斯ノ王 及御女なる比婆須比賣命を祭りて 伊奈波神と稱へ奉り五十瓊敷命 其御妻 渟熨斗姬ノ命 及 物部十千根ノ連を祭りて 物部神社と稱へて各社なりけんが 後に故ありて二社を一社に合せ祭りしより 或いは伊奈波神は物部ノ神社の如く 物部神は伊奈波神社の如くにも聞ゆるばかりになりこしものなるべし さて五十瓊敷命は石上神社の神寶を主り十筒の品部を掌り玉へるを以て 物部ノ神と云ひ 又 御妹 大中姫の其神寶を十千根をも合せ祭れるにやあらんかかれば因幡神社傳に 物部神社合殿にますと云る據ありて聞ど 確証を得ざれば 今定めがたし
【原文参照】
教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
丸山神社〈伊奈波神社 旧蹟〉(岐阜市赤ケ洞)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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美濃国(みののくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 美濃国には 39座(大1座・小38座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
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