眞名井神社(まないじんじゃ)は 約2500年前の姿を残して祀られている゛磐座(いわくら)〈古代祭祀場〉゛が 社殿の奥に坐します 延喜式内社 丹後國 與謝郡 籠神社(このかみのやしろ)(名神大月次新嘗)の発祥地゛奥宮゛です ゛眞名井原゛と呼ばれる境内には 御神水゛天の眞名井の水゛が滾々と湧き出て 神代と呼ばれる時代から豊受大神が鎮座されています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
〈籠神社 奥宮〉眞名井神社(Manai shrine)
【通称名(Common name)】
眞名井神社
豊受大神 元津宮なり
古名 匏宮 吉左宮 与謝宮
一云 天吉葛宮
一云 比沼眞名井
一云 久志濱宮
一云 元伊勢大元宮現地石碑文より
【鎮座地 (Location) 】
京都府宮津市字大垣小字諸岡86
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
・眞名井神社
《主》豊受大神(とようけのおほかみ)
《配》罔象女命(みづはのめのみこと)
彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)
伊射奈岐大神(いざなぎのおほかみ)
伊射奈美大神(いざなみのおほかみ)
〈奥宮磐座〉
・磐座主座
《主》豊受大神(とようけのおほかみ)
《相殿》罔象女命(みづはのめのみこと)
彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)
神代五代神(かみよいつつよのかみ)
・磐座西座
《主》天照大神(あまてらすおほかみ)
伊射奈岐大神(いざなぎのおほかみ)
伊射奈美大神(いざなみのおほかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社 奥宮
・丹後國一之宮
・旧国幣中社
・別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
真名井原 縁起
上古の世 丹波國未だ分れず丹波と稱す 造花の霊勝 天梯立眼下に連なり 内は阿蘇海を抱き 外は与謝海蒼々として日本海に開く 東の海中に冠島沓島神容を現し 天神の示現日子日女を祀りて常世嶋とも稱す 此処東北に神体山を背負へる奇しき一劃あり 即ち元初の天神降り来ませる処 真井原にして 今太古の磐座存す 東座は地上僅に現れると雖も 生命根源の神 又御饌の神とも
申す豊受大神鎮まり給ふ 大神は宇宙の一気発する大元のケの神にして 時に月神に化し 或は海神とも現じてその働き変幻す 之の神は籠宮祝部海部直の祖 丹波道主王の娘八乙女が齋き祭りしとぞ伝ふ 瑞兆機に応じて表はれ背後の山峡に狭霧立たば 水気根源の玄妙を思うべく真名井の水を手に結び 又之の山に藤の花咲ば 神霊の気醞醸化現して 芳秀現世に寄さし給ふを知る 真井原に神気発する時 風東より西に吹くと云えり げに大神を祭る神事 懿徳天皇四年甲午に始まりて古へ藤祭と稱し 欽明朝以後の葵祭の濫觴たり 之の山を天香具山又藤岡或は比沼の真井とも云ふは 命名の深秘ありて 其の心は御生れの神事なり
豊受大神 東正中に鎮まるに対し 西座に鎮まる雄大な磐座は 大八州国生みの元神 伊射奈岐伊射奈美二神の体にして 日神此の処に所生すと伝へて日之小宮と云ふ 伊射奈岐の神は 天浮橋を樹てて磐座の女神に通ひ 以来之の磐座は鶺鴒石とも申し 岐美二神和して坐す 即ち天橋立は神人通行の梯にして古は籠宮の境内参道と為す 神代に天上なる天真名井を挟みて 日神素尊 誓約して三女神五男神を生めり 其れを地上に求むれば 之の真名井原ならむと伝ふ 実に此の処両個の磐座は 天地日月水火陰陽併祭の源基にして 民族の霊覚の象徴大和心の発祥なり 崇神帝の御宇 天照大神 倭の笠縫邑より真井原に遷移し豊受大神と同殿に鎮まり吉佐宮と申す 二神は高天原の幽契に依りて離る可からざる事 一神にして二座二神にして 一座の秘傅嚴として 籠宮に存す 是籠宮を元伊勢と申す事の元なり 中書に曰く 天子の大社は 必ず霜露風雨を受く以て天地の精気に達せんが為なりと 真名井社 今に神代の風儀を遺す 天下萬民心あらば来り詣でて 世界平和を祈り 灼然の靈気に浴されん事を
平成二年庚牛旧五月五日
丹波國造八十ニ代 元伊勢籠神社宮司 海部光彦 敬白
現地石碑文より
籠(この)神社 (古称 吉佐宮(よさのみや))
御祭神 彦火明命
相 殿 豊受大神 天照大神
海 神 天水分神神代の昔より奥宮真名井原に豊受大神をお祀りして来ましたが、その御縁故によって崇神天皇の御代に天照大神が大和国笠縫邑からおうつりになり、之を吉佐宮と申し、豊受大神と共に四年間お祀り致しました
その後天照大神は垂仁天皇の御代に、又豊受大神は雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢におうつりになりました それに依って當社は元伊勢と云われております
両大神がおうつりの後、天孫彦火明命を主祭神とし、社名を籠宮と改め、元伊勢の社、又丹後国一之宮として朝野の崇敬を集めてきました
現地案内板より
【由 緒 (History)】
伊勢神宮元宮(古称 與佐宮)
延喜式内 山陰道一之大社 丹後國一宮 籠神社
御祭神
彦火明命 (元伊勢一の宮)(天照御魂神)相 殿
天御中主神
天照大神(豊受大神)
海 神 (豊玉姫命)
天水分神(水神)例祭 四月二十四日 葵祭ト称ス
摂社 (奥宮)眞名井神社
御祭神 豊受大神
相 殿 伊弉諾尊例祭 十月十五日
境内神社
蛭子社 天照皇大神社
春日社 猿田彦命社寶物古文書
一、 藤原佐理郷筆額面勅額 重要文化財
一、 小野道風筆 額面 勅額
一、 蘭陵王古面 文蔵主作
一、 丹後國一宮深秘 建武年中書写
一、 籠神社祝部海部直氏系図 國寶
一、 石造狛犬二基 鎌倉時代建造 重要文化財現地案内板より
籠(この)神社由緒
御祭神 天照國照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)
神代と呼ばれる遠くはるかな昔から 奥宮の地 眞名井原に匏宮と申して豊受大神をお祀りして来ました。その御縁故によって第十代崇神天皇の御代に天照大神が大和国笠縫色からお遷りになり、天照大神と豊受大神を吉左宮という宮号でご一緒に四年間お祀り申し上げました。その後天照大神は第十一代垂仁天皇の御代に、又豊受大神は第二十一代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢にお還りになりました。それに依って当社は元伊勢と呼ばれております。
例大祭 葵祭 四月二十四日
葵祭は欽明朝以前は藤祭を呼ばれ、第四代懿徳(いとく)天皇四年に始まったと伝えられています。
御朱印帳説書より
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・社殿
・磐座主座
《主》豊受大神(とようけのおほかみ)
《相殿》罔象女命(みづはのめのみこと)
彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)
神代五代神(かみよいつつよのかみ)
・磐座西座
《主》天照大神(あまてらすおほかみ)
伊射奈岐大神(いざなぎのおほかみ)
伊射奈美大神(いざなみのおほかみ)
・産盥(うぶたらい)
・狛龍・石碑文
・御霊水 天の真名井の水
・社頭
・一の鳥居・〈社号標〉外宮大元宮吉佐宮
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・眞名井神社は 籠神社の奥宮です
・丹後國一之宮〈元伊勢〉籠神社(宮津市字大垣)
籠神社(このじんじゃ)は 宮司は83代も続く 海部(あまべ)家〈「国宝 籠名神社祝部海部直氏系図」あり〉その祖神゛彦火明命゛が゛籠船゛に乗り 海神の宮へ行かれた故事により゛籠゛の社名となります 正式名称は「丹後一宮 元伊勢 籠神社」一般呼称は「元伊勢籠神社」と呼ばれる由緒正しき古社です
〈元伊勢〉籠神社(宮津市字大垣)〈丹後國一之宮〉&天橋立
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『續日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承
丹後國 籠神として 神位の奉授が記されます
【抜粋意訳】
卷十九 嘉祥二年(八四九)二月庚戌〈廿五〉
〇庚戌
大宰府言。對馬嶋司解稱。此嶋居海中。地近新羅。若有機空者。何以備不虞。望請。停史生一員。置弩師一員。依請許之。』陰陽寮言。今年疫癘可滋。又四五月應有洪水者。勅。頃來染疫之人。往々夭亡。夫護防之恃。實頼冥威。存濟之方。亦期梵力。宜令五畿内七道諸國。奉幣名神。兼復於國分二寺及定額寺。一七ケ日。晝轉經王。夜禮觀音。如法修行。必呈靈感。』
此日 奉授に 丹後國 籠神に 從五位下を
【原文参照】
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
丹後國 籠神として 神位の奉授が記されます
【抜粋意訳】
卷九 貞觀六年(八六四)十二月廿一日甲戌
○廿一日甲戌
授丹後國 從五位上 籠神 正五位下
【原文参照】
【抜粋意訳】
卷二十 貞觀十三年(八七一)六月八日癸未
○八日癸未
授に丹後國 正五位下 籠神に 從四位下を
復 美濃國 土岐惠奈兩郡百姓調庸一年
【原文参照】
【抜粋意訳】
卷卅二 元慶元年(八七七)十二月十四日庚辰
○十四日庚辰
授に
丹後國 從四位下 籠神に 從四以上
因幡國 正五位下 賀露神 從四位下
丹後國 正六位上 村岡神 從五位下
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻1 四時祭上 六月祭十二月准 月次祭
月次祭(つきなみのまつり)『広辞苑』(1983)
「古代から毎年陰暦六月・十二月の十一日に神祇官で行われた年中行事。伊勢神宮を初め三〇四座の祭神に幣帛を奉り、天皇の福祉と国家の静謐とを祈請した」
大社の神304座に幣帛を奉り 場所は198ヶ所と記しています
【抜粋意訳】
巻1 四時祭上 六月祭十二月准 月次祭(つきなみのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並大社 一百九十八所
座別に絁五尺、五色の薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、倭文纏刀形(まきかたなかた)、絁の纏刀形、布の纏刀形各一口、四座置一束、八座置一束、弓一張、靫(ゆき)一口、楯一枚、槍鋒(ほこのさき)一竿、鹿角一隻、鍬一口、庸布一丈四尺、酒四升、鰒、堅魚各五両、腊二升、海藻、滑海藻、雑の海菜各六両、堅塩一升、酒坩(かめ)一口、裹葉薦五尺、祝詞(のとこと)座料短畳一枚、
前一百六座
座別絁五尺、五色薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、四座置一束、八座置一束、楯一枚、槍鋒一口、裹葉薦五尺、
右所祭之神、並同祈年、其太神宮(かむのみや)、度会宮(わたらひのみや)、高御魂神(たかむすひのかみ)、大宮女神(おほみやめのかみ)には各加ふ馬一疋、〈但太神宮、度会宮各加籠(おもつを)頭料庸布一段、〉
前祭五日、充忌部九人、木工一人を、令造供神調度を、〈其監造并潔衣食料、各准祈年、〉祭畢即中臣の官一人率て宮主及卜部等を、向て宮内省に、卜の定供奉神今食に之小斎人(みのひと)を、
供神今食料
紵一丈二尺、〈御巾料、〉絹二丈二尺、〈篩(ふるい)の料、〉絲四両、〈縫篩等料、〉布三端一丈、〈膳部巾料、〉曝布一丈二尺、〈覆水甕料、〉細布三丈二尺、〈戸座襅(へさたまき)并褠料、〉木綿一斤五両、〈結ふ御食(みけ)料、〉刻柄(きさたるつか)の刀子二枚、長刀子十枚、短刀子十枚、筥六合、麁(あら)筥二合、明櫃三合、御飯、粥料米各二斗、粟二斗、陶瓼(すえのさかけ)[如硯瓶以上作之]瓶【瓦+并】(かめ)各五口、都婆波、匜(はふさ)、酒垂各四口、洗盤、短女杯(さらけ)各六口、高盤廿口、多志良加[似尼瓶]四口、陶鉢八口、叩盆四口、臼二口、土片椀(もひ)廿口、水椀八口、筥代盤(しろのさら)八口、手洗二口、盤八口、土の手湯盆(ほん)[似叩戸采女洗]二口、盆(ほとき)四口、堝十口、火爐二口、案(つくえ)十脚、切机二脚、槌二枚、砧二枚、槲四俵、匏廿柄、蚡鰭(えひのはた)槽[供御手水所]二隻、油三升、橡の帛三丈、〈戸の座服の料、冬絁一疋、綿六屯、履一両、〉
右供御の雑物は、各付内膳主水等の司に、神祇官の官人率神部等を、夕暁(よひあかつき)両般参入内裏に、供奉其の事に、所供雑物、祭訖て即給中臣忌部宮主等に、一同し大甞会の例に、
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻2 四時祭下 新嘗祭
新嘗祭(にいなめのまつり)は
「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくを意味する 収穫された新穀を神に奉り その恵みに感謝し 国家安泰 国民の繁栄を祈る祭り
式内大社の神304座で 月次祭(つきなみのまつり)に准じて行われ
春には祈年祭で豊作を祈り 秋には新嘗祭で収穫に感謝する
【抜粋意訳】
巻2 四時祭下 新嘗祭(にいなめのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
座別に 絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両四座置1束 八座(やくら)置1束 盾(たて)1枚 槍鉾(やりほこ)1竿
社別に庸布1丈4尺 裏葉薦(つつむはこも)5尺前一百六座
座別に 幣物准社の法に伹 除く 庸布を
右中 卯の日に於いて この官(つかさ)の斎院に官人 行事を諸司不に供奉る
伹 頒幣 及 造 供神物を料度 中臣祝詞(なかとみののりと)は 准に月次祭(つきなみのまつり)に
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
【抜粋意訳】
名神祭 二百八十五座
・・・
・・・大川神社一座 籠神社一座 大虫神社一座 小虫神社一座 大宮売神社二座〈已上丹後国〉
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)丹後國 65座(大7座・小58座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)與謝郡 20座(大3座・小17座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 籠神社(名神大月次新嘗)
[ふ り が な ](このかみのやしろ)
[Old Shrine name](Ko no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
丹波國の元伊勢『吉佐宮』(伝承地)について
元伊勢(もといせ)とは 伊勢神宮〈皇大神宮(内宮)・豊受大神宮(外宮)〉が 現在地へ御遷座される以前に 遷座の伝承を持つ神社・場所を云います
その内の 皇大神宮(内宮)の丹波國『吉佐宮』(伝承地)について
国名 | 伝承地(地名) | 伝承地の論社 | |
『止由気宮儀式帳』 | 『倭姫命世記』 | 現在の論社 | |
丹波国 | 吉佐宮 | 真名井神社〈籠神社摂社〉 (宮津市字中野) |
|
(但波国) | (4年) | 皇大神社 (福知山市大江町内宮) |
|
笶原神社 (舞鶴市紺屋) |
|||
竹野神社 (京丹後市丹後町宮) |
・眞名井神社〈籠神社奥宮〉
眞名井神社(まないじんじゃ)は 式内社 丹後國 與謝郡 籠神社(このかみのやしろ)(名神大月次新嘗)の発祥地゛奥宮゛で゛眞名井原゛と呼ばれる境内には 御神水゛天の眞名井の水゛が滾々と湧き出て 神代と呼ばれる時代から の姿を残す゛磐座(いわくら)〈古代祭祀場〉゛が 社殿の奥に祀られ坐します
〈元伊勢〉眞名井神社〈籠神社 奥宮〉(宮津市字大垣小字諸岡)
・元伊勢内宮皇大神社(福知山市大江町内宮)
・笶原神社(舞鶴市紺屋)
・竹野神社(京丹後市丹後町宮)
・皇大神宮(内宮)
皇大神宮(こうたいじんぐう)は 私たち日本人の総氏神「伊勢へ行きたい 伊勢路が見たい せめて一生に一度でも」と全国の人々で賑わう伊勢詣が有名です 通称を゛伊勢の内宮(ないくう)゛鎮座は゛垂仁天皇26年〈今から2000年前〉 御祭神は゛皇祖神 天照大御神゛御神体は皇位のしるし三種の神器の一つ゛八咫鏡(やたのかがみ)゛です
皇大神宮〈内宮〉(伊勢市宇治館町)〈伊勢神宮〉
豊受大神宮(伝承地)について
元伊勢(もといせ)とは 伊勢神宮〈皇大神宮(内宮)・豊受大神宮(外宮)〉が 現在地へ御遷座される以前に 遷座の伝承を持つ神社・場所を云います
その内の 豊受大神宮(伝承地)について 遷幸順に
国名 | 伝承地(地名) | 伝承地の論社 | |
『止由気宮儀式帳』 | 『倭姫命世記』 | 現在の論社 | |
丹波国 | 比治真奈井 | 与佐之小見比治之魚井原 | 比沼麻奈為神社 (京丹後市峰山町久次字宮ノ谷) |
(与謝郡比冶山頂麻奈井原) | 奈具神社 (京丹後市弥栄町船木) |
||
真名井神社〈籠神社摂社〉 (宮津市字中野) |
|||
豊受大神社 (福知山市大江町天田内) |
|||
藤社神社 (京丹後市峰山町鱒留) |
|||
摂津国 | 大神木神社〈假宮・姫宮〉(吹田市山田市場) (旧:摂津国三島郷大神木) |
||
伊勢国 | 度会宮 | 山田原宮 | 豊受大神宮 (伊勢市豊川町) |
・比沼麻奈為神社(京丹後市峰山町久次)
比沼麻奈為神社(ひぬまないじんじゃ)は 式内社 丹後國 丹波郡 比沼麻奈為神社(ひぬまなゐの かみのやしろ)の論社 社傳には 第21代雄略天皇の夢の御告げ「丹波国比沼の真名井原に坐す吾が御饌の神 豊受大神をば 吾許に呼寄せたい」があり 大佐々命を丹波国に遣わし 現在の伊勢(外宮)に御遷座あらせらた跡宮であると伝えます
〈元伊勢〉比沼麻奈為神社(京丹後市峰山町久次字宮ノ谷)
・奈具神社(京丹後市弥栄町船木 奈具)
・眞名井神社〈籠神社奥宮〉
眞名井神社(まないじんじゃ)は 式内社 丹後國 與謝郡 籠神社(このかみのやしろ)(名神大月次新嘗)の発祥地゛奥宮゛で゛眞名井原゛と呼ばれる境内には 御神水゛天の眞名井の水゛が滾々と湧き出て 神代と呼ばれる時代から の姿を残す゛磐座(いわくら)〈古代祭祀場〉゛が 社殿の奥に祀られ坐します
〈元伊勢〉眞名井神社〈籠神社 奥宮〉(宮津市字大垣小字諸岡)
・豊受大神社(福知山市大江町天田内)
豊受大神社(とゆけだいじんじゃ)は 第21代雄略天皇の御代に丹波国から伊勢神宮外宮に遷宮された゛豊受大神゛を祀ると伝わる 元伊勢伝承地の1つで 通称名を゛元伊勢外宮゛と呼びます 又 その境内を比沼の真名井ケ原と称したことから 延喜式内社 丹後國 丹波郡 比沼麻奈為神社(ひぬまなゐの かみのやしろ)の論社でもあります
〈元伊勢外宮〉豊受大神社(福知山市大江町天田内船岡山)
・藤社神社(京丹後市峰山町鱒留)
藤社神社(ふじこそじんじゃ)は 崇神天皇の御代 比治山に降臨された豊受大神を祀ったのが始まりとされ 古老の伝には 丹波道主命の創始とも伝えられます 雄略天皇二十二年に伊勢に奉遷された゛伊勢外宮の元宮゛とされる 延喜式内社 丹後國 丹波郡 比沼麻奈為神社(ひぬまなゐの かみのやしろ)の論社です
〈元伊勢〉藤社神社(ふじこそじんじゃ)(京丹後市峰山町鱒留)
・豊受⼤神宮(外宮)
豊受大神宮(とようけだいじんぐう)は 今から約1500年前 内宮の御祭神 天照大御神のお食事を司る御饌都神(みけつかみ)として 丹波国から現在の地にお迎えされました 御饌殿では 今日も神々に食事を供える日別朝夕大御饌祭が続けられています 内宮に対して外宮と並び称され 衣食住 産業の守り神としても崇敬されています
豐受大神宮〈外宮〉(伊勢市豊川町)〈伊勢神宮〉
詳しくは
元伊勢(もといせ)伝承地をたずねて
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
丹後國一之宮〈元伊勢〉籠神社(宮津市字大垣)に参着
・丹後國一之宮〈元伊勢〉籠神社(宮津市字大垣)
籠神社(このじんじゃ)は 宮司は83代も続く 海部(あまべ)家〈「国宝 籠名神社祝部海部直氏系図」あり〉その祖神゛彦火明命゛が゛籠船゛に乗り 海神の宮へ行かれた故事により゛籠゛の社名となります 正式名称は「丹後一宮 元伊勢 籠神社」一般呼称は「元伊勢籠神社」と呼ばれる由緒正しき古社です
〈元伊勢〉籠神社(宮津市字大垣)〈丹後國一之宮〉&天橋立
境内の裏手から 約550m 徒歩10分程度
途中にある沢は゛真名井川゛で 真名井原のご神体山から流れ出ます
眼下に 阿蘇海が広がり 天橋立の松原が見渡せます
そこから数十メートル進むと 眞名井神社の一の鳥居が建ちます
一礼をして 一の鳥居をくぐります
社号標には 元伊勢の社号゛外宮大元宮吉佐宮゛と刻字がなされています
鳥居をくぐると 標識があり 眞名井神社まで200mとあります
ここからも゛天橋立゛が良く見えています
〈籠神社 奥宮〉眞名井神社(宮津市中野)に参着
社号標は
一方には゛眞名井神社゛
一方には゛匏宮大神宮゛と元伊勢の社号の二つがあります
境内に入るとすぐに 御霊水 天の真名井の水があります
狛犬ではなく 狛龍が構えていて水神を物語っています
石碑文もあります
鳥居が建ち 一礼をして参道の石段を上がります
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥に 本殿の覆い屋が続いています
現在は ここから奥は玉垣が廻されていて立ち入りが禁止 写真も撮影禁止になっています
社殿の奥には 磐座が祀られています
・磐座主座
《主》豊受大神(とようけのおほかみ)
《相殿》罔象女命(みづはのめのみこと)
彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)
神代五代神(かみよいつつよのかみ)
・磐座西座
《主》天照大神(あまてらすおほかみ)
伊射奈岐大神(いざなぎのおほかみ)
伊射奈美大神(いざなみのおほかみ)
社殿に一礼をして 参道を戻ります
一の鳥居まて戻ると天橋立に霧がかかっていました
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 籠神社 名神大月次新嘗について 所在は゛板列府中村に在す゛〈現 籠神社〈元伊勢〉(宮津市字大垣)〉と記しています
【抜粋意訳】
籠神社 名神大月次新嘗
籠は古毛利と訓べし
〇祭神 住吉一躰〔一宮記〕
〇板列府中村に在す、〔舊事記〕一名籠守権現、〔一宮記、頭注〕
〇式三、〔臨時祭〕名神祭 二百八十五座、〔中略〕丹後国 籠神社一座
〇當國一宮也〔一宮記〕
〇永万記云、籠宮主基、神位
續日本後紀、
嘉祥二年二月庚戌、奉レ授ニ 丹後國籠神從五位下
三代實錄、
貞観六年十二月廿ー日甲戌、授ニ 丹後國從五位上籠神正五位下
同十三年六月八日癸未、授ニ 丹後國正五位下籠神從四位下、
元慶元年十二月十四日庚辰、授ニ 丹後國從四位下籠神從四位上、雑事
朝野群載云、永曆四年六月十日、奏龜卜御盤御卜、〔中略〕坐ニ丹波國籠神云云、社司等依過ニ穢神事祟給、遣レ使科ニ中祓、可レ令ニ祓清奉仕事、〔下略〕宮主正六位上行少祐卜部宿禰兼宗 ,中臣從六位下有大祐大中臣朝臣惟維、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 籠神社 名神大月次新嘗について 所在は゛今 府中庄大垣村にあり、籠守大明神と云ふ゛〈現 籠神社〈元伊勢〉(宮津市字大垣)〉と記しています
又 海部氏が代々 神主を勤めるとも記しています
【抜粋意訳】
籠(コモリノ)神社
今 府中庄大垣村にあり、籠守大明神と云ふ、
即 丹後の一宮也、仁明天皇 嘉祥二年二月庚戌、從五位下を授奉り、〔續日本後紀、〕
清和天皇 貞観六年十二月甲戌、從五位上籠神に正五位下を加へ ,十三年六月癸未、從四位下を賜ひ、陽成天皇元慶元年十二月庚辰、從四位上に叙され〔三代實錄〕
醍醐天皇 延喜の制、名神大社に列り、月次新嘗の幣帛に預り、〔延喜式〕
白河天皇 承曆四年六月 御卜に籠神の祭事を穢せる祟あるを以て、社司に中祓を科せしむ、〔朝野群載〕
〔〇按 本書丹波四神とする者誤れり、故に之を訂す、下の物部神も又同じ〕
伏見天皇 正應元年に至て、本社神田凡四十六町、朔幣田十一町ありき、凡 每年四月中酉日祭を行ふ、之を葵祭と云ふ〔〇按 後拾遺和歌集に、俊網丹後守に侍ける頃、彼国臨時祭の使にて藤の花を頭挿て侍けるを見て詠る、・・・〕
世々 海部直氏を以て神主とす、・・・・・
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 籠神社 名神大月次新嘗について 所在は゛大垣村゛〈現 籠神社〈元伊勢〉(宮津市字大垣)〉と記しています
【抜粋意訳】
籠(コモリノ)神社 名神大月次新嘗
祭神 天之水分神(アメノミクマリノカミ)
今按 式内神社道志流倍に籠字和名抄 籠和名古とあり守を そへたるは後 世のことなりコモリコモルの義に非ず 社の左東の川をコカハともコノ川とも云 卽籠ノ川なり 祭神 度會延經考證また神名記などに天水分神とあり 古事記博にも天水分神なりと云と云ひ 平田篤胤も師説にもたれて云るは誤れり扨 水分神とは祝詞にも見えたる如く山々の口より下し玉ふ水とあるに此社 前は直に海なり後は成相山なり 府中七村は田面少く 皆旱ヶ所のみなり 水分神の有べき所に非ず 故考るに此神社は風土記に見えたる天立橋の縁起に依て 其神霊を鎮祭りたるなるべし
風土記云 謝興郡郡家ノ東北隅方ニ有ニ連石里此里之海有ニ 長大石前長二千二百二十九丈 廣或所ニ十丈以上二十丈以下 先キニ名ニ天梯立 後ニ名ニ久志濱 然云者(シカユフハ)國生(クニウミノ)大神 伊射奈藝(イザナギノ)命天ニ爲ニ通行 而作ヲ立タマフ故云ニ天梯立 神御寝坐ル間ニ仆伏シキ云々古事記傳に云 此に囚ば此浮橋もと此神の作り坐しなりさて天に通の橋なれば梯階にて立て有しを神の御寝坐る間に仆れ横はりて 丹後ノ國の海に遣れるなり云々とあり 故に籠神社は其神霊を祭りしならんとは思ふなり此神社梯立の其所にありて 前は直に與謝海なり限なき風景なれども 昔の森は悉田畑と成りていと冷(スサ)まじけなり 橋立も大に景色を損じ 近年中より断て二つの如くなりぬ 後世いかにならんずらん計りがたし云々と云るは天之水分神と云ふ説に比すればまされるに似たり 故今附て後考に備ふ
神位
仁明天皇 嘉祥二年二月庚戍奉レ授ニ丹後國籠神從五位下
清和天皇 貞観六年十二月二十一日甲戌授ニ丹後ノ國從五位下籠ノ神從五位上 籠神正五位下 十三年六月八日祭未授ニ丹後國正五位下籠神從四位下
陽成天皇元慶元年十二月十四日庚辰授ニ丹後國從四位下籠神從四位上祭日 四月二午日
社格 國幣中社所在 大垣村 (與謝郡府中村大字大垣 )
【原文参照】
〈籠神社 奥宮〉眞名井神社(宮津市中野)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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丹後国(たんごのくに)の式内社とは 平安時代中期 「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧『延喜式神名帳』〈927年朝廷編纂『延喜式』(律令の施行細則 全50巻)の巻9・10を云う〉に所載される 丹後国65座(大7座・小58座)の神を云います
丹後国 式内社 65座(大7座・小58座)について
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日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です
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