久須々美神社(くずずみじんじゃ)は 社伝に「元は 今の蔵堂橋の南のたもとに鎮座 伊豫氏(伊与戸)の氏神であった」が明治初めに現在地〈村屋坐弥冨都比賣神社 境内摂社〉に遷されました《式内社》大和国 城下郡 久須須美神社(くすすみの かみのやしろ)とされます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
久須須美神社(Kuzuzumi shrine)
〈村屋坐弥冨都比賣神社 境内摂社〉
[通称名(Common name)]
・若宮(わかみやじんじゃ)
・恵比寿神社(えびすじんじゃ)
【鎮座地 (Location) 】
奈良県磯城郡田原本町大字蔵堂423〈村屋坐彌冨都比賣神社 境内〉
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天之久之比神(あめのくしひのかみ)〈天目一箇命〉
事代主神(ことしろぬしのかみ)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・倭鍛冶の祖と商売繁盛の神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 村屋坐弥冨都比賣神社 境内摂社
【創 建 (Beginning of history)】
田原本町 歴史遺産 神々を訪ねて
延喜式内社 旧城下郡蔵堂 久須々美神社
祭神 天之久之比神 事代主神
経津主、大国主神の子、事代主神であることから、若宮とも呼ぶ。
元は、今、蔵堂橋の南のたもとに鎮座、伊豫氏(伊与戸)の氏神であった。
この神社の南を南市場垣内(現 森屋垣内)北を北市場垣内と言う。更に南へ行くと、幸市、市町等の小字が残る。古道、中ッ道と筋違道の初瀬街道と交わる位置にある事から、本社祭禮に近郷から参拝者が多く、地の産物を供え、残りを交換し合って市場が出来たと云われている。天正(1573-91)の頃、織田信長と遠(十)市氏の戦いで兵火に会い、市場衰退し、田原本藩ができる事によって、商人が移住、ますます寂れることになった。明治の初めに、現在の位置に移される。
祭禮は十二月二十三日、夕刻 青竹の先に鯛を二匹と大根、人参を吊して神饌とする。いわゆる三夜祭が行われていた。
本社祭禮には、壬申の乱の功があった三神を巡る渡御が行われていた。事代主神と云われるこの久須々美神社と、大安寺の森市神社(生霊神)を巡り、本社へもどっていた。
元弘年間(1331-3)の兵火で社地没収され、渡御は廃絶し、現在にいたっている。
文 村屋坐弥冨都比賣神社 守屋広尚 宮司久須々美神社の建築について
切妻造 妻入り 見世棚造 庇付カラー鉄板葺である。柱間48.5㎝位の社殿で、自然石の基壇上に土台を廻し、方柱を建てる。柱天端は直接桁を受けている,中央板扉両開き、他面板壁、見世棚下部は正面のみ板壁、他面解放である。身舎、庇部分共板軒で、屋根勾配の緩い小社である。
文 田原本町文化財保護審議委員会会長 林清三郎
平成21年度 No.6 田観56 田原本町観光協会現地案内板より
【由 緒 (History)】
久須々美神社
倭鍛冶の祖と商売繁盛の神を祀る(別名:恵比須神社)
延喜式内社 旧 式下郡 蔵堂
祭神 天之久之比神(アメノクシヒノカミ)
事代主神(コトシロヌシノカミ)大国主神の子、事代主神であることから、若宮とも呼ぶ。
天之久之比神は、天津彦根命の御子にして天目一箇命(アメノマヒトツノミコト)の別名である。(『古史傳』・姓氏録)太玉命に属隷して天孫降臨の時、金工として從った倭鍛冶等の祖である。このことから、この地域に大陸から移って来た渡来人の技術者が多数住居していたたことが考えられる。元は、今の蔵堂橋の南のたもとに鎮座、伊豫氏(伊予戸氏)の氏神であった。
この神社の南を南市場垣内(現森屋垣内)北を北市場垣内という。更に南へ行くと、幸市・市町等の小字が残る。
古道・中ツ道と筋違道の初瀬街道と交わる位置にあることから、本社祭礼に近郷から参詣者が多く、地の産物を供え、残りを交換し合って市場が出来たと云われている。天正(1573-91)の頃、織田信長と十市氏の戦いで兵火に合い、市場衰退し、田原本藩ができることによって、商人が移住、ますます寂れることになった。明治の初めに、現在の位置に移される。
祭禮は12月23日、夕刻 青竹の先に鯛を2匹と大根、人参を吊るして神饌とする三夜祭が現在も行われている。
本社祭禮には、壬申の乱の功があった三神を巡る御渡が行われていた。事代主神を云われるこの久須々美神社と、大安寺の森市神社(生霊神)を巡り、本社にもどっていた。元弘年間(1331-3)の兵火で社地没収され、御渡りは廃絶し、現在にいたっている。建築について
切妻造妻入り見世棚造庇付カラー鉄板葺である。柱間48.5cm位の社殿で、自然石の基壇上に土台を廻し、方柱を建てる。柱天端は直接桁を受けている,中央板扉両開き、他面板壁、見世棚下部は正面のみ板壁、他面解放である。身舎、庇部分共板軒で、屋根勾配の緩い小社である。
村屋坐弥冨都比賣神社公式HPより
http://murayajinja.com/sessha/kushushumijinja/
【境内社 (Other deities within the precincts)】
久須々美神社(田原本町蔵堂)は 村屋坐彌冨都比賣神社の境内摂社です
・村屋坐彌冨都比賣神社(田原本町蔵堂)
村屋坐彌冨都比賣神社(むらやにますみふつひめじんじゃ)は 祭神は大物主命の妻神 三穂津姫命で 大神神社の別宮とされます 壬申の乱(673)の時には 村屋神が 天武天皇を勝利に導く神託を下し 神社として初めて位階を皇室から賜りました《式内社》大和國 城下郡 屋坐彌冨都比賣神社(大月次相嘗新嘗)(むらやにます みふつひめの かみのやしろ)です
村屋坐彌冨都比賣神社(田原本町蔵堂)
村屋坐彌冨都比賣神社(むらやにますみふつひめじんじゃ)の摂社について
境内・境外に鎮座する式内社が多くあります
【境内社 (Other deities within the precincts)】
本殿の向かって右には
摂社・村屋神社(むらやじんじゃ)《式内社》
・村屋神社(田原本町蔵堂)〈村屋坐彌冨都比賣神社境内摂社〉
村屋神社(むらやじんじゃ)は 社伝に「元は大宮から200mほど東 初瀬川の川べり宮山と字する所に鎮座されていたが 天正の兵火後 今の地〈村屋坐彌冨都比賣神社 境内〉に遷し祭る」と伝わります《式内社》大和国 城下郡 村屋神社 二座(むらやの かみのやしろ ふたざ)です
村屋神社〈村屋坐彌冨都比賣神社 境内摂社〉(田原本町蔵堂)
本殿の向かって左には
摂社・服部神社(はとりじんじゃ)《式内社》
・服部神社(田原本町蔵堂)〈村屋坐彌冨都比賣神社 境内摂社〉
服部神社(はとりじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される古社です 社記によれば 旧鎮座地は 現在地より西2kmばかりの所に 大安寺村 字 神来森(カキノモリ)という土地があり そこに鎮座して波登里(ハトリ)村・阿刀(アト)村の氏神であったが 天正中(1573年~1591年)社殿兵火に罹り後 村屋坐社の本殿横の瑞垣の中に遷座して現在に至ります
服部神社(村屋坐彌冨都比賣神社 境内摂社)
拝殿の向かって左には
摂社・久須々美神社(くすずみじんじゃ)《式内社》
・久須須美神社(田原本町蔵堂)〈村屋坐彌冨都比賣神社 境内摂社〉
久須々美神社(くずずみじんじゃ)は 社伝に「元は 今の蔵堂橋の南のたもとに鎮座 伊豫氏(伊与戸)の氏神であった」が明治初めに現在地〈村屋坐弥冨都比賣神社 境内摂社〉に遷されました《式内社》大和国 城下郡 久須須美神社(くすすみの かみのやしろ)とされます
久須須美神社〈村屋坐弥冨都比賣神社 境内摂社〉(田原本町蔵堂)
摂社・物部神社(もののべじんじゃ)
《主》炊屋姫命 宇麻志摩遅命《配》物部守屋連
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
摂社・岐多志太神社(きたしたじんじゃ)《式内社》
・岐多志太神社(田原本町伊与戸)
岐多志太神社(きたしたじんじゃ)は 社名の岐多志太は キタ氏の田という意味で ゛キタ゛ 即ち 鉄を鍛える鉄工の神 とされます 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の大和国 城下郡 岐多志太神社 二座(鍬靫)(きたしたの かみのやしろ ふたざ)とされます
岐多志太神社(磯城郡田原本町伊与戸)〈延喜式内社〉
摂社・森市神社・千代神社(ちしろじんじゃ)《式内社》
・森市神社・千代神社(田原本町大安寺)
森市神社・千代神社(もりいちじんじゃ・ちしろじんじゃ)は 『磯城郡誌』には「千代村に鎮座の春日神社に境内摂社であった式内社の千代神社が 洪水の為に流失して下流に流れ着き 現在は大安寺の森市神社の境内に祀られている」と記され『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載 大和國 城下郡 千代神社(ちしろの かみのやしろ)とされます
森市神社・千代神社(田原本町大安寺)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和国 286座(大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)城下郡 17座(大3座・小14座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 久須須美神社
[ふ り が な ](くすすみの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kususumi no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「久須々美神社」について
「久須々美神社」と同名の神社が 大和國と河内國にそれぞれ一社〈関連は不詳〉と記されています
大和國 城下郡 久須々美神社
・久須須美神社(田原本町蔵堂)〈村屋坐彌冨都比賣神社 境内摂社〉
久須々美神社(くずずみじんじゃ)は 社伝に「元は 今の蔵堂橋の南のたもとに鎮座 伊豫氏(伊与戸)の氏神であった」が明治初めに現在地〈村屋坐弥冨都比賣神社 境内摂社〉に遷されました《式内社》大和国 城下郡 久須須美神社(くすすみの かみのやしろ)とされます
久須須美神社〈村屋坐弥冨都比賣神社 境内摂社〉(田原本町蔵堂)
河内國 交野郡 久須々美神社 鍬
・片埜神社(枚方市)に合祀
片埜神社(かたのじんじゃ)は 社伝に 第11代垂仁天皇〈在位BC29~AD70年頃〉創建とある古社 延喜式内社 片野神社とされ 明治期に 延喜式内社 久須須美神社を合祀しています 戦国時代には兵火にかかり荒廃 天正11年(1583)豊臣秀吉公が大坂城の鬼門鎮護の社と定め 方位鬼門除けに霊験あらたかな社と世に知られます
片埜神社〈一の宮〉(枚方市牧野阪)〈延喜式内社〉
・久須々美神社の址
・九頭神廃寺跡
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
奈良盆地の東側を南北に走るJR桜井線の巻向駅 と 奈良盆地の中央を南北に走る近鉄橿原線の田原本駅との 中間地点辺り大和川の西岸
大和三道の一つ「中つ道」(橘街道)に面して鎮座する村屋坐彌冨都比賣神社(むらやにますみふつひめじんじゃ)の境内に祀られています
・村屋坐彌冨都比賣神社(田原本町蔵堂)
村屋坐彌冨都比賣神社(むらやにますみふつひめじんじゃ)は 祭神は大物主命の妻神 三穂津姫命で 大神神社の別宮とされます 壬申の乱(673)の時には 村屋神が 天武天皇を勝利に導く神託を下し 神社として初めて位階を皇室から賜りました《式内社》大和國 城下郡 屋坐彌冨都比賣神社(大月次相嘗新嘗)(むらやにます みふつひめの かみのやしろ)です
村屋坐彌冨都比賣神社(田原本町蔵堂)
村屋坐彌冨都比賣神社(むらやにますみふつひめじんじゃ)拝殿の向かって左
摂社・久須々美神社(くすずみじんじゃ)《式内社》に参着
社殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『五畿内志(Gokinaishi)』〈享保14年(1729~1734)編纂〉に記される伝承
江戸幕府による最初の幕撰地誌と見なされる『五畿内志(Gokinaishi)』
※著者の並河 誠所(Namikawa seisho)〈江戸時代中期に活躍した儒学者・地理学者〉は『五畿内志』を編纂する調査の過程で『畿内』の数々の延喜式式内社の比定も行こないました
【抜粋意訳】
中巻 大和志 城下郡 神廟の条
久須須美神社 在所未詳
【原文参照】
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
所在は不明 河内国に同名の類社有り と記しています
【抜粋意訳】
久須々美(クススミノ)神社
〇河内国 久須々美神社 在所未詳
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
所在 祭神について不明 と記しています
【抜粋意訳】
久須須美神社
久須々美は假字なり
〇祭神 在所 詳ならず
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
所在は 村屋坐弥冨都比賣神社 境内 と記しています
【抜粋意訳】
久須須美(クススミノ)神社
祭神 天之久之比命(あめのくしひのみこと)
事代主命(ことしろぬしのみこと)今按〈今考えるに〉
社伝 祭神二座の内 天之久之比命とあるは社号の久須須美と云るによりて 云出たる説にはあらじ歟(や)されど它(へび・ほか)に祭神の考もあらねば姑く社説に従う祭日 十一月二十三日 坐弥冨都比賣神社に同じ
所在 蔵堂村 坐弥冨都比賣神社 域内(磯城郡川東村大字蔵堂)
(明細帳に村屋坐弥冨都比賣神社 境内にあり無社格)
【原文参照】
久須須美神社〈村屋坐弥冨都比賣神社 境内摂社〉(田原本町蔵堂)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
大和国 式内社 286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)について に戻る
大和国(やまとのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 大和國の286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)の神社のことです
大和国 286座(大128座(並月次新嘗就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)