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国玉神社・八剱社合殿(名古屋市中川区富田町万場)〈『延喜式』國玉神社〉

玉神社・八剱社合殿(くにたまじんじゃ はちけんしゃあいどの)は 延喜式内社 尾張國 海部郡 國玉神社(くにたまの かみのやしろ)の論社です 佐屋街道(東海道の脇往還)沿い鎮座し 明治元年(1868明治天皇が東幸の際 勅使より奉弊を 明治五には郷社に列しています 現在は 國玉神社と八剱社が合殿(あいどの)となっています

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

玉神社・八剱社合殿(Kunitamajinja hachikensha aidono)

通称名(Common name)

万場の本社(まんばのほんしゃ)

【鎮座地 (Location) 

愛知県名古屋市中川区富田町万場字郷中113

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》大物主命(おものぬしのみこと)
   日本武命(やまとたけるのみこと)
   天照皇大神(あまてらすおほみかみ
   草薙御剣神霊(くさなぎのみつるぎしんれい)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

『富田村誌』に記される内容

【抜粋意訳】

大字萬塲

郷社 國玉神社

 醍醐天皇御宇(ミヨ)の延喜式に國玉神社と載せられ給ひて、年每に神祇官より奉幣を享けさせ給へる御社なり、また本國神名帳にも從二位國玉明神と載せられ給へり事は 上に委し、八劍社御相殿なり、 

また此御社に明治四十年より神饌幣帛料の供進に豫り給ふ。昔は境内 壹反前々除なり 燈明田参反貮畝貮拾八步 此内壹反五畝拾八步 御除地 壹反七畝拾步村除なり。
末社に天王社、春日社、日吉社、白山社の四社あり。

【原文参照】

富田村教員組合会 編『富田村誌』,富田村教育会,大正5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/950961

【由  (History)】

国玉神社・八社相殿

 創建は古く尾張志によれば、尾張大国霊神社(現在の稲沢市国府宮)より勧請したという。「延喜式神名帳」に国玉神社、「本国神名帳」に従位国玉神と記載されている式内社である。

 明治元年(一八六八)社を合祀。同年明治天皇が東幸の際、勅使より奉弊をける。同年近隣か村の郷社に、同四十年より神饌幣帛料の供進指定社となる。なお、拝殿等の屋根は昭和五十八年改修。

 祭神は、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、草薙御霊(くさなぎのつるぎみたま)、日本武尊(やまとたけるのみこと)。大祭は春五月五日、秋十月七日

 当社前の道は佐屋街道(東海道の脇往還)で、南西曲がり角は万場宿の高札場となっていた。

名古屋市教育委員会

現地立札より

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

国玉神社・八剱社合殿 本殿

〈本殿の左右に〈境内社〉神明社・白山社・春日社・津島社

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国玉神社・八剱社合殿 社殿

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国玉神社・八剱社合殿 拝殿

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・社頭

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)尾張國 121座(大8座・小113座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)海部郡 8座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 國玉神社
[ふ り が な ]くにたまの かみのやしろ
[Old Shrine name]Kunitama no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

゛國魂〈国玉〉神(くにたまのかみ)゛を祀ると想われる゛延喜式内社゛について

・國魂神・国靈神・国玉神とも書く

 古代の日本人は 国土には それぞれ神威〈靈〉が内在していて その神威〈靈威〉の盛衰が国の興亡をも左右する 國を治める神靈国魂(くにたま)゛であると考えており 国魂の霊威は 国土そのものの神霊を云う爲 国の支配権にも結び付いた信仰の形態となっていったと云う

延喜式内社 山城國 久世郡 水主神社十座(並 大 月次 新嘗・就中同 水主坐天照御魂神 水主坐山背大国魂命神 二座預相嘗祭)(みぬしの かみのやしろ)

・水主神社(城陽市水主宮馬場)

延喜式内社 大和國 山邊郡 大和坐大國魂神社 三座(並 名神大 月次 相嘗 新嘗)(おほやまとにます おほくにたまの かみのやしろ みくら)

・大和神社(天理市新泉町)

一緒に読む
大和神社(天理市新泉町)〈大和坐大國魂神社三座(並名神大 月次 相嘗 新嘗)〉

大和神社(おほやまとじんじゃ)は 延喜式内社 大和國 山邊郡 大和坐大國魂神社三座(並名神大 月次 相嘗 新嘗)です 創建は 第十代崇神天皇の御代 宮中内に天皇と同殿共床で奉斎の二大神(天照大神・大地主大神)の神威を畏れた爲 大地主大神を皇女 淳名城入姫命に勅し 市磯邑に移されたのが始りと伝わります

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延喜式内社 和泉國 日根郡 國玉神社(くにたまの かみのやしろ)

・國玉神社(泉南郡岬町深日)

一緒に読む
国玉神社(泉南郡岬町深日)〈『延喜式』國玉神社〉

國玉神社(くにたまじんじゃ)は 創建年代は不祥ですが 延喜式内社 和泉國 日根郡 國玉神社(くにたまの かみのやしろ)とされます 『續日本紀』に第48代 称徳天皇が 紀伊國に行幸された天平神護元年(765年)使を遣はして行宮を 和泉國に設けられた地は 深日(ふけ)であり 國玉神社の辺りと伝えられています

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延喜式内社 攝津國 東生郡 難破坐生國咲國魂神社二座(並 名神大 月次 相嘗 新嘗)(なにはにいます いくくにさき くにたまの かみのやしろ ふたくら)

・生國魂神社(大阪市天王寺区生玉町)

一緒に読む
生國魂神社(大阪市天王寺区生玉町)〈『延喜式』難破坐生國咲國魂神社〉

生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)は 祭神 生島神・足島神は 日本国土の神霊とされ『延喜式』には宮中神として 生嶋巫祭神 2座(並大月次新嘗)として祀られた神です 新天皇の即位儀礼の゛八十島神祭゛の主神とされました かつては現在の大坂城の地に鎮座していましたが 豊臣秀吉公が大坂城の築城の頃 現在地に遷座と伝わります

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延喜式内社 攝津國 莵原郡 河内國魂神社(寛大延・鍬靫)(かわちくたまの かみのやしろ)

・河内國魂神社(神戸市灘区国玉通)

一緒に読む
河内國魂神社〈五毛天神〉(神戸市灘区国玉通)〈『延喜式』河内國魂神社〉

河内國魂神社(かわちくにたまじんじゃ)は 延喜式内社 攝津國 莵原郡 河内國魂神社(寛大延・鍬靫)(かわちくにたまの かみのやしろ)の論社です 一説には摂津国造である九河内忌寸の祖 天御影命を祀っていたのであろうと云われますが 詳しくはわかりません 通称 五毛天神と呼ばれています

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・綱敷天満神社(神戸市東灘区御影)

一緒に読む
綱敷天満神社(神戸市東灘区御影)〈『延喜式』河内國魂神社(寛大延・鍬靫)〉

綱敷天満神社(つなしきてんまんじんじゃ)は 菅原家の祖神・天穂日命をお祀りするお社です 又 背後の丘陵地帯を御影山〈凡河内氏(凡河内国造)の祖神 天津彦根命 その御子 天御影命を祀る〉と云い この理由から 延喜式内社 攝津國 莵原郡 河内國魂神社(寛大延・鍬靫)(かわちくにたまの かみのやしろ)の論社とする説があります

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延喜式内社 伊勢國 度會郡 大國玉比賣神社(おほくにたまひめの かみのやしろ)

・堅田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

一緒に読む
堅田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

堅田神社(かただじんじゃ)〈内宮 摂社〉は 垂仁天皇25年(BC5)二見の地に巡幸された倭姫命に 佐見都日女命(さみつひめのみこと〈地主神〉)は 黙して堅塩(かたしお)を奉った これを祝して倭姫命は当地に堅田神社を定めたと創建伝説に云う 二つの式内社〈①大國玉比賣神社(おほくにたまひめの かみのやしろ)②榎村神社(えむらの かみのやしろ)〉の論社となっています 

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・宇治山田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

一緒に読む
宇治山田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉(御同座 那自賣神社〈内宮 末社〉)

宇治山田神社(うじようだじんじゃ)〈内宮 摂社〉は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 大國玉比賣神社(おほくにたまひめの かみのやしろ)の論社となっています 御同座に 那自賣神社(なじめじんじゃ)〈内宮 末社〉が祀られ 2社ともに 倭姫命が定めた神社であるとされています

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延喜式内社 伊勢國 度會郡 度會國御神社(わたらひの くにみかみの やしろ)

・度會國御神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

一緒に読む
度會國御神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

度会国御神社(わたらい くにみ じんじゃ)は  豊受大神宮(外宮)宮域内に鎮座する摂社です しかし かつての鎭座地は宮域外とされ『度會元長の内外宮諸社記』に 室町時代の文明(1469~1487)の頃までは 豊受大神宮の神域より堀を隔てた所〈現在の山田工作場の辺り〉と記載があり その後頽廃して社地を失い 正保二年(1645)に禰宜 常晨が その位置に再興したが 古今その旧社地には諸説があり定まっていません

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延喜式内社 伊勢國 度會郡 度會乃大國玉比賣神社(わたらひの をほくにたまひめの かみのやしろ)

・度會乃大國玉比賣神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

一緒に読む
度會乃大國玉比賣神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

度會大國玉比賣神社(わたらいおほくにたまひめじんじゃ)は 神武天皇の御代 伊勢国造の祖・天日別命(あめのひわけのみこと)が伊勢の國覓(くにまぎ)〈平定〉の時 地主神に梓弓を以て橋と為して出迎えられ 歓んで゛刀自に度り會ひぬ゛と云い度會の名を為したという故事を持つ古社で 中世時代にも頽廃せずに祭祀が継続されていた神社であったと伝わる 豊受大神宮(外宮)摂社です

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延喜式内社 伊勢國 多氣郡 大國玉神社(おほくにたまの かみのやしろ)

・大国玉神社(松阪市六根町)

一緒に読む
大國玉神社(松阪市六根町)〈『延喜式』大國玉神社〉

大国玉神社(おおくにたまじんじゃ)は 近世には御薗神社と称し近郷の氏神として人々の崇敬を集めていました 明治以降 延喜式内社 伊勢國 度會郡 大國玉神社(おほくにたまの かみのやしろ)とする説が有力視され 明治16年(1883)社名を御薗神社より大國玉神社に変更しています

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延喜式内社 尾張國 海部郡 國玉神社(くにたまの かみのやしろ)

・国玉神社・八剱社合殿(名古屋市中川区富田町大字万場字郷中)

一緒に読む
国玉神社・八剱社合殿(名古屋市中川区富田町万場)〈『延喜式』國玉神社〉

國玉神社・八剱社合殿(くにたまじんじゃ はちけんしゃあいどの)は 延喜式内社 尾張國 海部郡 國玉神社(くにたまの かみのやしろ)の論社です 佐屋街道(東海道の脇往還)沿い鎮座し 明治元年(1868)明治天皇が東幸の際 勅使より奉弊を享け 明治五年には郷社に列しています 現在は 國玉神社と八剱社が合殿となっています

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・津島神社(津島市神明)〈全国天王総本社〉

・居森社(津島市神明)
〈津島神社の境内 弥五郎殿の旧鎮座地〉

・彌五郎社(津島市神明)
〈津島神社の境内〉

延喜式内社 尾張國 中嶋郡 尾張大國霊神社(貞)(をはりおほくにたまの かみのやしろ)

・尾張大國霊神社(国府宮)

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尾張大國霊神社(稲沢市国府宮)〈尾張国総社〉

尾張大國霊神社(おわりおおくにたまじんじゃ)は 尾張地方の総鎮守神 農商業守護神 厄除神として広く信仰される神社です 奈良時代に国衛(こくが)に隣接して御鎮座していたので尾張国の総社と定められ 国司 自らが祭祀を執り行っていたので 一般には「国府宮神社」「国府宮」と呼ばれるようになり 通称「国府宮」として広く知られます

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延喜式内社 遠江國 磐田郡 淡海国玉神社(あはうみの くにたまの かみのやしろ)

・淡海國玉神社(磐田市見付)〈遠江總社〉

一緒に読む
〈遠江国総社〉淡海國玉神社(磐田市見付)〈『延喜式』淡海國玉神社〉

淡海國玉神社(おうみくにたまじんじゃ)は 延喜式内社 遠江國 磐田郡 淡海國玉神社(あはうみの くにたまの かみのやしろ)とされます 見附は國府であり 遠江国総社でした 一説には『三代實録』貞観七年五月八日の条にある゛淡海石井ノ神゛であると云い 見付の南に今浦と云う湖があった地から遷座したと伝わります

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延喜式内社 常陸國 眞壁郡 大國玉神社(おほくにたまの かみのやしろ)

・大國玉神社(桜川市大国玉)

一緒に読む
大國玉神社(桜川市大国玉)〈『續日本後紀』大國玉ノ神『延喜式』大國玉神社〉

大國玉神社(おおくにたまじんじゃ)は 社伝によれば養老年間(717~724年)の創立とされます 『続日本後紀』承和4年(837)3月の条に゛霊感甚だ大であるため 官社に預かる・同12年の条に゛従五位下を授く゛と記され 『延喜式』常陸國 眞壁郡 大國玉神社(おほくにたまの かみのやしろ)と載る由緒ある古社です

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延喜式内社 上野國 佐位郡 大國神社(おほくに かみのやしろ)

・大國神社(伊勢崎市境下渕名)

一緒に読む
大國神社(伊勢崎市境下渕名)

大國神社(おおくにじんじゃ)は 第十一代 垂仁天皇の御宇 朝廷から派遣された百済車臨が 御手洗池で手を洗う大国主命の化身である白頭翁と出会い大干魃(かんばつ)から救われた伝説により創建された その後 丹波国穴太郷より五媛の宮を奉遷合祀して五護宮・五后宮・第五姫大明神とも称した 延喜式内社 上野國 佐位郡 大國神社(おほくにかみのやしろ)とされます

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延喜式内社 陸奥國 磐城郡 大國魂神社(をほくにたま かみのやしろ)

・大國魂神社(いわき市平菅波宮前)

一緒に読む
大國魂神社(いわき市平菅波宮前)〈『延喜式』大國魂神社〉

大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)は 建許呂命(こたけころおのみこと)〈養老2年(718)石城国造に任命〉 の一族によって奉斎されたと云う 延曆年間(782~806)坂上田村磨の蝦夷征伐で 賊の平定にご神威があり 大社を築造して報賽したと伝わる 延喜式内社 陸奥國 磐城郡 大國魂神社(をほくにたまの かみのやしろ)です

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延喜式内社 能登國 能登郡 能登生國玉比古神社(のといくくにたまひこの かみのやしろ)

・能登生国玉比古神社〈気多本宮〉(七尾市)

一緒に読む
能登生国玉比古神社〈気多本宮〉(七尾市)羽咋の氣多大社の本宮

能登生国玉比古神社(のといくくにたまひこじんじゃ)は 上古 第8代 孝元天皇の治世〈BC 214~BC 15年頃〉創祀され 第10代 崇神天皇の御代〈BC 97~BC 30年頃〉羽咋の竹津浦に祭神を分霊し これが現在の能登国一之宮 気多大社(羽咋市)の創祀 当神社は 元宮としてその頃から 氣多本宮とも称したと伝わり この古事から 羽咋の氣多大社から当神社まで 平国祭「おいで祭」の神幸祭〈毎年3月18日~3月23日 5泊6日 50余名で巡行する神事〉が 現在も執り行われています

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・能登生國玉比古神社(中能登町)

一緒に読む
能登生國玉比古神社(中能登町金丸)能登の国魂の神「多気倉長命」を祀ります

能登生國玉比古神社(のといくくにたまひこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社 祭神 多気倉長命(タケクラナガノミコト)は 神代の昔 能登国に巡行された・大己貴命・ 少彦名命の2柱の神と協力して 国土を平定されたので「能登の国魂の神」と仰がれています 又 その姫神〈娘〉の伊豆目比売命(イズメヒメノミコト)は 少彦名命の妃(ヒ)となって 金丸村 村主の遠祖である菅根彦命を生み給わった伝えられていて 現在の神主家 梶井氏は その裔(エイ)とされます

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・能登部神社(中能登町)

一緒に読む
能登部神社(中能登町能登部上)

能登部神社(のとべじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社 祭神は 第10代 崇神天皇の皇子 大入杵命(オホイリキノミコト) 同じく能登部に鎮座する能登比咩神社には 妹の皇女 沼名木入比咩命(ヌナキイリヒメノミコト)が祀られていて 往古この地は 能登部兄村妹村と称され 両村の神社も 兄宮 妹宮とも 上宮 下宮とも称します ここ上宮は 加賀藩 初代藩主 前田利家公が深く崇拝し「兄宮の神域を侵すべからず」と掟書を記した高札を与えたと伝わります

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延喜式内社 出雲國 出雲郡 杵築大社〈名神大〉(きつきの おおやしろ)

・出雲大社〈大国主神を祀る〉

一緒に読む
出雲大社(出雲市)【前編】

出雲大社(いずも おおやしろ)は ”遠き神代に 国を譲られた”「大国主大神(おほくにぬしのおほかみ)」の偉業と その誠に感謝なさって 「天神(あまつかみ)」が 天日隅宮(あめのひすみのみや)を献上されたことに始まるとされています

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延喜式内社 淡路国 三原郡 大和大國魂神社(貞・名神大)(やまとのおほくにたまの かみのやしろ)

・大和大國魂神社(南あわじ市榎列上幡多)

一緒に読む
大和大國魂神社(南あわじ市榎列上幡多)〈淡路國二之宮〉

大和大國魂神社(やまとおおくにたまじんじゃ)は 文武天皇が慶雲元年(704)諸国印及諸社に下し賜われた゛銅印゛が今も存し『日本文徳天皇實録』仁寿元年(851)に官社に列したとあり 延喜式には淡路國 三原郡 大和大國魂神社(貞・名神大)(やまとの おほくにたまの かみのやしろ)゛と記される由緒ある古社です

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延喜式内社 阿波國 美馬郡 倭大國玉神 大國敷神社二座(やまとおほくにたまのかみ おほくにしきかみの やしろ ふたくら)

・医家神社(三好市池田町)

一緒に読む
醫家神社(三好市池田町マチ)〈式内社 倭大國玉神大國敷神社 二座の論社〉

医家神社(いけじんじゃ)は 兵火により 社伝・記録等を全て焼失の為 創建等不詳です 『延喜式神名帳(927 AD.)』所載 阿波國 美馬郡  倭大國玉神大國敷神社 二座(やまとおほくにたまのかみおほくにしきのかみのやしろ ふたくら)の論社となっています

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・磐坂神社(三好市池田町シンヤマ)
〈医家神社 旧鎮座地〉

一緒に読む
磐坂神社〈医家神社 旧鎮座地〉(三好市池田町シンヤマ)

磐坂神社(いわさかじんじゃ)は 医家神社(三好市池田町)の旧鎮座地であると伝わります 従って『延喜式神名帳(927 AD.)』所載 阿波國 美馬郡  倭大國玉神大國敷神社 二座(やまとおほくにたまのかみおほくにしきのかみのやしろ ふたくら)の旧鎮座地の論社となっています

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・倭大國魂神社(美馬市美馬町字東宮ノ上)

・倭大國敷神社(美馬市脇町拝原)

延喜式内社 壹岐嶋 石田郡 大國玉神社(おほくにたまの かみのやしろ)

・大國玉神社(壱岐市郷ノ浦町大原触)

一緒に読む
大國玉神社(壱岐市郷ノ浦町大原触)

大國玉神社(おおくにたまじんじゃ)は 社伝に 嵯峨天皇 弘仁二年(811)草創と伝わり 延宝四年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉で 式内社 大國玉神社(おほくにたまの かみのやしろ)と比定されました それ以前は 田原天神(たいばるてんじん)と称されていました

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・兵主神社(壱岐市芦辺町深江本村触)

一緒に読む
兵主神社(壱岐市芦辺町深江本村触)

兵主神社(ひょうすじんじゃ)は 元々は日吉山王と称し奉っていましたが 延宝四年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉によって 聖母神社〈現 聖母宮〉を日吉山王権現と査定し 現 兵主神社を聖母神社と査定して 式内社 壱岐郡 兵主神社 名神大と比定されました 其の後この処置が誤りであると藩も認め 聖母宮は元に戻りましたが 兵主神社はそのままと据え置かれています

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延喜式内社 對馬嶋 上縣郡 島大國魂神社(しまおおくにたまの かみのやしろ)

・嶋大國魂御子神社(対馬 佐須奈)

一緒に読む
嶋大國魂御子神社(対馬 佐須奈)

嶋大國魂御子神社(しまおおくにたまみこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「對馬嶋 上縣郡 嶋大國魂神御子神社」の有力な論社とされています 参道には 天然記念物であるムクロジと大杉の立派な御神木があります

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・島大國魂神社(対馬 豊)

一緒に読む
島大國魂神社(対馬 豊 白水山)〈旧 鎮座地〉

島大國魂神社は かつて 上対馬 豊(豊漁港)の北東にある 椎根島の白水山(シロミズヤマ)に鎮座していました〈旧 鎮座地〉 この白水山に続く海岸沿いは 不通浜(トオラズガハマ)と呼ばれて 神聖ゆえに近づくことすら許されず 禁足地としての掟が厳しく 立ち入ると大風が吹く 腹痛に見舞われる 災害が起きる さらに 白水山には老人が住んでおり そこで見聞きしたことを他言すると死んでしまう という伝承もあります 決して近づいてはならない神域です 下の写真は望遠にて撮影

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・那祖師神社・島大國魂神社・若宮神社(三社合祀)

一緒に読む
那祖師神社・島大國魂神社・若宮神社〈三社合祀〉

那祖師神社・島大國魂神社・若宮神社〈三社合祀〉は もともとは 豊(トヨ)の村人たちが 豊漁港の北東にある 椎根島の白水山(シロミズヤマ)に鎮座していた「島大国魂(シマオオクニタマ)神社の遥拝所」としていた処であったとされます ここに 旧 藩政時代 国主により「那祖師(ナソシ)神社」が建立されます やがて 島大国魂神社と 北東にあるナンガ浦〈豊と泉の中間辺り〉に鎮座する若宮(ワカミヤ)神社も合わせ 豊(トヨ)に鎮座する3社が合祀されて 現在に至ります

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・島大國魂神社(対馬 御岳)

一緒に読む
島大國魂神社(対馬 御岳)

島大國魂神社(しまおおくにたま じんじゃ)は 御岳(ミタケ)の山頂に磐座(イワクラ)があり かつては禁足地でした 山岳信仰〈修験道〉の霊場とされ た対馬北部の上県町「御岳(ミタケ)」は ・雄岳・雌岳・平岳が連なり 御岳と呼ばれます 対馬南部の「白嶽(シラタケ)」と並んで古くから知られた修験道の聖地です

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延喜式内社 對馬嶋 上縣郡 島大国魂神御子神社(貞)(しまおほくにたまのかみの みこの かみの やしろ)

・嶋大國魂御子神社(対馬 佐須奈)

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嶋大國魂御子神社(対馬 佐須奈)

嶋大國魂御子神社(しまおおくにたまみこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「對馬嶋 上縣郡 嶋大國魂神御子神社」の有力な論社とされています 参道には 天然記念物であるムクロジと大杉の立派な御神木があります

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・島御子神社(対馬 曽)

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島御子神社(対馬 曽)

島御子神社(しまみこじんじゃ)は 『延喜式神名帳〈927年〉』所載の「對馬嶋 上縣郡 嶋大國魂神御子神社」の論社ともなっています 六国史の記録としては『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』 貞観12年(870)3月5日 丁巳の条に「嶋御子神(シマミコノカミ)従5位上」と 對馬嶋(上縣・下縣)の式内社の神々とともに記されていて 対馬でも有数の由緒を持つ古社です

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・国本神社(対馬 瀬田)

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國本神社(対馬 瀬田)

国本神社(くにもとじんじゃ)は まさしく神社名に相応しい 対馬の国本の神を祀る古社です 六国史『日本三代実録』貞観12年(870)3月5日 丁巳の条には「国本神(クニモトノカミ)」として記されています 御祭神は『古事記』によれば 日本創成を語る「国生みの段」に 6番目に津島〈対馬〉が生まれていて その別名を「天之狭手依比売(アメノサデヨリヒメ)」であると記されています この神が対馬国の大本であるとわかります 

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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

地下鉄東山線 岩塚駅から県道115号を西へ約2.2km 車で6分程度

鳥居の両側に二つの社号標があります
向って右゛郷社 延喜式内 國玉神社゛
向って左゛郷社 相殿 八劔社゛

国玉神社・八剱社合殿(名古屋市中川区富田町万場)に参着

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一礼をして鳥居をくぐるとすぐに拝殿となります
向って左手に社務所があり 拝殿の手前には狛犬が座しています

拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には 幣殿 本殿があり 本殿の両脇には〈境内社〉神明社・白山社・春日社・津島社が祀られています

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社殿に一礼をして 境内を戻ります

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 國玉神社について 所在は゛在所詳ならず゛とあり 所在不明と記されています

【抜粋意訳】

國玉神社

 國玉は久爾陀麻と訓べし

○祭神 大國命、證〕

○在所詳ならず

 集説に、與中島郡 國霊社不同歟、以伊勢國 度會郡 大國玉社之例謂之、則此社 盖海部直祖神乎、と云るはいかやあらん、

類社
 和泉國 日根郡 國玉神社の條見合すべし

神位
 國内神名帳云、從二位 國玉名神、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 國玉神社について 所在は゛今 海東郡戸田庄万場村 八劔社の相殿に坐り、゛〈現 国玉神社・八剱社合殿(名古屋市中川区富田町万場)〉と記されています

【抜粋意訳】

尾張國 海部郡

國玉(クニタマノ)神社

〔〇按 尾張國内神名帳、國玉を太國玉に作る、〕

今 海東郡戸田庄万場村 八劔社の相殿に坐り、〔尾張式社確實記、愛知縣神社調、〕

大物主命を祀る、〔社傳説、尾張國内神名帳、

凡正月十五日、五月五日 十一月卯日 祭を用ふ、〔愛知縣神社調、〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 國玉神社について 所在は゛戸田庄萬場村 今属 海東郡(海東郡富田村大字萬場)゛〈現 国玉神社・八剱社合殿(名古屋市中川区富田町万場)〉と記されています

他の説として゛彌五郞殿宮是なりとあり 此宮は津島社内にあり゛〈現 〈津島神社の境内〉彌五郎社(津島市神明)〉を挙げています

【抜粋意訳】

國玉(クニタマノ)神社

祭神 大物主命

祭日 正月十五日 五月五日 十一月初卯日

社格 郷社

所在 戸田庄萬場村 今属 海東郡(海東郡富田村大字萬場)

 今按 尾張式内神社錄に 尾張地名考に 國玉の本因は今 彌五郞殿宮是なりとあり 此宮は津島社内にありて元祿文化の呈記に國玉神社と云ことみえず 確に確證なし
 但 萬場村 八劔社の相殿にます國玉神社は享祿三年棟札に國玉名神と記し既に明治元年に官帶使もありと云り 今之に因て決め記せり

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

国玉神社・八剱社合殿(名古屋市中川区富田町万場)ついて 式内社 國玉神社であるとして 郷社に列しています

【抜粋意訳】

〇愛知縣 尾張國 海東郡富田村字萬場

郷社 國玉神社 八劒社 合殿

祭神
 大物主(オホモノヌシノ)
 草薙御劒神霊(クサナギノ ミツルギノミタマ
 日本武(ヤマトタケルノ)
 天照大御神(アマテラスオホミカミ)

 創立年代詳ならずといへども、延喜式内社にして、
奉唱國内神名帳に「從二位 玉名神」と見え、参考に「天神、一本作正一位大國玉名神、式無名神之」と見えたり、
往昔は頗る大社なりしが、兵乱の為め衰徴して、明応年中より現状をなすに至れりと、式の玉神社は久しく不詳の二字を以て葬られつゝありしが、元治元年月、当社を以て式の國玉神社と定めらる、明治元年 八劒神社を合祀せるが、同年御東幸の際 勅使植松少將奉幣あり、五年五月八ヶ村の郷社に列せらる。
社殿は本殿、拝殿を具へ、境内地五百五十六坪(官有地第一種)あり

境内神社
 神明社 白山社 春日社 津島社

【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』上,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088244

国玉神社・八剱社合殿(名古屋市中川区富田町万場) (hai)」(90度のお辞儀)

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尾張国 式内社 121座(大8座・小113座)について に戻る

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尾張國 式内社 121座(大8座・小113座)について

尾張国(おわりのくに・をはりのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 尾張国には 121座(大8座・小113座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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