実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

駒形神社 本社(陸中一宮)

駒形神社 本社(こまがたじんじゃ ほんしゃ)は 「陸中国一之宮」とされていて 駒ヶ岳山頂に「奥宮」が鎮座します 古代には 付近一帯が軍馬の産地であったと考えられていて 御祭神「駒形神」は「馬の守護神」ともされています 馬頭観音や大日如来と神仏習合して 東日本の各地に勧請されて 広く信仰されていきます

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(shrine name)】

駒形神社 本社(komagata shrine)
(こまがたじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

 駒形さん

【鎮座地 (location) 】

岩手県奥州市水沢中上野町1-83(水沢公園内)

 [地 図 (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

奥宮の棟札に記された六柱の神 駒形大神

《主》天照大御神(amaterasu omikami)
   天常立尊(ameno tokotachi no mikoto)
   國狭槌尊(kunino sazuchi no mikoto)
   吾勝尊(akatsu no mikoto)=天忍穗耳尊
   置瀬尊(okise no mikoto)= 瓊瓊杵尊
   彦火火出見尊(hiko hohodemi no mikoto)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

・産業開発(社業繁栄)Industrial development
・交通安全 Pray for Traffic safety
・必勝祈願 Victory prayer
・合格祈願 Prayer for passing the exam
・方位除け You can rule out bad directions
・家内安全 Safe and comfortable home life
・良縁祈願 A desire to deepen connections and intimacy with good people
・厄除け  Prayer at an age considered a milestone in life
・心願成就 Realization of wish of heart

【格 式 (Rules of dignity) 】

・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
・ 陸中国一之宮
・ 別表神社

【創 建 (Beginning of history)】

創建は不詳 様々な伝承が現在に伝えられています

上古の代、関東に毛野一族が台頭し、赤城山を崇敬し、赤城の神を祀って上野平野を支配したが、後に上毛野国と下毛野国に分れ、下毛野氏は日光火山に二荒山神社を創建。

休火山を背景として奉祀されたもので、赤城火山の外輪山にも駒形山があり、二荒山神社の古縁起に『馬王』という言葉が散見する。

上毛野・下毛野氏は、勢力を北にのばし、行く先々に祖国に習い、休火山で外輪山を持つ形のいい山を捜し出し、連山の中で二番目の高峰を駒ケ岳又は駒形山と名付け、駒形大神を奉祀した。

奥州にも及び、胆沢平野から雄姿を目にし、山頂に駒形大神を勧請し、駒ケ岳と命名した。

これは、上毛野胆沢公によるものであり、時は雄略天皇の御代(456年ころ)であった。

このように全国の秀峰に祀られた駒形神社の中で、延喜式神名帳にあるのは宮城県栗原郡駒形根神社と当社の二社のみである。

当社が従四位下に神階を進めたのは、陸奥国胆沢城を創建した征夷大将軍坂上田村麻呂による崇敬の念の篤かったことから始まり、この鎮守府の度々の上奏によるものだった。

駒形という名称は、古く赤城神社をカラ社と呼んだ歌があり、コマをカラと歌った。当時の朝鮮は高麗朝時代であり、文化伝来の憧れの国でもあったのでコマということばを用い世間に誇示した。

箱根山縁起の箱根神社が 駒形神社を奉祀するのは、朝鮮から高麗大神を勧請したと記載しているのと同様である。

このように赤城の神は駒形の神とも言える。
坂上田村麻呂や源頼義・義家父子も駒形大神を篤く崇敬し、武運祈願成就した事実を知るにつけ、奥州に栄華を築いた藤原四代の崇敬も篤かった。

平泉より北上川を隔てて、東に望む束稲山は駒形山とも言う。
このことは峻険な駒ケ岳を度々登拝することは困難を来たす事もあり、この山に駒形大神を奉祀したと考えられる。

箱根縁起に藤原秀衡が銅をもって神像を鋳。
駒形の神を祀ったことは藤原氏がいかに崇敬の誠を捧げたか想像することが出来る。

かくして駒形神社の崇敬は華々しく、分社は東北各県より関東に亘り、その数、百余社に及んでいる。

公式HPより

【由 緒 (history)】

本 社 岩手県水沢市中上野町一 
奥 宮 岩手県胆沢郡金ヶ崎町西根字駒ヶ岳 
御祭神 駒形大神 

文徳天皇仁寿元年正五位 
清和天皇貞観4年従四位下(奥州最高の神階也)
延喜の制により小社と列せられる 

奥宮について 
往昔の奥宮は大日岳の頂上に鎮座していた。
大日岳とは現在の奥宮の鎮座地なる駒ヶ岳の南方に高くそびえる霊山で、現に駒形大明神と銘する神号碑がある。
この駒ヶ岳、大日岳は牛形山その他の山々とともに旧噴火山の外輪山を形成し、駒形山というのはこれらの連峰を総称したものであり、当社が最初大日岳に鎮座せられたというのは、この岳が連峯中の最高峰であったためである。

近世の奥宮は、現在地の駒ヶ岳の頂上に建造され建坪、3坪3分5厘、宝玉造で東北にむかっている。
この地、山陽は胆沢郡で伊達氏の旧領地であり、山陰は和賀郡で南部氏の旧領地であり、両氏領土の境界に鎮座せられそのうえ両氏の崇敬はなはだ厚かったから、神祠は両氏の公費営繕で20年ごとに改造されるというのが例であった。

本社について 
当社の社地は もと塩釜神社の鎮定地であったが、明治4年5月14日国幣小社に列せられた時、里宮、奥宮ともに交通不便の地にあるため県知事等の参向することもできかねる為、当時水沢県庁の所在地であった現社殿を仮遥拝所とした。
さらに明治7年社殿を大いに修理し正式の遥拝所とした。
さらに明治36年、神霊を山頂より遷座、
塩釜神社は同社の別宮なる春日神社に合祀して、社殿いっさい駒形神社に編入した。
本殿、拝殿はもと水沢城主留守宗利が寛永6年に建立したものであるが、安政6年火災に罹りことごとく烏有に帰したため、留守邦命文久3年再興したものである。
なかでも本殿は西磐井郡衣川村の大工熊谷萬吉が奉納した欅(けやき)の巨木一本ですべて作られた、三間社流造である。
さらに現社殿は、昭和8年奉遷三十周年を記念し総工費62600円(内務省補助32600円)をもって大修理、新築、社地の整備をし名実ともに陸中一の宮にふさわしい神社となったものである。

里宮について 
里宮は駒ヶ岳の山麓およそ12Kmへだてた金ヶ崎町西根字雛子沢に鎮座して戦前は境外末社として位置づけられていたが 現在は、新法に依り独立して祭典を行っている。
奥羽観蹟聞考誌によれば、奥宮の鎮座地は天下の霊山であり、山勢はなはだ峻険であるため登拝して御神霊を拝すること困難、さらに中腹のウガイ清水より先は女人禁制であったので、里人、老若婦人の参拝の便をはかり御神霊を勧請して奉斉したとある。
旧南部領岩崎にも 里宮があるが、今は当社との関係は絶えている。

「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]

【境内社 (Other deities within the precincts)】

 ・山神社(yama no kamisha)
 《主》大山衹神(oyamatsumi no kami)
    木花開耶姫神(konohanasakuya hime no kami)

山神社

木花開耶姫神は安産の神様です。
お宮の両側にある小さい枕のうち男の子を望む方は白、女の子を望む方は赤をお持ち帰りになり御家庭の神棚にお祀りして安産をお祈りします。
 お子様が無事誕生された時、紅白の枕二つにしてお返しする慣わしになっております。
大山衹神は山の神様です。山林業、木材及びその加工業、建設業の守護神としてひろく信仰されております。
  祭日 四月十二日
     十月十二日
 案内板より

・別宮 鹽竃神社(shiogama jinja)
 《主》鹽土老翁神(shiotsuchi no oji no kami)
    武甕槌神(takemikatsuchi no kami)
    経津主神(futsunushi no kami)

 《合》天児屋根神(ameno koyane no kami)
    比賣神(hime no kami)
    藤原鎌足朝臣(fujiwarakamatari no ason)

鹽竃神社

後冷泉天皇の御代(一〇五二年)源頼義・義家父子が安倍貞任を征伐しようとし、宮城県塩釜市の鹽竃神社に祈願し成就したので凱旋の後、水沢の地(現在の石田・大明神)に鹽竃大神を勧請した。
以来、当地方は塩釜村といわれ、また水沢市制(昭和二八年)の施行まで大字名に塩釜が残された。
 寛永六年(一六二九年)初代水沢城主留守宗利氏が当社を大修繕した。明和二年(一七六三年)第七代城主留守村義氏は石田・大明神の地より現在地に遷座して境内を整備し、領内の守護神と崇め、別当及び社家をおき祭祀にあたらせ当地方の一大名社とし、信仰をあつめた。
 安政六年(一八五九年)の大火により、全町ことごとく焦土と化し、社殿も類焼したため、文久三年(一八六三年)第十一代城主留守邦命氏が再興した。ことに本殿は戸阿内村の大工熊谷萬吉氏が上衣川村にあった直径七.八メートルの欅の巨木一本で仕上げた。今も駒形神社本殿として現存している。
 明治三六年、鹽竃大神は別宮春日神社に合祀し、鹽竃神社とし、駒ヶ岳山頂より御神霊を鹽竃神社に奉遷し駒形神社とした。

パンフレットより抜粋

・水沢招魂社(mizusawa shokonsha)
 《主》郷土出身の護国の英霊

この御社は 明治維新(戊辰戦争)以来この方大東亜戦争まで幾多の国難に際し年若くして尊き命を護国の華として捧げた郷土出身の英霊が奉斎されています。
別名郷土の靖国神社ともいいます。
 祭日 六月二日
 案内板より

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています 

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)The shrine record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)陸奥国 100座(大15座・小85座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)胆沢郡 7座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社名 ] 駒形神社
[ふ り が な  ](こまかたの かみのやしろ)
[How to read ](komakatano kamino yashiro) 

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

駒形神社(komagata shrine)は「奥宮」「2つの里宮」「本社」の構成について

駒形神社(komagata shrine)は もともとは金ケ崎町の駒ヶ岳山頂に駒形大神を奉祭したのが始まりですが「奥宮」「里宮」ともに交通不便の地にあったため 水沢の街中に鎮座していた塩釜神社の鎮定地(現在地)を遥拝所としたものです

詳細の経緯は

「奥宮」について

元々は駒ヶ岳の南方の大日岳山頂に奥宮がありました
近世になって駒ヶ岳山頂に遷座します
江戸時代には 仙台藩と盛岡藩の藩境界に駒ヶ岳がありましたので 20年ごとに両藩が交代で社殿を改築したと伝わります

「2つの里宮」について

駒ヶ岳は 山頂の奥宮は参拝の便が困難で 中腹のウガイ清水より女人禁戒の霊山でありましたので 仙台藩・盛岡藩は それぞれが駒ヶ岳の麓に山頂の神霊を勧請して里宮を造営しました

・仙台藩側の金ヶ崎の里宮
・盛岡藩側の岩崎の里宮

2つの里宮が鎮座します

駒形神社 里宮 の記事をご覧ください

 

「本社」について

明治期になり国家神道の元「国幣小社」となりますが 当時の水沢県県庁に近い鹽竈神社の本殿が仮遥拝所とされました(その時 鹽竈神社は境内社の春日神社に遷座します)
明治7年(1874)駒形神社の正式な遥拝所となり
明治36年(1903)山頂の神霊が遥拝所に勧請されて 駒形神社本社となります

もとの鹽竈神社は 社殿等一切が駒形神社に編入されて 境内別宮の春日神社に合祀されて「春日神社」から「鹽竈神社」社名改称されて今日に至ります

駒形の名の由来について

社伝によれば 元々は 4世紀頃 関東に毛野(けぬ)一族が台頭して 赤城山を崇敬し 赤城の神を祀って上野平野を支配したが 後に上毛野国と下毛野国に分れ 下毛野氏は日光火山に二荒山神社を創建した

この信仰は「休火山」を背景として奉祀されたもので 赤城の休火山の外輪山にも駒形山があり 二荒山神社の古縁起に「馬王」という言葉が散見して

やがて 東北方面に勢力を拡大していった「毛野(けぬ)一族」は その先々で 形のいい「休火山」を選び 駒ヶ岳と称して 駒形大神を奉祀していったと伝わります

そして この地に至り 胆沢平野からの雄姿を目にして 山頂に駒形大神を勧請し 駒ケ岳と命名したのが 当社の奥宮の始まりとされています

その後 駒形神社は雄略天皇の時代 崇神天皇末裔の上毛野胆沢公が大日岳(現経塚山)に駒形を祀ります

坂上田村麻呂は 征夷後に「蝦夷(emishi)の守護神」でもあったとされる駒形神社の神格昇格を申請します

その後 慈覚大師が 現在の駒ヶ岳山頂に社殿を建立(850年)と伝え 駒ヶ岳・牛形山・鷲ヶ森山とともに駒形山と総称された大日岳(現経塚山)の山頂には 現在も「駒形大明神」の古碑が残されています

駒形神社の春の例祭「 子供騎馬武者行列 」

5~10歳の子供達が鎧かぶとに身を固め 勇ましい姿で馬に乗り 市内を練り歩く子供武者行列です

前九年・後三年の役で源頼義・義家親子が駒ヶ岳(駒形神社の神体山)中腹に鏑矢を立てて 当地方の平安を祈り武勲をたてた故事に因んで 
子供の健やかな成長を願い神社に奉納する行事です

 

神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子 通常と雪景色の双方の写真を掲載します

JR水沢駅より徒歩15分 水沢公園の入口から

雪の中を境内へと進みます

駒形神社(komagata shrine)に到着

鳥居前です
雪をかぶった 石灯篭 狛犬が鎮座しています

5月 ツツジの咲いている 鳥居前です 全く同じ場所です

鳥居には 注連縄が張られて 扁額には「駒形神社」とあります
一礼してくぐります

参道は 神門 拝殿へと一直線に続いています

神門の手前左手に「手水舎」があり 清めます

神門には「駒形神社」と記された提灯 注連縄 御神紋の入った御簾 を一礼してくぐると

境内は広めで ゆったりとしています 真っ直ぐに石畳の参道が続き 正中を区別できる様にしてありますが 皆さん 何故か正中を歩んで進んでいきます

境内は 雪景色になると別世界です

拝殿の前 左右に2本の木が立ち 時折 雪を落としていて風情を感じます

5月はまったく 別の神社のような趣きです

拝殿にすすみます 扁額には「駒形神社 正三位勲一等男爵後藤新平」とあります

提灯には「國幣小社 駒形神社」とあり 本社が造営された根拠を書き記しています

賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

拝殿の脇から 本殿を仰ぎます
幣殿の屋根から つららが垂れて 近寄りがたく神々しい

5月は若葉が茂り 心地よい

すぐ脇には境内社が鎮座 お詣りします

・山神社(yama no kamisha)
 《主》大山衹神(oyamatsumi no kami)
    木花開耶姫神(konohanasakuya hime no kami)

・別宮 鹽竃神社(shiogama jinja)
 《主》鹽土老翁神(shiotsuchi no oji no kami)
    武甕槌神(takemikatsuchi no kami)
    経津主神(futsunushi no kami)

 《合》天児屋根神(ameno koyane no kami)
    比賣神(hime no kami)
    藤原鎌足朝臣(fujiwarakamatari no ason)

・水沢招魂社(mizusawa shokonsha)
 《主》郷土出身の護国の英霊

境内の南西 神門の横の位置に「社務所」があり 朱印・守札の授与所となっています

拝領して境内を後にします

鳥居をくぐり振り返り一礼

神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『日本文徳天皇実録(nihon montokutenno jitsuroku)』に記される伝承

『日本文徳天皇実録』(元慶3年(879年)完成)は 六国史の第五にあたり
平安時代に編纂された歴史書【文徳天皇の御代】[嘉祥3年(850)~天安2年(858)]の8年間を記録した文徳実録ともいい 編年体・漢文・全10巻

意訳
「 仁寿元年(851)9月2日 陸奥国の「駒形神」正五位下に神階を進む」

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス
『日本文徳天皇実録』元慶3年(879年)完成 選者:藤原基経/校訂者:松下見林 刊本刊本 ,寛政08年 10冊[旧蔵者]農商務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047714&ID=M2018040912122716848&TYPE=&NO=

『日本三代実録(nihon sandai jitsuroku)』に記される伝承

平安時代に編纂された歴史書 六国史の第六

意訳
「貞観4年(862)6月18日 陸奥国 正五位下「駒形神」従四位下を授かる」

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス
『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=

「陸中国一之宮」とされていて 駒ヶ岳山頂に「奥宮」が鎮座します 古代には 付近一帯が軍馬の産地であったと考えられていて 御祭神「駒形神」は「馬の守護神」ともされています

駒形神社(komagata shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

「全国 一之宮(Ichi no miya)」について に戻る 

一緒に読む
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」について

日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です

続きを見る

陸奥国 式内社 100座(大15座・小85座)について に戻る

一緒に読む
陸奥國 式内社 100座(大15座・小85座)について

陸奥国(むつのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 陸奥国には 100座(大15座・小85座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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