駒形神社(こまがたじんじゃ)は 延喜式に載る白羽官牧の地と伝えられ 社伝には゛往古沖で遭難した九十頭の馬の内一頭が岸にたどりついた地とされる 残りの馬は沖の御前岩(駒形岩)と化したと云う 白羽神社の元宮とされる゛とあります 延喜式内社 遠江國 蓁原郡 服織田神社(はとりたの かみのやしろ)の論社です
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
駒形神社(Komagata shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
静岡県御前崎市御前崎937
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天津日高日子穂々手見命(あまつひこひこほほでみのみこと)
豊玉毘賣命(とよたまひめのみこと)
玉依毘賣命(たまよりひめのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・海上安全・大漁満足、交通安全、家内安全、初宮詣、七五三詣、神前結婚式
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
駒形神社(こまがたじんじゃ)
御祭神
1.天津日高日子穂々手見命(あまつひこひこほほでみのみこと)
2.豊玉毘賣命(とよたまひめのみこと)
3.玉依毘賣命(たまよりひめのみこと)御神徳
1.山幸彦として知られる神様 (海上安全・大漁満足)
2.山幸彦の妻で、海神の娘 (良縁)
3.豊玉毘賣命の妹御由緒
往古沖で遭難した九十頭の馬の内一頭が岸にたどりついた地とされる。残りの馬は沖の御前岩(駒形岩)と化したと云う。白羽神社の元宮とされる。御祭典
例祭
10月連休の日曜日、稔りの秋の収穫に感謝するととも、皇室の弥栄、町内の発展、海上安全・大漁満足の祈願を込めて祭典が斎行されます。前日より町内6地区より木遣音頭・祭囃子も賑やかに6台の屋台が練られます。 また、町内小学生による浦安の舞の奉奏も行われ、午後は生後1、2歳の子供達の泣き声も賑やかで、また微笑ましく「神ころがし神事」が斎行され境内は賑わいます。春祭り
4月第3日曜日 秋の収穫を祈り更に、皇室の弥栄、町内の発展、海上安全・大漁満足の祈願する祭典を行います。 小学生による浦安の舞の奉奏も行われます。節分祭
2月3日に近い日曜日午後3時 節分・星祭の神事に続き、歳男歳女による豆まきが行われます。また、各種景品が当たる福餅も蒔かれ、境内は賑わいます。大祓 6月と12月の晦日
正月(7月)から6月(12月)までの罪穢を祓う神事が行われます。6月は茅の輪くぐりが行われます。静岡県神社庁HPより
http://www.shizuoka-jinjacho.or.jp/shokai/jinja.php?id=4408002
【由 緒 (History)】
駒形神社本殿
律令期の白羽官牧と関係が深い駒形神社
駒形神社の由緒は明らかではありませんが、聖武天皇時代 (701年~756年 ) と伝えられています。白羽神社と同じく白羽官牧と関係が深い神社の一つと考えられており、白羽神社の神様と同じ「天津日高彦火火出見尊(あまつひこひこほほでみのみこと)」・「豊玉毘売命(とよたまひめのみこと)」・「玉依毘売命(たまよりひめのみこと)」の三神を祭神としています。
駒形神社の神様は、99匹の神馬とともに伊豆の国から渡ってきたものの、御前崎の沖合で神馬が疲労で没してしまい、御前岩 ( 駒形岩 ) となり、神様はウミガメに乗って上陸したと伝えられています。
駒形神社は、御前崎の先端に位置しており、特に海上安全、航海安全、大漁祈願に御利益があるとして、漁師や海上運搬業者などから信仰されています。本殿の構造は、一間社入母屋流造で、様式的に江戸中期から後期前半あたりの時代的傾向が顕著です。本殿は、建造物として貴重なことから市指定有形文化財に指定されています。
御前崎市『OMAEZAKI』より
御前崎市指定文化財
駒形神社本殿(一間社入母屋流造)
指定 昭和四十四年六月二十四日
駒形神社は、縁起書によれば安閑天皇元年(531)鎮座とあります。
元亀二年(1571)、武田の兵火により社殿が焼失しました。本殿の再建造営は1630-1650年代と思われます。
意匠は、江戸期の寺社建築の基本的構造をなしている。向拝部の組物、蟇股(龍)木鼻(象)共に全体に華やかなものであり、これらはいずれも江戸中~後期の造りを示しています。
その後の改修は、享保九年(1724)屋根替、安永三(1774)本殿並廊下修築、文化十三年(1816)本殿の改修、明治二十二年(1889)本殿並屋根修繕となっています。御前崎市教育委員会
現地案内板より
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)遠江国 62座(大2座・小60座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)蓁原郡 5座(大1座・小4座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 服織田神社
[ふ り が な ](はとりたの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Hatorita no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
「服織(はとり)」とは
服織(はとり)とは 機織(はたおり)の変化した語で 機(はた)を織ること および それを生業とする人を指します
又 服部(はとりべ)は 大化の改新以前に機織の技術をもって朝廷に仕えた品部です
機織部(はたおりべ)が転訛したもので のちに「部(べ)」の音がとれ「促音」が入り「はっとり」とも発音されるようになりました
服部(はとりべ)について゛服部天神宮゛の記事を参照してください
・服部天神宮(豊中市服部元町)
服部天神宮は 服部(ハトリ)と云う地名の通り 秦氏(ハタウジ)が集団で居住し 社伝によれば かつて服部連(ハトリノムラジ)の本拠とした場所に医薬の神「少彦名命」を祀る祠があった〈これが服部天神宮の前身〉その後 延喜元年(901)菅原道真公が 大宰府への左遷途中で 持病の脚気に襲われて身動きが取れなくなったが 一心にその平癒を祈願されたところ脚気はたちどころに治った伝承地になります ゆえに「足の神様」として有名です
服部天神宮(豊中市服部元町)
『延喜式神名帳(927 AD.)』に所載の「服部神社(ハトリノカミノヤシロ)」について
『延喜式神名帳(927 AD.)』には 同名の神社が 3つあります
①大和國(ヤマトノクニ)城下郡(シキノシモノコオリ) 服部神社二座(ハトリノカミノヤシロ フタクラ) 鍬靫
・服部神社(田原本町蔵堂)〈村屋坐彌冨都比賣神社 境内摂社〉
服部神社(はとりじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される古社です 社記によれば 旧鎮座地は 現在地より西2kmばかりの所に 大安寺村 字 神来森(カキノモリ)という土地があり そこに鎮座して波登里(ハトリ)村・阿刀(アト)村の氏神であったが 天正中(1573年~1591年)社殿兵火に罹り後 村屋坐社の本殿横の瑞垣の中に遷座して現在に至ります
服部神社(村屋坐彌冨都比賣神社 境内摂社)
➁加賀國(カガノクニ)江沼郡(エヌマノコオリ) 服部神社(ハトリノカミノヤシロ)
服部神社(山代温泉)の記事をご覧ください
③因幡國(イナバノクニ)法美郡(ハフミノコオリ) 服部神社(ハトリノカミノヤシロ)
服部神社(福部町)の記事をご覧ください
服部神社(はっとりじんじゃ)は 『續日本紀』元明天皇 和銅五年(712)秋七月の条に因幡国にて綾錦を織られたと記載があり その頃の創立と思われ 又『三代實録』貞観十六年(874)五月の条に服織神 從五位上と神階の奉授が記される国史見在社であり 式内社 因幡國 法美郡 服部神社(はとりのかみのやしろ)でもあります
服部神社(鳥取市福部町海士)
他に『延喜式神名帳(927 AD.)』に所載されている 音が同じ「ハトリノカミ」を含む神社としては
・攝津國(セッツノクニ) 嶋上郡(シマカミノコオリ) 神服神社(カムハトリノカミノヤシロ)
神服神社(かむはとりじんじゃ)は 第19代 允恭天皇(インギョウテンノウ)〈在位412~453年頃〉の時代に服部氏の氏神として創建し「服部神(ハトリノカミ)」と称した古社です この地は服部連(ハトリノムラジ)の本拠地であったとされ『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に「神服神社(カムハトリノカミノヤシロ)」と所載されます
神服神社(高槻市宮之川原元町)
伊勢國多氣郡 服部伊刀麻神社(はとりの いとまの かみのやしろ)
・服部伊刀麻神社 舊地(松阪市出間町)
〈二十五柱神社に合祀された服部伊刀麻神社の旧地〉
・〈二十五柱神社に合祀された服部伊刀麻神社〉二十五柱神社(松阪市柿木原町)
伊勢國多氣郡 服部麻刀方神社二座(はとりのまとまの かみのやしろ ふたくら)
・須麻漏賣神社舊地 麻刀方神社舊地(松阪市垣内田町)
〈二十五柱神社に合祀された松方社(麻刀方神社)の舊地〉
・〈二十五柱神社に合祀された松方社(麻刀方神社)〉二十五柱神社(松阪市柿木原町)
・神服織機殿神社(松阪市大垣内町)
神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ)は 八尋殿(やひろでん)の守護神を祀り〈機殿〉八尋殿で奉織した和妙(にぎたえ)の神衣は 神御衣祭(かむみそさい)で皇大神宮・荒祭宮に供進されます 起源は『倭姫命世記』垂仁天皇22年機屋を作り 25年磯宮に服織社を建て 五十鈴川上に御鎭座の時 大宮の傍に八尋の機屋〈宇治の機殿〉を建て 清寧天皇3年(482)服織社の地に移ったとします
八尋殿・神服織機殿神社(松阪市大垣内町)〈皇大神宮(内宮)所管社〉
『延喜式神名帳(927 AD.)』所載社の内゛服織神(はとりのかみ)゛を祀る三ヶ所の神社について
①延喜式内社 伊勢國 奄芸郡 服織神社(はとりの かみのやしろ)の論社 三社について
『延喜式神名帳』奄芸郡「服織神社」の論社は 付近一帯が 古代には 服部(はとり)郷であったので 諸説が生れたと云われる
・服織神社(鈴鹿市御薗町)
服織神社(はとりじんじゃ)は 江戸時代には 八幡社あるいは神明の社と称され近郷の崇敬を集めていた 社伝には 延喜式内社で 元は神明の社と称し また服織神社と申し伝へて来たと伝わります 式内社 伊勢國 奄芸郡 服織神社(はとりの かみのやしろ)の論社となっています
服織神社(鈴鹿市御薗町)
・服織神社(河芸町久知野)
服織神社(はとりじんじゃ)は 往古は当地の南西 社宮地というところにあり、当地方 服部郷の信奉の社であったと云い 式内社の当時は「羽織社」と称えていたことが石碑にみえ 付近に衣手谷(きぬてだに)服反田(はだんだ)社宮神(しゃぐじん)などの地名が残っており その信仰は今の社にも受け継がれ「扇神」「扇さん」「オオギリさん」と慕われています
服織神社(河芸町久知野)
・酒井神社(鈴鹿市郡山町)
〈酒井神社に合祀 服織神社 境内に 服織神社御旧跡あり〉
※江戸時代の諸書には 郡山村 酒井神社境内の服織神社を称えるものが多かった
酒井神社(さかいじんじゃ)は 社伝は天智天皇10年(671)の創祀という 又 稻生三社大明神に日参していた信任長者と云う人に神託があり 郡山に稻生新宮を造立しました これが郡山大明神と伝わる 延喜式内社 伊勢國 奄芸郡 酒井神社(さかゐの かみのやしろ)の論社です その他に 境内には゛服織神社御旧跡〈延喜式内社 伊勢國 奄藝郡 服織神社の旧跡とも〉゛があります
酒井神社(鈴鹿市郡山町)
②延喜式内社 遠江國 長上郡 服織神社(はとりの かみのやしろ)
・服織神社(浜松市東区豊町)
服織神社(はたおりじんじゃ)は 古くは 天竜川沿いのこの辺には〈織物に関係した職人が集団〉服部(はとりべ)が住んでいたと伝わる 元明天皇の和銅元年(708)出雲国から 神様をお迎えして造られたのが創建と伝わる 延喜式内社 遠江國 長上郡 服織神社(はとりの かみのやしろ)とされます
服織神社(浜松市東区豊町)
③延喜式内社 遠江國 蓁原郡 服織田神社(はとりたの かみのやしろ)
・服織田神社(牧之原市静波)
服織田神社(はとりだじんじゃ)は 社伝には゛景行天皇の七年に勧請された゛とあり 鎮座地は 往古は服織田村と言われたが柏原町と改められたと宝暦八年の検地帳に記載されています 『延喜式神名帳(927 AD.)』所載の式内社 遠江國 蓁原郡 服織田神社(はとりたの かみのやしろ)の論社です
服織田神社(牧之原市静波)
・白羽神社(御前崎市白羽)
白羽神社(しろわじんじゃ)は 社伝によれば゛旧社地は 御前崎市御前崎(厩崎)字本社に安閑天皇元年(531)11月鎮座 仁明天皇 承和元年(834)3月神様のお諭しにより宮処を廻り相応の処を定め 承和四年(837)2月現地に遷座した゛とあります 延喜式内社 遠江國 蓁原郡 服織田神社(はとりたの かみのやしろ)の論社です
白羽神社(御前崎市白羽)
・駒形神社(御前崎市御前崎)
駒形神社(こまがたじんじゃ)は 延喜式に載る白羽官牧の地と伝えられ 社伝には゛往古沖で遭難した九十頭の馬の内一頭が岸にたどりついた地とされる 残りの馬は沖の御前岩(駒形岩)と化したと云う 白羽神社の元宮とされる゛とあります 延喜式内社 遠江國 蓁原郡 服織田神社(はとりたの かみのやしろ)の論社です
駒形神社(御前崎市御前崎)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR焼津駅から 東名高速道路 と 金谷御前崎連絡道路 経由で御前崎を目指します 約48.2km 車50分程度
駒形神社(御前崎市御前崎)に参着
社号標には゛駒形神社゛
この社号について 社伝には゛延喜式に載る白羽官牧の地と伝えられ 旧社地の駒形神社は、往古沖で遭難した九十頭の馬の内一頭が岸にたどりついた地とされる 残りの馬は沖の御前岩(駒形岩)と化したと云う 式内服織田(はとりだ)神社とも云われる゛とあります
一礼をして鳥居をくぐります
参道を進みます
拝殿の前に 石垣が積まれた植え込みがあり〈御神木か?〉参道が 避けるように折れています その右手には手水舎があり 清めます
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿前の案内板より
御前崎市指定有形文化財(絵画)
千羽の鶴
平成六年一月三十一日
明治十三年九月一日に奉納され、駒形神社拝殿内に掲げられている絵画で、縦1.25メートル・横3.25メートルの大きさである。
本画には、千羽にも及ぶ鶴が乱舞している様子が雄大に描かれており、市内はもとより、近隣にも見られない美術的価値のある絵画といえる。御前崎市教育委員会
社殿に一礼をして 参道を戻ります
鳥居の上を見上げると 月が登っています
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 服織田神社について 式社考には 海邊ニアル白羽村白羽大明神〈現 白羽神社(御前崎市白羽)〉としているが
鈴鹿連胤が考えるには かつての服織田村〈現 服織田神社(牧之原市静波)〉にあるのではないか?と疑問投げかけています
【抜粋意訳】
服織田神社
服織田は 波止利太と訓べし
〇祭神 猿田彦神、天鈿女命、風土記〇惣國風土記四十八残缺云、遠江國 蓁原郡 服織田神社、景行天皇□□所祭猿田彦與 天鈿女命也、圭田三十三束、
式社考云、海邊ニアル白羽村白羽大明神也、参考同卜云、
連胤、按るに、惣國風土記 此神社の前に、服織田村云々とあり、この村名絶たるか尋ぬべし、白羽は万葉廿に、等倍多保美志留波乃伊宗とある所にて、古今共に白羽といへば、服織田とは別ならん、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 服織田神社について 所在は 白羽村の海邊にあり 白羽大明神〈現 白羽神社(御前崎市白羽)〉と記しています
【抜粋意訳】
服織田(ハトリタノ)神社
今 白羽村の海邊にあり、白羽大明神と云、蓋是也、
凡祭三月十一月中午日 之を行ふ、遠州一統志、遠江風土記傳、巡拝舊祠記、式社摘考、
蓋 長白羽神を祀る、子後拾遺
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 服織田神社について 遠江風土記傳 式社考 共に 白羽村白羽大明神〈現 白羽神社(御前崎市白羽)〉としているが
注進状に柏原村(植松村・柏原村・川崎町村・柏原町・勝十新田が合併して静波町)〈現 服織田神社(牧之原市静波)〉とあり 尚良く考えるべきと記しています
【抜粋意訳】
服織田(ハトリタノ)神社
祭神
祭日
社格所在
今按 遠江風土記傳 式社考 共に白羽村白羽大明神なりと云る 白羽は古語拾遺に令 長白羽神(ヲサシラハノカミ)種 麻ヲ以爲ニ青和幣(アヲニギテ)ヲ云々とある 注文に今俗 衣服ヲ謂フ之 白羽(シラハト)とみえて 此の服織田神社によしありて聞ゆるを
注進状に柏原村と定めたるは波取山の名に據たるにや 詳かならず猶考ふべし
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
服織田神社(牧之原市静波)について 白羽神社と共に 式内社 服織田神社の論社であると記しています
【抜粋意訳】
郷社 服織田(ハトリダノ)神社
祭神 麻立比古(アサダチヒコノ)命 天八千々比賣(アメノチチヒメノ)命
合祭 忍穂耳命(八王子神社) 市杵島姫命(辮天神社)
木花開耶姫命(勝間田神社)速玉男命(熊野神社)
猿田彦神(猪鼻神社) 蛭児命(西宮神社)
石長比賣命(白岩淺間神社)大山祇命(山神社)
猿田彦命(十二所神社) 少彦名命(藏王神社)創立年代詳ならず、但社傳は、景行天皇七年の勧請とすと雖も、偽書総國風土記に証拠せるものなるが故に信ずるに足らず、明治六年三月郷社に列せられ、明治七年五月近郷の八社を合祀す。
社殿は本殿、拝殿、其他社務所等を具備し、境内は570坪(官有地第一種)あり、明治四十三年御料林一反十三渉を境内に編入許可せらる。
明治維新 神社取調の際、本縣より上申せる注進状には、当社を以て式内社服織田神社なりとせるが、其理由は特選神名牒に、「波取山の名に據たるにや」と見え、明細帳には「地名も往古は服織田村と称せしが、年月詳ならず、柏原町と改めしと」と見えたり、兎に角 白羽神社と共に、後考を俟だざるべからず。境内社 稲荷神社 津島神社
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
白羽神社(御前崎市白羽)について 服織田神社(牧之原市静波)と共に 式内社 服織田神社の論社であると記しています
【抜粋意訳】
〇靜岡縣 遠江國 榛原郡白羽村字砂原
郷社 白羽(シラハノ)神社
祭神
天津日高日子穂々出見(アマツヒダカヒコホホテミノ)尊
豊玉毘賣(トヨタマヒメノ)命
玉依毘賣(タマヨリヒメノ)命創立年代詳ならず、但し、明細帳には「仁明天皇 承和元年三月勧請の由、舊記に見えたるが、元亀年間 武田晴信 当国乱入の際、傅を失ひし」と記せり、当時 古書旧記は素より、社殿悉く兵災に羅り、御神體のみ僅に免かるるを得、本郡上長尾村に奉遷せり、乱平らぎだる後、武田氏社殿を再建し、朱印若干を附せりと、徳川時代は社領百五石を有せしこと、諸社御朱印写に見えたり、
「白羽大明神社領、遠江国榛原郷白羽村之内百五石事、任慶長八年九月十九日、元和三年二月二十八日、寛永十三年十一月九日、先判之旨、永不可有相違者也、仍如件、寛文五年七月十一日」
古来此の地の産土神にして、明治の初年郷社に列せられたり。
社殿は本殿、幣殿、拝殿、楼屋、籠屋等を具へ、境内は2216坪(官有地第一種)あり、当社は伴氏神名帳考証に「今曰 白羽神、此守在相良立御崎、去横須賀五里、俗云、此神来自新羅国」と見え、古来式の服織田神社と言ひ傳へ、
遠江國風土記傳には「白羽村白羽大明神、称式内服織田神社」と見え、
遠江国式内社摘考に、「服織田神社、是は海邊にある白羽村の白羽大明神なりといへども、未詳、」と見え、
特選神名牒には「今按、遠江国風土記伝、式社考共に、白羽村白羽大明神なりと云へる白羽は、古語拾遺に、令長白羽神種麻以為青和幣云々とある注文に、今俗衣服謂之白羽とみえて、此服織田神社によしありて聞ゆるを、注進状は柏原村と定めたるは、波取山の名に拠りたるにや詳かならず、猶考ふべし」と見えたるが、
神祇志料は、「今白羽村の海邊にあり、白羽大明神と云ふ」と断定せり、然れども、当社を以て式社なりとするには、如上の事項のみにては、徽証十分なりといふべからず、猶後考を侯つ。境内神社 熊野神社 小駄方神社 高根神社 日月神社
【原文参照】
駒形神社(御前崎市御前崎)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
遠江国 式内社 62座(大2座・小60座)について に戻る
遠江国(とほとうみのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 遠江国には 62座(大2座・小60座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
遠江國 式内社 62座(大2座・小60座)について