岐多志太神社(きたしたじんじゃ)は 社名の岐多志太は キタ氏の田という意味で ゛キタ゛ 即ち 鉄を鍛える鉄工の神 とされます 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の大和国 城下郡 岐多志太神社 二座(鍬靫)(きたしたの かみのやしろ ふたざ)とされます
御朱印は後日郵送にて拝授
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
岐多志太神社(Kitashita shrine)
[通称名(Common name)]
・たいこっさん
【鎮座地 (Location) 】
奈良県磯城郡田原本町伊与戸143
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天香語山命(あめのかぐやまのみこと)
天児屋根命(あめのこやねのみこと)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・鉄工の神・芸能の神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 村屋坐彌冨都比賣神社 境外 摂社
【創 建 (Beginning of history)】
田原本歴史遺産 神々を訪ねて
延喜式内社 旧 城下郡 大木 岐多志太(きたした)神社
祭神 天香語山命 天児屋根命 二柱
岐多志奴神社は村屋座彌富都比売神社の北北西約400mの大宇伊与戸と大宇大木の間にあり、楠、欅、大樹の鎮守の森に西面して、大正八年の石鳥居か建ち、境内に南面して、拝殿と二柱の本殿がある。本殿は、石垣基壇上に、二殿並び建ち、板葺、銅板で覆う春日造で、本殿の前に、神明造の木鳥居か建つ。
この神社の祭神 天香語山命の名は、石凝姥命とも呼び、天児屋根命と共に、鏡作座天照御魂神社と同じ、石疑姥命・天児屋根命を祀る。この地域の祖の物部大木連一族に、鏡作連の祖、鍛冶師連があり、「岐多志太」は「鍛冶師田」の萬葉仮名文字の表記か。大木に「カヂヤカイト」「カンヂャウ」の小字名があり、これらに関わる地名か。
又、天香語山命は天ノ岩戸神話で天照大御神を岩戸から出すのに歌舞音曲を用いた事から、芸能の神とされ、この大木に「フエノキ」「ツツミウチ」ヒョシダ」の小字名があり、雅楽に関連する地であったのではないだろうか
大正10年「岐多志太神社由緒」奈良女子高等師範学校教授 水木要太郎 編
平成8年9月28日「岐多志太神社拝殿造営記念」大字大木自治会・岐多志太神社 守屋広尚宮司文書 よりこの神社の旧社名は、太根命であったが、明治7年(1874)の神仏分離令の時、式内社 岐多志太神社となった。
岐多志太神社は 崇神天皇七年の鎮座と伝えられている。(明治十二年 大和国式下郡神社 明細帳)
拝殿は、大正十年(1921)に三間半×二間と従来の二倍以上の規模に改築された。
平成20年度 No.7 田観52 田原本町観光協会 編 中西秀和
現地案内板より
【由 緒 (History)】
由緒
社名 岐多志太は キタ氏の田という意味で キタ 即ち 鉄を鍛える鉄工の神である。今もカジヤガイトウの地名が近くに残っている。
また祭神 天香語山命は 芸能の神ともいわれフエフキ・タイコウジ・ヒョウシダの地名もあり 雅楽が最初に伝えられた地ともいわれる。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【境内社 (Other deities within the precincts)】
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
岐多志太神社(田原本町伊与戸)は 村屋坐彌冨都比賣神社の境外摂社です
・村屋坐彌冨都比賣神社(田原本町蔵堂)
村屋坐彌冨都比賣神社(むらやにますみふつひめじんじゃ)は 祭神は大物主命の妻神 三穂津姫命で 大神神社の別宮とされます 壬申の乱(673)の時には 村屋神が 天武天皇を勝利に導く神託を下し 神社として初めて位階を皇室から賜りました《式内社》大和國 城下郡 屋坐彌冨都比賣神社(大月次相嘗新嘗)(むらやにます みふつひめの かみのやしろ)です
村屋坐彌冨都比賣神社(田原本町蔵堂)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和国 286座(大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣))[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)城下郡 17座(大3座・小14座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 岐多志太神社 二座(鍬靫)
[ふ り が な ](きたしたの かみのやしろ ふたざ)(くわゆき)
[Old Shrine name](Kitashita no kamino yashiro Futaza)(KuwaYuki)
※(鍬靫)朝廷から祈年祭に鍬・靫の幣を賜る
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
村屋坐彌冨都比賣神社(むらやにますみふつひめじんじゃ)の 摂社について
村屋坐彌冨都比賣神社には 境内・境外に鎮座する式内社が多くあります
岐多志太神社(きたしたじんじゃ)も境外摂社です
【境内社 (Other deities within the precincts)】
本殿の向かって右には
摂社・村屋神社(むらやじんじゃ)《式内社》
・村屋神社(田原本町蔵堂)〈村屋坐彌冨都比賣神社境内摂社〉
村屋神社(むらやじんじゃ)は 社伝に「元は大宮から200mほど東 初瀬川の川べり宮山と字する所に鎮座されていたが 天正の兵火後 今の地〈村屋坐彌冨都比賣神社 境内〉に遷し祭る」と伝わります《式内社》大和国 城下郡 村屋神社 二座(むらやの かみのやしろ ふたざ)です
村屋神社〈村屋坐彌冨都比賣神社 境内摂社〉(田原本町蔵堂)
本殿の向かって左には
摂社・服部神社(はとりじんじゃ)《式内社》
・服部神社(田原本町蔵堂)〈村屋坐彌冨都比賣神社 境内摂社〉
服部神社(はとりじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される古社です 社記によれば 旧鎮座地は 現在地より西2kmばかりの所に 大安寺村 字 神来森(カキノモリ)という土地があり そこに鎮座して波登里(ハトリ)村・阿刀(アト)村の氏神であったが 天正中(1573年~1591年)社殿兵火に罹り後 村屋坐社の本殿横の瑞垣の中に遷座して現在に至ります
服部神社(村屋坐彌冨都比賣神社 境内摂社)
拝殿の向かって左には
摂社・久須々美神社(くすずみじんじゃ)《式内社》
・久須須美神社(田原本町蔵堂)〈村屋坐彌冨都比賣神社 境内摂社〉
久須々美神社(くずずみじんじゃ)は 社伝に「元は 今の蔵堂橋の南のたもとに鎮座 伊豫氏(伊与戸)の氏神であった」が明治初めに現在地〈村屋坐弥冨都比賣神社 境内摂社〉に遷されました《式内社》大和国 城下郡 久須須美神社(くすすみの かみのやしろ)とされます
久須須美神社〈村屋坐弥冨都比賣神社 境内摂社〉(田原本町蔵堂)
摂社・物部神社(もののべじんじゃ)
《主》炊屋姫命 宇麻志摩遅命《配》物部守屋連
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
摂社・岐多志太神社(きたしたじんじゃ)《式内社》
・岐多志太神社(田原本町伊与戸)
岐多志太神社(きたしたじんじゃ)は 社名の岐多志太は キタ氏の田という意味で ゛キタ゛ 即ち 鉄を鍛える鉄工の神 とされます 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の大和国 城下郡 岐多志太神社 二座(鍬靫)(きたしたの かみのやしろ ふたざ)とされます
岐多志太神社(磯城郡田原本町伊与戸)〈延喜式内社〉
摂社・森市神社・千代神社(ちしろじんじゃ)《式内社》
・森市神社・千代神社(田原本町大安寺)
森市神社・千代神社(もりいちじんじゃ・ちしろじんじゃ)は 『磯城郡誌』には「千代村に鎮座の春日神社に境内摂社であった式内社の千代神社が 洪水の為に流失して下流に流れ着き 現在は大安寺の森市神社の境内に祀られている」と記され『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載 大和國 城下郡 千代神社(ちしろの かみのやしろ)とされます
森市神社・千代神社(田原本町大安寺)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
村屋坐彌冨都比賣神社の境外摂社です
村屋座彌富都比売神社の北北西約400mの田の中に鎮座しています
岐多志太神社(田原本町伊与戸)に参着
ちょうど参道の半面が ガマの穂が出ていて 何とも言えない古代感
社は 南を向いて建てられていますが 参道は西向きです
参拝者は 西から東へ進むことになり 鳥居手前で急に左に曲がりながら 境内へと続いています
鳥居の前 社号標には「式内 岐多志太神社」と刻まれています
一礼をして 境内へと進みます
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 本殿が二座ならんで鎮座します
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
所在不明 と記されています
【抜粋意訳】
岐多志太(キタシタノ)神社 鍬靫
〇在所未詳 大和志
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
祭神 所在等は不明と記しています
【抜粋意訳】
岐多志太神社 二座(鍬靫)
岐多志太は 假字なり
〇祭神 在所等詳ならず
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
所在について「大木村」と記しています
〈現在地は 大宇伊与戸と大宇大木の間〉
【抜粋意訳】
岐多志太(キタシタノ)神社 二座(鍬靫)
祭神 天香語山命(あめのかぐやまのみこと)
天児屋根命(あめのこやねのみこと)祭日 九月六日
社格 村社
所在 大木村 字 大根神(磯城郡川東村大字大木)
【原文参照】
『大和志料(Yamato shiryo)』〈大正3年(1914)〉に記される伝承
所在地の「大木」の大木氏と鍛冶師(キタシ)氏は同族であり
社名の岐多志太(キタシタ)は 鍛冶師田(キタシタ)の仮字であろう と記しています
【抜粋意訳】
岐多志太(キタシタ)神社
川東村大字大木にあり。
延喜式神名帳に「岐多志太神社 二座(鍬靫)」と見ゆ。今 指定村社たり。
祭神詳ならず(神社明細帳に・天香語山命・天児屋根命とあり。)案ずるに聞書覚書に「十市根より四世 布留久留命の一男は大木連は大木氏祖・・也」とあり。
物部大木連は当所の住人なるべく、而して旧事記に「饒速日命 十一世孫 物部眞鯨連公・・・弟 鍛冶師(キタシ)連公は 鏡作氷軽馬速等の祖」と。
所謂 鍛冶師(キタシ)氏 また 物部氏にして 大木氏と同族なれば、岐多志太は 鍛冶師田(キタシタ)の假字ならんか。
【原文参照】
岐多志太神社(田原本町伊与戸)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
大和国 式内社 286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)について に戻る
大和国(やまとのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 大和國の286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)の神社のことです
大和国 286座(大128座(並月次新嘗就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)