北野天神社(きたのてんじんしゃ)は 三社を合殿(あいどの)に祀る総称で 正式名称は゛物部天神社・國渭地祇神社・天満天神社゛です 元々は 日本武尊が祀ったと伝わる入間郡の式内社 三座の内 物部天神社であるとされ さらに国渭地祇神社を(一説には出雲祝神社も)合祀していると云われます 長徳元年(995)京都より北野天神を勧請し 坂東第一北野天神と称しました
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
物部天神社・國渭地祇神社・天満天神社
(もののべてんじんしゃ・くにいちぎじんじゃ・てんまんてんじんしゃ)
【通称名(Common name)】
・北野天神社(Kitano tenjinsha shrine)
・北野の天神さま(きたののてんじんさま)
【鎮座地 (Location) 】
埼玉県所沢市小手指元町3丁目28-44
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
物部天神社(もののべてんじんしゃ)
《主》櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと)
國渭地祇神社(くにいちぎじんじゃ)
《主》八千矛神(やちほこのかみ)=大国主命(おおくにぬしのみこと)
天満天神社(てんまんてんじんしゃ)
《主》菅原道真公(すがわらのみちざねこう)
《合》宗良親王,小手指明神,天穂日命,
応神天皇,日本武尊,倉稲魂命
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
北野天神社
当社は社伝によれば、景行天皇の御代、日本武尊が東征の折、この地にニギハヤヒ・ヤチホコの二神をまつり、物部天神・渭地祇(くにいちき)神として尊称したという。古来 武蔵国の延喜式内社 入間郡五座の一に数えられていた由緒ある神社である。
その後長徳元年(九九五)菅原道真五世の孫 修成が武蔵守となって武蔵国に下向し、この地に京都の北野天満宮をまつったので、以後 北野天神と称せられるようになった。武家の信仰も厚く、源義家・頼朝・足利尊氏・前田利家等によりしばしば社殿が造営されたという。現在の本殿は安永年間(一七七〇年代)の建築であり、拝殿・幣殿は平成六年の改築である。
埼玉県指定文化財 北野天神縁起絵巻
室町書紀ごろの作で、全七巻あり、元亀三年(一五七二)九月の修理銘がある。
所沢市指定文化財 中世文書
鎌倉公方足利氏満寄進状(応永四年・一三九七)ほか、十一点の文書がある。平成八年三月 所沢市教育委員会
現地案内板より
【由 緒 (History)】
物部天神社/国渭地祇神社/天満天神社
所沢市北野七〇〇-三(北野字吉野)
狭山丘陵を背に小手指原を望む小高い丘の上に鎮座する当社は、北野天神社の名で広く知られており、杉・檜などの老木が生い茂る境内には、古社の面持ちが感じられる。社名は、正式には物部天神社・国渭地祇神社・天満天神社であるが、この三社を合殿に祀るところから総称として、北野天神社と呼ばれている。
鎮座地 北野の地内には、当社を中心として、集落跡などの遺跡が数多くあり、その年代も、古いものでは先土器時代にまで及ぶ。また、『太平記』の武蔵野合戦の条にも描かれている正平七年の小手指ヶ原の戦で新田武蔵守義宗が陣を構え、白旗を立てたことから白旗塚と通称されるひときわ大きい円墳をはじめ、数基の古墳も残っている。こうした鎮座地の土地の歴史の古さは、同時に当社創建の古さを物語るものと言えよう。江戸時代に著された社記『坂東第一北野宮略縁起』によれば、当社創建にまつわる次のような伝説が語られている。
(前略)景行天皇の皇子 日本武尊 東夷征罸の時、武蔵野のに入て諸軍大に渇つし井を掘せらるゝに水なし今の堀兼の井是なり 時に老翁来て 尊を当所へ導たてまつり井を掘 清泉をえて 諸軍の労をすくひ給ふ(中略)尊天神地祇釼の義神を祭給へは東夷戦ずして自伏し奉る是則 物部天神国渭地祇社出雲祝神社景行四十庚戌年日本武尊一時三箇之勧請延喜式内入間郡三座の神社也(中略)同四十一年辛亥正月十七日里人あつまりて木石を集め祝て弓を射馬を乗八町四方の地に三社建立し今に至て正月十七日奉射の祭祀とて執行有二月廿一日遷宮毎年二月廿一日大神事連綿たり
当社は、この伝説に語られる三座の式内社のうち、物部天神社であるとされ、さらに国渭地祇神社を(一説には出雲祝神社も)合祀しているといわれている。
長徳元年には、菅公五代の子孫・武蔵国司菅原修成が京都より北野天神を勧請し、坂東第一北野天神と称して祀るようになったことから、当郷の名も北野と改められた。
その後、戦乱のために、幾度か社殿は鳥有に帰したが、源頼朝や足利尊氏など、当代の将軍によって再営がなされた。
天正十九年二月、前田利家が霊夢により再び京都より北野天神を勧請した。これが当社の中興であり、同年一一月には徳川家康より朱印地八石の寄進も受けている。更に慶安二年には家光により社領は五〇石に加増され、当社は繁栄を極めることとなる。また、享保七年の四月一日から六月一日まで目白の不動院において江戸開帳を行い、その名を広めた。
明治五年の社格制定に際しては、古社であるところから郷社となったが、更に、同三四年三月には県社に昇格した。大正元年九月に富岡村大字北中より、小手指神社と稲荷神社を合祀した。
祭神については、諸説があるが、古くから「北野天神九座」と称し、全部で九柱の神を祀るとされ、主祭神を櫛玉饒速日命(物部天神社)・八千矛命(国渭地祇神社)・菅原道真公(天満天神社)とするものが多い。
当社の拝殿は入母屋造りであるが、他に類を見ない、極めて簡潔な造りであり、その裏手の一段高くなっているところに三間社流造りの本殿がある。棟札によれば、拝殿・本殿とも安永七年に建立されたもので、その後しばしば修理が行われている。
『埼玉の神社』〈著者 埼玉県神社庁神社調査団 出版社 埼玉県神社庁 平成4年刊行 〉より抜粋
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・大納言の梅(だいなごんのうめ)〈社殿の前〉
天正18年 大納言前田利家公が 戦乱のため灰燼に化してしまった社殿を再興した時 境内に献裁した梅
〈社殿向かって右側の境内社〉
・諸神宮《主》延喜式内社三一三二神
諸神宮
当社殿は室町期の再建である
源頼朝が建久六年九月延喜式内総社(三千百三十二座)を勧請したので諸神宮と奉称し 家光将軍より諸神宮の寄進状が現存する現地立札より
・文子天神社《主》多治比文子
文子天神社(はた神様)
養蚕をはじめ
糸繰裁縫機織など
すべて日本婦人の美徳を
備え給ふた
「多治比文子」と申す
女神様が祀られた社です
千年もの昔
京都の七条坊に生れ
神託により
天慶五年(一〇五五)七月十二日
菅原道真公を
抑北野天神社の発祥と云われています現地立札より
〈社殿向かって 左奥の境内社〉
・八雲神社《主》須佐之男大神
・稲荷神社《主》宇賀美玉命
〈社殿向かって 左側の境内社〉
・小手指神社《主》天照皇大神《合》明治維新国事殉難者の霊
・石宮神社〈合祀 水天宮〉
・手水舎
・神楽殿
・尊桜〈日本武尊が植えられたと伝わる 四度の蘖(ひこばえ)〉
・力石
・宗良親王(むなよししんのう) 歌碑
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
北野天神社(所沢市小手指元町)は 三つの式内社の論社となっています
①出雲伊波比神社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵國 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)入間郡 5座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 出雲伊波比神社
[ふ り が な ](いつもの いはひの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Itsumono Ihahi no kamino yashiro)
➁物部天神社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵國 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)入間郡 5座(並小)[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 物部天神社
[ふ り が な ](もののへの あまつかみのやしろ)
[Old Shrine name](Mononoheno Amatsukami no yashiro)
➂ 國渭地祇社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵國 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)入間郡 5座(並小)[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 國渭地祇社
[ふ り が な ](くにゐちきの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kuniichiki no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
宝亀三年(七七二)「太政官符」〈天理大学付属図書館所蔵〉に記される 出雲伊波比神社
宝亀三年(七七二)「太政官符」〈天理大学付属図書館所蔵〉には 入間郡の正倉が火災に遭ったため 武蔵国内四社〈・多磨郡 小野社・加美郡 今城青八坂稲實社・横見郡 高負比古乃社・入間郡 出雲伊波比神社〉に奉幣したことを記しています
太政官は、二宮八省の頂点に位置づけられ、すべての行政事務を総括した役所である。
符とは、上級官庁から下級官庁へ出された文書をいう。太政官符には執行官と書記官とが署名するが、この官符には藤原百川(ももかわ)の自署が見られる。百川は藤原氏式家宇合(うまかい)の子で不比等の孫にあたる。
当時衰微しつつあった藤原一族の再起を図り、光仁(こうにん)天皇(桓武天皇の父)の擁立に奔走するなど、かなりの策士家だったと言われている。
この官符には、武蔵国入間郡(現在の埼玉県川越市付近)で起きた、租税である米を貯蔵する正倉が焼亡した事件と、それへの対応が記されている。
こうした火事騒ぎは「神火事件(しんかじけん)」と呼ばれ、奈良時代の半ばすぎから各地で度々発生した。初めは、天の神が怒って火をつけたと信じられていたが、国家の財政の損失が大きいことから政府の調べが進み、その真相が次第に明らかになっていった。一つは、古くからの郡司と新興豪族との争いで、互いに相手をけおとすために放火し、罪をなすりつけるものである。
もう一つは、郡司だけでなく国司の悪事もさかんで、正倉から稲を横取りしていたが、中央からの役人が調べに来る前に証拠隠しのために焼くのである。このように神火は、農村での新旧二つの実力者の争いと、政治の乱れを物語っている。奈良時代の太政官符が伝存するのは大変珍しく、奈良正倉院にさえ残っていない。現存は四通のみ知られている。
延喜式内社 入間郡 出雲伊波比神社(いつもの いはひの かみのやしろ)の類社について
『延喜式神名帳927 AD.』の所載社に 同じ゛伊波比神゛の名を持つ神社が 武蔵國に三社あります
一つは 入間郡に 出雲伊波比神社
二つは 男衾郡に 出雲乃伊波比神社
※この二社は ともに゛出雲゛を社号に冠していて 出雲の神を祀るものです
三つは 横見郡に 伊波比神社〈伊波比神社(吉見町黒岩)〉があり ここも元々は 出雲系の神であったとされています
それぞれの゛伊波比神゛を参照ください 式内社とその論社について載せています
延喜式内社 武蔵國 横見郡 伊波比神社(いはひの かみのやしろ)
・伊波比神社(吉見町黒岩)
伊波比神社(いわいじんじゃ)は 和銅年間(708~715)の創建と伝え『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵國 横見郡 伊波比神社(いはひの かみのやしろ)とされます 元々は 出雲系の神を祀っていましたが その後 平安時代末から鎌倉初期にかけて 源頼朝の弟の源範頼の所領となり 源氏の八幡信仰から八幡神が祀られ「岩井八幡宮」と呼ばれていました
伊波比神社(吉見町黒岩)
延喜式内社 武蔵國 入間郡 出雲伊波比神社(いつもの いはひの かみのやしろ)
・出雲伊波比神社(毛呂山町岩井西)
出雲伊波比神社(いずもいわいじんじゃ)は 社伝「臥龍山宮伝記」に景行天皇53年 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の際 凱旋し 天皇から賜った゛ヒイラギの鉾゛をおさめ神宝とし 出雲の大己貴命を祀った また 成務天皇の御代 武蔵国造 兄多毛比命(エタモヒノミコト)が 出雲の天穂日命を祀り 二柱を出雲伊波比神としたと伝わっています
出雲伊波比神社(毛呂山町岩井西)
・出雲祝神社(入間市宮寺)
出雲祝神社(いずもいわいじんじゃ)は 延喜式内社 武蔵國 入間郡 出雲伊波比神社(いつもの いはひの かみのやしろ)の論社とされ 現存する棟札〈大宝二年(702)〉にも゛伊都毛伊波比再造゛と記されていています 社伝には 景行天皇の御代 日本武尊が 東夷征伐の時 小手指ヶ原で・天穂日命・天夷鳥命を祭祀創建された と伝わります
出雲祝神社(入間市宮寺)
・川越氷川神社(川越市宮下町)
川越氷川神社(かわごえ ひかわじんじゃ)は 創建について 元禄九年棟札・正徳縁起に 欽明天皇 即位二年(521)辛酉九月十五日 武蔵国 足立郡 氷川神社を分祀奉斎したと伝える古社です 一説に゛氷川の神゛〈出雲神〉を祀る 延喜式内社 武蔵國 入間郡 出雲伊波比神社(いつもの いはひの かみのやしろ)とも伝わります
川越氷川神社(川越市宮下町)
・北野天神社(所沢市小手指元町)
北野天神社(きたのてんじんしゃ)は 三社を合殿に祀る総称で 正式名称は゛物部天神社・國渭地祇神社・天満天神社゛です 元々は 日本武尊が祀ったと伝わる入間郡の式内社 物部天神社とされ さらに国渭地祇神社を(一説には出雲祝神社も)合祀すると云う 長徳元年(995)京都より北野天神を勧請し 坂東第一北野天神と称しました
北野天神社(所沢市小手指元町)〈正式名称゛物部天神社 國渭地祇神社 天満天神社゛〉
延喜式内社 武蔵國 男衾郡 出雲乃伊波比神社(いつものいはひの かみのやしろ)
・出雲乃伊波比神社(寄居町赤浜)
出雲乃伊波比神社(いずものいわいじんじゃ)は 天喜年中(1053~58)源頼義が 奥州征伐の途 当社に白旗を献じて戦勝を祈願し「白旗八幡社」と称し 荒川沿いの赤濱村に鎮座しましたが 天正8年(1580年)荒川の度重なる氾濫により 住民と共に現在地に遷座します 江戸時代までは「八幡さま」と呼称されますが 明治になって『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「武蔵國 男衾郡 出雲乃伊波比神社」の論社として 現在の社号に変更しました
出雲乃伊波比神社(寄居町赤浜)
・出雲乃伊波比神社(熊谷市板井)
出雲乃伊波比神社(いずものいわいじんじゃ)は 江戸期までは 出雲ノ神を祀る氷川社と呼ばれていました 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「武蔵國 男衾郡 出雲乃伊波比神社」の論社です しかし何故か 現在の祭神は 出雲の神ではなく 鹿島の神を祀っています
出雲乃伊波比神社(熊谷市板井)
・白旗八幡社〈井椋神社の境内社〉(深谷市畠山)寄居町赤浜に遷座した出雲乃伊波比神社の元宮
白旗八幡社(しらはたはちまんしゃ)は 寄居町赤浜に遷座した出雲之伊波比神社〈白旗八幡社〉の元宮になります 天正8年(1580年)荒川の度重なる氾濫により 白旗八幡社が 住民と共に赤浜に遷座した後も 畠山の氏子等は ここに祠を立てて祭りを続けたとされます その後 明治39年の勅令に基いて 明治41年に字栗坪の白幡八幡社を井椋神社の境内に遷座し 現在に至ります
白旗八幡社〈井椋神社の境内社〉(深谷市畠山)
・八幡塚旧跡〈白幡八幡社 旧鎮座地〉(寄居町赤浜)井椋神社に合祀された白旗八幡社の旧鎮座地
八幡塚旧跡は 井椋神社に合祀された 字栗坪にあった祠「白旗八幡社」の旧鎮座地の跡になります 従って『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の「武蔵國 男衾郡 出雲乃伊波比神社」の論社の跡地ですが 延喜式の時代(927年)には 当地に鎮座していたことになります
八幡塚旧跡〈白幡八幡社 旧鎮座地〉(寄居町赤浜)
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載 「物部神社」の名称を持つ式内社の論社について
太古の大和朝廷では 物部氏は 神道を奉じ軍事を司る氏族として「八十物部(やそのもののべ)」と云われ 絶大な勢力を保持していました
その後 神道を奉じる物部氏の宗家〈物部守屋大連〉は 仏教を信奉する蘇我氏〈蘇我馬子 大臣〉と戦い敗れ〈用命天皇2年(587)〉 物部氏は徐々に衰退をして行く事になります
『延喜式(Engishiki)』(927年12月編纂)の時代となっても かつての物部氏の勢力の大きさを示すように 広範囲に物部の神社は分布しています
東海道
「伊勢國 飯高郡 物部神社」
・伊勢寺神社(松阪市伊勢寺町)〈合祀〉
「伊勢國 壹志郡 物部神社」
・物部神社(津市新家町)〈山辺の行宮〉
「尾張國 春日部郡 物部神社」
・味美白山神社(春日井市二子町)〈合祀〉
・味美二子山古墳(春日井市二子町)〈旧鎮座地〉
・諸大明神社(春日井市松本町)
・八所神社(豊山町豊場木戸)
「尾張國 愛智郡 物部神社」
・物部神社(名古屋市東区筒井)
・御器所八幡宮(名古屋市昭和区)
「甲斐國 山梨郡 物部神社」
・物部神社(笛吹市石和町)
・御室山〈大蔵経寺山〉(笛吹市春日居町)〈旧鎮座地〉
・大石神社(山梨市西)
・大石神社(甲州市塩山赤尾)
・白山建岡神社(山梨市上栗原)
「武蔵國 入間郡 物部天神社」
・北野天神社(所沢市小手指元町)
北野天神社(きたのてんじんしゃ)は 三社を合殿に祀る総称で 正式名称は゛物部天神社・國渭地祇神社・天満天神社゛です 元々は 日本武尊が祀ったと伝わる入間郡の式内社 物部天神社とされ さらに国渭地祇神社を(一説には出雲祝神社も)合祀すると云う 長徳元年(995)京都より北野天神を勧請し 坂東第一北野天神と称しました
北野天神社(所沢市小手指元町)〈正式名称゛物部天神社 國渭地祇神社 天満天神社゛〉
東山道
「美濃國 厚見郡 物部神社」
・伊奈波神社(岐阜市伊奈波通)
・伊奈波神社 旧跡(岐阜市赤ケ洞)
・岩戸八幡神社(岐阜市長森岩戸)
・岩戸神社(岐阜市長森岩戸)〈参考論社〉
北陸道
「越中國 射水郡 物部神社」
・物部神社(高岡市東海老坂)
「越後國 頸城郡 物部神社」
・物部神社(上越市清里区)
物部神社(もののべじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の式内社「越後國 頸城郡 物部神社」です かつては 武士(もののふ)村に鎮座し 山王権現〈日吉神〉と呼ばれていました その後 田中村新田に遷座 昭和46年4月 圃場整備事業のため現在地〈南田中〉に遷座しました
物部神社(上越市清里区南田中)〈延喜式内社 物部神社(もののへの かみのやしろ)〉
「越後國 三嶋郡 物部神社」
・二田物部神社(柏崎市西山町)
物部神社(もののべじんじゃ)は 祭神 二田天物部命は 天香山命に奉仕て 高志国(越国)に天降りしたと云う 二田を献上する者がおり その地に居を定め その里を「二田」と称したと伝え 命は薨(こう)じて 二田の土生田(はにゅうだ)の高陵に葬られたと云う 延喜式内社 越後國 三嶋郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)です
二田物部神社(柏崎市西山町二田)〈延喜式内社〉
「佐渡國 雑太郡 物部神社」
・物部神社(佐渡市小倉)
物部神社(もののべじんじゃ)は 穂積朝臣老(ほづみのあそみおゆ)が養老二年(722)佐渡配流の謫居二十年の間 小祠に物部氏の祖神゛宇麻志麻治命゛を祀り 祈り続けたと云う 『續日本紀』〈延暦10年(791)物部天神 従五位下〉と神位の奉叙が記されている 延喜式内社 佐渡國 雑太郡 物部神社(もののべのかみのやしろ)です
物部神社(佐渡市小倉)〈『續日本紀』物部天神・延喜式内社〉
山陰道
「丹後國 與謝郡 物部神社」
・物部神社(与謝野町石川)
物部神社(もののべじんじゃ)は 創建年代は不祥ですが 『朝野群載』承暦四年(1080)に 御卜〈天皇の身体を亀甲で卜い 卜兆に現れたところを奏上する儀式〉にて゛丹後國 物部神の神祟あるを以て社司に中祓を科す゛と記されており 神威ある神社でした 延喜式内社 丹後國 與謝郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)です
物部神社(与謝野町石川物部)〈延喜式内社 物部神社〉
「但馬國 城崎郡 物部神社」
・韓國神社(豊岡市城崎町)
「石見國 安濃郡 物部神社」
・物部神社(大田市)石見国一之宮
物部神社(もののべじんじゃ)は 大和朝廷が出雲の勢力を牽制するために 御祭神の宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)が 大和の地から物部氏の一族をひきいて尾張・美濃・越国を平定され さらに播磨・丹波を経て石見国に入り この地に宮居を築かれ 祖神として祀られたものと伝わります
物部神社(大田市)〈延喜式内社・石見國一之宮〉
山陽道
「播磨國 明石郡 物部神社」
・可美真手命神社(押部谷町細田)
・惣社(神戸市西区伊川谷町)
西海道
「壱岐島 石田郡 物部布都神社」
・物部布都神社跡(壱岐市郷ノ浦町田)〈旧鎮座地〉
物部布都神社跡(もののべふつじんじゃ あと)は 延宝四年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で 式内社と比定された物部村に鎮座していた布都ノ宮〈物部布都神社〉の跡地です 昭和40年(1965)5月 天手長男神社に合祀されました
物部布都神社跡(壱岐市郷ノ浦町田)
・天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町)〈物部布都神社を合祀〉
天手長男神社(あまのたながおじんじゃ)は 鎌倉時代の元寇により荒廃 その後廃絶し 所在も不明となっていました 延宝4年(1676)平戸藩主の命により藩の国学者 橘三喜が 現地の地名「たなかを」から(たながお)推定し比定したものです それ以前は 天手長男神社の由緒は無いとされていた 櫻江村 若宮と云われた式外社でした
天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町田中触)〈壱岐嶋一之宮〉
・國津神社(壱岐市郷ノ浦町)
國津神社(くにつじんじゃ)は 三つの式内社の論社〈『延喜式神名帳927 AD.』所載 壱岐嶋 石田郡・国津神社(くにつかみのやしろ)・津神社(つの かみのやしろ)・物部布都神社(もののへのふつの かみのやしろ)〉とされます 神功皇后が「異国退治して無事帰朝せれば この所の守護神と成る」との伝説があります
國津神社(壱岐市郷ノ浦町渡良浦)〈延喜式内社〉
延喜式内社 入間郡 國渭地祇社(くにゐちきの かみのやしろ)の論社について
・北野天神社(所沢市小手指元町)
北野天神社(きたのてんじんしゃ)は 三社を合殿に祀る総称で 正式名称は゛物部天神社・國渭地祇神社・天満天神社゛です 元々は 日本武尊が祀ったと伝わる入間郡の式内社 物部天神社とされ さらに国渭地祇神社を(一説には出雲祝神社も)合祀すると云う 長徳元年(995)京都より北野天神を勧請し 坂東第一北野天神と称しました
北野天神社(所沢市小手指元町)〈正式名称゛物部天神社 國渭地祇神社 天満天神社゛〉
・国渭地祇神社(坂戸市森戸)
国渭地祇神社(くにいちぎじんじゃ)は 社記には 延暦年中(782~806年) 坂上田村麻呂が東征の帰途 報賽のため社殿を再営し 下って奥州藤原秀衡が再建したと伝えている 社地から鎌倉期と思われる古瓦が出土していること等から 延喜式内社 入間郡 國渭地祇社(くにゐちきの かみのやしろ)の論社にもなっています
国渭地祇神社(坂戸市森戸)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
西武池袋線 小手指駅から南へ約1.9km 車6分程度
社殿 境内は南向き 表参道は南側ですが
西側にも駐車場があり 参道があります
西側の鳥居には 北野天満宮 と刻字されています
北野天神社(所沢市小手指元町)に参着
一礼をして鳥居をくぐると 正中を進まないように 参道は折れながら境内に進みます
社殿の向かって左手から境内に入ります
西参道から境内に入ると 西参道の正面に手水舎があり 清めます 表参道の正面には社殿が建ちます
後ろを振り返ると 表参道が伸びていて 二の鳥居 一の鳥居が見えます
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 幣殿 本殿が鎮座します
境内社をお詣りして 社殿に一礼をします
西参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 出雲伊波比神社について 天穂日命は 出雲臣 武蔵国造の遠祖 入間宿祢は天穂日命の系統
所在は 北野村〈現 北野天神社(所沢市小手指元町)〉と記しています
式内社 物部天神社について 今 北野天神〈現 北野天神社(所沢市小手指元町)〉と称し 既に廃した式内社 二社(出雲伊波比神 国渭地祇神)と天満天神・小手指原明神の四神を合殿に祭る と記しています
式内社 国渭地祇神社について 北野村〈現 北野天神社(所沢市小手指元町)〉と記しています
【抜粋意訳】
出雲伊波比神社
書紀 天穂日命 此 出雲臣 武蔵国造等 遠祖也
姓氏 入間宿祢 天穂日命十世孫 天日古曽乃日命之後也
式考 北野村 祭神 スサノヲノミコト
〇信友云 上ノ伊波比神 同神也物部(モノノヘノ)天神社
續紀 神護景雲二年 武蔵國入間郡人 物部直 廣成等 賜姓 入間宿祢
新安手筒 当郡 北野と云ふ処に 七百石余の地にて 古の小手指原之 太平記にも見え 其の所に物部天神社あり 祠官を栗原氏と云へり 公義より社領を附らる 当國神社 百余社の管領之 但 公義へは高麗郡 武士天神と題したる札を上る 之 入間郡なるに かく書来れるは誤なるへし
〇今 北野天神と云ふ 天満宮を合祭る 毎年二月廿一日 物部祭礼 同廿五日 天満宮祭礼なり
式考 或いは 土的場村にあり ウマシマヂノ命
式詰 縁起云 出雲伊波比神。国渭地祇。天満天神。小手指原明神 四神を合殿に祭ると云へり 出雲伊波比 国渭地祇は既に廃したるを 此社に合祭れると云へり
又云 此社の西北 河越近所 入間川辺までを篭手差原と云ふ 旧地なり
豊嶋郡 下練馬村にも小手差原あれど 旧地にあらず
又 慶永文書に北野天神 天文の文書に北野宮とあり 此文書 神主 栗原氏に蔵す 以上国渭地祇(クニヌマノ クニツカミ)(クニヰチキ)神社
式考 北野村にあり オホナムヂ
【原文参照】
『新編武蔵風土記稿(Shimpen Musashi fudokiko)』文政13年(1830)完成 に記される伝承
北野天神社(所沢市小手指元町)について 今は 北野天神・小手指明神の二座を合せ祀れり 又 式内の神 國渭地祇社 出雲祝神社をも合せ祀ると云 と記しています
【抜粋意訳】
新編武蔵風土記稿 巻一五八 入間郡 巻之三 山口領 北野村
天神社
これ神名帳に載たる物部天神の社にして 祭神は饒速日命なりと云
今は 北野天神・小手指明神の二座を合せ祀れり 又 式内の神 國渭地祇社 出雲祝神社をも合せ祀ると云
縁起の大略に云 當所 式内三座の神社は 景行天皇四十年 日本武尊の天神地祇剱義神を祀り給へるなり 其帶せられし草薙の御剱は 元 出雲國八岐の大蛇の尾より出たる剱なり 是を移し祭り給ふ故 出雲祝神社と云
又 欽明天皇の御宇十二年十一月十五日 武蔵野小手指原の霊神 幷 日本武尊を合祭し 小手指大明神と崇む
一條院の御宇 菅丞相五世の孫 菅原の修成 武蔵國守の時 菅公の霊夢の告により 長徳元年二月廿五日勅許を蒙り 京北野天神を關東に移し給ひ 坂東第一北野天神と號す
其後 源頼義 義家父子 奥州の朝敵追罰の宿願によりて 總社建立あり
又 建久六乙宇年九月十五日 正八幡一宇を勧請あり 此時 本宮九社とも修造ありて 式内の諸神勧請 諸神宮と號し 社領二百貫の地を寄附せり 舊領を合せて二千二百貫文なり
然るに 建武・延元の戦争に社地儘く兵火にかかれり
延文元年丙甲に至り 将軍尊氏 又 諸社建立ありしが 應仁元年に及び天下又大に亂て 社頭再び烏有となり 年久しく廃社となりしが
天正十八年小田原陣の後 加賀利家再興して 菅公真蹟の経文 及び 宗近の太刀に黄金を添て寄附せしと云々以上の説信ずべからざるもの多し ことに式社の三座を合祀すと云こと最疑ふべし 恐らくは後世 近郷にありし式社の廃絶せしを 神職のはからひにて 合せてここに祀りしならん
又 村名を北野と呼び 且 應永四年 左兵衛督源某と云し人より下せし文書に 北野宮のこと先例の如く 沙汰すべき由をのせ 及び 天文・弘治以下の文書にもみな北野宮と記しあれば かの地主物部天神は古より祀りたらんか
北野天神を勧請せし後は 式社の名はかへりて 唱へざりしことは見えたり 今の社領 御寄附の御朱印の文にも 北野天神領五十石としるされたり
神輿堂 本社に向て左にあり
神楽殿 社前にあり
諸神社 本社に向て左にあり 縁起に建久六年九月 式内の諸神 勧請 諸神宮と號すと云もの是なりと されば國渭地祇社 出雲祝神社等をここに移せしは 建久後のことにして 景行天皇の御宇 式内三座を當所に祭れりと まへに見えたるはいよいよ信ずべからず
梅 社前にあり 圍み一圍許 天正十八年 加賀大納言利家 當社を再興して 新願所と定めし時 庭前に梅を一本植ゆ よりて大納言梅と稱す
櫻 これも社前にあり 日本武尊 式社勧請の頃 我給ひしにより 尊櫻と稱せりなどいへど 今もやうやく二圍半に過ざれば 當時のものともおもはれず 近き比 所澤の名主 碑を立て歌などを刻し 尊の由緒あることを詠せり
末社
祖神社 稲荷社 諏訪社 浅間社 日宮 月宮 以上は 本社の西に並びてあり
春宮 五行宮 風祭宮 雨請宮 山神宮 若宮八幡宮 子持宮 子安宮 以上は本社の後に並べり
縁起を閲るに 雨請 山神二社の間に日請の一社をのす これはのちに廃せしと見えて今はなし
疱瘡神社 五穀社 疫神社 結明神社 石神社 秡所社 文子社 以上は本社の東にあり。
神職 栗原左衛門
南大門の傍にあり 其家系を詳にせざれど 小田原陣の比の文書に神職 栗原伊賀守とあれば 北條分國の比は 巳に左衛門が先祖神主たりしこと見ゆれど この前はいつの比より司ると云ことをしらず
縁起に 據に大宮司は 天児屋根命十六代大中臣朝臣今麻呂長男 多美丸 七代大宮司 上毛野元重が時 領地二千貫文を賜はりてありしが 後鳥羽院の御宇 建久六年九月十九日 社領二百貫文の地を寄附すといへり 此によれば栗原は 大宮司が子孫といへるにや 恐らくは大宮司の子孫は断て 其後 別に神職となりて 相續するなるへし今所造の文書 左に載す
・・・・
・・・・
・・・・〈以下略〉
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 出雲伊波比神社について 所在は 北野郷 小手指原 物部天神社内〈現 北野天神社(所沢市小手指元町)〉とした上で 当國 横見郡 伊波比神社〈現 出雲伊波比神社(毛呂山町岩井西)〉もあるとも記しています
又 此辺の同称三社〈・横見郡 伊波比神社・入間郡 出雲伊波比神社・男衾郡 出雲乃伊波比神社〉についても ことごとに祭神が違うが もっとよく考証すべきとも記しています
式内社 物部天神社について 所在は 北野郷 小手指原〈現 北野天神社(所沢市小手指元町)〉と記しています
式内社 国渭地祇神社について 所在は 北野郷 小手指原 物部天神社内〈現 北野天神社(所沢市小手指元町)〉で 旧鎮座地は廃亡している と記しています
【抜粋意訳】
出雲伊波比神社
出雲は伊豆毛と訓べし、伊波比は假字也、
〇祭神 素戔鳴尊、(地名記)
○北野郷 小手指原 物部天神社内に在す、(同上)
例祭 月 日、
旧地 廃亡して 後爰に祀るか、
〇当國 横見郡 伊波比神社もあり、
日本紀 神代巻上、一書曰、天穂日命、此 出雲臣 武蔵國造等遠祖也 と見え、
姓氏録云、入間宿禰も此神之後とあれば、当社恐らくは天穂日命の裔を祭れる、所謂 氏神なるべきに、此辺の同称三社、ことごとに祭神の違へるは、中古よりの謬ならんとは思へど、其証いまだ見ず、猶よく考ふべし、
物部天神社
物部は毛乃々倍と訓べし
〇祭神 宇摩志麻知命、或云、少彦名命、(地名記)
O北野郷 小手指原に在す、(同上)
例祭 月 日、
社領
当代御朱印高五十石國渭地祇神社
國渭は久爾奴、地祇は久爾都加美と訓べし、
〇祭神 八千戈神、(地名記)
○北野郷 小手指原 物部天神社内に在す、(同上)
例祭 月 日、旧地 廃亡して後爰に祀るか、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 出雲伊波比神社について 所在は 今 物部天神の合殿〈現 北野天神社(所沢市小手指元町)〉と記しています
式内社 物部天神社について 北野村 武士天神〈現 北野天神社(所沢市小手指元町)〉と記しています
式内社 国渭地祇神社について 物部天神の相殿〈現 北野天神社(所沢市小手指元町)〉と記しています
【抜粋意訳】
出雲伊波比(イヅモノイハイノ)神社
今 物部天神の合殿に坐す、神社覈録、神社取調帳、
蓋 大己貴命を祭る、掛酌延喜式、神名帳頭注大意、物部天神(モノノベノアマツカミノ)社
今 北野村にあり、武士天神といふ、新安手筒、武蔵國全圖
蓋 無邪志国造の族 物部直の祖神を祭る、舊事本紀、續日本記大意、
凡 九月廿五日祭を行ふ國渭地祇(クニヌマノクニツカミノ)神社
今 物部天神の相殿に坐す、神社覈録、神社取調帳
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 出雲伊波比神社について 所在は 宮寺郷 字寄木森〈現 出雲祝神社(入間市宮寺) 〉と記しています
式内社 物部天神社について 所在は 北野村〈現 北野天神社(所沢市小手指元町)〉 祭神は 物部直氏の祖神 天穂日命であろうと記しています
式内社 国渭地祇神社について 社名のみ 記しています
【抜粋意訳】
出雲伊波比神社
祭神
今按〈今考えるに〉
社伝 祭神 天穂日命とあるは古傳なるべし
古事記に 天天菩比命の子 建比良鳥命 此は出雲国造 无邪志国造 云々
国造本紀に 成務朝の御世に 出雲臣の祖・二井之宇迦諸忍之神狭命(ふたいのうがもろおしのかむさのみこと)の十世孫の兄多毛比命(えたもひのみこと)を国造に定められた とあるに由を聞こえり祭日 九月二十九日
社格 村社所在 宮寺郷 字寄木森(入間郡宮寺村大字宮寺)
物部天神社
祭神
今按〈今考えるに〉
神社覈録に 祭神 宇摩志麻知命、或云、少彦名命とあるは 社号の物部と云によりて 物部連の祖神とし 天神とあるより少彦名命と思へるにて確証あるにあらず
故に思ふに 此 物部神社は 武邪志国造 同族 物部直氏の祖神 天穂日命なるべし 其れは續日本紀に神護景雲二年秋七月 壬午 武蔵國入間郡人 正六位上勲五等 物部直廣成等六人 賜姓 入間宿祢とあるもの明証と云つべし祭日
社格 郷社(縣社)所在 北野村(入間郡小手指村大字北野)
国渭地祇神社
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
〇埼玉縣 武蔵國入間郡 小手指村大字北野
縣社 物部天神(モノノベテンジンノ)社 國渭地祇神(クニヰ クニツカミ)社 天満天神(テンマンテンジンノ)社
祭神 櫛玉饒速日(クシタマニギハヤヒノ)命
八千矛(ヤチホコノ)命合殿 菅原道眞公(スガハラノミチザネキミ)
合祀 天穂日(アメノホヒノ)命
加屋野姫(カヤヌヒメノ)命
応神天皇(オウジンテンノウ)
日本武(ヤマトタケルノ)尊創立年代詳ならず 但古来傳へ云ふ 当所三社は式内社なりと
而して 古老の口碑に云く 当所式内三座の神社は 景行天皇四十年 日本武尊の 天神地祇劒義神を祀り給へるなり 其帯せられし草薙の御劒は 元 出雲国 八岐の大蛇の尾より出でたる劒なり 是を移し祭り給ふ故に 出雲祝神社と云ふ又 欽明天皇の御宇十二年十一月十五日 武藏野小手差原の霊神 並に 日本武尊を合祭し 小手指大明神と崇む
一条院の御宇 菅丞相五世の孫 菅原修成 武蔵国守の時 菅公の霊夢の告に依り 一条天皇 長徳元年二月二十五日勅許を蒙り 京北野天神を関東に移し給ひ 坂東第一北野天神と號す 其後 源頼義 義家父子 奥州の朝敵追討の宿顧によりて 総社建立あり
又 建久六乙卯年九月十五日 正八幡一宇を勧請あり 此時 本宮九社とも修造ありて 式内の諸神 勧請 諸神宮と号し 社領二百貫の地を寄附せり 旧領を合せて二千二百貫文なり
然るに 建武延元の戦に 社地悉く兵火にかゝれり 延文元年丙申に至り 将軍尊氏 又 諸社建立ありしが 應仁元年に及び 天下 又 大に乱れて 社頭再ぴ烏有となり 年久しく廃社となりしが 天正十八年 小田原陣の後 加賀利家再興して 菅公眞蹟の経文 及び 宗近の太刀に黄金を添へて 寄附せしと云々
式社三座に関し 新編武蔵風土紀記に云く、
「以上ノ説信スベカラザルモノ多シ、コトニ式社ノ三座ヲ合祀スト云コト、最疑フベシ、恐ラクハ後世近郷ニアリシ二社ノ廃絶セシヲ、神職ノハカラヒニテ合セテコゝニ祀リシナラン、又村名ヲ北野卜呼ビ、且応永四年左兵衛督源某卜云シ人ヨリ下セシ文書ニ、北野宮ノコト先例ノ如ク沙汰スベキ由ヲノセ、及ビ天文弘治以下ノ文書ニモ、ミナ北野宮ト記シアレバ、カノ地主物部天神ハ、古ヨリ祀リタランカ、北野天神ヲ勧請セシ後ハ、式社ノ名ハ、カへリテ唱ヘザリシコトゝハ見エタリ」と、徳川幕府寄するに社領五十石を以てす、
諸社朱印状に云く、
「天正十八年 加賀大納言利家武蔵国入間郡北野郷天神社中諸神堂領、同所之内五十石事、任慶安二年八月二十四日先判之旨、永不可有相違者、専神事祭礼、可抽国家安全之懇祈者、仍如件、
寛文五年七月十一日」
明治五年社格制定に当り 郷社に列せられしが、三十四年三月縣社に昇格す、
社殿は 本殿、拝殿、其他神樂殿等あり、境内2028坪(宮有地第一種)
日本武尊の手栽なりと伝ふる尊櫻、及 天正十八年 前田利家が当社を再興して祈願所と定めし時 所植なりと伝へらる 大納言梅あり 共に世に名高し 当社所蔵文書、新編武蔵風土記稿に見えたり、左に叙す。
寄進武蔵国北野天口
同国山口郷内北野宮并田畠在家(従□□□□別氏)
右任先例致沙汰□神事之状如件
應永四年八月二十五日 左兵衛督源次□花押
北□□□職事、如前々可致動之條、得其意候恐々謹言
天文十一年二月十五日 道俊花押
北野宮神主殿
武州神職司勤之神祭等令執行、天下之御祈祷可抽丹精者也
天正十八年七月五日 利家印
北野神主栗原殿
為天神宮勧請、黄金二百枚捧之、御自筆之御経一部並太刀一腰むねちか奉納之、愈武運長久可給御祈祷□□□
北野神主殿
尚此の外禁制状(弘治元年のものか、北条家虎印、乙卯四月三日とあり)、天正十七年卯月三日社殿、御神寶の保存に関する状(秀信花押)天正十八年六月日禁制に関する状(淺野弾正少弼花押、木村常陸介花押)同年七月御湯祭に関する状(木村常陸介花押)等数通の古文書今に伝れり、又此他永禄壬戌の太田資正の状永禄十年の古文書等 以前はありしも 今は失へりと云ふ。〇新編武蔵風土記稿境内神社
諸神宮 文子神社 八雲神社 稲荷神社
【原文参照】
北野天神社(所沢市小手指元町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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武蔵国(むさしのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 武蔵国には 44座(大2座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
武蔵國 式内社 44座(大2座・小42座)について