川内多々奴比神社(かわうちたたぬひじんじゃ)は 社伝に第10代 崇神天皇の御代 四道将軍 丹波道主命が創建と伝え 別説には 社名の多々奴比(たたぬひ)は楯縫(たてぬい)の訛りで『延喜式』にある神楯を奉仕する斎部の楯縫氏の事 楯縫氏が祖神 彦狭知命を川内郷に祀ったので 川内多多奴比神社と伝わります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
川内多々奴比神社(Kawauchi tatanuhi shrine)
【通称名(Common name)】
一宮(いちのみや)
【鎮座地 (Location) 】
兵庫県丹波篠山市下板井74
〈兵庫県多紀郡西紀町下板井字川内原坪74〉
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天照皇大御神(あまてらします すめおほかみ)
建速素盞嗚命(たけはや すさのをのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
所在地 兵庫県多紀郡西紀町下板井字川内原坪七四番地
名 称 川内多多奴比(かわちたたぬい)神社
祭 神 天照皇大御神 建速素盞嗚命
例 祭 十月九日
縁起
崇神天皇の御代 四道将軍 丹波道主命、この地に野陣を張り賊徒征伐に苦慮された時、白髪の翁が現れ玉剣を授け、その加護により平定することが出来たので朝廷に言上し、勅命によりここに宮地を営んだのが当社の縁起であります。
名称の川内は当地を川内郷といい、神楯を奉仕する斎部の楯縫氏が祖神を祀ったので川内多多奴比神社といいます。
天智天皇二年九月九日勅命により祭祀を執り行ったのが祭礼の初めで、天武天皇白鳳元年九月九日国司により造営され、氏子中二十社の総社で平生は一ノ宮と呼んでいる。
現地案内板より
由 緒
崇神天皇の御宇、四道将軍丹波道主命丹波に遺されし時、蒙昧の徒皇軍に従はず一勝一敗容易に平定すべくもあらず。
仍りて此地に野陣を張られ、天神地祇に祈請せられしに、東山の麓に小川ありて、其の小川の淵となる所より光輝赫灼として陣中に照り通り、且震動して止まざること數日。
命大いに訝り怪みて、是れ神祇の御守護の顯に現れ給ふ事ならんと思召し。
彼の水邊に至り給へば、白髪の老翁身には白衣を着け左手に白玉を右手に剱を捧げながら水上に漂へり。
命の曰く 是れ人に非ず神ならんと敬ひつつ、近寄り給へば、彼の老翁左右の玉剱を命に授け、白玉は是れなん天神国神として齋き奉れ。剱は賊徒を亡す霊剱なりと誨へ給ひて御姿は見えず。
光輝も震動も次第に止みぬ。
命大いに喜び、懇に天神国神を祭りて、其の恩頼に報ひ奉り給へり。
夫より賊徒悉く平ぎて、国中平安となれり。
爰に於て命この由を朝廷に言上して、勅命を受け宮地を相して、白玉を天照皇大神、神霊剱を建速素盞嗚命と稱し奉りて、此地に勸請せられたり。
2008 兵庫県神社庁HPより
https://www.hyogo-jinjacho.com/data/6307051.html
【由 緒 (History)】
由緒
崇神天皇の御宇 四道将軍丹波道主命 丹波に遺されし時 蒙昧の徒皇軍に従はず一勝一敗容易に平定すべくもあらず 仍りて此地に野陣を張られ天神地祇に祈請せられしに 東山の麓に小川ありて其の小川の淵となる所より光輝赫灼として陣中に照り通り且震動して止まざること數日 命大いに訝り怪みて 是れ神祇の御守護の顯に現れ給ふ事ならんと思召し 彼の水邊に至り給へば 白髪の老翁 身には白衣を着け左手に白玉を右手に剱を捧げながら水上に漂へり 命の曰く 是れ人に非ず神ならんと敬ひつつ近寄り給へば 彼の老翁 左右の玉剱を命に授け 白玉は是れなん天神國神として齋き奉れ 剱は賊徒を亡す霊剱なりと誨へ給ひて 御姿は見えず光輝も震動も次第に止みぬ 命大いに喜び懇に天神國神を祭りて 其の恩頼に報ひ奉り給へり夫より賊徒悉く平ぎて國中平安となれり 爰に於て命この由を朝廷に言上して 勅命を受け宮地を相して 白玉を天照皇大神 神霊剱を建速素盞嗚命と稱し奉りて 此地に勸請せられたり 斯くて彼の玉剱は川の内に漂ひし神の分霊なるにより 社の名を川内多々奴比神社と稱して敬祭し給へり 是れ即ち當社鎮座の起因なり
因って郷民 社地の名を川内原と呼び 光輝水上より東南の山々迄輝き渡りたればとて 東の山を御光嶺 南の山を南光山と謂ひ 氏子を川内の郷と謂ふ
天智天皇2年9月9日勅命を以て祭事を行はる蓋し祭禮の始なり 天武天皇白鳳元年9月9日國司より造営せられ 醍醐天皇延喜の制二座とも式内社に列せられ神名帳に丹波國多紀郡川内多々奴比神社二座とあるに相當し 同帳四時祭の部に國司祈年神云々 又 座別に絲二両綿二両右國司の長官以下准列散齋3日致齋1日共に會祭し 其幣皆用正税とあるは昔時 祈年の國幣に預り國司親しく祭事を行はれたることを證すべし
正暦元年3月摂津守源頼光丹波賊徒征討の際太刀1口を奉獻せられたることは由緒により知ることを得、元弘年中兵燹に罹り霊代なる神玉神剱を紛失したることは頗る遺憾とする所なり 正平13年8月再建新に神躰を造りて勸請せられ笈西勘太夫供奉明山權太夫出向へたるにより 現在板井村に笈西及明山姓のもの多し 萬治元年社殿及び古文書寶物等全部焼失に及び 僅に源頼光奉獻の太刀1口出でたり 同3年4月社殿を再建し 明治6年10月村社に列し 大正9年5月郷社に昇格す※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・川内多々奴比神社 社殿
・〈社殿向かって右の石段上の境内社〉愛宕神社《主》火加具土命
・御神木 垂乳根の公孫樹
垂乳根の公孫樹(たらちねのぎんなん)
樹齢千年ともいわれ、上方の太い幹や枝に乳房のような気根が垂れ下がり、古来、垂乳根・乳の木ともいわれ、育児や長寿を祈る御神木と仰がれています。 宿り木が繁茂し、その数も数十種に及び、生きた化石ともいわれる漏斗状のラッパイチョウの原始葉も彼方此方に見られ、学術的にも注目されています。
現地案内板より
・頼光駒止めの樫
頼光駒止めの樫
正暦元年(九九〇)三月、摂津守源頼光が大江山の鬼退治に向かう道中、当社に立ち寄り太刀一振を奉納し必勝祈願をしました。
伝説の駒止めの樫は老木のため、昭和三十八年一月八日の豪雪で枯れましたが、現在直系の樫が育っています。
太刀は神社の宝物となっています現地案内板より
・鳥居
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・籾塚古墳〈縦縫氏の古墳〉
・川内多々奴比神社の摂社 二宮神社(丹波篠山市上板井)
※川内多々奴比神社〈一宮〉と二宮神社で 延喜式内社 丹波國 多紀郡 川内多多奴比神社二座(かはちたたぬひの かみのやしろ ふたくら)とする説があります
〈参考〉・内場山墳丘墓
内場山墳丘墓は 内場山の地が楯縫氏の氏神を祀る川内多々奴比神社に隣接し 江戸時代以降には下板井集落の共同墓地になっている点などから 地元では内場(ないば)は里ぎ場(なぎば)=祭祀場に通じるという説が生み出されている。
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式巻7 神祇七 践祚大嘗祭』に記される伝承
践祚大嘗祭で用いる神楯4枚を 丹波国の楯縫氏が造ることを定めています
【抜粋意訳】
延喜式巻七 神祇七 大嘗祭式 神楯戟条
大嘗宮の南北門には神楯4枚・戟8竿を立てること
その寸法は本条規定のとおり
これは左右衛門府が9月上旬に太政官に申請し兵庫寮をして作製し備えよ なお 楯は丹波国の楯縫氏 戟は紀伊国の忌部氏が作製し 祭祀終了後には衛門府に納めよ
又 朱雀門・應天門・会昌門に立てる大楯6枚・戟12竿も 同じく兵庫寮が修理すること
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)丹波國 71座(大5座・小66座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)多紀郡 9座(大2座・小7座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 川内多々奴比神社 二座
[ふ り が な ](かはちたたぬひの かみのやしろ ふたくら)
[Old Shrine name](Kahachi tatanuhi no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
楯縫神社の祭神 彦狹知命(ひこさちのみこと/ひこさしりのみこと)について
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承
『日本書紀』では 彦狹知命は 紀国(きのくに)の忌部(いんべの)遠祖(とおつおや)〈楯縫連の祖神〉とされ
彦狭知神は 盾を作る 作盾者(たてぬい)と記されます
【抜粋意訳】
巻第二 神代下 第九段 第二 一書
時に
高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)が 大物主神(おほものぬしのかみ)に勅された
「汝(なんじ)が もし国神(くにつかみ)を妻とするなら 吾(われ)は汝(なんじ)が まだ疏心(うときこころ)〈揺れ動く心〉があると思う それ故 我が娘の三穂津姫(みほつひめ)を 汝に娶あわせ 妻とさせたい 八十万神(やおよろずのかみ)を率いて 永く皇孫(すめみま)を守り奉りなさい」そして 還り降らせられた(地上に戻された)紀国(きのくに)の忌部(いんべの)遠祖(とおつおや)
手置帆負神(たおきほおいのかみ)を 笠を作る「作笠者(カサヌイ)」とされた
彦狭知神(ひこさちのかみ)を 盾を作る「作盾者(タテヌイ)」とされた
天目一箇神(あまめひとつかのかみ)を 「作金者(カナダクミ)」〈鍛冶〉とされた
天日鷲神(あまのひわしのかみ)を 作木綿者(ユウツクリ)とされた
櫛明玉神(くしあかるたまのかみ)を 作玉者(タマツクリ)とされた太玉命(ふとたまのみこと)を 弱々しい肩に太手繦(フトタスキ)をかけて 「御手代(ミテシロ)」とされた
この神を祀るのは これが始まりです天児屋命(あめのこやねのみこと)は 神事を司る宗源者(モト)なり
だから 太占(フトマニ)の卜事(ウラゴト)をして神事に参加された高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は勅して曰く
「吾(われ)は 天津神籬(あまつひもろぎ)と天津磐境(あまついわさか)を樹(たてて)吾孫(すめみま)に斎奉(いつきたてまつる)
天兒屋命と太玉命は 天津神籬(あまつひもろぎ)をもって葦原中国(あしはらなかつくに)に降りて 吾孫(すめみま)を斎奉(いつきたてまつり)なさい」そして 二神をそえて従わせ遣わし 天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)を降らせられた
【原文参照】
『古語拾遺(kogojui)〈大同2年(807年)〉』に記される伝承
神代段は 父神 手置帆負神と共に 天御量を使って大小の峡谷の木を伐採して瑞殿を造営し 御笠・矛・盾を制作したと記され
神武天皇段にも 再び父神と共に 太玉命の孫・天富命に率いられて山から木を伐採し 神武天皇の正殿を造営し また その末裔は紀伊国名草郡の御木・麁香二郷にいると記しています
【抜粋意訳】
古語拾遺 一巻 神代段
一(ひと)は聞くところによると 天地の初め伊弉諾(イザナギ)伊弉冉(イザナミ)の二神は共に夫婦と成り 大八州国(オオヤシマノクニ)及び山川草木を生み 次に生まれたのは 日の神と月の神 その後に 素戔嗚神を生まれた 素戔嗚神は常に激しく泣き喚いていた
故に 人民(ひとぐさ)を夭折(あかにさま)にし 青山は枯山と成り 父母の二神は 勅(みことのり)して曰く 汝の行いは無道(あるべきみち)ではない 早く根の国に退去しなさい」天地が別れ 初めに天で生まれた神の名は 天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)
次に 高皇産霊神(タカミムスビノカミ)[古語では 多賀美武須比 これは皇親神留伎命(スメラカムツカミルキノミコト)]
次に 神皇産霊神(カミムスビノカミ)[これは 皇親神留彌命(スメラカムツカミルミノミコト)で この神の子の天児屋命(アメノコヤノミコト)は中臣朝臣(ナカトミノアソン)の祖先]高皇産霊神が生んだ娘の名は 栲幡千千姫命(タクハタチチヒメノミコト)[天祖 天津彦尊の母なり]
其の男子の名は 天忍日命(アメノオシヒノミコト)[大伴宿禰の先祖]
又 男子の名は 天太玉命(アメノフトタマノミコト)[斎部宿禰の先祖である。]太玉命の率いる神の名は 天日鷲命(アメノヒワシノミコト)[阿波(アワ)の国の忌部(インベ)の先祖]
手置帆負命(テオキホオイノミコト)[讃岐国の忌部の先祖]
彦狭知命(ヒコサシリノミコト)[紀伊国の忌部の先祖]
櫛明玉命(クシアカルタマノミコト)[出雲国の玉作りの先祖]
天目一箇命(アメノマヒトツノミコト)[筑紫・伊勢の両国の忌部の先祖]
【原文参照】
【抜粋意訳】
高皇産霊の神は 八十萬(ヤヲヨロズ)の神を天八湍川(アメノヤスカワ)の河原に集め 今後の方策を議論された
思兼神(オモイノカネノカミ)が 深謀遠慮して「太玉神(フトタマノカミ)に諸部神(トモノオノカミ)を率いて 和幣(ニギテ)を作らせ
石凝姥神(イシコリドメノカミ)[天糠戸命(アメノヌカドノミコト)の子で 作鏡(カガミツクリ)の遠祖]に 天香山(アメノカグヤマ)の銅(アカガネ)を取り 日像(ヒカタ)の鏡を鋳(い)させ
長白羽神(ナガシロハノカミ)[伊勢国の麻績(オミ)の先祖 今の世で衣服の事を白羽と言うのはこの由縁]に麻を植え 青和幣(アオニキテ)[古語は爾伎弖(ニキテ)]
天日鷲神(アメノヒワシノカミ)と津咋見神(ツクヒミノカミ)とに 殻(カヂ)の木を植えせ 白和幣(シロニキテ) [是は木綿(ユフ) その前の二つのもの(麻・殻)は一夜で生い茂りました]
天羽槌雄神(アメノハツチヲノカミ)[倭文の遠祖]に 文布(シツ)を織らせ 天棚機姫神(アメノタナバタヒメノカミ)に神衣を織らせ 所謂、和衣(ニギタエ)[古語は 爾伎多倍(ニギタヘ)と言う]
櫛明玉神(クシアカルタマノカミ)に 八坂瓊五百箇御統玉(ヤサカニノイホツミスマルノタマ)を作らせ
手置帆負(タオキホオヒ)と彦狹知(ヒコサシリ)の二柱の神に 天御量(アメノミハカリ) [大小の量り雑器などの名]を使って 大峡・小峡の木を伐り瑞殿(ミヅノミアラカ)を造り[古語は美豆能美阿良可(ミズノミアラカ)と言う]また 御笠と矛盾を作らせました
天目一箇神(アマノメヒトツカミ)に 雑(クサグサ)の刀(タチ)・斧(オノ)、また、鐡(クロガネ)の鐸(サナキ)[古語は佐那伎(サナギ)と言う]を作らせ それらの物が揃ったら 天香山の五百箇真賢木(イホツマサカキ)[古語は 佐禰居自能禰箇自(サネコジノネコジ)と言う]を堀って
上の枝には玉を掛け 中の枝には鏡を掛け 下の枝には青和幣・白和幣を掛け 太玉命に捧げ持たせて讃えさせ
また 天児屋命(アメノコヤネノミコト)に命じて 相共に祈祷させ また天鈿女命(アメノウズメノミコト)[古語は天乃於須女(アメノオスメ)と言う・・・
・・・
【原文参照】
【抜粋意訳】
神武天皇の段
天富命(アメトミノミコト)[太玉命の孫] は 手置帆負(タオキホオイ)と彦狹知(ヒコサシリ)の2柱の神の孫を率いて 斎斧(イミオノ)・斎鉏(イミスキ)を持ち 始めて山の木を採り 正殿(ミアラカ)を建てた 所謂 底津磐根(ソコツイワネ)に(ミヤハシラ)を建てて 高天原に届くほど搏風(チギ)は高く 皇孫命(スメミマノミコト)の御殿を作り 奉りました]
その末裔は 今は紀伊国の名草郡の御木(ミキ)・麁香(アラカ)の二郷に居ます[古語は正殿を麁香(アラカ)と言う]
木材を採取する斎部の居る所を 御木(ミキ)と言い 殿を造る斎部の居る所を麁香(アラカ)と言うのはその證です
【原文参照】
『延喜式927 AD.』に所載 楯縫神社(たてぬひの かみのやしろ)の論社について
延喜式内社 楯縫神社には いずれも 彦狹知命を祀るとする伝承があります 下記に現在の論社を記します
常陸國 信太郡 楯縫神社(たてぬひの かみのやしろ)
・楯縫神社(稲敷郡美浦村木原)
楯縫神社(たてぬいじんじゃ)は 創建は・紀元十八年・推古天皇十六年(608)・大同二年(807)と三説があり『常陸國風土記(713)』には「普都大神が 天降り山河の荒ぶる神を平定し 身に着けた杖・甲・戈・楯・剣・玉等を脱ぎ天帰された所」と伝承あり 延喜式内社 常陸國 信太郡 楯縫神社(たてぬひの かみのやしろ)です
楯縫神社(稲敷郡美浦村木原)〈『常陸國風土記』『延喜式』所載〉
丹波國 氷上郡 楯縫神社(たてぬひの かみのやしろ)
・楯縫神社(丹波市春日町長王ハチマン山)
楯縫神社(たてぬいじんじゃ)は 創建年代などは不祥ですが 延喜式内社 丹波國 氷上郡 楯縫神社(たてぬひの かみのやしろ)とされます 『延喜式巻7 神祇七 践祚大嘗祭』には 践祚大嘗会で用いる神楯四枚を 丹波国の楯縫氏が造ることを定めていますので 川内多多奴比神社と並んで大嘗祭に奉仕した楯縫氏の氏神という説があります
楯縫神社(丹波市春日町長王ハチマン山)〈延喜式内社〉
但馬國 養父郡 楯縫神社(たてぬひの かみのやしろ)
・楯縫神社(養父市建屋字宮山)
楯縫神社(たてぬいじんじゃ)は 持統天皇3年(689)の創立と伝わり 延喜式内社 但馬國 養父郡 楯縫神社(たてぬひの かみのやしろ)の論社とされます 『延喜式 神祇七 践祚大嘗祭』に 践祚大嘗会で用いる神楯四枚を 丹波国の楯縫氏が造ることを定めていて 川内多多奴比神社と並んで大嘗祭に奉仕した楯縫氏の氏神という説あり
楯縫神社(養父市建屋字宮山)〈持統天皇3年(689)創立 延喜式内社〉
・齋神社(養父市長野字東山)
・楯縫神社〈齋神社の境内摂社〉(養父市長野字東山)
齋神社(いつきじんじゃ)は 聖武天皇 天平二年(730)創立 境内摂社 楯縫神社と共に 延喜式内社 但馬國 養父郡 楯縫神社(たてぬひの かみのやしろ)の論社です 伝説には 神代の昔 但馬は泥海だった 但馬五社の神様が養父明神を遣わし 斎神社に坐す彦狭知命に泥海を切り開くことを願い 豊かな大地が生まれたと伝わります
齋神社 & 境内摂社 楯縫神社(養父市長野字東山)
但馬國 氣多郡 楯縫神社(たてぬひの かみのやしろ)
・楯縫神社(豊岡市日高町鶴岡字保木)
楯縫神社(たてぬいじんじゃ)は 白鳳時代(645~710年)の往昔 出雲国から丹波国を経て当国〈但馬國〉で栄えた楯縫連(たてぬいのむらじ)が 遠祖 彦狭知命を楯屋丘 多田谷に祀ったのが始りと伝わる 延喜式内社 但馬國 氣多郡 楯縫神社(たてぬひの かみのやしろ)です 昭和22年(1947)現在地に遷座奉祀されました
楯縫神社(豊岡市日高町鶴岡字保木)〈延喜式内社〉
丹波國 多紀郡 川内多多奴比神社二座(かはちたたぬひの かみのやしろ ふたくら)
・川内多々奴比神社(丹波篠山市下板井)
川内多々奴比神社(かわうちたたぬひじんじゃ)は 社伝に第10代 崇神天皇の御代 四道将軍 丹波道主命が創建と伝え 別説には 社名の多々奴比(たたぬひ)は楯縫(たてぬい)の訛りで『延喜式』にある神楯を奉仕する斎部の楯縫氏の事 楯縫氏が祖神 彦狭知命を川内郷に祀ったので 川内多多奴比神社と伝わります
川内多々奴比神社(丹波篠山市下板井)〈延喜式内社〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR福知山線 丹波大山駅から県道97号経由で北へ約3.9km 車で7分程度
川内多多奴比神社の東側 舞鶴若狭自動車道の高架橋の下に位置する籾塚古墳から進みます
川内多々奴比神社(丹波篠山市下板井)に参着
一礼をして 鳥居をくぐり 境内へ入り
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
御神紋は丸に川の字
境内には 育児や長寿を祈る御神木 垂乳根の公孫樹(たらちねのぎんなん)があります
境内には 西日が差し込んできました
社殿に一礼をして 境内を戻ります
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 川内多々奴比神社二座について 所在・祭神は不明と記しています
【抜粋意訳】
川内多々奴比神社二座
川内は加布知と訓べし、多々奴比は假字也、〔楯縫の訛りか〕和名鈔、〔郡名部〕川内、
〇祭神 在所等詳ならず
〇當國 氷上郡 楯縫神社もあり
舊事記、〔神祇本紀〕復令に彦狹知神爲に作盾者、
〇式四十九、〔兵庫〕践祚大嘗會、新造神盾四枚、丹波國楯縫氏造、云云、
〇當國氷上郡楯縫神社もあり
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 川内多々奴比神社二座について 祭神は゛楯縫氏の祖 彦狹知神を祀る゛
所在は゛今 宮田莊河内郷上下板井村に分ち第る、上板井に在るを一宮と云ひ、下板井に在るを二宮と云ふ、゛と二ヶ所あると記しています
〈現 川内多々奴比神社(丹波篠山市下板井)は 一宮と呼ばれています〉
〈現 二宮神社(丹波篠山市上板井)は 川内多々奴比神社の摂社扱いです〉
【抜粋意訳】
川内多多奴比(カハチノタタヌヒノ)神社 二座
今 宮田莊河内郷上下板井村に分ち第る、上板井に在るを一宮と云ひ、下板井に在るを二宮と云ふ、〔丹波志、豊岡縣式内神社取調帳、〕
盖 楯縫氏の祖 彦狹知神を祀る、〔日本書紀、古語拾遺、貞観儀式、延喜式、〕
上古 天祖の石戸に隠り坐し時、此神をして楯を造らしめ、又 大己貴命を祭る時に、楯作者と定め給ひき、〔日本書紀、古語拾遺、〕
後世に至て、猶 丹波楯縫氏 大嘗祭の神楯を造り仕奉るは、盖 其神裔也、〔貞観儀式、延喜式〕
凡 每年九月九日莊内十八村の民、共に之を祭る、〔丹波志〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 川内多々奴比神社二座について 祭神は゛彦狹知(ヒコサシリノ)神゛
所在は゛板井村〔字河内原坪〕(多紀郡北河内村大字下坂井)゛〈現 川内多々奴比神社(丹波篠山市下板井)〉と記しています
【抜粋意訳】
川内多多奴比(カハチノタタヌヒノ)神社
祭神 彦狹知(ヒコサシリノ)神
今按 古語拾遺に令 手置帆負(タヲキホオヒ)彦狹知(ヒコサシリノ)二神以に天御量(アマノミハカリ)を伐(カリテ)に大峽小峽(オホカヒヲカヒ)之材(キ)を而造り瑞殿(ミヅノミアラカ)を作(ツクラシム)に御笠(ミカサ)及矛盾(ホコタテ)とみえ践祚大嘗祭式に 楯は丹波ノ國ノ楯縫氏造之とあるは丹波國に住る楯縫氏の造れりし物なるべく 其楯縫氏は彦狹知命の裔にて其祖神を祭れるが即本社と聞ゆ 社名に川内と冠らせたるは 河内郷板井村河内原坪と云にます 楯縫神社あればなるべし
祭日 九月九日
社格 村社(郷社)所在 板井村〔字河内原坪〕(多紀郡北河内村大字下坂井)
【原文参照】
川内多々奴比神社(丹波篠山市下板井)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
丹波国 式内社 71座(大5座・小66座)について に戻る
丹波国(たんばのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 丹波国には 式内社 71座(大5座・小66座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
丹波國 式内社 71座(大5座・小66座)について