実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

片埜神社〈一の宮〉(枚方市牧野阪)〈延喜式内社〉

片埜神社(かたのじんじゃ)は 社伝によれば 第11代垂仁天皇〈在位BC29~AD70年頃〉創建とされ『延喜式神名帳Engishiki jimmeicho)(927年12月編纂)に所載される古社です 戦国時代に兵火にかかり荒廃しますが 天正11年(1583年)豊臣秀吉公により大坂城鬼門鎮護の社と定められて 方位鬼門除けに霊験あらたかな社と世に知られています 明治期の神社合祀政策1906年~によって 式内社の久須須美神社合祀しています

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

片埜神社Katano Shrine)
(かたのじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

一の宮(いちのみや)

【鎮座地 (Location) 

大阪府枚方市牧野阪2-21-15

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

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《主》建速須佐之男大神Takehaya Susanowo no okami)
            祇園八坂の大神・厄除方除の神

《主》櫛稲田姫命Kushi Inadahime no mikoto)
         須佐之男大神お后・縁結の神

《主》八島士奴美Yashimashinumi no mikoto)
          八将軍・方位の守護神

《主》菅原道真Sugawara no michizane ko)
         天満天神・学問の神


明治期の神社合祀政策1906年~による 旧牧野村内の神社合祀
《主》天照皇大神〈旧 産土神社伊勢の大神・日本の祖神
   品陀和気命〈旧 産土神社八幡の大神・厄災除の神
   天児屋根命〈旧 産土神社春日大社の大神
   八幡大神〈旧 粟倉神社
   久那戸神〈旧 道祖神社塞の神・天地境界の守護神
   八幡大神〈旧 粟倉神社
   事代主命〈旧 産土神社枚方えびす大神

   久須須美大神〈旧 久須須美神社字「九頭神」の地主神
   『延喜式神名帳Engishiki jimmeicho)所載社

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

安産祈願 Prayer for a healthy childbirth
初宮参り Baby prays at shrine for the first time
七五三詣 Dedicate your child's growth and thank God
・厄払祈願 Prayer at an age considered a milestone in life
・方除祈願 If you pray, you can rule out the wrong direction
・等 etc

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳Engishiki jimmeicho)所載社
〈河州一之宮〉称し 
  河内国一之宮Kawachi no kuni Ichinomiya)同意

【創  (Beginning of history)】

社伝では 第11代 垂仁天皇(スイニンテンノウ)〈在位 BC29~AD70年頃〉の御世

由緒沿革

御祭神
建速須佐之男命 菅原道真公 事代主大神 他九柱

 社伝では、11代垂仁天皇の御世、出雲の野見宿禰命が当地方を拝領した折、建速須佐之男大神をこの地にお祀りして 土師氏の鎮守としたのが草創で、
29代 欽明天皇の御世に「片野神社」の社号を賜って 交野郡の産土社となった。

延喜式(927年)では 式内小社に列され、天徳4年(960年)に土師氏の出である菅原道真公を併祀、平安時代後期には 社名を「一宮(いちのみや)」と改めた。

 鎌倉・室町期には元弘の変や、三好・松永の戦いなど幾度かの兵火に罹り、荒廃と再建を繰り返した。

 天正11年(1583年)、豊臣秀吉公により 大坂城鬼門鎮護の社と定められてからは、方位鬼門除けにも霊験あらたかな社と世に知られ、慶長7年(1602年)には 豊臣秀頼公による本殿等の寄進大造営があった。

明治時代に 近隣諸社のご祭神を合祀申し上げ、社名をもとの「片埜神社」に復して現在に至っている。

片埜神社 公式HP よりhttps://www.katanojinja.com/blank-3

【由  (History)】

交野台地の一角、牧野阪に鎮座する当社は、延喜式内社の古社であり、素盞嗚尊、菅原道真公を主神として他十一柱の神々を奉祀している。

2千年前、第11 垂仁天皇の御代に 出雲の国の豪族「野見宿禰」が河内国を拝領し、出雲の祖神「素盞嗚尊」をこの地に奉斎して、土師氏の鎮守としたのが草創である。

その後、欽明天皇の勅願をもって「片野神社」と称し、平安中期の村上天皇 天徳4年に野見宿禰の後裔「菅原道真公」を併祀した。

平安時代は 広大なる神域神領と宏壮な社殿を有し、官幣の社として社運隆盛を極めたが、戦国の争乱で幾度かの兵火にあい荒廃していたのを、豊臣秀吉が修築した。
大阪築城の際には 艮(東北)の方位にあたる此の社を、錦城の鬼門鎮護の社と定めて尊崇し、今も天主閣石垣に刻んだ鬼面と当社が一線に結ばれ相対している。

さらに慶長7年(1602)、豊臣秀頼は 片桐且元を総奉行として、本殿、拝殿、築地、経堂、別当などを大造営した。
現在の本殿、南門、能舞台がそれである。特に本殿は、桃山建築の粋として、国の重要文化財に指定されている。

往古、この附近は交野ケ原と呼ばれ、王朝時代 大宮人の遊猟の地として歌枕になり、また、桜の名所で世に聞こえたところでもある。
「落花の雪に踏迷う 片野の春の 桜がり」とある太平記の一節は、ここ交野ケ原を詠んだものである。

なお、「交野の御社」「一ノ宮」と尊称されて来たこのお社は、河内国の北部地方における第一の名社で、桃山時代より、大阪鬼門除・方位・厄除等で知られ、特に家相方位の守護に霊験あらたかな神様として、一般に尊信厚く、遠近からの祈願者が跡を絶たない。

「註」
本社は中・近世に専ら「一ノ宮(河州一ノ宮・河内一ノ宮・牧一ノ宮)」
又は「一宮牛頭天王(近世)」と称し、正式社名としていた。
「片埜神社」の社名を復活したのは明治以降である。
なお、本神社を「一ノ宮天王社」とした記述(錯誤記述)があるから注意を要する。一ノ宮天王社とは 近村に別に存在していた神社である。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

【境内社 (Other deities within the precincts)】

稲荷社(イナリシャ)
《主》保食神《合》武甕槌神経津主神天児屋根命比咩大神品陀和気命保食神久那戸神

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依姫社(ヨリヒメシャ)
《主》玉依姫命大国主命市寸島姫命

一、御祭神
 玉依姫命 神武天皇様の御母君・下賀茂神社の神様
 大国主命 大己貴命・出雲の大黒様・国土守護神
 市寸嶋姫命 安芸宮島の大神・弁天様・芸能上達の神様
一、明治初、境内の玉依姫神社・大国主神社・市寸嶋姫神社 それぞれのお社を依姫社に合祀申しあげて今日に至る

案内板より

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境外 朝原神社《主》猿田彦命
境外 蒼神社《主》火酢芹命

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています 

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前全国の官社(式内社)一覧表で「2861の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」所載されています

延喜式神名帳】(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

明治期の神社合祀政策1906年~によって 式内社の「久須須美神社」合祀

①本殿

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)河内国 113座(大23座(並月次新嘗・就中8座預相嘗)・小90座(並官幣))

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)交野郡 2座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 片野神社(鍬 靫)
[ふ り が な ]かたのの かみのやしろ)(くわ ゆき)
[Old Shrine name]Katano no kamino yashiro)(Kuwa yuki) 

➁本殿に合祀された 久須須美大神旧坂村字九頭神の氏神

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)河内国 113座(大23座(並月次新嘗・就中8座預相嘗)・小90座(並官幣))

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)交野郡 2座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 久須々美神社
[ふ り が な ]くすすみの かみのやしろ)(くわ)
[Old Shrine name]Kususumi no kamino yashiro)(Kuwa) 

【原文参照】

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用 国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載の
合祀「久須須美神社Kususumi no kamino yashiro)」と同名の神社について

大和國 城下郡 久須々美神社 の記事をご覧ください

一緒に読む
久須須美神社〈村屋坐弥冨都比賣神社 境内摂社〉(田原本町蔵堂)

久須々美神社(くずずみじんじゃ)は 社伝に「元は 今の蔵堂橋の南のたもとに鎮座 伊豫氏(伊与戸)の氏神であった」が明治初めに現在地〈村屋坐弥冨都比賣神社 境内摂社〉に遷されました《式内社》大和国 城下郡 久須須美神社(くすすみの かみのやしろ)とされます

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

伝 阿弖流為・母禮(アテルイ・モレ)之塚について

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延歴21年(802)蝦夷(えみし)の首長阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ) 征夷大将軍坂上田村麻呂(サカノウエノタムラマロ)らの助命嘆願もむなしく 河内国で処刑されと云われています

1980年代頃に突如 この地が 両名最期の地首塚の伝えを持つと注目され〈ただし 史実の確証はなし 牧野阪にはそのような伝承があった形跡は全くない にもかかわず関わらず定着しています

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境内に隣接する牧野公園「伝 阿弖流為 母禮」の塚として建立されています

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説明版には次のようにあります

伝  阿弖流為(あてるい)・母禮(もれ) 之塚

 1200年前、時の朝廷の国土統治にあたり、東北地方には蝦夷(えみし)と呼ばれる人々がいて その支配を拒否していました。
このため朝廷は、彼らを辺境の人々として 征討部隊を派遣しましたが、人々はこれに対し、激しい抵抗を繰り返し容易には屈しませんでした。

 延暦21年(8024月、征夷大将軍 坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ) 蝦夷の首長アテルイと副将モレが 同族500余人を引き連れてようやく降伏したことを朝廷に報告し、7月、2人を伴って帰京しました。2人の処遇について田村麻呂は 強く助命を嘆願しましたが、8月、2人は河内国で処刑れました。
 この地がアルテイとモレのゆかりの地とされています。
 なお、塚の裏面に説明があります。

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塚の裏面には

延暦21年(802)秋813日、
蝦夷の首長アテルイと副将モレの二人は、征夷大将軍 坂上田村麻呂らの助命嘆願もむなしく、「野生獣心反覆無定」として河内国で処刑された。肥沃な蝦夷地 日高見国の征服 古くからの朝廷の悲願であったが、延暦8年には5万余の大軍が 北上川河畔でアルテイの軍に大敗する有様であった。
 郷土史の先覚者たちにより 両名最後の地と目され、また首塚の伝えを持つ当地に、1205年の時を隔て 多くの賛同者の浄財により塚を建立する。
     記 関西外国語大学教授 瀬川芳則
     表記は京都・清水寺貫主 森 清範
  平成1934日建立
       伝 阿弖流為・母禮之塚建立実行委員会

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平安時代に編纂された歴史書
『日本紀略(nihonki ryaku)』〈11世紀後半~12世紀頃 編纂と伝〉に記される 阿弖流為・母禮(アテルイ・モレ)の伝承

延歴21年(802)征夷大将軍坂上田村麻呂(サカノウエノタムラマロ)」と 敵大将の「アテルイとモレ」について 4月と7月と8月の条に 戦況の報告として奏上されています 

「アテルイモレ2人は 本名とされる大墓公阿弖利爲タモノ キミアテリイ盤具公母禮(イワグノ キミノ モレ)記されています

2人が 処刑された「河内国椙山」については 河内国〈現在の大阪府東部〉であること以外には 諸説があり 場所の特定は 出来ていません

延暦21年(802) 415の条

陸奥国の膽沢城(イサワジョウ)〈現在の岩手県奥州市水沢〉を造った「田村麻呂(タムラマロ)」より使いがあった
蝦(エミシ)の大墓公阿弖利爲タモノ キミアテリイ盤具公母禮(イワグノ キミノ モレ) 種類 五百人を率(ヒキ)いて降る(クダル)〈降伏した〉

延暦21年(802) 710の条

陸奥国の膽沢城(イサワジョウ)〈現在の岩手県奥州市水沢〉を造った「田村麻呂(タムラマロ)」が
蝦(エミシ)の大墓公タモノ キミ」ら2人を 並び従えて〈都に〉来たる

延暦21年(802) 8月13日の条

蝦(エミシ)の大墓公阿弖利爲タモノ キミアテリイ盤具公母禮(イワグノ キミノ モレ)斬る〈斬殺処刑〉

この2人の(トリコ)〈生け捕りにした敵〉は 並んで 奥地の賊首(ゾクシュ)〈賊のかしら〉なり

2人の(トリコ)を斬る時 将軍〈田村麻呂〉等 申して云う
この度(タビ)は 願いに任せて返し入れ その賊類を招かんと

而(シカルニ)
公卿(クギョウ)〈公家の中の最高幹部〉は 執論(シツロン)〈議論をして〉して云ふ
野生獣心(ヤセイジュウシン)反覆定まりなし
(タマタマ)朝威(チョウイ) (ヨ)りて 此の梟帥(タケル)を獲(トラ)う〈運よく 朝廷の威光によって 勇敢な異種族の長を捉えたのだ〉

(モシ)申請に依りて 奥地に放還(ホウカン)すれば
所謂(イワユル)
(トラ)を養(ヤシナ)て (ウレイ)を遺(ノコ) ならむ」と 云えり(言った)

(スナワチ) 
捉えた両虜(リョウ トリコ) 河内国椙山に於いて 斬る

事実遊猟的野

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ 『日本紀略』写本 延暦01年 - 長元09年[旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047774&ID=M2019041909454036553&TYPE=&NO=画像利用

神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

京阪電車「牧野」駅より約350m 徒歩5分程度
隣接する 牧野公園側には 東門があります

鳥居には「片埜神社」とあり 参道には提灯が連なり
室町時代の様式を伝える黒門と呼ばれる東門(室町時代・府指定文化財)があります

片埜神社Katano Shrine)に参着

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鳥居をくぐります
案内板にも
「河州一の宮 片埜神社 延喜式内社」と書かれていて 平安時代後期から江戸時代までは「一の宮」と呼ばれていた様子が窺えます

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神門をくぐりと境内の北東にある
依姫社(ヨリヒメシャ)《主》玉依姫命大国主命市寸島姫命 が右手に鎮座しています

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こちらの参道からは ちょうど本殿の向かって右手に向かいます

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豊臣秀頼公が建てた 本殿については 案内板があります

片埜神社 本殿

社伝は、古くから交野の鎖守神として崇敬され延喜式に記載されている交野二座のうちの一座である。
天正11年(1583)豊臣秀吉が大坂城築城に際し当社を鬼門鎮護の社と定めたという

現在の本殿は残されている棟札によると慶長7年(1602豊臣秀頼片桐且元を総奉行再建したものである。三間社流造(ながれづくり)、桧皮葺(ひわだぶき)で、細部にいたるまで桃山時代の華麗な様式をよく示しており、重要文化財指定されている。

特に四面を飾る蟇股(かえるまた)の彫刻に当時の特色を見ることができ向拝(こうはい)中央は竹に虎、右は芙蓉せきれい、左は椿にひよどり、本殿正面は中央、左右とも牡丹、背面は中央に椿、左にかきつばた、右に菊、東妻は太閤桐西妻は栗と絵画的で精巧な彫刻がそろっていて見応えがある。

 平成21から檜皮葺屋根の葺替、彩色の塗替が行われ、朱漆塗に極彩色の壮麗な社殿がよみがえった。
 境内の南門は本殿再興後、引続いて造営されたもので大阪府重要文化財に指定されている。
平成23年9月 枚方市教育委員会

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そのまま参道は折れて 正面の広い境内地出ます 南門があり 菅原道真公を祀りますので 門の横には天満宮特有の「撫で牛」があります

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牛頭天王「一宮」と刻まれた石塔

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南門のすぐ脇に 手水舎があり 清めます

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瓦葺の屋根 拝殿にすすみます 

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賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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再度 本殿を仰ぎます

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境内には 鬼面があります
豊臣秀吉 大阪城築城(1583)の時 片埜神社を鬼門鎮護の社と定め
大阪城石垣にも鬼の顔を刻んであり 当社と対面させているとの事です

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東門をくぐり抜けて 振り返り一礼をします
境内に 隣接する牧野公園建立されている「伝 阿弖流為 母禮」の塚へ向かいます

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『五畿内志(Gokinaishi)』享保14年(1729~1734)編纂に記される伝承

江戸幕府による最初の幕撰地誌と見なされる『五畿内志(Gokinaishi)』
※著者の並河 誠所(Namikawa seisho)〈江戸時代中期に活躍した儒学者・地理学者〉は『五畿内志』を編纂する調査の過程で『畿内』の数々の延喜式式内社の比定も行こないました

意訳

『河内志』交野郡 神廟 の条

片野神社 鍬靫
〇坂村に在り 今 一宮と称す

久須須美神社
「々」を当て作るは 「ヶ」を伝え寫〈写し〉誤り
坂村の属邑(ゾクムラ)である 葛上村(カツウエノムラ)にあり

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『五畿内志』著 並河永 著 編纂 享保14年(1729)[他] 出版 昭和4(1929年)日本古典全集刊行会
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179429『五畿内志』

『河内名所図会(Kawachi Meisho Zue)』〈享和元年(1801年)刊〉に記される伝承

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図絵には 
「交野神社(カタノジンジャ) 一宮(イチノミヤ)ともいう」とあり 宮寺なども書き込まれています

意訳

交野神社(カタノ ノ ジンジャ)鍬靫 

延喜式に出る

渚の北 坂村(サカムラ)にあり 近い邑(ムラ)8ヶ村の生土神(ウブスナノカミ)なり

例祭9月6日 
式〈延喜式〉には 片野神社と記せり

祭神 牛頭天王(ゴズテンノウ)
今 土人 一ノ宮と称し 本地を帝釈天(タイシャクテン)にし本地堂に安す
又 四天王 地蔵尊を安す 鳥居より神社まで 馬場前(ババマエ)の松原が 4町余りあり

久須々須美神社(クススミ ジンジャ)

延喜式に出る 
坂村の属邑(ゾクムラ)葛上村(カツウエノムラ)にあり

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『河内名所図会』選者:秋里籬島/画家:丹羽桃渓[数量]6冊[書誌事項]刊本 ,享和01年[旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003102&ID=M2018050217115928156&TYPE=&NO=

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『特選神名牒(Tokusen shimmyo cho)』明治9年(1876年)に記される内容

意訳

片野(カタノ)神社 鍬靫

祭神 交野忌寸祖神(カタヌ ノ イミキ ノ オカガミ)

今按〈今 考えるに〉
『新撰姓氏録(Shinsen Shoji roku)』815年(弘仁6年)に
河内諸藩に交野忌寸 漢人 庄員之後也とあるによりて この氏人の祖神(オヤガミ)と云えるなるべし 姑附て考に備ふ 

祭日 9月9日
社格 郷社
所在 坂村 字 一ノ宮

今按〈今 考えるに〉
『神社覈録(jinja kakuroku)』明治3年(1870年)に 国入井上光武 云う 
坂村一宮は 慶長年中 秀頼公〈豊臣秀頼公〉交野に3社を建立し給う
・坂村一宮・舟村二宮・穂谷村三宮などなり
然(しか)れば 旧社にはあらず

星田村も 今 産土神(ウブスナカミ)は 住吉社(スミヨシノヤシロ)にて この交野社(カタノノヤシロ)は 小祠ながら 民戸600余りの輩〈村人〉は 小児の出生の時は 先ず この社に詣(モウデ)て 後(ノチ)に 産土神(ウブスナカミ)の住吉社(スミヨシノヤシロ)に参(マイ)る
これ故(ユエ) 実(ジツ)〈本当に〉あることなるべし
決めて 片野神社は これなりと云えりとあり

されど『河内志』にも県の注進にも 坂村とあるので従う

久須々須美(クススミノ)神社

祭神
祭日 9月7日
社格 村社
所在 坂村 葛上村の界

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』出版 大正14年(1925年)磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)』明治45年(1912)に記される伝承

意訳

郷社 片野(カタノノ)神社

祭神 須佐之男(スサノヲノ)命   櫛稲田姫(クシイナダヒメノ)命
   八島篠美(ヤシマジヌミノ)神 菅原道真(スガワラノミチザネ)

垂仁天皇御宇 野見宿祢の創祀にかかり 欽明天皇の勅願によりて片野神社と称す(社記)

一説 当社は古の郊祀の趾なりという(神祇賓典)
續日本記に「桓武天皇 延暦4年11月壬寅祀 天神於 片野柏原」
又 
文徳録に「斎衡3年11月壬戌 大祓於 新成殿前 諸陣警戒 帝進出庭中 大納言正三位 藤原朝臣良相 右大辨従四位 従四位下 菅原朝臣是善棒 筆硯 帝自署 云々」とあり
その後 社を建てて祀りしものなりという(神祇賓典)

醍醐天皇 延喜制 式内の小社に列し 祈年祭  各一口加えたまう(延喜式)

経て後 火災に逢って 堂廊 門 ことごとく消滅して 一宇〈一棟〉を残さ ざりしを
豊臣秀頼の命により社殿を営み 後陽成天皇 慶長7年 その功を畢(ヒツ)〈おえる〉 以って大阪城鬼門除けのやしろとなす(社記と河内名所図会所載の一宮祠碑参取)

同時 菅公を合祀
祭祀料9千斛(コク)を宛てて その儀を盛りにす
後年 又年を経て 頽廃(タイハイ)せしを
寛政8年 本社の祠官 9郷の農民と相謀りて 社殿を補覆す 当時 建立せし碑に曰く
「一宮 神祠 人云所知 云々  」とあり(名所図会)

明治6年 郷社に列す

境内 1189坪(官有地第一種)
本殿 拝殿 その他 社務所 舞台 門 等の建物を備え 結構壮麗なり 

当社 俗に一の宮と称す 8ヶ村の産土神たり(名所図会)

境内神社 

厳島(イツクシマノ)神社 玉依姫(タマヨリヒメノ)神社
稲荷(イナリノ)神社   大国主(オオクニヌシノ)神社

・・・・・・・
・・・・・・・

【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用『明治神社誌料』1 『明治神社誌料』2

片埜神社Katano Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

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大和國 城下郡 久須々美神社 の記事をご覧ください

一緒に読む
久須須美神社〈村屋坐弥冨都比賣神社 境内摂社〉(田原本町蔵堂)

久須々美神社(くずずみじんじゃ)は 社伝に「元は 今の蔵堂橋の南のたもとに鎮座 伊豫氏(伊与戸)の氏神であった」が明治初めに現在地〈村屋坐弥冨都比賣神社 境内摂社〉に遷されました《式内社》大和国 城下郡 久須須美神社(くすすみの かみのやしろ)とされます

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「全国 一之宮(Ichi no miya)」について に戻る

一緒に読む
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」について

日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です

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河内国 式内社 113座(大23座(並月次新嘗・就中8座預相嘗)・小90座(並官幣)について に戻る

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河内国 113座(大23座(並月次新嘗・就中8座預相嘗)・小90座(並官幣)

河内国(かは〈わ〉ちのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 河内国の 113座(大23座(並月次新嘗・就中8座預相嘗)・小90座(並官幣)の神社のことです

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世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

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出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

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大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています