実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

柏木神社(甲賀市水口町北脇)〈『延喜式』石部鹿鹽上神社〉

柏木神社(かしわぎじんじゃ)は 白鳳元年(673)創建 山王社〈祭神 大己貴命〉でした 建久元年(1190)源頼朝が上洛の折 鎌倉鶴岡八幡宮の御分霊を合祀し社名を若宮八幡宮とした 明治4年(1871)柏木神社と改称しました 延喜式内社 近江國 甲賀郡 石部鹿鹽上神社(いそへのかしほのかみの かみのやしろ)の論社です

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

柏木神社(Kashiwagi shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

滋賀県甲賀市水口町北脇187

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》大己貴命(おほなむちのみこと)

《配》誉田別命(ほんだわけのみこと)
   川島皇子(かわしまのみこ)〈天智天皇の皇子〉

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

五穀豊穣、病気平癒、厄徐、交通安全などの祈願
・開運招福・無病息災

Please do not reproduce without prior permission.

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

柏木神社

祭 神
 大己貴命(大国主命)

配祀神
 誉田別尊(応神天皇)・川島皇子

祭典日
 例 祭 四月二十日
 八幡祭 九月十四日、十五日

本 殿
 木造・檜皮葺・流れ造り・三間社

由 緒

 当神社の創は、白鳳元年(六七三)に、日吉宮と称して大己貴命をお祀りしていた。建久年間(一一九〇)源頼朝が、鎌倉の鶴が岡八幡宮の御分霊を合祀して多くの神田を寄付した。以後 社名を若宮八幡宮と称し、柏木荘十六か村の鎮守のお社として栄えた。天正八年(一五八〇)に織田信長の軍勢が当地を攻めた時、楼門は安土の宗玄寺に移築され、宝物・古文書等は焼失した。寛永九年(一六三二)に水口城が築かれた際に、城主が当社を守護神として崇め、以後、歴代城主の祈願所になった。承応四年(一六五五)に水口城代の山口但馬守は、本殿・楼門を修復し、石灯籠・手水鉢を寄進した。明治四年、社名を柏木神社と改めた。昭和二十年、県社に昇格する。この社は 五穀豊穣、病気平癒、厄徐、交通安全などの祈願が多い。
平成六年三月吉日 水口町

現地石碑文より

Please do not reproduce without prior permission.

由緒

 当神社の創は、白鳳元年(六七三)に、日吉宮と称して大己貴命をお祀りしていた。この山王の社地に、建久年間(一一九〇)源頼朝が上洛の折、鎌倉鶴岡八幡宮の御分霊を合祀し社名を若宮八幡宮とした。多くの神田が寄進された。

中、近世に亘り京都の公家飛鳥井大納言は、荘園として柏木御厨を営み、その縁をもって末裔は当神社の社家としで仕えた。また、当神社は この柏木御厨の惣社として神田三町分を有しその影響は周辺な十六に及んだ。天正八年 (一五八〇)織田信長の軍勢が当地を攻めた時、門は安土の惣見寺に移築され、銘木は持ち去られ、宝物古文書等と主要建物は焼失した。寛永九年(一六三二)に水口碧水城が築城されたに、城主 加藤氏が当社を守護神として崇め、以後歴代城主の祈願所になった。承応四年(一六五五)水口城代の山口但馬守は、本殿・楼門を修復し、石灯籠・手水鉢を寄進した。明治四年、社名を御厨の地名を採り柏木神社と改めた。
昭和二十年、旧社格の県社に昇格した

現地案内板より

Please do not reproduce without prior permission.

甲賀衆結束の鎮守の社 柏木神社(かしわぎじんじゃ)

 柏木神社は、江戸時代までは若宮八幡宮(わかみやはちまんぐう)と呼ばれ、長寛(ちょうかん)三年(1165)に伊勢神宮領として設置された庄園 柏木御厨(かしわぎのみくりや)の惣社として、また柏木地域を支配した山中・美濃部・伴氏(柏木三方中)ら有力な土豪の精神的な紐帯として、古くから人びとの崇敬を集めてきました。

 中世の甲賀では、甲賀武士たちが連合し同名中(どうみょうちゅう)や甲賀郡中惣(ぐんちゅうそう)を組織して自治を行うなど、独自の活動を行っていたことが知られています。柏木神社はそうした土豪達の結束の場、活動の場ともなっていたと考えられます。同社に残る山中同名中が大永(だいえい)二年(1522)に作成した神事の際の取り決めに関する起請文(きしょうもん)(誓約書)は、そうした活動の一端を示す古文書といえます「柏木神社文書」。

 祭神は大巳貴尊(おおなむちのみこと)と誉田別命(ほむたわけのみこと)の二柱で、社伝によれば白鳳(はくほう)期に創建された山王社、後に鎌倉の由比ヶ浜(ゆいがはま)八幡宮を勧請(かんじょう)した八幡宮の二社で構成されていたとされます。境内には本殿・拝殿・回廊・楼門(ろうもん)が建ち並んでいますが、このうち楼門は日野町中山の金剛定(こんごうじょう)寺の旧門と伝え、もともとの楼門は天正(てんしょう)八年(1580)に安土城内の摠見(そうけん)寺に移築され二王(におう)門(国の重要文化財)として現存しています。

現地案内板より

Please do not reproduce without prior permission.

【由  (History)】

柏木(カシワギ)神社

御由緒

 社伝によれば 創祀は白鳳以前と伝えられ、もとは日吉山王を奉祀し、建久年間源頼朝上洛の折、鶴岡八幡宮の御分霊を合祀した為、若宮八幡宮と呼ばれるようになったが、維新以後更に柏木神社と改称した。
 柏木は中世より柏木御厨の本郷で、元徳三年の検注帳に神田三町の社領があった。京の公家飛鳥井雅康は戦乱をのがれこの地に閑居し、以後子孫は当社の祠官として仕えた。

 近世に於いては柏木庄十六ヶ村の総社となる。その氏子の範囲も地元北脇のほか林口、美濃部、松尾、判谷の各集落にわたっていた。又、水口域代山口但馬守弘隆崇敬の念篤く、幾多の寄進のあったことが古文書に記されている。

立地条件に恵まれ、厄除、病気平癒の祈願多く、芸能の神としても信仰が篤い。
 明治九年村社、大正十一年郷社、昭和二十年県社に加列された。

滋賀県神社庁HPより

https://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=574

『近江輿地志略 : 校定頭註』に記される内容

【抜粋意訳】

〇北脇(きたわき)村 林口村の北西にある村なり。

柏木村大字北脇。

村社 柏木神社 祭神大巳貴命 譽田別命
〔若宮八幡社〕

北脇村にあり。相傳 右大將源賴朝卿 勧請し給ふ處なり。祭禮四月二申日、八月十五日なり。近村九村の産土神なり。境内に山王の社あり。
社家柏木氏の記に日く、

當社八幡宮は源賴朝上洛の時、此山王の社地へ鶴岡八幡宮を勧請し給ふ。神田七十五町を寄附し給ひしより以來、中世飛鳥井家柏木庄を領し給ひ、尊敬他に異にして、山中黨・伴の黨の士、專渴仰せり。然るに織田信長神田を奪ひしより衰へ、慶長年中 長束大藏 水口岡山の城に籠りし時、合戰あまた度、社殿亦兵火に罹り今纔(わずか)に其形のみ存せりと。

【原文参照】

寒川辰清 編 ほか『近江輿地志略 : 校定頭註』,西濃印刷出版部,1915. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1875272

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

式内社 石部鹿鹽上(イシヘノカシホノカミノ)神社について 所在を゛柏木の産土神 今八幡ノ社〈現 柏木神社(甲賀市水口町北脇)〉あり゛と記しています

【抜粋意訳】

石部鹿鹽上(イシヘノカシホノカミノ)神社

○柏木村

○國人云 今ハ此村ナシ 水口宿ノ入口ノ馬場前ヨリ橫田川マデ 北ハ大道ヲ限リ南ハ川ヲ限リテ加志波木卜云フ 卽馬場前ニ今八幡ノ社アリ 柏木ノ内ノ惣社産神也

・・・
・・・
・・・

以下略〈原文参照のこと〉

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・柏木神社 社殿

Please do not reproduce without prior permission.

・柏木神社 本殿 中門

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

・柏木神社 拝殿

Please do not reproduce without prior permission.

・〈本殿向かって右手前 境内社〉大行社《主》思雄心武命・佐田彦命

〈大行事とは 鎌倉期~明治以前の山王信仰「山王二十一社」の「山王中七社」の一つ
大行事権現は 大勅して天位の事を行う 大行事と云う 大年神〈大物忌神社〉・本地は毘沙門天〉

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

・〈本殿向かって左手前 境内社〉稲荷社《主》倉糖魂命・大物主命

Please do not reproduce without prior permission.

・神門・手水舎

Please do not reproduce without prior permission.

・鳥居

Please do not reproduce without prior permission.

・社頭・太鼓橋

Please do not reproduce without prior permission.

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・〈境外社〉日枝神社《主》大己貴命

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)近江國 155座(大13座・小142座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)甲賀郡 8座(大2座・小6座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 石部鹿鹽上神社
[ふ り が な ](いそへのかしほかみの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Isohe no kashiho no kami no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 近江國 甲賀郡 石部鹿鹽上神社(いそへのかしほのかみの かみのやしろ)の論社について

・吉姫神社(湖南市石部東)

一緒に読む
吉姫神社(湖南市石部東)〈『延喜式』石部鹿鹽上神社〉

吉姫神社(よしひめじんじゃ)は 創祀年代は不詳です 御旅所のある上田の地に斎き祀られていたが 明應年度(1492~1501)兵火によりこれを焼失し 社記には「寛保3年(1743)12月14日の夜 今の地に遷り給へる」とあります 延喜式内社 近江國 甲賀郡 石部鹿鹽上神社(いそへのかしほのかみの かみのやしろ)の論社です

続きを見る

鹿鹽上社 吉比女宮跡〈御旅所〉(湖南市石部東)
〈寛保3年(1743)遷座 吉姫神社旧鎮座地〉

一緒に読む
鹿鹽上社 吉比女宮跡〈御旅所〉(湖南市石部東)〈『延喜式』石部鹿鹽上神社〉

鹿鹽上社 吉比女宮跡(かしほのかみしゃ きちひめのみやあと)は 式内社 石部鹿鹽上神社の論社「吉姫神社」の旧鎮座地で 現在は御旅所となっています 元々は柏木と称す所から当地へ遷座 明応年度(1492~1501)兵火により焼失し 社記には「寛保3年(1743)12月14日の夜 今の地に遷り給へる」と伝えています

続きを見る

・吉御子神社(湖南市石部西)

一緒に読む
吉御子神社(湖南市石部西)〈『延喜式』石部鹿鹽上神社〉

吉御子神社(よしみこじんじゃ)は 社伝に 崇神天皇六十八年に神降があり 垂仁天皇二年に宇加之彦の子 吉比古・吉比女の神を谷黒の御前に祀り創祀と云う 弘仁二年(811)災害により石部宿の東西に分社され 西側に鎮座しました 延喜式内社 近江國 甲賀郡 石部鹿鹽上神社(いそへのかしほのかみの かみのやしろ)の後身とされます

続きを見る

〈参考論社〉上葦穂神社 (湖南市柑子袋)

一緒に読む
上葦穂神社(湖南市柑子袋)〈『延喜式』石部鹿鹽上神社〉

上葦穂神社(かしほじんじゃ)は 孝徳天皇 白雉元年(650)阿星嶽より五色の御旗が降り祀られたのが創祀 この御幡の降った地を御幡塚として現在も聖地と伝える その後社殿を設け 旧社号を白雉神社(博智・博打・薄知)と云う 延喜式内社 近江國 甲賀郡 石部鹿鹽上神社(いそへのかしほのかみの かみのやしろ)論社の一つです

続きを見る

〈参考論社〉柏木神社(甲賀市水口町北脇)

一緒に読む
柏木神社(甲賀市水口町北脇)〈『延喜式』石部鹿鹽上神社〉

柏木神社(かしわぎじんじゃ)は 白鳳元年(673)創建 山王社〈祭神 大己貴命〉でした 建久元年(1190)源頼朝が上洛の折 鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の御分霊を合祀し社名を若宮八幡宮とした 明治4年(1871)柏木神社と改称しました 延喜式内社 近江國 甲賀郡 石部鹿鹽上神社(いそへのかしほのかみの かみのやしろ)の論社です

続きを見る

『延喜式神名帳』所載「いそへのかみのやしろ」の社号を持つ式内社とその論社について

『延喜式神名帳』に所載される各々の「いそへのかみのやしろ」は 古代の氏族・「石邊公」「石部氏」に関係する神社 又は 海人族の「磯部氏」に関係する神社とも云われ 数多く分布しています

音は「いそへ」と同じでも その要因は 様々な要素から成り立っていて 特定は非常に難しく その為 各々の神社を検証してみます

一緒に読む
『延喜式神名帳』所載「いそへのかみのやしろ」の社号を持つ式内社とその論社について

『延喜式神名帳』に所載される各々の「いそへのかみのやしろ」は 古代の氏族・「石邊公」「石部氏」に関係する神社 又は 海人族の「磯部氏」に関係する神社とも云われ 数多く分布しています 又『延喜式神名帳』所載の「いそへのかみのやしろ」の社号(いそへ)の読みに充てる字は 「石部」「石邊」「部」「磯部」などがあり 様々です

続きを見る

【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

近江鉄道 水口・蒲生野線 水口駅から西方向へ約2.1km 車での所要時間は7~8分程度

柏木神社(甲賀市水口町北脇)に参着

Please do not reproduce without prior permission.

社頭には 太鼓橋が架けられ 鳥居が建ちます

Please do not reproduce without prior permission.

一礼をしてから 鳥居をくぐり抜けて参道を進むと 神門の手前に手水舎があり 清めてから 神門をくぐり抜けて境内へと入ります

Please do not reproduce without prior permission.

正面には拝殿が建てられています
両脇に 境内社の鳥居と祠が見えています

Please do not reproduce without prior permission.

拝殿にすすみます

Please do not reproduce without prior permission.

拝所は本殿となっていますので 拝殿を廻り込むように本殿の前にある中門へと進みます

Please do not reproduce without prior permission.

拝殿と本殿の間には 境内社が祀られています
向って 右側には〈境内社〉大行社

Please do not reproduce without prior permission.

向って 左側には〈境内社〉稲荷社

Please do not reproduce without prior permission.

中門をくぐり抜けて 本殿の前 拝所に進みます

Please do not reproduce without prior permission.

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

Please do not reproduce without prior permission.

神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 石部鹿鹽上神社について 所在は゛檜物荘 石部驛に在す、今は吉比女明神と稱す゛〈現 吉姫神社(湖南市石部東)〉と記しています

又゛今 兩社となる下の社を吉彦明神 上の社を吉姫明神と云゛とあるが下の社〈現 吉御子神社(湖南市石部西)は゛其下の社は祈年祭に預らざるべし゛〈式内社ではない〉との説を記しています

【抜粋意訳】

石部鹿鹽上神社

 石部鹿鹽は 伊志倍加志保と古點にあり、は加美と訓べし、

〇祭神 吉比女

〇檜物荘 石部驛に在す、今は吉比女明神と稱す、

 倭姫世記に、倭姫命度坐時爾、阿佐加潟爾 多氣連等祖、宇加乃彦之子、吉比女、次 吉彦二人参 相支、爾時 吉姫、地口御田、并麻園進、云々、按に、石部は地名なること論なし、鹿鹽もまた地名か考得ず、大和國 鹿鹽神社もあり、扨上とは上下兩社ありて、其下の社は祈年祭に預らざるべし

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 石部鹿鹽上神社について 所在は゛石部驛に在り、上下兩社とす、上を吉姫明神、下を吉彦明神といふ、゛〈現 吉姫神社(湖南市石部東)と吉御子神社(湖南市石部西)〉と記しています

【抜粋意訳】

石部鹿鹽上(イソベノカシホノカミノ)神社

今 石部驛に在り、上下兩社とす、上を吉姫明神、下を吉彦明神といふ、即 驛中の生土神也、〔和爾雅、三才圖會、東海道名所圖會、〕
〔〇按 滋賀縣注進状に、當村 上田の地に鎮座す、上田神社と云ふ、上田山鹿鹽房蓮浄寺 本社の別當を勤むと云り、本社所在の證とすべし〕

凡 四月五日祭を行ふ、〔滋賀縣注進状〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 石部鹿鹽上神社について 所在は゛石部村宮山に鎭座の社を鹿鹽上神社と云゛〈現 吉姫神社(湖南市石部東)〉と記しています

又゛今 兩社となる下の社を吉彦明神 上の社を吉姫明神と云゛とあるが 式内社は石部鹿鹽上神社とあって「上の社」の事を指していて 「下の社〈現 吉御子神社(湖南市石部西)は゛祈年幣に預り玉はぬ故に帳には記されざりし゛〈式内社ではない〉との説を記しています

【抜粋意訳】

石部鹿鹽上(イソベノカシホノカミノ)神社 稱 吉比女明神

祭神 吉比女神

 今按 社傳によるに倭姫世紀に倭姫命度坐時爾 阿佐加潟爾 多氣連等祖 宇加乃彦之子 吉比女 次ニ吉彦 二人参リ支爾時 吉姫 地口御田 并麻園進 云々とある字加乃彦の子 吉比女を祭れるものとみえたり

祭日 四月五日
社格 村社

所在 石部村 宮山(甲賀郡石部町大字石部)

 今按 石部村宮山に鎭座の社を鹿鹽上神社と云 祭神 吉比賣神 吉比古神相殿 吉御子明神と云ふ
 其ノ由緒書に 往古は鹿鹽谷上下二社ありしが弘仁 中山崩れによりて兩社相殿となし 吉御子大明神と稱すもと橿尾上(カシノヘノカミノ)神社と云る由を記し
 又 同村 上田の由締書に本地佛の寺院山號は上田山鹿鹽房蓮浄寺と云て別當を勤む 今 兩社となる下の社を吉彦明神 上の社を吉姫明神と云とみえて 何れをそれと定め難きに似たれ共 輿弛志略に上田大明神 石部村にあり土俗に祭禮四月五日 石部上の社と號すと云 延喜式神名帳に載る處 鹿鹽上ノ神社と云是なるべしと云るもの證とすべし
上神社とは もと上下兩社ありて 其下社は祈年幣に預り玉はぬ故に帳には記されざりしにて 實は吉御子明神は鹿鹽下ノ神社なるべし さるは志略に正一位吉御子大明神ノ社 石部にあり云々 石部下の町五町の産土神とすと云とある吉御子は吉比古と同音にて 古よりしか云傳へけんを由緒書に吉御子明神を相殿ノ神としたるは 同神なることを知らざるにて僞妄の端綻びたり故今とらず

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

柏木神社(甲賀市水口町北脇) (hai)」(90度のお辞儀)

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

近江国 式内社 155座(大13座・小142座)について に戻る

一緒に読む
近江國 式内社 155座(大13座・小142座)について

近江国(おうみのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 近江国には 式内社 155座(大13座・小142座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

続きを見る

  • B!

おすすめ記事

1

世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

2

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

4

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

5

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

6

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています