実践和學 Cultural Japan heritage

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上葦穂神社(湖南市柑子袋)〈『延喜式』石部鹿鹽上神社〉

上葦穂神社(かしほじんじゃ)は 孝徳天皇 白雉元年650阿星嶽より五色の御旗が降り祀られたのが創祀 この御幡の降った地を御幡塚として現在も聖地と伝える その後社殿を設け 旧社号を白雉神社(博智・博打・薄知)と云う 延喜式内社 近江國 甲賀郡 石部鹿鹽上神社(いそへのかしほのかみの かみのやしろ)論社の一つです

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

上葦穂神社(Kashiho shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

滋賀県湖南市柑子袋西2丁目1番20号

〈旧住所 湖南市柑子袋(こうじぶくろ)931

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)
   国常立尊(くにのとこたちのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社〈参考論社〉

【創  (Beginning of history)】

上葦穂神社 由緒略記

甲西町大字柑子袋字東浦

祭神
 伊邪那岐尊
 国常立尊

摂社
 若宮八幡宮
 八幡宮
 天満宮

当社は 白雉元年庚戌2月天下神瑞多かりしが中に阿星嶽正天より当社の西北方 宮山御幡塚に御降臨なり 天智天皇庚午年二十 御幡塚より勅語して社殿を創建し産土神と尊め奉る

現地石碑文より

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上葦穂神社(かしほじんじゃ)

 孝徳天皇(こうとくてんのう)の白雉元年(はくちがんねん)阿星嶽(あぼしだけ)より五色(ごしき)の御旗(みはた)が降り、祀られたのが創輝(そうき)と伝えられている

 社記によると次の様に記されている。「阿星嶽(あぼしだけ)に正天(しょうてん)より五色の御幡降貴(みはたおりき)翁然(おうぜん)として顕(あらわ)れ給(たま)う。諸人(もろびと)これを拝(はい)し奇異(きい)の思(おもい)をなすところに告(つ)げて曰(いわ)く。汝(なんじ)少しも疑ことなかれ朕(われ)は伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)なりと、ひの(しょう)、(お)わらざるに忽(こつ)一朶(ひとえだ)雪(ゆき)降りければ之に乗りて昇天(しょうてん)したまう」とある。

 この御幡(みはた)の降った地を御幡塚(みはたづか)として現在も聖地(せいち)とされている。その後 社殿(しゃでん)を設(もう)けて祀(まつ)られ、旧(きゅう)社号を白雉神社(はくちじんじゃ)と称(しょう)していた。

 明治四十四年に上葦穂神社(かしほじんじゃ)と改称(かいしょう)。本殿は元禄(げんろく)八年正月十八日に再建されている。

・・・
・・・

平成29年3月(2017)三雲学区まちづくり協議会

現地立札より

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上葦穂(カシホ)神社

御由緒

孝徳天皇の白雉元年二月に阿星嶽より五色の御旗が降り祀られたのが創祀と伝えられている。
社記によると次の様に記されている。「阿星嶽に正天より五色の御幡降り貴翁忽然として顕れ給う。諸人これを拝し奇異の思をなす所に告げて曰く。汝少しも疑ふことなかれ朕は伊邪那岐大神なりと。其の詔終らざるに忽一朶の降りければ之に乗りて昇天したまう」とある。
この御幡の降った地を御幡塚として現在も聖地とされている。その後社殿を設けて祀られ、旧社号を白雉神社と称していた。
明治四十四年に上葦穂神社と改称。
本殿は元禄八年正月十八日に再建されている。

旧社格村社

滋賀県神社庁HPより
https://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=528

【由  (History)】

『近江輿地志略 : 校定頭註』に記される内容

上葦穗神社の旧社号は 白雉神社(博智・博打・薄知)という
地蔵堂は 上葦穗神社の境内にあり と記しています

【抜粋意訳】

巻之五十 甲賀郡第二 

〇柑子袋(かうじぶくろ)村

〔博智大明神社〕

村社 上葦穗神社 祭神 國常立尊 伊非那岐尊 式內 石部鹿鹽上社是なりといふ

〔地蔵堂〕

同村にあり。極楽寺と號す。

この地蔵堂は興福寺官務帳疏所蔵光明寺の別院「白智山八島寺在 石部」といへるもの是なり

【原文参照】

寒川辰清 著 ほか『近江輿地志略 : 校定頭註』,西濃印刷出版部,大正4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/950934

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

上葦穂神社 社殿〈拝殿 中門 本殿・境内社〉

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上葦穂神社 本殿

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・〈本殿の両脇 境内社〉若宮八幡宮《主》仁徳天皇
・〈本殿の両脇 境内社〉八幡宮《主》応神天皇
・〈本殿の両脇 境内社〉天満宮《主》菅原道眞公

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・〈本殿の前〉御神木・竈(かまど)

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上葦穂神社 拝殿

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・〈境内社〉多度社《主》多度神
・ 神饌田の祭《主》田の神

・社務所

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・手水舎

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・三の鳥居

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・〈地蔵堂〉子安地蔵尊

・参道・二の鳥居

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・社号標「式内 上葦穂神社」・一の鳥居

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・社頭・〈神橋〉宮川橋

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・〈旧 東海道沿い〉参道入口

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)近江國 155座(大13座・小142座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)甲賀郡 8座(大2座・小6座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 石部鹿鹽上神社
[ふ り が な ](いそへのかしほかみの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Isohe no kashiho no kami no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 近江國 甲賀郡 石部鹿鹽上神社(いそへのかしほのかみの かみのやしろ)の論社について

・吉姫神社(湖南市石部東)

一緒に読む
吉姫神社(湖南市石部東)〈『延喜式』石部鹿鹽上神社〉

吉姫神社(よしひめじんじゃ)は 創祀年代は不詳です 御旅所のある上田の地に斎き祀られていたが 明應年度(1492~1501)兵火によりこれを焼失し 社記には「寛保3年(1743)12月14日の夜 今の地に遷り給へる」とあります 延喜式内社 近江國 甲賀郡 石部鹿鹽上神社(いそへのかしほのかみの かみのやしろ)の論社です

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鹿鹽上社 吉比女宮跡〈御旅所〉(湖南市石部東)
〈寛保3年(1743)遷座 吉姫神社旧鎮座地〉

一緒に読む
鹿鹽上社 吉比女宮跡〈御旅所〉(湖南市石部東)〈『延喜式』石部鹿鹽上神社〉

鹿鹽上社 吉比女宮跡(かしほのかみしゃ きちひめのみやあと)は 式内社 石部鹿鹽上神社の論社「吉姫神社」の旧鎮座地で 現在は御旅所となっています 元々は柏木と称す所から当地へ遷座 明応年度(1492~1501)兵火により焼失し 社記には「寛保3年(1743)12月14日の夜 今の地に遷り給へる」と伝えています

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・吉御子神社(湖南市石部西)

一緒に読む
吉御子神社(湖南市石部西)〈『延喜式』石部鹿鹽上神社〉

吉御子神社(よしみこじんじゃ)は 社伝に 崇神天皇六十八年に神降があり 垂仁天皇二年に宇加之彦の子 吉比古・吉比女の神を谷黒の御前に祀り創祀と云う 弘仁二年(811)災害により石部宿の東西に分社され 西側に鎮座しました 延喜式内社 近江國 甲賀郡 石部鹿鹽上神社(いそへのかしほのかみの かみのやしろ)の後身とされます

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〈参考論社〉上葦穂神社 (湖南市柑子袋)

一緒に読む
上葦穂神社(湖南市柑子袋)〈『延喜式』石部鹿鹽上神社〉

上葦穂神社(かしほじんじゃ)は 孝徳天皇 白雉元年(650)阿星嶽より五色の御旗が降り祀られたのが創祀 この御幡の降った地を御幡塚として現在も聖地と伝える その後社殿を設け 旧社号を白雉神社(博智・博打・薄知)と云う 延喜式内社 近江國 甲賀郡 石部鹿鹽上神社(いそへのかしほのかみの かみのやしろ)論社の一つです

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〈参考論社〉柏木神社(甲賀市水口町北脇)

『延喜式神名帳』所載「いそへのかみのやしろ」の社号を持つ式内社とその論社について

『延喜式神名帳』に所載される各々の「いそへのかみのやしろ」は 古代の氏族・「石邊公」「石部氏」に関係する神社 又は 海人族の「磯部氏」に関係する神社とも云われ 数多く分布しています

音は「いそへ」と同じでも その要因は 様々な要素から成り立っていて 特定は非常に難しく その為 各々の神社を検証してみます

一緒に読む
『延喜式神名帳』所載「いそへのかみのやしろ」の社号を持つ式内社とその論社について

『延喜式神名帳』に所載される各々の「いそへのかみのやしろ」は 古代の氏族・「石邊公」「石部氏」に関係する神社 又は 海人族の「磯部氏」に関係する神社とも云われ 数多く分布しています 又『延喜式神名帳』所載の「いそへのかみのやしろ」の社号(いそへ)の読みに充てる字は 「石部」「石邊」「部」「磯部」などがあり 様々です

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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR草津線 甲西駅から西へ約2.2km 車での所要時間は5~6分程度

〈旧 東海道沿い〉に参道入口があります

旧東海道の石部宿の東に流れる落合川 その支流 広野川を300m程遡ると社頭があります

広野川に〈神橋〉宮川橋が架かっています

上葦穂神社 (湖南市柑子袋)に参着

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社号標には「式内 上葦穂神社」と刻字されています
これは 式内社 石部鹿鹽上神社(いそへのかしほかみの かみのやしろ)の論社とも云われていますので それを表しているものと想われます

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〈神橋〉宮川橋を渡り 禊を受けながら 一の鳥居をくぐり抜けて 境内の参道を進みます
参道には 二の鳥居が建ち 境内口に三の鳥居が建てられています

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境内を囲む玉垣があり 三の鳥居のが建ちます

玉垣を左に進むと〈地蔵堂〉子安地蔵尊が祀られています

東を向いている参道を進み 一礼をしてから 鳥居をくぐり抜けて 境内に進むと 社殿は南を向いて建てられています

つまり参道は東向き 境内・社殿は南向きですので 鳥居をくぐると拝殿の横に出ることになります

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境内の南側には 社務所が建てられています

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拝殿にすすみます

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拝殿には拝所は無く 拝殿の奥 本殿の前に中門(神門)があって 拝所となっています

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本殿の両脇の瓦屋根の下には境内社が祀られています

中門(神門)に進みます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿に一礼をして 境内を戻ります
境内入り口の 三の鳥居の横には 手水があり 反対側に「遥拝所」とある石碑は 神宮の遥拝所です

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参道を抜けて〈神橋〉宮川橋を渡ります

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 石部鹿鹽上神社について 所在は゛檜物荘 石部驛に在す、今は吉比女明神と稱す゛〈現 吉姫神社(湖南市石部東)〉と記しています

又゛今 兩社となる下の社を吉彦明神 上の社を吉姫明神と云゛とあるが下の社〈現 吉御子神社(湖南市石部西)は゛其下の社は祈年祭に預らざるべし゛〈式内社ではない〉との説を記しています

【抜粋意訳】

石部鹿鹽上神社

 石部鹿鹽は 伊志倍加志保と古點にあり、は加美と訓べし、

〇祭神 吉比女

〇檜物荘 石部驛に在す、今は吉比女明神と稱す、

 倭姫世記に、倭姫命度坐時爾、阿佐加潟爾 多氣連等祖、宇加乃彦之子、吉比女、次 吉彦二人参 相支、爾時 吉姫、地口御田、并麻園進、云々、按に、石部は地名なること論なし、鹿鹽もまた地名か考得ず、大和國 鹿鹽神社もあり、扨上とは上下兩社ありて、其下の社は祈年祭に預らざるべし

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 石部鹿鹽上神社について 所在は゛石部驛に在り、上下兩社とす、上を吉姫明神、下を吉彦明神といふ、゛〈現 吉姫神社(湖南市石部東)と吉御子神社(湖南市石部西)〉と記しています

【抜粋意訳】

石部鹿鹽上(イソベノカシホノカミノ)神社

今 石部驛に在り、上下兩社とす、上を吉姫明神、下を吉彦明神といふ、即 驛中の生土神也、〔和爾雅、三才圖會、東海道名所圖會、〕
〔〇按 滋賀縣注進状に、當村 上田の地に鎮座す、上田神社と云ふ、上田山鹿鹽房蓮浄寺 本社の別當を勤むと云り、本社所在の證とすべし〕

凡 四月五日祭を行ふ、〔滋賀縣注進状〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 石部鹿鹽上神社について 所在は゛石部村宮山に鎭座の社を鹿鹽上神社と云゛〈現 吉姫神社(湖南市石部東)〉と記しています

又゛今 兩社となる下の社を吉彦明神 上の社を吉姫明神と云゛とあるが 式内社は石部鹿鹽上神社とあって「上の社」の事を指していて 「下の社〈現 吉御子神社(湖南市石部西)は゛祈年幣に預り玉はぬ故に帳には記されざりし゛〈式内社ではない〉との説を記しています

【抜粋意訳】

石部鹿鹽上(イソベノカシホノカミノ)神社 稱 吉比女明神

祭神 吉比女神

 今按 社傳によるに倭姫世紀に倭姫命度坐時爾 阿佐加潟爾 多氣連等祖 宇加乃彦之子 吉比女 次ニ吉彦 二人参リ支爾時 吉姫 地口御田 并麻園進 云々とある字加乃彦の子 吉比女を祭れるものとみえたり

祭日 四月五日
社格 村社

所在 石部村 宮山(甲賀郡石部町大字石部)

 今按 石部村宮山に鎭座の社を鹿鹽上神社と云 祭神 吉比賣神 吉比古神相殿 吉御子明神と云ふ
 其ノ由緒書に 往古は鹿鹽谷上下二社ありしが弘仁 中山崩れによりて兩社相殿となし 吉御子大明神と稱すもと橿尾上(カシノヘノカミノ)神社と云る由を記し
 又 同村 上田の由締書に本地佛の寺院山號は上田山鹿鹽房蓮浄寺と云て別當を勤む 今 兩社となる下の社を吉彦明神 上の社を吉姫明神と云とみえて 何れをそれと定め難きに似たれ共 輿弛志略に上田大明神 石部村にあり土俗に祭禮四月五日 石部上の社と號すと云 延喜式神名帳に載る處 鹿鹽上ノ神社と云是なるべしと云るもの證とすべし
上神社とは もと上下兩社ありて 其下社は祈年幣に預り玉はぬ故に帳には記されざりしにて 實は吉御子明神は鹿鹽下ノ神社なるべし さるは志略に正一位吉御子大明神ノ社 石部にあり云々 石部下の町五町の産土神とすと云とある吉御子は吉比古と同音にて 古よりしか云傳へけんを由緒書に吉御子明神を相殿ノ神としたるは 同神なることを知らざるにて僞妄の端綻びたり故今とらず

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

上葦穂神社 (湖南市柑子袋) (hai)」(90度のお辞儀)

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近江国 式内社 155座(大13座・小142座)について に戻る

一緒に読む
近江國 式内社 155座(大13座・小142座)について

近江国(おうみのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 近江国には 式内社 155座(大13座・小142座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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