実践和學 Cultural Japan heritage

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火雷神社(佐波郡玉村町大字下之宮)〈上野國八之宮〉

火雷神社(からいじんじゃ)は 延喜式内社 火雷神社(ほのいかつちの かみのやしろ)です 社伝によると 崇神天皇元年の鎮座 火雷宮と号したと伝え 桓武天皇 延暦十五年(796)には官社に預り 上野国八之宮とされ 利根川南岸に鎮座し 北岸に鎮座する倭文神社(上野国九之宮 上之宮)に対して「下之宮(しものみや)」と称されます

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

火雷神社(Karai shrine)

通称名(Common name)

火雷さまからいさま

【鎮座地 (Location) 

群馬県佐波郡玉村町大字下之宮524

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》火雷命(ほのいかづちのみこと)

《配》保食命 菅原道真命 那波八郎
   火産霊命 大物主命 建御名方命
   譽田別命 素盞鳴尊 高賀美命
   字迦御魂命 大日霊貴命 少彦名命

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社
・ 上野國八之宮

【創  (Beginning of history)】

延喜式内上野十二社 火雷神社略記

一.鎮座地 郡馬県那波郡玉村町大字下之宮524番地
一.社 名 火雷神社
一.祭 神 火雷神(主祭神)

配祀神
保食命 菅原道真命 那波八郎
火産霊命 大物主命 建御名方命
田別命 素盞鳴尊 高賀美命
字迦御魂命 大日霊貴命 少彦名命

一.由緒
当社は第代崇神天皇 元年創立 東國太都督御諸別王の尊信あり
桓武天皇 延暦十五月官社に列せられ、官幣に預かる村上天皇 天暦月三条天皇 長和年中 国祭に預る 後当郡の領主 那波氏 累世尊崇甚だ厚く宏大な社殿造営奏り 四季の祭典を興し 宝作無窮国家安泰を祈らる。後現在に改む又新田義貞幣帛神殿を奉りて武運復興を祈らる

後、村上天皇 康永二年神殿を再築し現今の神殿は慶長以後の建築なり明治五年七月郷社に列せらる

当社に古来神事あり 清和天皇 貞観四年より毎年陰暦十月末の午の日夜丑の刻秘密神事を行う。灯火を用いず微声を以て祝詞を奏す
十一月初の午の日迄境内に注連縄を張り参拝者の出入りを厳禁、過ちて犯し入る者あれば忽ち大風或いは雷鳴を起こすと云う
而して此の神事中は村中鳴り物高声を禁じ各謹慎す
古より伝えて那波の御神事と云う

一.祭日
四月 三日 例祭(年回大祭)
十七 小祭

昭和四十六月吉日記

拝殿に掲げられた略記より

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【由  (History)】

火雷神社

 神社は、上州名物の一つになっている雷の神様である火雷神をまつってある。景行天皇の時代に上野国の統治者御諸別王がまつったと伝えられ、平安時代の延暦十五年(七九六)官社となり、延喜の制では小社に列して上野十二社の八の宮として、上野国神明帳に従一位大名神とかかれている。
 鎌倉時代の始め、建久二年(一一九一 )大江広元の子政広は那波氏となり、その後波郡地方の 領主となって四町歩の田を神社に献じた。天正年間那波氏の滅亡で神社も衰えたが、明治五年(一八七二)郷社 となった。
 現在の建物は、江戸時代中期以降の建造で本殿は三間社流れ造りである。
 また、伊勢崎市上之宮の倭文神社と相対し、その上之宮に対し下之宮といわれ、地名起源ともなっている。
 麦蒔ゴジンジ(御神事)火雷神社に伝わる祭りで、貞観四年(八六二)より始まり毎年五穀豊穣、災難除けの秘密の神事を行ない今日まで伝え行なっている。旧暦十月末午の日丑の刻に神官が礼拝を始めると代表が神社の四面にシメ縄を張り、神官が退出する時に丁度張り終えるようにする。
 代表は一週間精進潔斎し、シメ縄を張り廻らす時は声を出すことは厳禁とされ、 十一月初午の日丑の刻に祭りがあけるまでは鳴物は禁止( 馬がいた時は鈴もはずした)であり、シメ縄を張るのを「 ゴジンジに入る」という。深夜に行なわれるこの神事は古代の祭りの様式の面影を伝えているように思われる。

現地案内板より

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火雷神社(からいじんじゃ) 〈下之宮〉

 灰色の鳥居が参道の中間にあり、その奥の杉並木のなかに社殿が見えます。この神社の歴史は古く平安時代に上野十二社の八の宮として名前が見えます。伊勢崎市上之宮の倭文神社と相対し、その上之宮に対して下之宮といわれ地名起源にもなっています。

 この神社の麦蒔御神事は、五穀豊穣と災難除けのために行われています。旧暦10月末の午の日から13日間の神事期間に境内に入ったり、家々で鳴り物高声をあげると雷雨大風がおこるとされています。

玉村町役場HP「町の主な文化財」より
https://www.town.tamamura.lg.jp/docs/2018060500109/

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

蚕霊神社《主》保食命

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八坂神社《主》素盞嗚命

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〈貫前神社 伊加保神社 加茂神社 宇藝神社 倭文神社 甲波宿祢神社 榛名神社 小祝神社 大國神社 三和神社 赤城神社 兒持神社 日枝神社 琴平神社 稲荷神社 大杉神社 諏訪神社 菅原神社 阿夫利神社 丹生神社〉

・本殿向かって左手 石祠群

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・本殿裏手 複数の石祠

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・本殿裏手 石祠

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・一の鳥居の横 石祠

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・神楽殿

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・手水舎

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当社(やしろ)は火雷神を主祭神とし配祀神として学問の神様である菅原道真命を御祭りしてあり、昔より多くの人々の信仰を集めている社であります。
この水盤は道真公が特に好んでいたと云われる梅の花の形を基礎として造られたものです。
鬼瓦にも梅花を配し道真公をしのんでいます。
享保十二年(1727)に造られたものであります。水屋は平成十二月改築を行い現在に至っています

こちゆかば にほひおこせよ むめの花
あるじなしとて 春をわするな

手水舎に掲示の案内より

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石橋

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・表参道 社頭

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・社務所

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・本殿裏手〈北東〉の東林寺火雷神社の別当寺であった

東林寺は天治元年(1124年)僧・大元の開山

寺宝 十一面観音像桧の寄木造り立119cm 室町~江戸初期の作と推定〉がある この仏像は 江戸時代末まで火雷神社の神楽殿に祀られていた 明治期の神仏分離により別当寺であった東林寺に遷され 現在は玉村町歴史資料館に保管・展示されています

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・上之宮 倭文神社

倭文神社利根川の対岸 北(上)に鎮座 上之宮〉〈火雷神社は 利根川の対岸 南〈下〉に鎮座 下之宮〉2社で対をなしている

・倭文神社(群馬県伊勢崎市)

一緒に読む
倭文神社(伊勢崎市東上之宮町)〈上野國九之宮〉

倭文神社(しとりじんじゃ)は  第十一代 垂仁天皇の御代の創建と伝えられ 貞観元年(859)には官社に列せられています 上野国九之宮とされる 式内社 倭文神社(しとりの かみのやしろ)です 利根川北岸に鎮座し 南岸に鎮座する式内社 火雷神社(上野国八之宮 下之宮)に対して「上之宮(うえのみや)」と称されます

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『日本後紀(Nihon koki)』〈承和7年(840年)完成〉に記される伝承

官社に預ったと記しています

【抜粋意訳】

 延暦十五年(七九六)八月甲戌十六〉の条

○甲戌
上野國

山田郡 賀茂神 美和神 那波郡 火雷神  爲官社

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本後紀』承和7年(840)選者:藤原冬嗣 刊本 塙氏温古堂[旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047657&ID=&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)上野国 12座(大3座・小9座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)那波郡 2座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 火雷神社
[ふ り が な ]ほのいかつちの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Honoikatsuchi no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

利根川の対岸に鎮座する 二つの式内社〈上野國 那波郡火雷神社倭文神社〉について

火雷神社は延暦十五年(756年)に官社『日本後紀』
倭文神社は貞観 元年(859年)に官社『三代実録』゛に列しています

当時の利根川の流域は 伊勢崎市西部の広瀬川低地を流れていたとされ 二つの神社は 同じ那波郡所在で 現在の利根川沿いに流れていた榛名山水系の八幡川下流を境界にして南北〈上下に区分されていたと云われます それぞれ ・上之宮・下之宮と呼ばれています

・上之宮〈利根川の北岸(上)〉

『延喜式神名帳』所載 上野國 那波郡 倭文神社(しとりの かみのやしろ)

・倭文神社(群馬県伊勢崎市)

一緒に読む
倭文神社(伊勢崎市東上之宮町)〈上野國九之宮〉

倭文神社(しとりじんじゃ)は  第十一代 垂仁天皇の御代の創建と伝えられ 貞観元年(859)には官社に列せられています 上野国九之宮とされる 式内社 倭文神社(しとりの かみのやしろ)です 利根川北岸に鎮座し 南岸に鎮座する式内社 火雷神社(上野国八之宮 下之宮)に対して「上之宮(うえのみや)」と称されます

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・下之宮〈利根川の南岸(下)〉

『延喜式神名帳』所載 上野國 那波郡 火雷神社(ほのいかつちの かみのやしろ)

・火雷神社(玉村町下之宮)〈上野國八之宮〉

一緒に読む
火雷神社(佐波郡玉村町大字下之宮)〈上野國八之宮〉

火雷神社(からいじんじゃ)は 延喜式内社 火雷神社(ほのいかつちの かみのやしろ)です 社伝によると 崇神天皇元年の鎮座 火雷宮と号したと伝え 桓武天皇 延暦十五年(796)には官社に預り 上野国八之宮とされ 利根川南岸に鎮座し 北岸に鎮座する倭文神社(上野国九之宮 上之宮)に対して「下之宮(しものみや)」と称されます

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大和国 葛城地方にある二つの式内社〈・火雷神社倭文神社〉について

上野國の火雷神社と倭文神社の二社は 大和国〈奈良県〉葛城氏に深く関係のある神社と考えられています
二社が 大和国〈奈良県〉葛城氏に深く関係のある神社と考えられている理由は 大和国葛城地方に 両社の本宮とも云われる二つの式内社〈1・葛木倭文坐天羽雷命神社 2・葛木坐火雷神社二座〉があるからです

それぞれの論社の記事を確認願います

1.『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
 大和國 葛下郡 葛木倭文坐天羽雷命神社 大(かつらきの しとりにます あめのいかつちのみことの かみのやしろ)

葛木倭文座天羽雷命神社(奈良県葛城市)

・博西神社(奈良県葛城市)

2.『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』所載
 大和國 忍海郡 葛木坐火雷神社 二座(並 名神大 月次 相嘗 新嘗)(かつらきにます ほのいかつちの かみのやしろ)

・葛木坐火雷神社〈笛吹神社〉(葛城市笛吹)

一緒に読む
葛木坐火雷神社〈笛吹神社〉(葛城市笛吹)〈延喜式内社 名神大社〉

葛木坐火雷神社(かつらきにいます ほのいかづちじんじゃ)は 延喜式内社 葛木坐火雷神社二座(並名神大月次相嘗新嘗)(かつらきにます ほのいかつちの かみのやしろ ふたくら)です 創建は 神代とも神武天皇の御代とも云われ 二座の内 笛吹神社は 上古以来 朝廷が大事を卜定められる毎時 波波迦木を進献していたと伝わります

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上ノ宮・下ノ宮の呼称を持つ 山城〈京都府〉乙訓郡式内社 火雷神社について

山城乙訓郡 乙訓坐 大(火)雷神社(名神大 月次 新嘗)(をとくににます おほいかつち(ほのいかつち)の かみのやしろ)論社である 向日神社は 元々は 同じ向日山に鎮座する向神社(上ノ社)火雷神社(下ノ社)という別の神社だったとされています

向日神社の配布するパンフレットには次のように記されています
向神社と火雷神社の両社は、同じ向日山に鎮座され、向神社は上ノ宮、火雷神社は下ノ社と呼ばれていた」とあります

これは 上野國 那波郡二つの式内社〈・火雷神社倭文神社〉と同様の呼ばれ方ですが 単なる偶然ではないでしょう

・〈向日神社に合祀の火雷神社〉向日神社(向日市向日町北山)

火雷大神(ほのいかづちのおかみ)について

神名の示す通り゛雷神゛

別名を・火雷神(ほのいかづちのかみ)・雷神(いかづちのかみ)・八雷神(やくさいかづちのかみ)とされ

農耕民族であった古代日本人の信仰から生まれた神で 雷に対する畏れ 稲妻と共にもたらされる雨の恵みをもたらす神と考えら 水神とも結びついています

『記紀神話』では 火雷大神(ほのいかづちのおかみ)とは

 伊邪那美命の体に生じた8柱の雷神それぞれが 雷が起こす現象を示す神として描かれています

・大雷神は強烈な雷の威力を
・火雷神は雷が起こす炎を
・黒雷神は雷が起こる時に天地が暗くなる事を
・咲雷神は雷が物を引き裂く姿を
・若雷神は雷の後での清々しい地上の姿を
・土雷神は雷が地上に戻る姿を
・鳴雷神は鳴り響く雷鳴を
・伏雷神は雲に潜伏して雷光を走らせる姿を

火雷神(ほのいかづちのかみ)は この8柱の雷神〈火雷大神〉の1柱です

『山城国風土記逸文』によれば 火雷大神のうちの1柱 火雷神(乙訓坐火雷神社の祭神)は のちに丹塗矢となって賀茂建角身命の子 玉依日賣のそばに流れ寄り 賀茂別雷命が生まれたと伝えます

 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される 火雷神社(ほのいかつちのかみのやしろ)と その論社について

律令時代には 宮中大膳式に祀られ 火の神としても信仰され 『延喜式』にも記載されています

宮中神36座
大膳職坐神 3座(並小)(おほかしわでのつかさにますかみ みくら)
御食津神社(貞)(みけつの かみのやしろ)火雷神社(ほのいかつちの かみのやしろ)髙倍神社(たかへの かみのやしろ)

山城乙訓郡 乙訓坐 大(火)雷神社(名神大 月次 新嘗)(をとくににます おほいかつち(ほのいかつち)の かみのやしろ)

・角宮神社(長岡京市井ノ内南内畑)

・〈向日神社に合祀の火雷神社〉向日神社(向日市向日町北山)

・菱妻神社(京都市南区久世築山町)

大和國 廣瀬郡 穂雷命神社(ほのいかつちの かみのやしろ)

・穂雷神社(広陵町安部)

一緒に読む
穂雷神社(広陵町安部)

穂雷神社(ほのいかづちじんじゃ)は 『日本三代実録』〈延喜元年(901年)〉に゛保沼雷神゛として 神階の奉授が記されます しかし 当社本来の神は 火の神゛軻遇突智命゛であろうとされ 廣瀬大社の相殿に祀られる穂雷神と並び 延喜式内社 大和國 廣瀬郡 穂雷命神社(ほのいかつちの かみのやしろ)の論社とされます

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・〈相殿 穂雷神〉廣瀬大社(河合町川合)

一緒に読む
廣瀬大社(北葛城郡河合町川合)〈崇神天皇九年(前八九)鎮座の式内社〉

廣瀬大社(ひろせたいしゃ)は 創建は崇神天皇9年(前89)゛大和盆地を流れる全ての河川が合流する地点に祀られ治水と五穀豊穣を司る゛と由緒にあり 大和川は 鎮座地から 龍田を抜け奈良盆地を下り流れる 『日本書紀』天武天皇4年4月の条には 風神を龍田の立野〈龍田大社〉に 大忌神を広瀬の河曲〈廣瀬大社〉を祀る と記されます

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大和國 忍海郡 葛木坐火雷神社二座 並名神(かつらきにます ほのいかつちの かみのやしろ)

・葛木坐火雷神社〈笛吹神社〉(葛城市笛吹)

一緒に読む
葛木坐火雷神社〈笛吹神社〉(葛城市笛吹)〈延喜式内社 名神大社〉

葛木坐火雷神社(かつらきにいます ほのいかづちじんじゃ)は 延喜式内社 葛木坐火雷神社二座(並名神大月次相嘗新嘗)(かつらきにます ほのいかつちの かみのやしろ ふたくら)です 創建は 神代とも神武天皇の御代とも云われ 二座の内 笛吹神社は 上古以来 朝廷が大事を卜定められる毎時 波波迦木を進献していたと伝わります

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大和國 宇智郡 火雷神社(ほのいかつちの かみのやしろ)

・火雷神社(五條市御山町)

一緒に読む
火雷神社(五條市御山町)〈二つの式内社〈①宮前霹靂神社②火雷神社〉の論社〉

火雷神社(ほのいかづちじんじゃ)は 丹生川の吉野川への合流地点に近い南岸に鎮座 『延喜式』には火雷神を祀る゛大和國 宇智郡 火雷神社(ほのいかつちの かみのやしろ)゛とされます 祭神は・火産霊神・軻遇突智神など諸説あり 又一説に 火雷神とは 井上皇后の若皇子とされ 地元では若宮大明神とも称されます

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和泉國 大鳥郡 火電神社(いなひかりの かみのやしろ)

愛宕神社(堺市中区福田)
火電神社の古社跡地

一緒に読む
愛宕神社(堺市中区福田)〈延喜式内社 火雷神社の古社跡地〉

愛宕神社(あたごじんじゃ)は 延喜式内社 和泉國 大鳥郡 火電神社(いなひかりの かみのやしろ)の古社跡地です 愛宕大権現〈式内社 火電神社〉は 明治41年(1908)明治政府の「神社令」により 陶荒田神社に合祀されました 現在の社殿は 戦後新たに福田の人々の信仰によって 元の境内地の一隅に愛宕神が奉斎されたものです

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・陶荒田神社(堺市中区上之)
火電神社 現在の合祀先〉

一緒に読む
陶荒田神社(堺市中区上之)〈古代の陶器の生産拠点゛陶邑(すえむら)゛鎮座〉

陶荒田神社(すえあらたじんじゃ)は 第十代 崇神天皇の勅により太田田根子〈素盞鳴命十世の孫〉が創建し 社号゛陶荒田(すえあらた)゛は 地名の゛陶邑(すえむら)゛〈古代の陶器生産地〉・人名の゛荒田直(あらたのあたい)〈祖神の祭祀を司る一族〉から付きました

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上野國 那波郡 火雷神社

・火雷神社(玉村町下之宮)〈上野國八之宮〉

一緒に読む
火雷神社(佐波郡玉村町大字下之宮)〈上野國八之宮〉

火雷神社(からいじんじゃ)は 延喜式内社 火雷神社(ほのいかつちの かみのやしろ)です 社伝によると 崇神天皇元年の鎮座 火雷宮と号したと伝え 桓武天皇 延暦十五年(796)には官社に預り 上野国八之宮とされ 利根川南岸に鎮座し 北岸に鎮座する倭文神社(上野国九之宮 上之宮)に対して「下之宮(しものみや)」と称されます

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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

高崎玉村ICから R354バイパスを西へ約5.7km 約12分程度

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社頭には 社号標があり「延喜式内 郷社 火雷神社」と刻字されています

火雷神社(玉村町下之宮)〈上野國八之宮〉に参着

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参道の途中には 白っぽい〈灰色か?〉の鳥居が建ち 扁額には 火雷神社と記されています 鳥居の右手前には 石祠が祀られています
一礼をして 鳥居をくぐります

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参道の先には 檜の巨木が二本聳えていて その手前に 門かぶりの松のように 参道の上に かぶり松が植えられていて 自然の巨大な鳥居の様相を表しています

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奉献の石燈籠の先 参道に小さな石橋があります

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手水舎があり 石橋を渡り 一礼して松をくぐり神域へと進みます

特殊神事「麦蒔御神事(むぎまきごしんじ)」は
貞観4年(862年)に始まったといわれ
 旧暦10月末の午の日の丑刻に秘密神事を行い 燈火を用いず微声で祝詞を奏上するとされ その後は旧暦11月初午の日まで 神社四面にしめ縄を張って一切の立ち入りを禁じ
この注連縄が張られるのが この二本の木から先のご神域です

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二本の木を抜けると 参道の両側に大きな石燈籠あります

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参道には 更に狛犬が座して 二本の木が注連縄柱のように植えられていて その奥に拝殿が建ちます

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拝殿にすすみます 扁額には 延喜式内社 火雷神社 と記されています

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神紋は 右三つ巴紋(みぎみつもえもん)

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には 幣殿 本殿が鎮座します

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本殿の側面と裏面の三面に 漆喰に彫刻がされているのでしょうか 彫刻が白く塗られているのか 美しい絵が刻まれています

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社殿の周囲には 石祠が並んで祀られています

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拝殿の軒には 由緒書きが掲げられています

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

式内社 火雷神社について 下宮村〈現 火雷神社(玉村町下之宮)〉と記しています

【抜粋意訳】

火雷(ホノイカツチノ)神社

國帳 従一位 火雷大明神〇道別云
〇清奥云 下宮村にあり

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 火雷神社の所在について 下之宮村〈現 火雷神社(玉村町下之宮)〉と記しています

【抜粋意訳】

火雷神社

火雷は 保乃伊加都知と訓べし
〇祭神 火雷神、地名記云、軻遇突智(かぐつち)命と云へるは、恐らく誤なるへし、
〇下之宮村に在す 地名記

類社
山城國 乙訓郡 乙訓火雷神社の下見合すべし

神位
国内神名帳云、従一位 火雷大明神

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 火雷神社の所在について 下之宮村〈現 火雷神社(玉村町下之宮)〉と記しています

【抜粋意訳】

火雷神社

祭神 火雷神

官社 桓武天皇 延暦十五年八月巳未甲戌 上野國 那波郡 火雷神 爲官社

祭日 正月十五日
社格 郷社
所在 下之宮村(佐波郡芝根村大字下之宮)

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

火雷神社(玉村町下之宮)は 式内社であり 創建は第十代 崇神天皇元年の鎮座と伝え 同じく式内社の九ノ宮は上ノ宮 倭文神社と利根川を挟んで対峙しているのが 鉢ノ宮は下ノ宮 火雷神社と記しています

【抜粋意訳】

〇群馬縣 上野國 佐波郡芝根村大字下ノ宮字宮東

郷社 火雷(ホノイカヅチノ)神社

祭神 火雷(ホノイカヅチノ)神

創建は社伝に據るに、崇神天皇元年の鎮座なりと、一に火雷宮と號し、桓武天皇 延暦十五年八月甲戌 官社に預り、延喜の制式内の小社に列せられ、那波郡二社の一なり、又 國帳従一位 火雷大明神と記し奉り、当国八ノ宮たり、社殿は光明天皇 康永二年再々造営の由伝ふ、以来沿革詳ならずと雖も、今よりに二百年前 東山天皇 寛永八年拝殿を修理し、明治八年再び拝殿を修理す、明治五年七月郷社に列す、社殿は本殿、拝殿其の他神楽殿等あり、境内は八百十二坪 古色蒼然たり。
加澤記云、「当国八ノ宮は、那波の上宮、火雷神虚蔵也、九ノ宮は下宮、少智大明神、如意輪観音也、」(此には上、下を転倒せり、又 少智とは何の謂にや、九ノ宮は上ノ宮 倭文神社なり。)
故に地名辞典云、「下之宮(シモノミヤ)、今茂木、沼ノ上等に合せ、芝根村と改む、玉村驛の東一里、利根川の右岸に在りて、南玉村及び箱石、小泉に相接す。火雷神に対して、此にて下宮と云へるに因る、水を隔て相望む。」

境内神社
貫前神社 伊加保神社 加茂神社 宇藝神社 倭文神社
甲波宿祢神社 榛名神社 小祝神社 大國神社 三和神社
赤城神社 兒持神社 日枝神社 琴平神社 稲荷神社
大杉神社 諏訪神社 菅原神社 阿夫利神社 丹生神社

例祭日 八月二十五日

【原文参照】

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

火雷神社(玉村町下之宮)〈上野國八之宮〉に (hai)」(90度のお辞儀)

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