出雲乃伊波比神社(いずものいわいじんじゃ)は 江戸期までは 出雲ノ神を祀る氷川社と呼ばれていました 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「武蔵國 男衾郡 出雲乃伊波比神社」の論社です しかし何故か 現在の祭神は 出雲の神ではなく 鹿島の神を祀っています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
出雲乃伊波比神社(Izumonoiwai Shrine)
(いずものいわいじんじゃ)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
埼玉県熊谷市板井718
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》武甕槌命(Take mikazuchi no mikoto)
『神名帳考証』『神祇志料』『大日本史』大己貴命
『特選神名牒』須佐之男神
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
出雲乃伊波比神社(いずものいわいじんじゃ)
所在地 熊谷市板井
本社は、もとは鹿島(かしま)神社といわれていたが、明治28年に出雲乃伊波比神社と改称された。祭神は武甕槌命(たけみかつちのみこと)である。
境内には、氷川神社、八坂神社、龍田神社、稲荷神社、天満神社、神明神社、山神社、富士浅間神社などが合祀されている。
本社の祭神 武甕槌命は、神話時代の高天原(たかまがはら)で、国土平定役の白羽の矢が、まず経津主命(ふつぬしのみこと)に立てられたとき、力に自信の溢れている武甕槌命もその役を希望して、二神が協力して国土平定の大役を果たしたという。武勇絶倫しかも強力性に燃えた国づくりの華々しい勲功の神である。
また、社前の和田川に架けられた太鼓橋は、昔から八雲橋(やぐもばし)といわれ、この橋をくぐって子供のはしか平癒(へいゆ)を祈願するものが多く、昭和の初め頃まで「はしか参り」が列をなしたものである。
境内に祀られている神々の祭日のうち、特に7月10日の八坂祭りは、昔から「板井の天のう様」として近在に知られ、明治4年からは、太鼓の「ヒバリバヤシ」を載せた屋台が「みこし」と一緒に板井区内をにぎやかに一巡するようになった。
平成11年12月 埼玉県境内案内板より
【由 緒 (History)】
「江南」地域について地名の由来
板井(いたい)
平安時代の延喜式(えんぎしき)神名帳(しんめいちょう)に、江南地域が属していた男衾(おぶすま)郡内の官社として 出雲乃伊波比神社(いずもいわいじんじゃ)が記載されている。
現在、板井地内にある伊波比神社(いわいじんじゃ)は、江戸時代に氷川神社であったものが、明治時代に由緒を基に改めたものだが、神名帳(しんめいちょう)に記載されている伊波比神社(いわいじんじゃ)に比定される可能性は、遺跡や伝承などから高いと考えられている。「板井」の地名は、伊波比・岩比の「イワイ」のある地域という地元や周辺地域の認識があったと思われ、「イワイ」から「イタイ」への地名が定着したと推測される。
熊谷市役所公式HP「「江南」地域について」よりhttps://www.city.kumagaya.lg.jp/about/soshiki/kyoiku/tiikikouminkan/kounan.html
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・氷川神社《主》健速須佐之男命
・八坂神社《主》素盞嗚尊
・龍田神社・稲荷神社・天満神社・神明神社・山神社・富士浅間神社 等など
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)男衾郡 3座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 出雲乃伊波比神社
[ふ り が な ](いつものいはひの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Shirakamino no kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
大宮氷川神社(さいたま市)のかつての 神職家〈社家〉の謎について
武蔵国 一之宮 氷川神社である「大宮氷川神社」の ご祭神は 元来 出雲建国の3柱(みはしら)の神と 荒脛巾神(あらはばぎのかみ)を祀ります
①須佐之男命(すさのをのみこと)
➁稲田姫命(いなだひめのみこと)
➂大己貴命(おおなむちのみこと)
④荒脛巾神(あらはばぎのかみ)
従って この神を守り祀る神職家〈社家〉は かつては 4社家が存在していました
①➁➂の社家は 江戸時代までは 社家を務めていました
上の祭神の順に並べると
①岩井(イワイ)家〈男體社〉
➁角井(ツノイ)家〈女體社〉(後の東角井家)
➂内倉(ウクラ)家〈簸王子社〉(後の西角井家)
④氷川(ヒカワ)家〈荒脛巾社〉(後に途絶えたか)
ここで
①須佐之男命(すさのをのみこと)を祀る社家が ①岩井家〈男體社〉であった事実を知ると 興味が湧きます
出雲の神「素戔嗚尊(すさのをのみこと)」を祀るのは 岩井「イワイ」家の役割であったのです
当神社「出雲乃伊波比(イズモノイワイ)神社」の名称が 偶然ではないことが想定できます
以下 同じ武蔵国の延喜式内社で「イワイ」の文字を持つ神社を追ってみます
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
「武蔵國 男衾郡 出雲乃伊波比(イズモノ イハイ)神社」の3つ論社について
・出雲乃伊波比神社(寄居町赤浜)
出雲乃伊波比神社(いずものいわいじんじゃ)は 天喜年中(1053~58)源頼義が 奥州征伐の途 当社に白旗を献じて戦勝を祈願し「白旗八幡社」と称し 荒川沿いの赤濱村に鎮座しましたが 天正8年(1580年)荒川の度重なる氾濫により 住民と共に現在地に遷座します 江戸時代までは「八幡さま」と呼称されますが 明治になって『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「武蔵國 男衾郡 出雲乃伊波比神社」の論社として 現在の社号に変更しました
出雲乃伊波比神社(寄居町赤浜)
・出雲乃伊波比神社(熊谷市板井)
出雲乃伊波比神社(いずものいわいじんじゃ)は 江戸期までは 出雲ノ神を祀る氷川社と呼ばれていました 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「武蔵國 男衾郡 出雲乃伊波比神社」の論社です しかし何故か 現在の祭神は 出雲の神ではなく 鹿島の神を祀っています
出雲乃伊波比神社(熊谷市板井)
・白旗八幡社〈井椋神社の境内社〉(深谷市畠山)寄居町赤浜に遷座した出雲乃伊波比神社の元宮
白旗八幡社(しらはたはちまんしゃ)は 寄居町赤浜に遷座した出雲之伊波比神社〈白旗八幡社〉の元宮になります 天正8年(1580年)荒川の度重なる氾濫により 白旗八幡社が 住民と共に赤浜に遷座した後も 畠山の氏子等は ここに祠を立てて祭りを続けたとされます その後 明治39年の勅令に基いて 明治41年に字栗坪の白幡八幡社を井椋神社の境内に遷座し 現在に至ります
白旗八幡社〈井椋神社の境内社〉(深谷市畠山)
・八幡塚旧跡〈白幡八幡社 旧鎮座地〉(寄居町赤浜)井椋神社に合祀された白旗八幡社の旧鎮座地
八幡塚旧跡は 井椋神社に合祀された 字栗坪にあった祠「白旗八幡社」の旧鎮座地の跡になります 従って『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の「武蔵國 男衾郡 出雲乃伊波比神社」の論社の跡地ですが 延喜式の時代(927年)には 当地に鎮座していたことになります
八幡塚旧跡〈白幡八幡社 旧鎮座地〉(寄居町赤浜)
武蔵國 入間郡には 同じく「出雲(イツモ) イハイ」の音をもつ式内社
「武蔵國入間郡 出雲伊波比神社」の論社 4つについて
・出雲伊波比神社(毛呂山町岩井西)
出雲伊波比神社(いずもいわいじんじゃ)は 社伝「臥龍山宮伝記」に景行天皇53年 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の際 凱旋し 天皇から賜った゛ヒイラギの鉾゛をおさめ神宝とし 出雲の大己貴命を祀った また 成務天皇の御代 武蔵国造 兄多毛比命(エタモヒノミコト)が 出雲の天穂日命を祀り 二柱を出雲伊波比神としたと伝わっています
出雲伊波比神社(毛呂山町岩井西)
・出雲祝神社(入間市宮寺)
出雲祝神社(いずもいわいじんじゃ)は 延喜式内社 武蔵國 入間郡 出雲伊波比神社(いつもの いはひの かみのやしろ)の論社とされ 現存する棟札〈大宝二年(702)〉にも゛伊都毛伊波比再造゛と記されていています 社伝には 景行天皇の御代 日本武尊が 東夷征伐の時 小手指ヶ原で・天穂日命・天夷鳥命を祭祀創建された と伝わります
出雲祝神社(入間市宮寺)
・川越氷川神社(川越市宮下町)
川越氷川神社(かわごえ ひかわじんじゃ)は 創建について 元禄九年棟札・正徳縁起に 欽明天皇 即位二年(521)辛酉九月十五日 武蔵国 足立郡 氷川神社を分祀奉斎したと伝える古社です 一説に゛氷川の神゛〈出雲神〉を祀る 延喜式内社 武蔵國 入間郡 出雲伊波比神社(いつもの いはひの かみのやしろ)とも伝わります
川越氷川神社(川越市宮下町)
・北野天神社(所沢市小手指元町)
北野天神社(きたのてんじんしゃ)は 三社を合殿に祀る総称で 正式名称は゛物部天神社・國渭地祇神社・天満天神社゛です 元々は 日本武尊が祀ったと伝わる入間郡の式内社 物部天神社とされ さらに国渭地祇神社を(一説には出雲祝神社も)合祀すると云う 長徳元年(995)京都より北野天神を勧請し 坂東第一北野天神と称しました
北野天神社(所沢市小手指元町)〈正式名称゛物部天神社 國渭地祇神社 天満天神社゛〉
武蔵國 横見郡には 同じく「伊波比 イハイ」の音をもつ式内社
「武蔵國 横見郡 伊波比神社」の論社について
・伊波比神社(吉見町黒岩)
伊波比神社(いわいじんじゃ)は 和銅年間(708~715)の創建と伝え『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵國 横見郡 伊波比神社(いはひの かみのやしろ)とされます 元々は 出雲系の神を祀っていましたが その後 平安時代末から鎌倉初期にかけて 源頼朝の弟の源範頼の所領となり 源氏の八幡信仰から八幡神が祀られ「岩井八幡宮」と呼ばれていました
伊波比神社(吉見町黒岩)
武蔵國 荏原郡には 「磐井 イハイ」の音をもつ式内社
「武蔵國 荏原郡 磐井神社」の論社について
・磐井神社(大田区大森北)
磐井神社(いわいじんじゃ)は 社伝には第30代 敏達天皇二年(573)八月鎮座とあり 六国史『三代実録』には 貞観元年(859)゛武蔵国 従五位 磐井神 官社に列す゛と記される由緒を持ちます 神宝゛鈴石゛があり鈴森八幡宮とも呼ばれる武蔵國の八幡総社でした 『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵國 荏原郡 磐井神社(いはゐのかみのやしろ)とされています
磐井神社(大田区大森北)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
熊谷駅から 県道11号経由 南西に約9.5km 車19分程度
江南の丘陵地帯〈江南台地〉を和田川が浸食した低地が川沿いに続いていて そこに水田が広がっています この水田を見守るように鎮座しています
古代から稲作が行われていたであろうと感じる 湧水が枯れることのない神聖な地です
社頭を2m程の清流の小川「和田川」が流れて 太鼓橋を渡っての参拝となります
出雲乃伊波比神社(Izumonoiwai Shrine)に参着
一礼をしてから 「八雲橋」と呼ばれる 太鼓橋の御神橋を渡ると 鳥居が建ちます
目の前に川があり 増水も考慮しているのでしょう 境内地は段々と上がっていて 社殿は4~5段目の高い社地に建てられています
鳥居をくぐり抜けると 社号標には「村社 出雲乃伊波比神社」と刻まれています
社殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
本殿は 社殿が覆屋となっていて その中に祀られています
社殿の奥は 深い鎮守の杜となっていて 裏参道もあり 境内社がいくつも鎮座しています ただし どの祠がどの神を祀るのかはわかりませんでしたが もしかすると 社殿の奥の位置 即ち 通常の本殿の位置にあたる大きな覆屋は かつての氷川社なのかもしれません
参道を戻ると 鳥居の先に和田川に架かる太鼓橋 その先に神田のように田が広がります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
祭神は 大己貴命であり 所在について『式社考』を引用し「伊多井村」〈現 熊谷市板井〉を比定社としています
【意訳】
出雲乃伊波比(イツモノイハイ)神社
式社考 伊多井村にあり
〇信友云う 兼永本 朱書き入り 大己貴命なり
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用
『新編武蔵風土記稿(Shimpen musashi fudoki ko)』〈文政13年(1830)に完成〉に記される伝承
境内の前面を流れる和田川に並んで 氷川社として記されています
氷川社の後に 鹿島社も村の鎮守とも記されています
【意訳】
巻之225 男衾郡之4 松山領 板井村 の条
和田川
近村山間より出る清水と 今市古里邊より出る清水等 落合村内にて一條の流れとなり 村の南を通す これにして和田川と唱へり 川幅一間許氷川社(ひかわのやしろ)
村の鎮守なり 延喜式神名帳に載る 出雲乃伊波比神社なりと云う
社地は 老杉の繁茂せるさま神古 たれど確かなる証據もなく 口碑の伝のみなり 長命寺の持ち
下に社同じ
〇鹿島社 是も村の鎮守なり
〇天満社
〇山神社 寶光寺持ち
〇弁天社 同持ち
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『新編武蔵風土記稿』1830年(文政13年)著者:間宮士信 [旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局 活版 ,明治17年
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002820&ID=M2017051812110439332&TYPE=&NO=
『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承
論社の所在について
『地名記』には 赤濱村〈現 寄居町赤浜〉
『式社考』には 「伊多井村」〈現 熊谷市板井〉を比定社としていると記しています
【意訳】
出雲乃伊波比神社
出雲乃は 伊豆毛能(イズモノ)と訓ずべし 伊波比は仮字なり
〇祭神 三穂津姫命 誉田別尊 天兒屋命 地名記
〇赤濱村に在す 地名記
〇式社考には 伊多井と云えり 今は 八幡春日と称す
〇当国 横見郡 伊波比神社もあり
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容
所在について 赤濱村〈現 寄居町赤浜〉を比定しています
【意訳】
出雲乃伊波比神社
祭神 須佐之男神
今 按〈考えるに〉
武蔵式社道程命附に 祭神 三穂津姫命 相殿 誉田別天皇 天兒屋命にて 今は八幡春日と云うとあれど信じがたし
明細帳に 祭神 須佐之男神とあるは 上の出雲伊波比神社の條に云る如く 天穂日命に由ありて 出雲ノ神にませば 須佐之男神を祭ると云うも古伝なるべし 故に今 これに従う祭日 8月15日
社格 村社(郷社)
所在 赤濱村(大里郡男衾村大字赤濱)
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』
鹿島さまの橋くぐり(江南地域)
板井地区の鎮守、出雲乃伊波比神は、延喜式内社に数えられる由緒ある古い神社で、祭神は素戔鳴尊を祀っています。明治28年、現在の社名に改称されましたが、以前は鹿島神社と呼ばれていました。
この神社は、昔から麻疹や天然痘の平癒に大変霊験あらたかとして、大勢の人達が幼児を連れて参詣しました。 お詣りする時は、神社の前を流れる和田川に架かる八雲橋の西側南岸にある石段を降り、和田川に入り橋の下をくぐりながら小石を一、二個拾い、願いのことばを唱えます。
「八雲橋かけてぞたのめあらもかさ(ほうそう、天然痘) あかき心を神につくして」
橋をくぐって、川の北側の階段を上がり、神社側にある柳に半紙を折って結び、神社にはしか、はうそうの快癒、軽症を祈りました。拾った小石は巾着に入れて幼児の腰につけさせ、お守りとしました。
鹿島神社の橋くぐりは、戦前のころまで、地元はもとより近郷近在、遠くは浦和方面からも団体参詣者があり、露天商まで出た程の賑わいだったと伝えられています。熊谷市役所HP「地域の伝説」より
https://www.city.kumagaya.lg.jp/about/soshiki/kyoiku/tiikikouminkan/kasima.html
出雲乃伊波比神社(Izumonoiwai Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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