出雲神社(いずもじんじゃ)は 創建年代は不詳ですが『延喜式』(927年)所載 丹波國 出雲神社(名神大社)の論社で 境内に巨岩が磐座として祀られ 最古の祭祀形態を現存させます かつては磐座横に出雲大明神の祠が祀られたが 昭和3年(1928)現在の社殿・鳥居・石段などが整備され 磐座の横の祠から遷座したと伝わります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
出雲神社(Izumo Shrine)
(いずもじんじゃ)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
亀岡市本梅町井手西山6
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大己貴命(Ohonamuchi no mikoto)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(Engishiki jimmeicho)』所載社(名神大)
【創 建 (Beginning of history)】
・創建時期不詳
出雲系の部族によって祭られた 太古からの 磐座信仰と思われる
【由 緒 (History)】
出雲神社
当社の社伝によれば
「往古より社地に大岩あり、その岩の傍らに出雲大明神と称する祠(ほこら)あり、早田太夫(ハヤタダカラ)なる者、承正年中迄奉祀す。天正年中 大己貴命(オオナムチノミコト)を祭神とし社殿を建立したるも同年中、戦国時代の兵乱に遭い社殿 古記録等 焼失す。」とあり
案ずるに 当社は 約2000年程前に この地に住み着いた人達によって この大岩に神を迎えて祭った岩座祭祀(イワクラサイシ)で 最古の神社形式で 広峰神社と同じ出雲系の部族によって祭られたものと思う。祭神も大己貴命(オオナムチノミコト)(大国主命と同一神)で広峰神社の御子である。
大明神という神号は 鎌倉時代以降のもので 承正という年号はない。仮に承久と定めるが 早田太夫とある「太夫」は 室町時代から一般に使用されたと思われる。よって 右社伝は 正確とは云いがたい。然し 天正年中(1573~1591年)社殿を建立したのは確であろう。それ迄は 社殿は無かったのではないか。兵火に会い、後再建され、明治までは 出雲大明神と称し 明治3年 出雲神社と改称、明治6年6月、村社に列格、昭和4年、現在の立派な社殿に大改築された。例祭 10月16日
春の宮の黨(はるのみやのとう) 2月18日
秋の宮の黨(あきのみやのとう) 12月18日境内案内板より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・稲荷神社《主》稲荷大神
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Myojin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉
加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える出雲神社(イヅモノカミノヤシロ)一座(イチザ)
小川月神社一座
麻気神社一座
櫛石窓神社二座
已上(イジョウ) 丹波国(タンバノクニ)
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)丹波国 71座(大5座・小66座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)桑田郡 19座(大2座・小17座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 出雲神社(名神大)
[ふ り が な ](いつもの かみのやしろ)(みょうじんだい)
[Old Shrine name](Itsumo no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載 「丹波國 桑田郡 出雲神社 名神大」の2つの論社について
どちらも磐座(イワクラ)を信仰の拠所としています
①出雲大神宮(亀岡市千歳町出雲後田無)
・出雲大神宮(亀岡市)
出雲大神宮(いずもだいじんぐう)は 社伝によれば〈出雲大社の元宮〉「元出雲の社」と伝わり 古来より元出雲の信仰があります 『丹波国風土記』逸文にも「奈良朝のはじめ元明天皇 和銅年中 大国主命 御一柱のみを島根の杵築の地に遷す すなわち今の出雲大社これなり」とあります
出雲大神宮(亀岡市千歳町出雲無番地)〈丹波國一之宮〉
➁出雲神社(亀岡市本梅町井手西山)
・出雲神社(亀岡市)
出雲神社(いずもじんじゃ)は 創建年代は不詳ですが『延喜式』(927年)所載 丹波國 出雲神社(名神大社)の論社で 境内に巨岩が磐座として祀られ 最古の祭祀形態を現存させます かつては磐座横に出雲大明神の祠が祀られたが 昭和3年(1928)現在の社殿・鳥居・石段などが整備され 磐座の横の祠から遷座したと伝わります
出雲神社(亀岡市本梅町)〈延喜式内社 名神大社〉
『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 式内社 出雲神社(イツモノカミノヤシロ)とその論社について
①『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 「出雲國(イツモノクニ)出雲郡(イツモノコオリ)出雲神社(イツモノカミノヤシロ)」の論社
・素鵞社〈出雲大社の本殿奥〉
素鵞社(そがのやしろ)〈出雲大社 境内〉は 御神体山の 聖地「八雲山(yakumo yama)」の麓に鎮座しています 「出雲大社」の御本殿の背後にあり まるで奥宮のようです 御祭神は 大国主大神の舅神にあたる 須佐之男尊(susanowo no mikoto)が祀られています
素鵞社(出雲市)【前編】
・富神社(出雲市斐川町富村)
富神社(とびじんじゃ)は 社伝によると 出雲国風土記 国引き神話において 八束水臣津野命が 出雲郡の神名火山(かんなびやま)(仏経山)の山上に立ち 国引きを思いつかれて その大事を成しとげられた後 神門水海に近い この豊かな土地に鎮座し出雲社としたとあります
富神社(出雲市斐川町富村)
・長浜神社(出雲市西園町)
長浜神社(ながはまじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』意宇郡の総記に 御祭神の八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)の国引き神話が書かれ「その引いた綱は 薗の長浜(そののながはま)」とあるその地に鎮座します 出雲郡 神祇官社「出雲社(いずも)のやしろ」の論社でもあります
長浜神社(出雲市西園町上長浜)
・諏訪神社(出雲市別所町)
諏訪神社(すわじんじゃ)は 明治以前は鰐淵寺を別当とした「諏訪神社」に〈八束水臣津野神を祀る「出雲神社」〉と〈五十猛命を祀る「韓國伊大弖神社」〉が合祀されています 元社地は「帆柱山」の山中に鎮座と伝わり『出雲國風土記』と『延喜式神名帳』の論社となっています
諏訪神社(出雲市別所町)
➁『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 「丹波國 桑田郡 出雲神社 名神大」の論社
どちらも磐座(イワクラ)を信仰の拠所としています
・出雲大神宮(亀岡市千歳町出雲後田無)
出雲大神宮(いずもだいじんぐう)は 社伝によれば〈出雲大社の元宮〉「元出雲の社」と伝わり 古来より元出雲の信仰があります 『丹波国風土記』逸文にも「奈良朝のはじめ元明天皇 和銅年中 大国主命 御一柱のみを島根の杵築の地に遷す すなわち今の出雲大社これなり」とあります
出雲大神宮(亀岡市千歳町出雲無番地)〈丹波國一之宮〉
・出雲神社(亀岡市本梅町井手西山)
出雲神社(いずもじんじゃ)は 創建年代は不詳ですが『延喜式』(927年)所載 丹波國 出雲神社(名神大社)の論社で 境内に巨岩が磐座として祀られ 最古の祭祀形態を現存させます かつては磐座横に出雲大明神の祠が祀られたが 昭和3年(1928)現在の社殿・鳥居・石段などが整備され 磐座の横の祠から遷座したと伝わります
出雲神社(亀岡市本梅町)〈延喜式内社 名神大社〉
➁『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 「周防國(スオウノクニ)佐波郡(サハノコオリ)出雲神社二座(イツモノカミノヤシロ フタクラ)」の論社
・出雲神社(山口市徳地堀)
出雲神社(いづもじんじゃ)は 第44代 元正天皇 霊亀元年(715)鎮座と伝えら 周防国二之宮です その起源はさらに古く 大古 出雲種族の佐波川流域への膨張発展に伴い その祖神を鎮祭したものと考えられています 式内社 周防國 佐波郡 出雲神社二座(イツモノカミノヤシロ フタクラ)とされています
出雲神社(山口市徳地堀)
・出雲社〈熊野神社境内〉(防府市上右田)
熊野神社(くまのじんじゃ) は 明徳三年(1392)大内義弘公は 将軍 足利義満から和泉(いずみ)・紀伊(きい)の両国を与えられた時 野上修理亮に命じて 紀伊の国の熊野権現宮より御分霊を移し この地に熊野権現を創建したと伝わり 境内社 出雲社(いずもしゃ)は 延喜式内社との伝承もあります
熊野神社 & 出雲社〈熊野神社境内〉(防府市上右田)
➂『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 「信濃國(シナノノクニ)水内郡(ミノチノコオリ) 伊豆毛神社(イツモノカミノヤシロ)」の論社
・伊豆毛神社(長野市豊野町)
伊豆毛神社(いづもじんじゃ)は 大永3年(1523)上伊豆毛(八雲台)から 下伊豆毛の現在地に遷座した『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の古社です 里俗の口碑によれば 神代には水内海の沿岸に在ったとされ 大湖の水理に関連する神ともされます
伊豆毛神社(長野市豊野町)
因みに 出雲大社(出雲市)は
『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 「出雲國(イツモノクニ)出雲郡(イツモノコオリ)杵築大社 名神大(きづきの おほやしろ)
・出雲大社(出雲市)
出雲大社(いずも おおやしろ)は ”遠き神代に 国を譲られた”「大国主大神(おほくにぬしのおほかみ)」の偉業と その誠に感謝なさって 「天神(あまつかみ)」が 天日隅宮(あめのひすみのみや)を献上されたことに始まるとされています
出雲大社(出雲市)【前編】
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
亀岡駅からR372号を西へ 約10km 車20分程度
R477号に沿つている井手地区背後の西山(数掛山)山麓で 亀岡市立 本梅小学校の裏手に鎮座します
最初に目入るのが 磐座の大石です
出雲神社(Izumo Shrine)に参着
大石と杉木立の横に参道があり 鳥居が建っています 扁額には「出雲神社」とあり 一礼をして 鳥居をくぐります
神楽殿or拝殿 が建つ 一段高い社地には 参道に8段ばかりの階段がありますが そのすぐ左脇には 二股の二本杉が生えていて その根元から 高い社地に跨ぐように 注連縄のある大きな岩が 磐座として祀られています
階段を上がると 正面の拝殿の先に 透かし塀に囲まれた本殿が見えてきます
右手には 満開の桜が雨中の参拝を彩ります
本殿の建つ社地は もう一段と高くなっていて 社地の縁は 石垣で補強されていて その上に玉垣が廻されています 狛犬が座し 透かし塀に囲まれた神域に本殿が建っていて 正面に神門があり ここが拝所となっています
神門〈拝所〉にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
本殿の背後の杜にも 磐座が座すとありますが そうした神聖な地には 容易に近づいて良いものではなく この神社が拝所となっていますので こちらから 磐座の神々に拝礼をします
境内を振り返ると 先程の拝殿横の磐座が 全く違う様相を見せていました
磐座の正面に小さな祠があり
「かつては磐座の横に出雲大明神といふ祠が祀られていたと伝へ 昭和3年(1928)に大改築を行ない 磐座の横から遷座し 現在の社殿・鳥居・石段などが整備された」と伝わる
おそらく この祠が 御霊を遷座した「出雲大明神」に違いないと思います お詣りをします
この大岩の大きさを写真からでは 伝えきれないのですが 横に並ぶ拝殿と比べても 高さは平屋の家屋ほどあり 横に二つ並んだ石になっていて 横幅は10mはあろうとおもわれます 裏側からは違う表情です
「出雲大明神」の参道を戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本書紀(Nihon Shoki)』〈養老4年(720)編纂〉に記される伝承
第10代 崇神天皇〈即位 BC97~BC30年頃〉即位60年の条に 出雲大神(イヅモノオオカミ)の宮 その神宝に関するものがあり 舞台となっている場所は 出雲(イズモ)ではなく 丹波(タンバ)の「現在の出雲大神宮」である可能性が はっきりと読み取れます
【意訳】
崇神天皇(スジンテンノウ)即位60年の条
崇神天皇 即位60年 秋7月14日 崇神天皇は 群臣(クンシン)に詔(ミコトノリ)をしました
「武日照命(タケヒナテルノミコト)が 天より持って来られた神宝(カムタカラ)が 出雲大神(イヅモノオオカミ)の宮 その蔵に治められている 是非 これを見たいものだ」
ある書によると 武夷鳥(タケヒナトリ) または 天夷鳥(アメヒナトリ)といいます
すぐに 矢田部造(ヤタベノミヤツコ)の遠祖 武諸隅(タケノモロスミ)を派遣して献上しようとされました
ある書によると 別名を大母隅(オオモロスミ)といいます
このとき 出雲臣(イヅモノオミ)の遠祖 出雲振根(イヅモノフルネ)は神宝(カムタカラ)を管理していました しかし 筑紫国(ツクシノクニ)に行っていたので(武諸隅は)会いませんでした
その弟 飯入根(イイイリネ)は 天皇の命を受けて 神宝を弟の甘美韓日狹(ウマシカラヒサ)と子の鸕濡渟(ウカヅクネ)に託して 奉りました
そして 出雲振根(イヅモノフルネ)が 筑紫から帰って来て 神宝を朝廷に献上したと聞いて 弟の飯入根(イイイリネ)を責めて言いました
「数日(シバシ)待つべきであった 何を恐れたか たやすく神宝を手放したのか」それから年月を経ましたが なお恨みと怒りは消えず 弟を殺そうと考えるようになり
それで弟を欺いて
「このごろ 止屋(ヤムヤ)の淵に 菨(モ)〈水草〉が 沢山生えている 願うので 一緒に見に行って欲しい」
それで兄に従って行きましたそれ以前に 兄は 密かに木刀を造っていた 形は 真刀〈マタチ〉〈真剣〉に似ていた その木刀を自分が帯刀しました 弟は 真剣を帯刀しました
二人が淵のそばに到着し 兄は弟に言った
「淵の水は 清冷(イサギヨシ)だ 一緒に游沐(カアミ)〈水浴〉をしようか」弟は 兄の言葉に従って それぞれが 帯刀していた刀を抜き 淵のそばに置き 水中で沐(カハアム)〈清め〉をしました
兄は 先に陸に上がり 弟の真刀〈マタチ〉〈真剣〉を取って 帯刀しました
その後にあがった弟は 驚き 兄の木刀を手に取りました
共に 刀を撃ち込もうとしました
しかし 弟は 木刀なので抜く事も出来ず 兄は 弟の飯入根(イイイリネ)を撃ち殺しましたそれで 世の人は 歌詠みをし
「ヤクモタツ イヅモタケルガ ハケルタチ ツヅラ サハマキ サミナシニ アハレ」
〈歌詠み意訳〉
イヅモタケルが 佩(ハ)いていた太刀は 黒いツタを巻いているだけで 刀身が無いくて かわいそうここに 甘美韓日狹(ウマシカラヒサ)・鸕濡渟(ウカヅクネ)は 朝廷に参上し 詳細に状況を報告した
すぐに 吉備津彦(キビツヒコ)と武渟河別(タケヌナカワワケ)を派遣し 出雲振根(イヅモノフルネ)を殺しました
出雲臣(イヅモノオミ)たちは このことを恐れるあまり 大神(オオクニヌシノオオカミ)を祀るのを しばらく怠りました
丹波(タンバ)の氷上(ヒカミ)〈兵庫県氷上郡氷上町〉に 氷香戸邊(ヒカトベ)という人がいました
氷香戸邊(ヒカトベ)は 皇太子の活目尊(イクメノミコト)〈垂仁天皇〉に申し上げるのに
「わたしには 小さな子があります 自然に(何も伝えないのに)こう言いました
「玉菨鎭石(タマモノズシシ)出雲人の祭る真種(マタネ)の甘美鏡(ウマシカガミ)
押し羽振(ハフ)る甘美御神(ウマシカミ)底宝御宝主(ソコタカラミタカラヌシ)山河(ヤマカワ)の水泳(ミククル)御魂(オンタマ)静かかる甘美御神(ウマシミカミ)底宝御宝主(ソコタカラミタカラヌシ)」
菨は 毛(モ)と読みます〈歌詠み意訳〉
玉藻の中に静かに眠っている 出雲の人が祈り祭る 立派な大事な鏡が すばらしい神が 水の底に宝が眠ってる
神霊が 山河の水に沈んでいる 静かに掛けて祭るべき立派な鏡が 水の底に沈んでいるこれは小児(ワクゴ)の言葉ではないのでしょう もしくは(神が)託(ツ)いて言っているのでしょう
そこで 皇太子は 天皇にご報告差し上げました
天皇は詔(ミコトノリ)を発し 祭らせました
【原文参照】
『日本紀略(nihonki ryaku)』〈11世紀後半~12世紀頃 編纂と伝わる〉に記される伝承
国史の初見として 弘仁9年(818)に「名神に預る」とあり この時代〈延喜式よりも100年以上前〉には すでに有力な神社であったことが記されています
【意訳】
弘仁9年(818)12月16日(乙丑)の条
丹波国(タンバノクニ)桑田郡(クハタノコオリ)
出雲社(イツモノヤシロ) 預(アズク)に 名神(ミョウジン)
【原文参照】
『続日本後紀(Shoku nihon koki)』〈貞観11年(869)完成〉に記される伝承
出雲神(イツモノカミ)として 神階の奉授が記されています
【意訳】
承和12年(845)7月16日(辛酉)の条
丹波国(タンバノクニ)桑田郡(クハタノコオリ)
無位(ムイ)出雲神(イツモノカミ)
但馬国(タジマノクニ)
出石郡 無位 出石神
養父郡 無位 養父神
朝来郡 無位 粟鹿神
美濃国
厚見郡 無位 伊奈波神に
等(ナド)に 並(ナラビ)に奉(タテマツレ)授(サズク)に 従5位下を
依(ヨリ)てなを 国司(クニノツカサ)等の解状(ゲジョウ)に也(ナリ)
国立公文書館デジタルアーカイブス『続日本後紀』(869)貞観11年完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047680&ID=&TYPE=&NO=
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)』〈延喜元年(901年)成立〉に記される伝承
出雲神(イツモノカミ)として 神階の奉授が記されています
【意訳】
貞観14年(872)11月29日 乙未の条
授(サズク)に
丹波国(タンバノクニ)
従4位下 出雲神(イツモノカミ)に 従4位上
従5位下 阿当護神 従5位上
正6位上 奄我神 従5位下阿波国
正6位上 伊比良咩神 船尽比咩神
並 従5位下
【意訳】
元慶4年(880)6月21日 癸卯の条
授(サズク)に
丹波国(タンバノクニ)
従4位上 出雲神(イツモノカミ)に 正4位下
【原文参照】
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
日本書紀の崇神天皇(スジンテンノウ)即位60年の条で語られる出雲社は 丹波ではないかと推論し 又 出雲の雲の字について「芋」を古書では「ウモ」と云う古言があり 芋によりたる地名ではないだろうかとも記しています
【意訳】
出雲神社 名神大
神階
続日本後紀 承和12年(845)7月16日(辛酉)の条・・従5位下
三代実録 貞観14年(872)11月29日 乙未の条・・従4位上
三代実録 元慶4年(880)6月21日 癸卯の条・・正4位下
日本紀略 延喜10年(910)8月23日・・正4位上日本書紀
崇神天皇(スジンテンノウ)即位60年の条
丹波(タンバ)の氷上(ヒカミ)〈兵庫県氷上郡氷上町〉に 氷香戸邊(ヒカトベ)という人がいました 云々〇考証 出雲社者 元明天皇 御宇 和銅元年 被立社檀神領所の御影山一条入道太政大臣 被下知 天福2年3月23日 御教書有之
令義解 地祇者 大汝神(オオナムジノカミ)を累これなり
一宮記 出雲神 大己貴命 妻 三穂津姫なり
徒然草 下一百段 丹波に出雲と云う云々
〇山城国愛宕郡 出雲井於神社
〇信友云う 出雲の雲の字一本 又 拾芥抄に芋とあり芋は ウモと云うか古言なり 芋によりたる地名にやあらん 多紀郡 櫛石窓神社を古本の書入に大芋社と云うとあり 芋に由あるにや考えん
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用
『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承
日本書紀の崇神天皇(スジンテンノウ)即位60年の条で語られる出雲社は 丹波ではないかと推論し 所在地は出雲村であると記しています
【意訳】
出雲神社 名神大
出雲は 伊都毛と訓ずべし
〇祭神 三穂津姫 頭注
〇出雲村に在す
〇当国 一之宮なり 一宮記
〇延喜式三巻 臨時祭 名神祭285座 中略 丹波国 出雲神社一座
〇日本紀 崇神天皇(スジンテンノウ)即位60年の条
丹波(タンバ)の氷上(ヒカミ)〈兵庫県氷上郡氷上町〉に 氷香戸邊(ヒカトベ)という人がいました 云々〇徒然草云う 丹波に出雲と云う地有り 大社を移して目出たく造り
考証云う
出雲社者 元明天皇 御宇 和銅元年 被立社檀神領所の御影山一条入道太政大臣 被下知 天福2年3月23日 御教書有之類社
出雲国 出雲郡 出雲神社
周防国 佐婆郡 出雲神社二座
信濃国 水内郡 伊豆毛神社神位 名神
続日本後紀 承和12年(845)7月16日(辛酉)の条・・従5位下
三代実録 貞観14年(872)11月29日 乙未の条・・従4位上
三代実録 元慶4年(880)6月21日 癸卯の条・・正4位下
日本紀略 延喜10年(910)8月23日・・正4位上雑事
東鑑云う 嘉永3年9月20日 丙午 丹波国一之宮 出雲社者 蓮華王院御領なり 預に 給わる能盛法師 年来令に知行 何有 称す地頭の輩哉 年来 又 不に聞食及 而して号に彼御下文 玉井四郎資重 恣押領 その理可然哉 有限御領不可有に異義事なり 早可停止件濫行の由 令下知給可宣の由 院御気色候なり 仍て執達如件 8月30日 右衛門権左 謹上兵衛佐殿
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』1 『神社覈録』2
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容
祭神について 延喜式には一座となっているが 社伝などでは大己貴命 三穂津姫命の二座なっていると 記しています
所在については 出雲大神宮ではなく 現在の亀岡市本梅町井手西山に鎮座する「出雲神社 」ではないかと記しています
【意訳】
出雲(イヅモノ)神社 名神大
祭神 大己貴命(オホナムチノミコト)
三穂津姫命(ミホツヒメノミコト)今 按〈考えるに〉
一宮記に 出雲社 大己貴命 妻 三穂津姫命なり父は高皇産霊尊(タカミムスヒノミコト)丹波の桑田郡とみえ
神名帳頭注には 天津彦根一座 三穂津姫一座とあり 頭注 天津彦根云々は誤りなるべし さて 上の二書による時は 主神 三穂津姫命を祭りて 出雲神社とするが如し
されど 本社の縁起に ちとせの社は 出雲村に鎮座ましまして 当国の第一宮なり御本社に 二柱 素戔嗚尊(スサノヲノミコト)奇稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)上御前の御やしろにも ふたはしら大己貴命 三穂津姫命とあるによるときは 大己貴命 三穂津姫命二座を合わせて出雲神社と申せしものとみえたり
式に 一座なるは 大己貴命にや三穂津姫命にや詳らかならず
故に縁起に従いて二座を記せり神位
嵯峨天皇 弘仁9年(818)12月16日(乙丑)の条・・名神に預く
仁明天皇 承和12年(845)7月16日(辛酉)の条・・従5位下
清和天皇 貞観14年(872)11月29日 乙未の条・・従4位上
陽成天皇 元慶4年(880)6月21日 癸卯の条・・正4位下
醍醐天皇 延喜10年(910)8月23日・・正4位上
伏見天皇 正慶5年12月2日の条・・正1位 伏見己下後西園寺兼寶日記祭日 10月末 子牛日 3月18日
社格 (明細帳出雲村はなし 井出村に出雲神社あり村社)(村社)國幣中社
所在 出雲村(南桑田郡本梅村大字井出 ? )
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』
出雲神社(Izumo Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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丹波国(たんばのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 丹波国には 式内社 71座(大5座・小66座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
丹波國 式内社 71座(大5座・小66座)について