実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

伊波止和氣神社(古殿町田口戸神)

伊波止和氣神社(いわとわけじんじゃ)は 江戸時代には゛戸隠大明神゛と呼ばれていましたが 慶應年中(1865~1868年)に 神主の鎌田光雄が 兼務の時 この松尾社〈境内社か?合祀社か?〉を伊波止和氣神社と云ったとあり 延喜式内社 陸奥国 白河郡 伊波止和氣神社(いはとわけの かみのやしろ)の論社となっています

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

伊波止和氣神社(Iwatawake shrine

通称名(Common name)

戸神様(とかみさま)

【鎮座地 (Location) 

福島県石川郡古殿町田口戸神269

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》戸隠大神(とがくしのおほかみ)
   手力男神(たじからをのかみ)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

創建年代不祥

【由  (History)】

江戸時代 戸隠大明神 と称し

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

〈社殿の左右 その他 石祠〉

・春日社、天王社、熊野社、素々女命社、権現社など

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・大黒天の像

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・入道山の清水

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『續日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承

伊波止和氣天神と表記され 神階の奉授が記されています

【抜粋意訳】

十三 承和十年(八四三)九月庚寅日〉

○九月丙戌朔庚寅

奉授

陸奧國
從五位下 多久都神 正五位下
勳九等 伊波止和氣(イハトワケノ)天神
无位 玉造温泉神
无位 伊佐美神 從五位下

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『続日本後紀』(869)貞観11年完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047680&ID=&TYPE=&NO=

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)陸奥国 100座(大15座・小85座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)白河郡 7座(大1座・小6座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 伊波止和氣神社
[ふ り が な ]いはとわけかみのやしろ)
[Old Shrine name]Ihatawake no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 陸奥国 白河郡 伊波止和氣神社(いはとわけの かみのやしろ)の論社

・伊波止和氣神社(古殿町田口戸神)

一緒に読む
伊波止和氣神社(古殿町田口戸神)

伊波止和氣神社(いわとわけじんじゃ)は 江戸時代には゛戸隠大明神゛と呼ばれていましたが 慶應年中(1865~1868年)に 神主の鎌田光雄が 兼務の時 この松尾社〈境内社か?合祀社か?〉を伊波止和氣神社と云ったとあり 延喜式内社 陸奥国 白河郡 伊波止和氣神社(いはとわけの かみのやしろ)の論社となっています

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・白河神社(白河市旗宿関ノ森)

一緒に読む
白河神社(白河市旗宿関ノ森)

白河神社(しらかわじんじゃ)は 社伝によれば 第13代 成務天皇五年(135年)白河國造命と天太玉命を奉祀し 勅命により鎮座 のち白河の関設置に当たり 関所南北に住吉 玉津島明神を祀る と伝わります 二つの式内社①伊波止和氣神社(いはとわけの かみのやしろ)②白河神社(しらかはの かみのやしろ)の論社となっています

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・磐戸別神社(白河市関辺丸沢)

〈旧鎮座地とも云う〉

一緒に読む
磐戸別神社(白河市関辺丸沢)

磐戸別神社(いわとわけじんじゃ)は 白河の関山に鎮座します 延喜式内社 陸奥国 白河郡 伊波止和氣神社(いはとわけの かみのやしろ)の旧鎮座地とも 三鎮座の鼎(かなえ)〈三本足の青銅器・土器〉のように・白河神社(白河市旗宿関ノ森)・磐戸別神社(白河市関辺丸沢)・都々古和氣神社(白河市表郷三森都々古山)〉の三社を以て 伊波止和氣神社とも云うと伝わります

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・都都古和氣神社(馬場)の奥宮 都々古別神社(表郷三森 都々古山)
《三鎮座の鼎(かなえ)〈三本足の青銅器・土器〉のように・白河神社(白河市旗宿関ノ森)・磐戸別神社(白河市関辺丸沢)・都々古和氣神社(白河市表郷三森都々古山)〉の三社を以て 伊波止和氣神社とも云う》

奥宮
都々古別神社(表郷三森 都々古山)

都々古別神社は 馬場都々古別神社の旧蹟です 第12代景行天皇の皇子「日本武尊(yamatotakeru no mikoto)」が 都々古山(福島県白河市表郷三森の建鉾山)に「鉾(hoko)」を立てて「味耜高彦根命(ajisuki takahikone no mikoto)」を地主神として祀った創祀の地です 「建鉾山(武鉾山)」別名を「都々古山(Tsutsukoyama)(江戸期までは入山禁足)」の山頂には梵天の祠があります 当社は 山麓にあり 延喜式の時代には 祭祀が行われていた奥院と伝わります

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《参考》・石都々古和気神社(石川町) 

一緒に読む
石都々古和気神社(石川町)

石都々古和気神社は 約一万年位前から信仰されていたとされている古代の祭祀遺跡の跡地に鎮座しています これは全国的にも数少ない大変重要な遺跡といわれています その様子は 山には 全山に花崗岩の巨石が連なる多くの磐境が点在していて・屏風岩・船形岩・鏡岩(2基)・亀石・天狗石・石門(鳥居)更に 三種の神器と言われている・剣・玉(勾玉)・鏡岩等があります

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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR水郡線 磐城石川駅から県道14号経由で南東方面に約14.7km 車20分程度

道の駅「ふるとの」辺りから九竜川沿いに北上すると鳥居が見えてきます

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伊波止和氣神社(古殿町田口戸神)に参着

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社号標には゛村社 伊波止和氣神社

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一礼をして 鳥居をくぐります

拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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道路に面した境内は 特に玉垣などで仕切られてはいませんが 奥には 土俵などもありとても落ち着いた感じでした 最近 たまたま横を通りましたが 木々が切られていましたので 様相は変わっていました

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

式内社 伊波止和氣神社について 續日本後紀に記される゛伊波止和氣(イハトワケノ)天神゛と記し 鎮座地は特定していません

【抜粋意訳】

伊波止和氣(イハトワケノ)神社

續日本後紀
承和十年 奉授 陸奧國 從五位下 多久都神 正五位下勳九等
伊波止和氣(イハトワケノ)天神 に從五位下

姓氏録
大伴宿祢云 雄略天皇御世 以入部靱負賜大連公 奏曰 衛門開闔之務 於職已重 若有一身難堪 望与愚児語 相伴奉衛左右 勅依奏 是大伴佐伯二氏 掌左右開闔之縁也

續日本記
神護景雲三年(七六九)三月辛巳十三〉 黒川郡人外従六位下靭大伴部弟虫等八人 靭大伴連

東鑑
文治五年(1189)七月小廿九日丁亥 越白河關給 關明神御奉幣 此間召景季 當時初秋候也

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 伊波止和氣神社について 棚倉馬場村に在す、今 近津大明神〈現 都都古和氣神社(馬場都々古別神社)〉と記しています

【抜粋意訳】

伊波止和氣神社

伊波止和氣は 假字なり

〇祭神 手力雄命 頭注

〇棚倉馬場村に在す、今 近津大明神と称す、
例祭 月 日
参拝録に、面足尊、惶根尊、事勝國勝長狭命、と云へるは何に據れるか通えがたし、誤りなるべし、

類社
大和國 高市郡 天津石門別神社の條 見合すべし

神位
續日本後紀承和十年九月庚寅 奉授 勳九等 伊波止和氣(イハトワケノ)天神 從五位下

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 伊波止和氣神社について「舊白河の東 關山に在しを、後 白河驛口白坂に遷し、両社を建て關山明神と云ふ」 つまり〈現 〈旧鎮座地〉磐戸別神社(白河市関辺丸沢)〉から白河驛口白坂〈現 白坂宿の境の明神〉の事 もしくは旧街道の〈現 白河神社(白河市旗宿関ノ森)〉に遷座し 両方に社を建てた と記しています

【抜粋意訳】

伊波止和氣(イハトワケノ)神社

舊白河の東 關山に在しを、後 白河驛口白坂に遷し、両社を建て關山明神と云ふ、蓋是なり、神名帳考証、陸奥國圖
〇按本書、關山神を伊波止和氣神とは云されども、御門神なるを以て 之を關門に祭りしものなる事著し、姑附て後考に備ふ、

天太玉命の子 天石戸別命 亦名 櫛石窓神を祭る、古事記、古語拾遺、延喜式、
光仁天皇 寶亀四年九月、神封二戸を充奉り、新抄格勅符
仁明天皇 承和十年九月庚寅 勳九等 伊波止和氣天神に 從五位下を授け、續日本後紀
後鳥羽天皇 文治五年七月丁亥、源頼朝 白河關を超て幣を關明神に奉りき、藤原泰衡を征伐を以て也、東鑑

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』https://dl.ndl.go.jp/pid/815490著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 伊波止和氣神社について 諸説を挙げています
田口村 戸隠神社〈現 伊波止和氣神社(古殿町田口戸神)〉については「慶應中 神主 鎌田光雄 兼務の時 此の松尾社を伊波止和氣神社と云そめたる」が偽妄でとるに足りないと断言しています

白河郡二枚橋村 磐戸嶽に伊波止和氣神社〈現 〈旧鎮座地〉磐戸別神社(白河市関辺丸沢)

石川郡石川村の八幡社〈現 石都々古和氣神社(石川町)

【抜粋意訳】

伊波止和氣神社

祭神

神位 仁明天皇 承和十年九月庚寅 奉授 勳九等 伊波止和氣天神 從五位下

祭日
社格

所在
今按〈今考えるに〉
磐前縣注進状に 田口村 戸隠神社あり慶應中 神主 鎌田光雄 兼務の時 此の松尾社を伊波止和氣神社と云そめたるは 偽妄なれば 取るに足らず

又 按
福島縣注進に 白河郡二枚橋村
 磐戸嶽に伊波止和氣神社あり 關山観音の峯続き辰巳の方十町に華表一基あり 音嶽大権現と云ふ 其の本社と唱ふる地は 谷を隔て 丑寅に向かひ磐石累々たり 又 登る事一町餘にして社跡と覚しき平地あり
古老の口碑に 關山は 鳥嶽石山音嶽なども云ひ 観音堂焼亡以前までは山王社 秋葉社 本堂の傍にありて 地主山王権現と云りとぞ
音嶽の音は巌の約めヲにしてトは止なり 石嶽はイハ又はイワヲにて 伊波止なり タケは和氣の誤りなるべし
観世音略記に關山神とある即是なりとある 關山神は由ありて聞ゆれど音嶽は いはとわけの転訛と云るは信じがたし

磐前縣注進状に 石川郡石川村の八幡社の社地 高十三丈餘あり 近村数里間は石皆瑞奇にして 光明を含み 又 石英をも産す 名を石都八幡社と称す 是式社ならんと云るは二枚橋村の説よりは立勝りて聞ゆれば 石川村八幡を以て 式社とすべき歟 猶よく考べし

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

伊波止和氣神社(古殿町田口戸神) (hai)」(90度のお辞儀)

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陸奥国 式内社 100座(大15座・小85座)について に戻る

一緒に読む
陸奥國 式内社 100座(大15座・小85座)について

陸奥国(むつのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 陸奥国には 100座(大15座・小85座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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