実践和學 Cultural Japan heritage

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石神社(亀山市三寺町)〈延喜式神名帳所載 論社〉

石神社(いしじんじゃ)は 延喜式内社 伊勢國 鈴鹿郡 石神社(いはの かみのやしろ)の論社です 一般には 巨岩を神体とする石大神(鈴鹿市小社町字脇の山)を推していますが 三寺町の石神社も゛広大な社地で樹木が鬱そうと茂りその地の岩を避け割ったようだ゛との通り参道は この岩の避け割った谷をの上り下りして進みます

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

石神社(Ishi shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

三重県亀山市三寺町590

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》須佐之男命(すさのをのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

石神社の縁起

 この社号の石も地名だろう。ところが、あきらかでない。広く言うことには、今、小岐須村の十四、五丁(約一.五~一.六キロ)北の山麓にある巌石は、高さ百丈(約三百三メートル)余り、広さ十丈(約三十メートル)余りで険阻である。社はない。この地を石神社と記されたため、考証・再考の後に続く諸々の書は、すべて同調して異論がない。
 「勢陽五鈴遺響」に言うには、坤位十八丁(約一.九キロ)祓川水源山の中腹にある。すなわち野登山の北面にして東西五十間(約九十一メートル)高さ二百間(三百六十四メートル)ばかりの巨巌にして白色なり。ある人が言うには、東西六十三間(約百十五メートル)高さ二百五十間(四百五十五メートル)と言う。ところが、測り知りがたい。南北は、嶽にそひえ交じって然である。神社なし。この岩を指して傍名無人に石大明神という。上古は傍らに神社があり、歳月遷り変わって廃絶し、その神殿も無くなり、後世も再建されず岩石を拝むというものだと詳細に記してあるが、その石大神の巨岩がその本社であるべき確信を見ることがない。
 今の世でさえ人踏が絶えた深山幽遠の地に、大昔の宮跡が所在する例がない。実に奇跡を好む。後學のごじつけにして信じるべきでない。まして、従来は神殿がないことを本に、書れ上がる出鱈目というものだ。

 また、亀山藩の上申書には、平野村の産神の社地に鎮座、八王子ともいう岩ヶ谷というところがあるのを、後世に賀茂宮地中に遷し祭ったというけれど、近世の作為(近世に書かれた上申書)なので証拠はない。いいかげんな一説でしんじられない。

 よって、以前に考えたのは、万葉集に「神風之 伊勢乃國者 国見者の毛 山見者 馬貴之 河見者・・・・ 」〈訓読み〉「伊勢の国は 国見ればしも 山見れば 高く貴し 川みれば さやけく清し 水門なす 海もゆたけし 見わたす 島も名高し ここをしも まぐはしみかも かけまくも あやに狭き 山辺の 五十師の原に うたむさす 大宮荘へ」云々とある。

 さて、いしのはら(五十師の原)という名の由来は、今 石薬師駅に石薬師と言う寺があって石の仏を祀っている。それは地上に自立し、大きな石の表に薬師と言う仏の形を彫りつけたもので、この石はあやしい石だ。これによって思うことは、仏を彫りつけているのは、法師らの例のしりばにて、後の事にて、もとは上代より、このあやしい石があることによって、石の原(五十師の原)とは、名前の通りである。今もその辺りは広々として、かの山辺村の際まで同じ野が続き、該当する所がないという。その五十師の原、すなわち石の原にて、そこに本社があるがために石神社の地名から唱えているのだろう。しかし、その神社の所在地は、石薬師の墓地、これであろう。神祠の拝殿に薬師を置くのは、例を挙げれば数え切れない。その本尊とする自然石の彫刻は、後世の手沢(長く使っている間に、手の脂がついて自然に出た艶)で、古色ではないが、別に堂内に祟秘ある小石に神像を被らせたものがあり、旧古のものであるという。おそらくはこれが本社の神霊で、殿舎は仏堂に変わったけれど、なおその霊形を現存しているのだろうと、以前に、推量して石薬師堂を検索したら、その石像は仏体で、神像ではないから、この考説の間違っていることを自ら納得して、よって、しりぞけて、ここに図らずして旧祠を認めることができた。


 神鳳鈔に昼生御厨六十六丁とあるのを昼生庄と唱え、上・中・下の三つに分かれている、その庄を三寺村という、その村の産神は、村の西の小山にあり、広大な社地で樹木が鬱そうと茂りその地の岩を避け割ったようだ。実に長い年月の旧祠とみる。社の前の田を石が原といい・・・・・
・・・手振れ写真の為 判読不能

拝殿の案内板より

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【由  (History)】

由緒

 古来より石(いわ)神社とも称していた。『三国地志』によれば、当社は比々留明神祠と言い、比々留明神はひびる谷 つまり昼生七郷の総社として崇められていたとのことである。
御巫清直の『神社検録』は、次のように記述している。「其村(三寺村)ノ産神村ノ西ナル小山ニ在、広大ノ社地ニシテ、樹木欝葱シ兆域ノ嵓鑿壁鑿セルカ如シ、實二千歳ノ旧祠ト見ユ、社前ノ田ヲ石カ原卜云ヒ、東ノ谷ヲ天神カ谷、北ノ谷ヲ岩ノ谷ト字ス、西ハ馬場ノ畠ニ列リ、ママニ古道アリテ域内ニ人ル、礼南ノ小山二嶮路ヲ開キ、鳥居ヲ建テ扁額ヲ掲ケ正一位晝生大明神ト記ス、文化年中ノ所作ナリトソ」
一時期、昼生大明神と称したのは、いつの頃にか社号が不明になって行ったかららしく、本来は、社参道の口に立っている「石神礼拝所」と書かれた石標の示す通り、石神社であるとしている。(明治七年建立)当神社所蔵の獅子頭一ロは、古来三年に一回ずつ安知本から下の庄に至る道中を順に舞ってまわる慣例になっている。

皇學館大学現代日本社会学部神社検索システム研究会と三重県神社庁教化ホームページ委員会より
https://www.jinja-net.jp/jinjacho-mie/jsearch3mie.php?jinjya=63876

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・本殿

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・拝殿

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・参道

〈珍しい 下り参道 上り参道〉石神社の名の通り ここを゛広大な社地で樹木が鬱そうと茂りその地の岩を避け割ったようだ゛とのことから 石神社とする説もあります

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・社頭・鳥居

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢 253座(大18座・小235座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)鈴鹿郡 19座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ]神社
[ふ り が な ]はの かみのやしろ
[Old Shrine name]Iha no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 伊勢國 鈴鹿郡 石神社(いはの かみのやしろ)の論社

・椿大神社(鈴鹿市山本町)に合祀
石大神は 石神社の社名に改称 村社に列す〈明治12年 神社合祀政策により椿大神社本殿に合祀〉

一緒に読む
〈伊勢國一之宮〉椿大神社(鈴鹿市山本町)〈地祇猿田彦大本宮〉

椿大神社(つばきおおかみやしろ)は 社伝には 垂仁天皇二十七年 倭姫命の御神託により御船磐座の邉に 伊勢開拓神として猿田彦命を奉斎のため社殿を創建 神主は 代々山本家の世襲で 山本家は猿田彦大神の神裔とされます 社殿は瓊瓊杵尊が船でここに到着された場所「土公神陵」は猿田彦大神の古墳だと伝える 由緒ある伊勢国一之宮です

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石大神(鈴鹿市小社町字脇の山)
〈椿大神社に合祀された石神社の旧鎮座地〉

一緒に読む
石大神(鈴鹿市小社町字脇の山)〈古代から信仰の対象 巌岩〉

石大神(しゃくだいじん)は 鈴鹿山脈の断層によって形成された断層微地形「ケルンバット」(分離丘陵)で 急峻で錘状岩柱形の岩峯(がんぽう)地形の自然景観は 古代から信仰の対象となっており 社殿はありませんが巨岩を神体とする 延喜式内社 伊勢國 鈴鹿郡 石神社(いはの かみのやしろ)の論社とされています 敏達天皇が行幸されたという言い伝えもあります

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・石神社(亀山市三寺町)

一緒に読む
石神社(亀山市三寺町)〈延喜式神名帳所載 論社〉

石神社(いしじんじゃ)は 延喜式内社 伊勢國 鈴鹿郡 石神社(いはの かみのやしろ)の論社です 一般には 巨岩を神体とする石大神(鈴鹿市小社町字脇の山)を推していますが 三寺町の石神社も゛広大な社地で樹木が鬱そうと茂りその地の岩を避け割ったようだ゛との通り参道は この岩の避け割った谷をの上り下りして進みます

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『三重管内博物誌』巻5に記される゛石大神゛の絵図

【抜粋意訳】

鈴鹿郡八十九ヶ村縮図

鈴鹿郡 小岸村 小社村 石大神 畧圖

巨巌白質 高サ弐百間余 東西五十間余 實測知リ難シ

【原文参照】

鎌井松石 著『三重管内博物誌』巻5,鎌井松石,明治13. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/987638

【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR紀勢本線 下庄駅から北西へ約3.8km 車10分程度

中ノ川の淵を走る県道648号を西へ 三寺のバス停で右折〈北へ〉すると かつては村の踊場であったとされる箇所に 石神社の拝所があります 石碑には゛石神社拝所゛と刻字があります

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石神社の拝所に参着

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石神社の拝所の向かって右の道から 住宅街の裏手の山へ入ると社頭へ出ます

石神社(亀山市三寺町)に参着

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一礼をして鳥居をくぐると 大変珍しい下りと上りの参道となっています

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鳥居をくぐり参道の石段を下ると 谷底に参道があり 再び石段を上がると 社頭よりも 少し高い位置に境内があります

ここを゛広大な社地で樹木が鬱そうと茂りその地の岩を避け割ったようだ゛とのことから 石神社とする説もあります

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石段を上がり切るとすぐ目の前に社殿が建ちます

拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には 玉垣に囲われた神域に本殿が鎮座します

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境内に通じている脇参道もあるようです

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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やはり谷を下り谷を上がる この参道は かつては谷底に清水でもあり そこで清めをしたものなのでしょうか?

ここを゛広大な社地で樹木が鬱そうと茂りその地の岩を避け割ったようだ゛とのことから 石神社とする説もあります

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谷底の参道から 社殿側を振り返ると

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社頭へと戻る石段を上がります

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そう言えば 同じ伊勢國 鈴鹿郡の式内社で 参道を進むと谷に下りて また谷を上がる参道を持つ 神社を想い出しましたので ご参考までに

延喜式内社 伊勢國 鈴鹿郡 川俣神社(かはまたの かみのやしろ)

・川俣神社(亀山市加太板屋)

参道に谷はありませんが 社頭の鳥居から 一段下り 境内の手前でまた元に戻るように上がる参道があった奈良市の式内社

延喜式内社 大和國 添下郡 添御縣坐神社(大 月次 新嘗)(そふのみあかたにます かみのやしろ)

・添御県坐神社(奈良市歌姫町)

神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 石神社について 所在は゛小岐須村北の山麓に在す、考証、雑記今石大神(シャクダイシン)と称す゛〈現 石大神(鈴鹿市小社町字脇の山)〉と記しています

【抜粋意訳】

石神社

石神は伊波賀美と訓べし

〇神號詳ならず

〇小岐須村北の山麓に在す、考証、雑記今石大神(シャクダイシン)と称す、

 雑紀云、石大神は小岐須村の里より十四五町程奥の山の北ノ根也、社とてもなく、の高二百間余、幅廿間計にして、突兀したる瞼巌也、
 或云、式なる石神社は、此の事ならんかと云り、」
 伴信友云、雨乞するにいつも霊験あり、

類社
河内國大縣郡石神社の條見合すべし

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 石神社について 所在は゛今 盡生庄 三寺村にあり、石神社と云゛〈現 石神社(亀山市三寺町)〉と記しています

【抜粋意訳】

(イハノ)神社

今 生庄 三寺村にあり、石神社と云、〔式内社検録 〇按 本書 社前山下の田を石が原と云ひ、東谷を天神が谷、北谷を岩の谷と字し、土人も近村の人も皆よく知て、石神社と云と云り

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 石神社について 所在は゛三ツ寺村字石が原(鈴鹿郡生村大字三ツ寺村 石神社生大神)゛〈現 石神社(亀山市三寺町)〉と記しています

小岐須村の石大神(シャクタイシン)〈現 石大神(鈴鹿市小社町字脇の山)〉は 論社とされているが確証はない と記しています 

【抜粋意訳】

石神社 稱 晝生大明神

祭日
社格 村社

所在 三ツ寺村字石が原(鈴鹿郡生村大字三ツ寺村 石神社生大神)

今按るに 傍注考証以下の諸書に小岐須村の坤位十八丁祓川水源の山の半腹北面に東西五十間高二百間許の白色巨巌あり 土俗 石大神(シャクタイシン)と唱ふ其在所は小社(コヤシロ)村の管地なり 其巨巌を本社に填て異論なし然れ共 其配するに確証ある事なく 勿論 振古神殿を建置せす兆域を詳にする事も能はさる幽遂の地に延喜の昔岩神社を定めむ舊蹟ならさる事論に及ばず
又 龜山藩明細帳に平野村産神社にある八王子祠にも配せれと近世奉祀の小社 無稽の説にて真否を辨するまでもなし 然ると三ツ寺村の産神 晝生大明神と號するを 其村の老少を始め 他の村の者さへ石神社(イシノジンジャ)と称し来れり 尤 社前の田を石が原といへば 石は其地の字なる事見つへし 村内踊場に建たる石標にも石神社拝所と彫せり 其社域 廣大にして 樹木鬱葱千古の舊祠たる事 顕然たり 故に本社は其 口傳に據て判定す

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

石神社(亀山市三寺町) (hai)」(90度のお辞儀)

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伊勢国 式内社 253座(大18座・小235座)についてに戻る

一緒に読む
伊勢國 式内社 253座(大18座・小235座)について

伊勢国(いせのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 伊勢国の 253座(大18座・小235座)の神社のことです 伊勢国(いせのくに)の式内社 253座は 一つの国としては 日本全国で最多数です

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